ハナクイ
隣の家に住む僕の幼馴染は変わった子だ。
見た目も性格も普通の女の子。ちょっと悪戯好きだけど基本的には優しくて静かな子だ。両親だって至って普通で、優しい人たちだ。彼女の家の庭には大量の花が咲き誇っていること以外には平凡な家庭だ。ガーデニングなんていうレベルじゃあない。種類も量も豊富で、最早花屋を開けるくらいだ。彼女にそう言ったら嬉しそうに「いっぱいの花に囲まれるなんて素敵だね。それなら私お花屋さんになりたいかもしれない」と笑っていた。
「そんなに眺めて……樹も食べたいの?」
「僕は遠慮しておくよ」
彼女はさも当然のように花びらをもぐもぐ頬張っている。僕にも赤の花びらを一枚差し出すが、僕は断った。すると彼女は一輪の花を片手に小首を傾げた。美味しいのになぁ、と呟いて彼女は再び花びらを齧りだした。
……彼女は幼い頃からこうだった。僕らが食べるものは拒絶し、花ばかりを食べていた。こっちの方が美味しいと思うけど、と言って強引に食べされられたこともあったな。僕にはあの花の美味しさはわからなかったけど。本人曰く、花も種類によって味が異なるらしい。大抵のものは甘いらしいが、舌をピリピリと刺すようなものも、苦いものもあるそうだ。
「……何でそんなに見つめるの、恥ずかしいよ」
頬を膨らませて、僕の方をジトっとした目つきで見てくる。そんなに見つめていただろうか。僕は不機嫌そうな彼女にヘラリと笑いかけた。
「だって陽乃があんまり美味しそうに食べるからさぁ」
「そっか」
素直に言うと彼女は再び花へと視線を向けた。最後の一枚を食べ終えると、白い手をポンと合わせて行儀よく「ごちそうさま」と小さく呟いた。
満足げに微笑んで彼女は椅子から立ち上がった。ふわりと空色のワンピースの裾を揺らして、陽乃は椅子に座る僕の方へ歩いてくる。普通の人よりも白い手がこちらに伸ばされた。
「ねぇ、お散歩しに行こうよ」
「でも今日は暑いよ?」
「大丈夫だよ。樹は心配性だね」
呆れたように笑って僕の手を引く。……心配もするに決まってるだろ、陽乃は人よりも何倍も体が弱いんだから。年内に一体何度体調崩して寝込めば気が済むんだよ。毎回毎回ハラハラしながら看病をする僕の身にもなってよ。
早く行こうよ、と言いながら弱々しい力で引っ張られ、僕は渋々立ち上がった。
「陽乃が何にも気にしないからだろ」
「代わりに樹がいっぱい気にしてくれるでしょ?」
ふふふ、と上品に笑ってゆるりと手をほどく。甘い花の香りを漂わせながら部屋を出て行くので、僕はその後ろ姿を追いかけた。彼女は軽い足取りで階段を駆け下りて玄関へと向かう。僕が走るのが遅くて必至だろうとお構いなしだ。柔和そうな顔つきして容赦ない。
だけども、陽乃速いよ待って、と一言声を上げると彼女は足を止めて振り返る。ノロマだね、なんてひどいことを言って笑いながら僕に手を差し伸べる。僕がその手を取ると、彼女はゆっくり歩き始めた。
「陽乃、はしゃぎ過ぎだよ。まだ家出ていないのに、僕もう疲れたよ」
「だっていいお天気だから、嬉しくって」
靴を履いて僕は扉を押し開ける。一緒に外に飛び出すと、同時に暑い、と呟いた。蒸し暑い空気が僕らに降りかかる。蝉の大合唱は耳をつんざいて、数歩前には焼き付けるような日差しが照っている。……陽乃、本気で外に行くのか? 自殺行為に相当するんじゃないのか?
しかし陽乃は子供のようにはしゃいで外へ踊り出た。樹も行こうよ、と声を掛けられる。……そんな風に呼ばれたら行くしかないじゃんか。でも、その前に。
「陽乃待って、日傘持って行かないと。日の下に長い時間居たらまた体調悪くなるかもしれないよ」
傘立てに置かれている黒の日傘を掴み、焼き付くような日差しの下に居る彼女に手渡した。また心配性出たよ、と不満げに言われる。傘をくるりと回すと、陽乃は明るい声で僕の名前を呼んだ。
「樹も入る?」
「いいの?」
「うん。というか私より樹の方が日光に弱いじゃないの。この前だってすぐにへばっちゃって」
小馬鹿にした態度が腹立たしいような可愛らしいような。悪戯っぽい笑いを浮かべて手招きをする彼女の日傘に腰をかがめて入る。これ、僕が持った方が良くないか。
貸して、と日傘を持つ。彼女に暴力みたいな日差しが当たらないように傾けると、陽乃は何がおかしいのか、くすくすと笑った。
「樹ったら紳士みたい」
「陽乃が持つと僕の頭に傘が刺さるんだよ」
「私が小さいって言ってるの? ひどいなー」
小柄な彼女が拗ねたように顔を背ける。その動きが小さな子供みたいで笑ってしまった。すると陽乃は白の小さな手で拳を作り、僕の腹を殴ってきた。痛い、地味に痛いよ、陽乃。
小さい頃は身長も一緒くらいだったのにな、と陽乃が膨れている。中学生くらいからか、僕の背はぐんぐん伸びて陽乃どころか他の女の子の身長も優に超えた。……無駄に高身長になったせいで、陽乃には怒られるけど。首が痛いだの見下ろすなだの、文句を言われる。薄い桜色の頬を膨らませながら文句を言うから可愛くて仕方がない。
「あ、猫だ」
するり、と傘の下から抜け出して、白のふわふわとした猫に近寄り、しゃがみ込む。陽乃が手を伸ばすと猫は人懐こく、にゃあと鳴いてすり寄っていた。僕も彼女の隣に立つと、猫は僕を見上げて一声鳴いた。陽乃は可愛いね、と幸せそうに眼を細めて小さな白い頭をなでていた。
「猫飼いたいなぁ」
「陽乃のお母さん、アレルギーじゃなかった?」
「そうなんだよ。だからね、一人暮らししたら飼いたいんだ」
微笑むと彼女は立ち上がった。猫は名残惜しそうに彼女を見上げている。陽乃はまたね、と手を振ってから僕を見上げ、満足そうな笑顔で行こう、と告げた。
蝉が大きな声で鳴いている。公園では疲れ知らずの小さな子供がキャッキャとはしゃいで駆け回っている。元気だな、と思って眺めていると、服の裾がクイ、と引っ張られた。
「どうした? 体調悪い?」
今日は結構遠くまで来たから疲れたのだろうか。焦って陽乃を見ると、疲れなんて一切無いようなキラキラと明るい笑顔を向けてきた。
「樹、あれ何?」
「どれ?」
陽乃の視線の先を見る。二人の男女がパステルカラーのアイスを持って喋っていた。
「アイスのこと?」
「アイスってあんなに綺麗なの? お母さんがよく食べているのは白いよ?」
「色によって味が違うんだよ」
「へぇ、花とよく似ているね」
陽乃はその甘ったるそうなパステルカラーをぼうっと眺めている。陽乃、と名前を呼ぶと、彼女は探るような視線を僕に向けてきた。
「あれ、美味しいの?」
「食べてみる?」
僕が提案すると、陽之はパァっと目を輝かせた。しかしその輝きがふっと消え、困ったように視線を地面に落とした。何を迷っているのだろう。僕が覗き込むと、陽乃はえっとその、と珍しく口を噤んで視線を泳がせた。
どうしたのだろう。……ああ、もしかして。
「残したら僕が貰うよ。アイス、嫌いじゃないし」
陽乃は安心したように目を細め、じゃあ食べる、と明るい声で僕に言った。
昔からこうだ。色味や見た目が可愛らしいものが大好きで、よく彼女は買っていた。一口食べて、涙目になりながら僕に「これ嫌い」なんて言って押し付けるのも何度やられただろう。ショートケーキやらマカロンやら、何から何まで、可愛らしい見た目のものは一通り食べさせられた。僕的には美味しかったからいいんだけども。
すぐ近くにあったアイス屋に入る。店の中は外のジリジリとした熱とは正反対でひんやりと涼しい。陽乃は目を輝かせてカラフルなアイスを眺めている。そして僕の方へ視線を投げかけた。
「樹、私の好きそうなもの選んでよ。いっぱいあって迷っちゃう」
そういう注文するか。カラフルなアイスを端から眺める。どれがいいだろう。彼女の好きな味が全くわからないから中々の高難易度だ。
うーん、と腕を組んで悩む。そういえば昔、苺のクッキーを食べたときに「これは好きかも」とか言っていたな。じゃあこれで、と苺色のアイスを指差す。店員さんは優しく笑ってアイスをカップに入れ、僕に手渡した。
「はい、陽乃」
「ありがとう!」
陽乃は明るく笑って僕からカップを受け取る。ありがとうございましたー、という声を背中に受け、上機嫌な彼女と店を出た。
蒸し暑い空気にまた出迎えられる。僕らは木陰の小さなベンチに腰掛けた。
「可愛い色だね」
いただきます、と呟いて彼女は一口アイスを食べる。一瞬目を丸くしてきょとんとしたが、すぐにまたもう一口食べて嬉々とした表情で僕を見上げた。
「樹、これすごい。とっても冷たいし、すぐに溶けて消えちゃう」
楽しそうにアイスを頬張る彼女は何とも可愛らしい。気に入ったの、と問うと彼女は満面の笑みを浮かべて頷いた。それならよかった。
アイスも食べられて満足したらしい陽乃はひょい、と立ち上がった。
「帰ろ、樹」
「そうだね、行こうか」
僕は日傘を彼女に傾け、隣に立って歩き出す。帰ろうと言ったのは陽乃なのに、あっちへこっちへフラフラと楽しそうにうろついている。のんびりとした足取りで僕らは家へと向かった。
私のお隣の幼馴染はとても優しい男の子。花を食べる私を化物だなんて罵ったり笑ったりしない、優しい子。私の無理な我儘だって聞いてくれるんだよ。
とっても大好き。だけどきっとそんなことを思っても居ない。
喉を焼くような痛みが突き抜ける。痛い、と声を絞り出すよりも前に口からハラハラと花がこぼれ落ちた。毒のある、真っ白で小さな鈴の形をした花。コロコロとそれは転がった。
私の花を食べる症状に、ハナクイ、と言う病気の名前を付けたお医者さんはこの花を吐く症状をハナハキ、と呼ぶんだと教えてくれた。なんでこうも花に恵まれた病にかかるのだろう。
そう思っている間にもまたハラハラと口の端から花びらがこぼれ落ちる。
なんでこうなるのかはお医者さんにはわかっていないらしい。私にはなんとなくわかるんだ。
「樹……」
彼を思うといつもいつもこれだ。喉の奥が熱くなっていくつも花がボロボロとこぼれ落ちる。この前はあんまり痛くてとうとう涙を流したのだけども、その涙すらも花びらになっていて、思わず笑ってしまった。
なにが恐ろしいって、私自身が花になってしまわないかがとても不安なんだ。最近じゃあ一日外の日を浴びなかっただけで何だか皮膚がカサカサになってしまう。暗いところにいると息苦しくなってしまう。
それを教えたら、樹は「万が一花になったら、ちゃんと育ててやるから安心しろ」と笑っていた。それはそれでいいかもしれない。そうしたら彼と一緒に居られるんだもの。
「陽乃、僕だよ。入るね」
ノックをしても返事がない私を不思議がってか、一つの声と一緒に一つの足音が近づいてきた。そして彼は私を見るなり目を点にした。
「……陽乃?」
そっと私に近づいて手を伸ばされる。そしてふわりと触れると、まるで壊れやすいものを扱うかのように優しく私を撫でた。どこか寂しそうな目でこちらを見つめてくる。そんな目されたらこっちまでなんだか寂しくなっちゃうじゃんか。
潤んでいた彼の瞳から、とうとう大粒の雫が零れ落ちて私の肌にポタリと落ちた。そして優しく優しく抱きしめて呟いた。
「……約束、したからね、大切にするよ。陽乃」
もう口のきけなくなってしまった私に優しく微笑みかけてくれた。そして優しく私に口付けをするとクスクスと涙を浮かべたまま微笑んだ。
「陽乃を忘れるわけないのにな。もっと愛を囁くような花にしてくれてもよかったんだよ、バラとかさぁ」
今更注文を付けられてももう遅い。と、文句すらも言えないのがなんとも悲しい。まぁそれも充分綺麗だけどもね、とちょっとだけ頬を赤くして樹は言った。