緒方少年と父
『―――どうしたの孝子さん、お父さんと何かあったの?』
『ううん、ごめんなさいね・・・。あの人さ、うちの店のツケが残ったままだったから・・・つい』
少し間を空けてから、孝子さんは子供じみた嘘を搾り出していた。
『ツケか・・・。幾らたまってるんだ?』
『いいのよ、大した額でもないから・・・。気にしないでいいわ、それより、お味噌汁冷めちゃったね。入れ直そうか?、高志くん』
『大人って、嘘は平気なんだね。孝子さんは正直に喋ってくれると思っていたのにさ、やっぱりいい加減な大人の一部なんだね』
孝子さんの放った言葉の内には、紛れもなく嘘が宿っていた。どうやら僕たちを傷付けないように気遣う孝子さんの、方便に違いなかった。
『高志、大人に例外ってあるもんかよお。皆、自分を守ることで精一杯なんだよ。別にこの人が特別悪いってことにもなんないさ―――』
『だって―――』
『親父がいい見本だろ?。自分勝手に生きることに周りなんて関係ないってことだ。おれたち家族なんて、あの男にとってはただの通り過ぎくらいのちっぽけなもんだよ・・・』
得意の兄の開き直りが、孝子さんとお父さんの関係を、いや、ずるい大人たちを否定し始めた。
『そんな大人たちにぶら下がっているおれも情けないけどさあ・・・。まだ、可愛いもんだぜ。なあ、高志!』
『うん、そうだねお兄ちゃん』
絶妙な二人の掛け合いが始まっていた。そう、相手の言葉を誘い出すための芝居に違いなかった。
『今日、帰ろうぜ高志。あ――あ、鎌倉くんだりにまで来てさ、何の収穫もなかったよなあ!。ああっ、昨日喰った鮨代、払わないとなあ―――。ねえ、幾ら?』
兄はポケットにしまい込んでいた、伯父から預かった三千円を取り出した。
『ねえ、幾ら払えばいい?。ついでに、朝飯代も一緒でいいぜ』
勢い兄は、孝子さんを諦め半ばの目線で睨みつけていた。
『―――本当に帰るの?。あの人に会わなくていいの?。後悔しない?』
兄の凄みに臆してか、今度は孝子さんが僕たちのことを心配していた。
『だったら正直に話せよ!。あの人に会わせろよお―――っ!!』
『判った―――。その前にね、話しておきたいことがあるの。聴いてくれるかしら』
もったいぶったように、孝子さんが付け加えた。
『ああ、いいぜ。何でも聴いてやるさ』
兄は腕を組んで、臨戦態勢に入った。僕は残りかけのお味噌汁とご飯を全部口に詰め込み、コップの水でお腹へと流し込んだ。
『あの人が家族を捨てた理由はね、そう簡単でもなかったのよ・・・。勿論、家族を捨てるのに簡単もなにもないでしょうけど―――』
カウンターの上のタバコに手を付けた孝子さんは、金色のライターに火を点けると、相変わらず揺らめく火をしばらく眺めて、タバコに火を入れた。
『確か―――、二十一年頃って聞いたかしら―――』
うろ覚えの記憶を辿りながら、孝子さんは話を進めた。
昭和二十一年十一月三日。小森家では次男坊の誕生日で賑わっていた。つまり、僕の誕生日ってこと。
『ケーキなんて贅沢ねえ、あなた』
『特製だぞお。パン屋の和夫に作らせたんだ。やっぱりあいつは手が器用なんだな。雑誌のケーキを見せたらさ、上手い具合に作りやがった』
『ねえ、幾らかかったの?。材料費だって安くはないんだし』
『それがさ、タダにしてくれたんだよお―――。高志の誕生日祝いってさ、奴も喜んでくれたんだっ!』
『本当なの―――?、あなた、また無理言ったんじゃないの和夫さんに?』
『おいおい、今回ばかりは奴の好意だって。そう勘ぐるなよな』
『そうなの、じゃあ今度お礼しとかなきゃね。でも、よかったわねえ高志。こんなに大きなケーキなんて滅多に食べれないよお』
戦後間もなくの混乱期には、一般市井の生活における洋物需要の回復にも遅延を及ぼしていることは明らかだった。いくら米国からの多勢の介入があったとしても、国内に根付いていた反米の気質は、そうそう容易く薄れるものでもなかった。
誕生日に供されるケーキにしても、この頃の生産量など高が知れていた。そもそも洋菓子を経営する店舗の数さえも希少とされる時代でもあったのだ。
『ねえ―――、ぼくの分わあ?、高志って小さいから食べれないでしょ?』
『お前の分もあるさ、欲張りだなあ強志は』
『ねえあなた、ローソクはついて無いの?』
『へっ?、ローソク―――?』
『そうよ、歳の数だけ立てるでしょ?。普通』
『いけねえっ!、忘れてたよ―――。仕方ないなあ』
そう言って父の持ち出したものは、仏壇から拝借した大きなロウソクだった。
『これで我慢しろ、なっ、二本には間違いないや』
『やだあ、そんなに大きいの挿さないでしょ!。だいたいみっともないわあ』
『そうか?、じゃあ俺が持てってやっから、強志、お前あれをやれ』
『あれって?』
『ハッピーバースデーってやつだよ、あるだろそんな歌が!』
『うん、わかった』
兄は、僕の二歳の誕生日に大きく元気に歌を歌ってくれた。父は大きなロウソクを頭の上で振り、はしゃいでいた。
『さあ、高志!。火を消せ、ほら!』
『そんな大きな火消せやしないわよお。やだあ、あなた』
『そっか―――。じゃあ強志、代わりにお前消してみろ!』
『うん!』
『一気に消すんだぞ。男だもんな!』
“プ―――ッ!”。兄の見事な肺活量は、いとも簡単にロウソクの火を吹き飛ばした。
『さすが強志だ、やるなあ―――』
『えへへ―――』
『光代、とっとと食わせてやんなよ、強志にさ』
『ちょっと待てよケーキだけじゃないんだから。今日はね、お肉買ってきたの。とびっきりの牛肉よ!』
『おいおい―――、牛肉なんて贅沢していいのかよお?。俺の給料日ってまだまだ先だぞ―――?』
贅沢の許された家庭ではなかったけれど、精一杯、華やかな食卓だった。
『こんなこともあるだろうってね、あたし頑張ったんだから』
牛肉の入手は、もちろん母の内職で貯めたへそくりのお陰だった。
『そうか―――、すまんな光代・・・』
そんな母の内助の功を、当然、父は気付いているようだった。だからこそ、母に向けた感謝の言葉を短く放っていたのだ。
『ほ――ら、たっぷりよそったからね。こぼさないように食べるのよ、高志』
『おいおい、無理だよ。高志には多すぎるだろうよ』
『何言ってんのよ、これくらいで根を上げてちゃ男の子じゃないわよ。ねえ、高志――っ』
―――残念ながら僕は、この頃の記憶を一切無くしていた。当の父の在宅なんてのも、その気配すら覚えてはいなかった。
『あのな光代―――』
『どうしたの?、そんなに改まっちゃってさあ』
『うん―――、来月の町内会の歌謡祭ってあんだろ・・・。あれな、俺、役員にされちゃってさあ―――』
『へえ、出来るのあなた?』
『まあ、段取りさえ判ればな何てことないと思うんだよ。けどなあ―――』
『けど?、どうしたの?』
『結構集まりが多くてさ。去年、担当した奴から聞いたんだけど出費が半端じゃないみたいなんだよな―――』
『出費って、運営会費で賄うんじゃないの?』
『それがさあ、表立って使えないみたいなんだよな』
この地区で戦前から開催されていた“歌謡祭”とやら。町の繁栄と町民の繋がりを重んじての一大行事だった。のど自慢の一般参加者はもちろん、本業の歌い手を招いての本格的なお祭りは、隣町にも影響を与える程だった。
残念なことに、やはり戦時中は開催を控えざるを得なかった。しかし戦後の復興を願う町民の声から、規模を拡大しての歌謡祭が昨年から再開されるようになったのだ。
『でも、役員なんでしょ?。どうして持ち出しなの?』
『町内会費の私的乱用ってさ、随分前に揉めたらしい。昔は平気で使ってたんだろうな、そのしっぺ返しが、作年からの収支に反映されたらしいんだよな』
『じゃあ、割り切った集まりにすればいいんでしょ?。なにもお酒に走ることでもないじゃないのよお』
『いやっ―――。そこがさ、昔からの慣習って言うのかなあ・・・集まる即、飲み会って図式が出来上がってるんだよなあ―――』
『そんなの断ればいいのよ。悪しき慣習、撤廃ってさ!』
『そんな訳にはいかないだろ、新米のおれにそんな力なんてあるわけないじゃないか』
『・・・。そうなのかしら?』
『そこでさ、ものは相談なんだけどね。―――いやあ、明日がさ』
『―――いくら必要なの?。どうせ断れないんでしょ』
『ああっ、大して掛からないよ。そんなに要らないと思う―――武の店でやるからさ』
『武って―――、相沢の?』
『そう、あいつの店』
『何言ってるのよお!。あそこお寿司屋じゃない!。安くなんて上がるわけないでしょ!』
『あっ、ううん―――。交渉は、してんだけどさ―――』
『もーう。―――500円もあれば十分でしょ?』
『もち、お釣りが出るってもんさ!』
『もう、期待なんてしてないわよ』
『いやっ、そうなんだって。武の奴、俺に相当世話になってるからな!。今回はバシっと言ってやるさ!』
『―――そうだといいんだけどね。ねえ高志、お父さんに言ってあげてよ、呑みすぎないようにってさ』
―――。例え僕の記憶が蘇らないにしても、間違いなく同じことを言ったと思う。“父さん、いい加減にしてよ”ってね。
役員の集まりに託けて飲みたい酒にありつこうとする父を、それでも母は許していたんだと思う。きつい鉄工所勤めに根を上げずに家族を守ってくれていた父は、最高の家庭人だったからだ。
『ところで、今回は歌わないのあなた?』
『ああ、それどころじゃないしな』
『なんだあ、そうなの』
『歌ったほうがいいのか?』
『そうね―――。出来れば歌ってもらいたいかなあ』
『そうか。じゃあ、交渉してみるか!』
『そうして!、ねっ、絶対歌ってよお』
僕たちの父である小森靖志は、意外にも才能溢れる人物だったようだ。
熊谷に住み着くずっと前に、父は東京で歌手の仕事をしてたらしい。勿論、売れたためしはない。地方を回る巡業生活で嫌気がさした。ただその一言が辞めた理由として伝えられたと聞いた。。
後にも先にもこれ以上の情報はなかった。
『ねえ、招待歌手って誰が来るの?』
『緒方健一って―――言ったっけなあ?。横須賀辺りでは結構評判らしいぜ』
『緒方―――?。聞かない名前ね、どんな歌うたってんの?』
『俺もな、あんまし聞いてないんだ。結構、若手の中でも有望らしいってさ』
『ふーん、そうなの―――』
『まだ16だっていうから、たかが知れてるさ』
『16歳なの?、まだ子供じゃない。でも、大したもんだわねえ』
『おれだって16で東京に出たんだぜえ!。ちっとは褒めて欲しいよなあ』
『あなたの頃とは時代が違うのよ。今時の子供ってね、辛抱が足りないの。親が甘やかし過ぎるんだわ』
『仕方ないさ、戦争で可哀相な思いをしたんだ。そりゃあ過保護にもなるさ』
『過保護ねえ―――。まあ、うちには関係ない話だけどさ』
『そうかあなあ?。案外、他人事でもないんじゃないかあ?』
まさしく父の仰せの通り、僕たちは、いやっ、少なくとも僕は浴びるほどの愛情に包まれていたと思っている。生憎、突然の父の失踪は誤算だったけれど。
『明日、その緒方って若造も同席らしいんだよ。お手前拝見ってやつだな』
『だめよ、調子にのって絡んだりしたら。将来のある身なんだからね』
『心配するなって、ちょいと探りを入れるだけだよ』
その探りが癖もんだった。父は興味本位で口走ってはいたが、緒方という少年を目の当たりにした時、すでに眠っていた父の本気が目を覚ますこととなるのだ。
―――それは、武さんの店でのじゃれごとが発端となっていたようだ。
”靖っさんもさあ、あれだよもう一度っていうのかな・・・、歌謡界に戻っちゃえばいいんだよ。あんだけの歌唱力だもんなあ。もったいないよお!。俺は、そう思うけどなあ―――”歌謡際の役員の一人が酔ったはずみで父に絡んだ。他愛も無い昔話に、話が及んだだけのように見えた。
『無理無理ィ―――。今更歌えっこないさ、素人自慢がいいとこだよっ!』
そんな父の謙遜に、今まで大人しく座っていた招待歌手の緒方が興味を示した。
『あのお・・・。本業で歌っていたんですか、小森さん?』
『いやいや、歌うってほどのもんじゃないさ、余興程度だよ。あんまし大きくすんなって、なあ、武よお!』
『緒方くんさ、この男ただ者じゃないから。環境さえ恵まれてたらね、今頃はきっと人気歌手の仲間入りだったよ!』
『ええっ、そうなんですか―――?。何を歌ってたんですか?』
『しがない流行歌だよ。はは、忍びないけどさ―――』
『よ――し、靖っさん。一曲聴かせてくれよお!。あれだよお、あの曲。あんたの持ち歌だよお!』
『ええっ、ここでやんのか?』
『だってさあ、実際歌えないだろ?。当日は役員なんだから』
『靖志。せっかくだから、歌いなよ』
『そうか―――仕方ないなあ、ホントいいの?』
嬉しそうに、周りの気配を窺いながら席を立った父は、大きく深呼吸をした。さも歌いたがっている様子が辺りにも散らばっていた。。
『小森靖志、この場を借りて失礼します!』
『はあ、靖志かあ?。一体なんだってんだよ―――お前!』
奥の座敷から長老たちの声が飛んだ。
『はい、一曲やりたいと思います』
『おお、そうか!。靖志よお、お前が出ない歌謡際なんてなつまんないって言ってたところだ。はっはっ!』
誰しも父の歌声を待っていた。小森靖志の出番を待っていてくれたんだ。
『 “夢浪漫 ”小森ゆうじ、僭越ではありますが歌わせていただきます!』
『えっ?、ゆうじ・・・って、どういうことだ―――?』
ある長老の一人から疑問が口をついて出た。
『馬っ鹿だなあ―――。靖志の芸名だよ!、去年も説明しただろうがよ!』
『えっ?、そうだっけなあ―――』
『まあまあ、当人のおれに免じてさ、ここは穏便に頼みますよお!』
そう言って周りを宥めた後、背筋をしゃんと伸ばしながら父はゆっくりと目を閉じた。お腹の前に両手を当てて、そして大きく口を開いた。
“グラスの底に――沈んでーいるのはあ――、清らなかあ――色の――ワイン――、そして止まない――わたしの――心配癖え―――。
飲み干そうと――口元に―――運ぶけど――、すでにー思い――いくちびる―――。
空にならな――いグラス――、そっと片付けられて――え――溜まったわたしの――お、沈痛といえば――、愉快に傾く――う、嘲笑に――消えた―――あ―――。
“夢浪漫”は、父の思い出の曲だった。それもそのはず、本業の歌手として与えられた最高の楽曲だったからだ。
16歳で東京に上京してから歌にたどり着くまで、生半可な努力ではいられなかった。
朝早くから人の寝静まるころまで、若い身体は嫌というまで働き続けた。
レコード会社の門を叩きながら、夜の流し家業で夢を繋いでいた。
そんな父が18歳を迎えたある晩。勤め先のナイト・バーで、いつものように曲をこなしていた。
土曜日の夜にもかかわらず、客席はまばらに席を埋める程度の入りだった。
父の姿など眼下にも置かない酔った客。お喋りに夢中で、大きな声で談笑する中年女性。グラスを口にするわけでもなく、ただ、ステージのピアノを睨み付けているだけの気取った紳士。
『ねえ、成二さん。あの客また来てるよ、ほら、いつもの席』
『なんだ、今晩もかあ?。よっぽど暇らしいな』
『成二さんのピアノばかりみてるぜ、しかも渋い顔してさ。もしかして成二さんのこと気に入ってんじゃないのかよ』
『馬鹿言うなよ、俺の技術なんてたかが知れてるよ。それにもう歳だしな。ここで演奏するのでやっとだよ―――』
『そう?、惜しいような気がするけどなあ』
『ほら、時間だ。さっさと行きなよ』
『えっ、もうそんな時間かよ。ちっ、もっと休んでいたいよな』
お決まりの数曲を、今晩も決まった時間に披露するしかない父だった。
『―――おいおい何だよ!、暗いんだよ、もっと楽しく歌えないのかあっ!』
もう飽きるほどに歌い込んだ流行の歌に、ある客席から、“待った”の声が掛かったのだ。
『暗いだ・・・ってえ。ちっ、おれの歌がかよ―――っ?』
『おおっ――、何だお前、客に文句が言えんのかあ―――っ!』
東京での生活に既にうんざりしていた父にとって、客であろうと誰であろうと、歓迎出来ない輩は、皆、一緒だった。
『け―――っ!、俺の持ち歌だったらぶん殴るところだけどよお。仕方ねえや他人様の歌だもんな、まあ、大目に見てやるぜ』
勝気な父の性格は、“はいそうですか”で済ませられるほど、柔ではなかった。
『何て言い方だ―――!。おい、この野郎っ!』
酒の力を借りてか、その客も引き下がる意思はないようだった。
互いに譲らぬまま、しばし睨み合いが続いていた。
と、その時だった、父のバックに控えていたピアノの鍵盤が急に踊りだした。軽快なリズムと、跳ねるような高揚を隠し切れない音楽が流れ出したのだ。
『成二さん―――。この曲?』
後ろを振り向いた父に、ピアノ奏者の小田成二が、“にんまり”と笑いながら言った。
『靖志―――!。ついて来いよ!』
ピアノの音に合わせて、父はご機嫌に身体を揺すぶり始めた。ホールの客たちの数人が、それに続いて手拍子を重ね始めていた。
スタンドマイクをまるで抱擁するかのように両手で掴み、やがて父が歌い始めた。