自覚と決意
5才になった日からしばらくして、カイは高熱を発しながらひどくうなされていた、らしい。
酷くうなされ、大人が3人は寝られようベッドから転げ落ち、それでも半覚半睡のまま床を這いずり回り、豪華な調度品を手当たり次第に振り回し、投げつけ、部屋を徹底的に破壊した、らしい。
カイ自身には自覚が無いけれど、母親を含めた複数名が語るのだから、嘘ではないのだろう。ともあれこの暴れ牛のようになっていた数日間を経てカイは、前世とも言うべき異世界の記憶を思い出した。思い出した?いや、それはあまりに荒唐無稽であった。
「16才の自分は日本なる国で学生という立場を謳歌していた」。
カイには自身の中の何かがねつ造した記憶なのだとしか思えないのだけれど。
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それ以来、己が身でありながら己自身でないような感覚が生まれた。それは離人症一歩手前までいったものの、どうにか心による身の拒絶にまでは至らずに済む。そしてそれから、カイの身体能力は急激に向上する。2人分の身体感覚を備えることで、今の己の身体の長所・短所が見えやすくなったことが一番の理由だろう、とカイは見ている。誰にもそれを告白はできないが。
身体は決して大きくは無いが、動体視力が良く、それに身体が良くついて行く。また自他のリズムを読み取ることに優れている。それ故に他者のリズム感を読んだ上で、虚を突くのが得意である。そうした特性を5才で理解し、伸ばすように試みた。
8才を過ぎる頃には、テヘルの町の子どもたちの頂点に立つ。そして10才を過ぎた頃には、大人たちでさえも一目置く子どもの傭兵団を組織した。
そして11才の時、それが訪れた。
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うるおん、と獣が吠える。
遠くだ。遙か遠くにいるはずの獣。だがその姿は、周りにあるものと比してあまりに大きい。獣の手前に広がる森の木々の先端は、獣の首下にすら届いていない。目の位置が、ほぼ同距離にある小山の頂上とほぼ同じ高さにある。大きさに違和感がありすぎて、遠近感を誤解してしまいそうだ。
カイが今いるテヘルの教会の尖塔を縦に二つ並べたよりももっと背が高いだろうその獣は、どういうわけだか、テヘルを目指しているようだった。森に住む魔獣たちを意図せず追い立てながら。
「こりゃあでっけえな」
と、同じく尖塔から獣を見つめる男がつぶやいた。中年にさしかかるほどの年だ。頭はいつもぼさぼさで、肌がくすんでいるため、実際よりもずっと年かさに見える。ディケルという名だ。決まった傭兵団に属さず、その場限りの縁で仕事を得、命の対価にしては少々安すぎる報酬を獲得しては、酒代に費やす男だった。
「戦えるの?」
とカイが問う。くっくっく、とディケルが笑う。
「戦えるか、だって?冗談がきついぜ天才少年。あんな化け物に俺のちっぽけなナイフが刺さったところで、どうなるものかよ。」
「じゃあ、逃げるんだね。」
とカイは返す。その声に失望は含まれていない。当然の選択肢を選ぶ者に、失望するはずがない。
「逃げるさ、ああ、逃げてやるともよ。」
ディケルが返す。
「だからお前も逃げな、天才少年。あんな化け物じゃあ、お前が1000を指揮したって踏みにじられらあ。それどころか、アイツから逃げ出す獣どもの狂奔に巻き込まれて全滅しちまうのがオチだぜ。」
「じゃあ、どうしておじさんの目はアイツに向かっているの。」
とカイは問う。
ディケルはゆっくりとカイを振り向く。その目は、小銭をかき集めて酒代にしていた男とは思えないほどに澄んでいた。
「今日のおじさんは酒臭くないし、ナイフには油を引いてる。矢筒に入っている矢は羽が切りそろえられているし、弓は今にもはじけ飛びそうなほどに張り詰められている。まるでまるで、100人の盗賊との決闘に向かう保安官みたいに。」
「保安官てなあ何かなあ、きっと格好良いやつんだろうがよ、天才少年。」
ディケルは言った。
「俺はそんなに格好良いもんじゃあねえぜ。」
ディケルはフッとため息をつき、口元を歪めた。
「少しやってみるだけだ。ちょいと世話になったこの町によ。」
再び、ディケルは獣の方に目を向ける。
「あんな化け物と戦うなんざあり得ねえ。けどよ、アイツが来る前には、アイツから逃げてくる魔獣がきっとくる。そいつらをちょいちょい刻んで、こっちじゃねえぜと説き伏せてよ、それで、すこうしばかり時間が稼げたら、さっさとトンズラするってえ寸法よ。」
ディケルはもう、笑っていない。
「だからよ、天才少年。」
目を獣に向けたまま、ディケルは言う。
「その辺のことは、機微を分かってる大人に任せてよ、お前はさっさと逃げちまいな、よ。」
「いやだ」
とカイは抗弁する。
「おじさんも、八百屋のレンさんも、石工のドウァさんも、みんなみんな、そんな目をしている。迷いなんかなくって、大切なものが分かってて、何にも惜しくないって目をしている。きらきらと、ぎらぎらと、恐ろしい目。優しい目。それから、父さんも。」
「そうか、お前の父さんも、そうなのか、天才少年。」
くくく、とディケルは笑う。
「町から町へ、この辺境一帯に商売の手を広げるやり手の旦那も、そうなのか。」
「ああ。」
とカイが答える。
「怪我したら文句言いながらすっ飛んでくるシスターも、いっつもなんかぶつぶつつぶやいている鍛冶屋のダンチも、街角に立って秋波を送るお姉さんたちも。」
「井戸端で会議しながら今日の献立考えてるおばちゃんたちに、野獣みてえなガキどもと取っ組み合いながらなんか教えようとしてる牧師様もな。」
「そうさ。」
カイはうなずく。
「みんながみんな、大好きなみんなの為に。だから、ぼくも。いいや、ぼくだからこそ。」
「いいや違うね天才少年。」
とディケルが返す。
「俺たちと違ってお前は。お前だからこそ、だ。」
ディケルはもう一度笑う。
「わずか10才で、お前はこの町一番の傭兵団の団長になってみせた。傭兵たちの術に習って、荒野を征って欠ける者無く帰ってきてみせた。喧嘩屋どもの流儀を身につけて、野郎どもに売られた喧嘩を残らず買って、片っ端からねじ伏せた。狩人の秘技を盗み出して、どでけえ獣とタイマンはって、頭かち割って殺してみせた。そんなお前だからこそ、だ。」
ディケルは笑う。
「俺たちは笑っていける。俺たちは知っている。俺たちの全てをお前は知っている。お前がいれば、俺たちの全ては蘇る。お前が、俺たちの御大将よ。だから、よ。」
ディケルは笑う。
「お前は逃げろ。お前はガキどもを連れて、全てを背負って、逃げやがれ。お前が逃げなきゃ、俺たちがふんじばって連れて行く。お前1人に何十人必要だろうと、必ず捕まえてやる。ぐるぐる巻きにして、馬車に放り込んで、バンガに着くまで絶対目を離さねえ。何があろうとな。」
ディケルは。ディケルは泣いている。
ディケルはカイを見ない。
「だからよ。お前は逃げろ。1人で逃げてくれよ。俺たちの命をよ、俺たちの使いたいように、使わせてくれよ。」
「そんなのずるい、ずるいったら。」
「ああ、ずるいのよ。命の使い方なんざ、ガキは決められねえと、相場が決まってやがるんだ。だから、俺は決めたのさ。俺も、たぶん、お前の父さんも。」
「・・・。」
「すまねえな、天才少年。こうなのよ、俺たちは。この辺境の町をよ、名も無いままに開いて作って育てた俺たちはよ。こうやってきて、こうやって生かされてきちまったんだ。だから、こうするしか、無いんだよ。」
「・・・。」
「だからよ。俺たちの、その、なんだ。たぶん、この町は。テヘルって町は。無くなっちまうからよ。」
「うん・・・。そうだね。」
「お前は、なんて言うか、俺たちの、あれだ、代表?」
ディケルは首をひねる。ディケルは涙を流したまま、顔を奇妙に歪める。多分、笑おうとしている。
「俺たちがここにいたと。俺たちはこの町を作ったと。俺たちは、俺たちは・・・。」
「そうさ、あんたたちがこの町を作った!この町は、あんたたちの町だ!優しくって、強くって、最前線の魔物たちを俺たちの世界から押し返す、生存圏のフロンティアだ!テヘル!テヘル!テヘル!この名を消させるものか!」
「ああ、そうだ。テヘル、この町の、俺たちの、名前だ。この名前を灯し続けてくれるお前よ。カイよ。天才少年よ。お前が生きていれば、俺たちの勝ちなんだ。あのでっけえ獣にだって、負けやしないテヘルって町をよ、お前が、お前に、頼むんだ。」
ディケルは、もう泣いていない。立ち上がったカイを、澄み切った瞳で見つめる。
「ディケル、もう、行く。僕は行く。テヘルだ、僕はテヘル。テヘルを背負って僕は行く。だから、ディケル。どうかどうか、安心して。心底、安心して。僕が必ず、テヘルを絶やさせやしない。」
そう言って、カイは行く。尖塔からはしごを伝って、ひょいひょいと下りてゆく。
ディケルは微笑む。数秒で尖塔を下り、視界から消えてしまったカイを思って微笑む。
そうして、向き直る。獣を見つめて、もう、揺らがない。そうしてやがて、弓を引き絞る。張り詰めた弓を、ぎりぎりまで引き絞って、ひょうと放つ。
最初の魔物が右目を貫かれて、どうと倒れる。
大暴走が、始まる。
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テヘルの町は消滅する。巨大な獣に破壊され、踏みにじられて。
だけれど、逃げ遅れた人はいなかった。誰1人、傷つくことすらなく、隣町のバンガに逃げおおせた。
獣に立ち向かうことを決めた人たちを除いて。
フロンティアらしく、老若男女を問わず、極めて多数の人々が町に残った。町を残すためではなく、人を逃がすため。誰かのために戦えると信じた人が、逃げられる誰かを生かすため。
そうして、巨大な獣から逃げ出す大小の獣たちを押しとどめるダムとなった。幾重にも幾重にも、獣たちの侵入を防ぐ柵として、命の限りに戦った。
その最前線には、尽きた矢筒を背負い、欠けたナイフを持ち、身を若木に縛り付けた男が居たという。全身をずたずたに切り裂かれ、立つこともままならぬのに、命の灯が消えるその瞬間まで獣を屠り続けた男が居たという。