プロローグ
「うーむ……」
公園のベンチでぼんやりと空を見上げながら、手に持ったりんごジュースを一口啜る。
五月半ばの空はひどく澄んでいて、見ていて気持ちよくはあるものの虚しいほどに広々としている。
ふと手元のジュースの原材料を眺めて、果糖ぶどう糖液糖という謎の液体は何を原料にしているんだろう、なんてつまらないことを考えてしまうくらいには、今の私は暇を持て余していた。
「暇って久しぶりだなぁ」
何年かぶりの完休に何をすればいいのか困惑しつつ、少しボロが入ったカバンからクリアファイルを取り出す。
中にはコンビニで買った簡易な履歴書が入っていて、久しぶりに記入したそれは数分もあれば読める程にスカスカな内容が記入されている。
肝心の使い道については現状見当たらないけれど、こういうのは早めに用意するに越したことはないのだ。
二宿菜々香。女、二十一歳フリーター。
最終学歴は中卒で、土方なり日雇いなりパチンコ店なりと、とにかくあらゆるバイトを経験して今に至る。
履歴書に書いてある事を要約すればこんなものだろうか。
少し自分語りをさせて欲しい。
私にはもう、両親がいない。中学三年の時に交通事故で死んだから。
当時は悲しかったし辛かったけど、悩んでいるほど余裕もなくて。
私の後見人になってくれた母方の叔母の家は、テレビで見るビッグダディを地で行くような家族で、実に12人の子供を支える大家族だった。
叔父さんは沢山稼いでいたけどそれでも生活は苦しくて、そこに私が加わったもんだからタダでさえ綱渡りのような生活がさらに苦しくなってしまった。
ついでに言えば知らない家の、パーソナルスペースもほとんど無いような場所でもあって。
文句なんて言う権利はないとわかっていても、私は「異物」でしかなかった。
だから私は、両親の遺産を全て叔母夫婦に譲る代わりに、一人暮らしの手続きをしてもらうことにしたのだ。
二つ返事で、とはいかなかったけど、最終的に叔母夫婦は私の意思を汲んでくれた。
それからは家賃と食事代を稼ぐためにバイト漬けの日々。
中卒の私を何も言わずに働かせてくれるのは肉体労働系の仕事ばかりで、それでも体を動かすのが得意だった私には天職だったのだと思う。
それ以来、肉体労働系の仕事ばかりをこなして、稼いだお金から叔母夫婦に家賃を送って。
そうして中学を卒業して6年、なんだかんだと身銭を稼いで生きてきたのだけは私なりの誇りでもある。
ちなみに成人した時、実は叔母夫婦が私の譲った遺産を使ってなかったことが発覚した。
「子供が気を使うんじゃない」とゲンコツを落とされて、私は何年ぶりかに泣いた記憶がある。
遺産は返却されたけど、何があっても困らないように貯金したままだ。一生暮らせる額ではないしね。
そんなバイト戦士である私がなぜ平日昼間の公園でボケーッとしてるのか。
それには全く深くない事情がある。
休みなくバイトを入れて、なんだかんだのらりくらりと生きてきたんだけど、このところ柱にしてたバイト先が三箇所とも潰れてしまったのだ。
その三箇所で週七日を隙間なく埋めていた私には大打撃である。
なんで三箇所とも潰れちゃったんだろうという悲しみと共に、潰れるって決まってから新しい職場を探さなかった自分の馬鹿さに少し呆れもした。
まあここ三年は休みなく働いてて正直働きすぎてたのは否めないし、ここらでちょっと休みを取ろうかなって街に繰り出したのがさっき。
そして1時間で何をすればいいのかわからなくなって公園で黄昏ていたというわけだった。
「帰るかぁ」
飲み干したペットボトルを遠くのゴミ箱に放り込み、ベンチから腰を上げる。
ここにいてもやることはないし、帰って寝ることにしよう。
☆
夜十時。私は滅多なことでは使わないスマートフォンに来た着信の音で目が覚めた。
チャットと無料通話をウリに数年前から爆発的に普及しているらしいアプリなのだが、友達登録をしているのは一人だけである。
つまり今電話をかけてきているのはその一人以外にありえない訳だ。
「もしもし、リンちゃん? 珍しいね」
『いや、ナナが電話を直に取ってくれる方が珍しいと思うわ』
「あはは、確かに」
呆れたような声に同意する。
週七日フルタイム以上にバイトを入れている私は、基本的に連絡がつかないからだ。
リンちゃん――鷹匠凜音は、私の人生における唯一の親友だ。
リンちゃん、ナナとあだ名で呼び合う仲で、幼稚園から中学までを共に過ごした大親友と言っても過言ではない。
そんな相手との久しぶりの通話に、私は少し楽しい気分になっていた。
「何かあったの? 普段はメッセージで済ませるのに」
『少し話したいことがあったんだけど……ねぇナナ、何か隠してない?』
「えっ? な、なんのこと?」
『いや、この時間にナナが電話を取るとか普段ならありえないもの』
「うぐっ……通話したのそっちなのに……」
『繋がる気がしたのよねー』
リンちゃんのもっともな指摘に思わず唸ってしまう。
だってバイトは深夜番の方が稼げるんだから、この時間に電話に出られないのは仕方がないじゃないか。
『で、その反応は何かあったでしょ。話しなさい』
「い、いやぁ何もないってぇ」
『は?』
「バイト先が全部潰れちゃいました……」
抵抗も虚しく、私はリンちゃんの圧力に負けた。
昔、両親が亡くなった後、フリーターになると言った私はリンちゃんに言われたのだ。
「フリーターなんてお先真っ暗じゃない。お父さんにコネを頼んでみるから、ちゃんと働きなさいよ」と。
リンちゃんのお父さんは『鷹匠グループ』という大企業のトップに立っていて、コネというのはグループ企業のどこかに入れてもらうということ。
リンちゃんに激甘なお父さんは、仕事に私情を挟みまくるタイプなのだ。
流石に断ったが、その時のことをリンちゃんは結構根に持っていて、いつか職を失ったら絶対に嫌味を言われること間違いなしだったのだ。
ちなみに彼女の家は天井知らずの大金持ちで、末っ子でたいそう可愛がられているリンちゃんは生活苦とは一切縁のない人だ。
タダでさえ湯水の如き貯金を与えられている上に自分でもめちゃくちゃ稼いでいるので、金はある所に集まるんだなぁと思わずにはいられなかった。
『三箇所、全部が?』
「そうです……」
『ふーん……。ま、ちょうどいいか。言いたいことは沢山あるけど、本当に都合がいいわ』
「何の話?」
てっきりネチネチとお説教を食らうのではないかと思っていたのだが、リンちゃんから返ってきた返事はどこか気の抜けたものだった。
『ナナ、今暇なのよね?』
「暇すぎてやばいくらい」
『泊まる用意をして明日の昼までに私の家に来なさい。拒否権はないわ』
「えっ、いきなりどうしたの」
『電話で話そうと思ったけど、直接会えるならそっちの方がいいのよ。じゃ、そういう事だから』
「うん、じゃあね」
捲し立てるように用件だけ押し付けて電話を切ったリンちゃんの勢いに押されてしまったが、暇なのは確かだ。
突然飛び込んできた予定に首を傾げつつ、私はお泊まりセットを用意しようとクローゼットを開くのだった。