キャッツの孝子という女性
店内に流れる音楽に負けないくらい、僕は大声で言った。
兄の得意とする、“慰謝料”を、僕は堂々と口にしたんだ。
『なっ!、待てよ、高志―――っ!』
驚いたように兄は玉を弾く手を止めた。兄の唇から短くなったタバコがぽろりとホールの床に落ちた。
『おいっ、どうしたよおまえ。もしや―――反抗期か?』
『そう、お兄ちゃんに向けた反抗期さ。どうするの、行くの?、それともこの場で遊び呆けているの?』
甘い顔を見せては駄目だ。そこに、隙を見せては駄目なんだ。
『―――判ったよ、行けばいいんだろ・・・』
渋々、出玉を景品に替えた兄は、袋から取り出した物を一つ僕に放り投げた。それは真っ赤な箱に入っていた。
『チョコレート・・?』
『ああ、待ち料だ。これで勘弁しろ!』
そう言って笑っていた兄の白い歯がとても印象的だった。何故なら僕には兄から何かをもらったことなんて、今までに無かったからだ。
『変な目で見るなって、調子狂うだろがあ・・・』
幾分、照れ隠しに忙しそうな兄は、足早に目的地へと足を向けた。
『確か、この辺だったよな?』
ネオンが灯った街並みは、どこも同じように見えていた。通りには外国人の姿も珍しくなかった。昼間の繁華街は、夜の訪れとともに生まれ変わったかのように艶やかさを見に纏っていた。
『お兄ちゃん、ほら、あそこ!』
弱った灯りに照らされた、“キャッツ”の文字が、うっすらと飛びこんで来た。
『なんだ、しょぼくれてんなあ』
色褪せた看板に煉瓦造りの店構え。年期の入った扉のいたるところには、擦り傷が刻まれていた。
『よっしゃあ!、入るぞ!』
そう言って兄が扉のノブに手を掛けようとした時だった。―――その扉は不思議と勝手に手前に開いた。
『わおっ―――!』
『えっ―――?』
中から顔を出した女性は、口元をへの字に曲げて僕たちを見ていた。
『―――何だ、子供かあ・・・。あんたたち、借金取りじゃないみたいね』
『へえ・・・?』
『何の用なの、ここは食堂じゃないんだからねっ!』
小奇麗に化粧を施したその女性は、僕たちを軽視するかのようにバケツに入った水を撒き始めた。
『―――キャッツだよね、ここ?』
兄が短く本題に入った。
『そうよ、そこに書いてるでしょ?。あんた読めないの』
面倒臭そうにその女性が言った。いや、明らかに面倒臭がってる様子が僕にも伝わった。
『読めるとかそんなんじゃないだろ!、訊いてるんだよ、応えろよっ!』
堪らず兄が、いつもの調子で絡んだ。
『は――あ。なんだかしらね、この子たちは・・・』
『―――。小森靖志って男、居るんだろ』
『えっ―――!』
『居るんだろっ!』
『―――、ちょっ、ちょっとあんたたち、一体、どう言う関係?。あの人を―――連れ戻しに来たのっ!!』
父の名前は小森靖志。靖という字は国を安ずると言う意味らしい。それに志がぶら下がっている。人類史上、これ以上は無いくらいの立派な名前のはずだった。
『連れ戻すって、どういうことなの―――?。あの人って・・・?、父さんはおばさんの何なの?!』
『高志、おまえ―――』
さっきからのその女性の態度には、僕なりの違和感を覚えていた。だから、僕は真っ直ぐにその女性に向けて言えたんだ。
『―――ごめんね・・・ごめんね』
そう言うと壁にもたれながら、その人は懸命に言葉を探していたようだった。
『ここに居るんだろ?、なあ』
配慮なんて持たない相変わらずの兄は、その女性のダメージなんて気にもしないで、ぶっきら棒に攻め寄った。
『来ないわよ・・・。あの人はもうここには来ないわ・・・』
『来ないって―――。あのね、そう簡単に言われたってさ、おれ達どうすればいいんだよっ!。はいそうですかって帰れって言うのかあっ!』
更に追い打ちを掛けるように、兄はその人に迫った。
『泊まる処なら・・・あるわよ・・・』
『あのね、そう言う問題じゃないだろ!。あいつは何処に居るんだよっ!、何処に行けば会えるんだよ―――っ!!』
ついに、兄の辛抱の糸が切れた。まるで要領を得ないその女性の言葉は、父親の気配はここには無いことを知らせていた。
『ここには居たんだよね、父さんは・・・』
せめて事実確認だけはしておきたかった。だから、敢えて僕が口を開いた。
『―――先月まではね』
『詳しく知りたいんだ。―――ねえ、話してもらっていいかな?』
『・・・入んなさいよ』
開き直った様子のその女性は、店のドアを閉めるとすぐさま鍵を閉めて、看板のスイッチを切った。
『―――今日は商売になんないわねえ』
そう言ってカウンターの端に腰を降ろすと、セットしていた髪をおもむろに両手で壊し始めた。
団子状にくくられた髪の毛が、バサリとその人の背中めがけて舞い降りた。少しくねった癖髪は、跳ねたまま自己主張を楽しんでいた。
『ああ、軽くなったわ・・・』
すらりと伸びた髪の毛は、彼女の歳を偽るかのように光沢を放っていた。
『埼玉だったかしら、お兄ちゃん達・・・?』
『知ってたんだな、おれ達のこと』
『ええ、何度も聴かされてたわ。もう、うんざりってくらいにね・・・』
『で―――、何処に居るんだよ、あいつ』
『自分の父親に向かって、あいつなんてないでしょっ!。いい加減にしなさいよ―――っ!』
軽々しい兄の言葉に痺れを切らしたのだろうか、その女性はむきになって兄に向けて戒めのていた。それでなくても生意気な兄の態度は、反感を買うにもってこいの材料でもあったからだ。
『けっ―――、いいんだよ。おれの中では、“あいつ”ってのが、今までのおれの常識なんだからさ!』
そう言ってカウンターの中央に兄は席を取った。目の前の棚に並べられたボトルの数々が、ふて腐れた兄の目を誘っていた。
『まさか、死んじゃいないよな』
『―――冗談にもほどがあるでしょっ!。さっきから聴いてれば何よ、父親のことをあいつだとか、やくざみたいに大声で脅かしたり、一体、あんた何様なのよっ!!。女だと思って舐めてんじゃないよっ!!』
兄の冗談混じりに言った一言が、更にその女性を真顔にさせていた。
興奮してきたのかまだ気が収まらないのか、その人は小物入れからそそくさとタバコを取り出し口元に運んだ。金色の細めのライターに火を点けると、ぼんやりと揺らめく火を眺めながら、ようやくタバコの先に火を入れた。
『ふうう―――っ!』
吐き出した煙からは、外国産特有の香りが漂っていた。
『強志って言ったわよね、あんた』
『知ってんのか、おれのこと!』
『だから言ってるでしょ―――。知ってるも何もあんだけ聴かされちゃ、誰だって覚えるわよ。まったく』
『じゃあ僕のことは・・・?』
『ちゃんと聴いてるわよ、高志くんでしょ。高い志って書くんだよね?』
『そう、合ってる・・・へへ・・・』
『高志くんも、言葉には気を付けたほうがいいわよ』
『えっ、僕は何にも言ってないけど―――』
『初対面の女性に向けて、“おばちゃん”は無いでしょ。それってねえ、とっても失礼な呼び方なんだよ。いい?』
『あっ―――』
『孝子って呼んでよね。いいかしら?』
『う、うん・・・!』
孝子って名乗るその人の顔をまじまじと見ると、意外と若いことに気が付いた。どうしても夜の商売をやってる、“ママさん”のイメージが、僕の中では“おばちゃん”として出来上がっていたからだった。
『そんなことはいいから話進めようぜ。なあ、孝子さんよ―――。何処に隠れているんだよ、“あの人”は』
孝子さんに叱られたからだろうか、途端に兄は父の呼び方を改めていた。
『―――きっと病院だと思うわ・・・』
『なんだよその曖昧な言い方わ―――っ!、まるで話になってないだろっ!』
『今から話そうとしてるんのよ―――、黙ってなさいよっ!!』
堪らず立ち上がった兄は、幾分、孝子さんの傍に近寄ろうとしていた。
『落ち着きなさいよ。―――小さい頃からの短気は治っていないようね。やっぱりあの人の子供のようだわねえ。―――吸う?、強志くん』
『ち―――っ!』
目の前に差出されたタバコを乱暴に受け取ると、兄は孝子さんのライターの火を避け、ポケットからマッチを取り出した。
“バシュッ―――!”マッチの暴れる煙に目を細めて、兄はふてくされたように一気にタバコを吹かした。
『ちっ、まずい“モク”だなあ―――。だから、あっちもんは嫌なんだよ』
『ふふ、背伸びしたい年頃ってわけね―――。ねえ、確かさ高校生になる年頃だったわよね、あなた』
『―――へん、どうやらおれ達の情報は筒抜けってわけだあ。こりゃあまったく、分が悪いぜ・・・』
『そうやって、いちいち何か言わないと気が済まない―――。ほんと、父親譲りって言うのかしらね、そんな気性もさ』
呆れるように、それでも次第に穏やかな表情に変化していく孝子さんは、どこか愛おしそうに兄のことを見つめていた。
『けど、タバコは程ほどにした方が賢明だわ・・・あの人のようになるからね』
『―――ちっ、肺がんかよ―――』
孝子さんのもらした、“病院だと思う”という言葉で、兄はすでにそれを察知していたのだろう。さして慌てた様子もなかった。
『どうして病院が判んないの?、孝子さん。お父さんと別れたの?』
『―――変なこと言わないでよっ!。そんな関係じゃないの、子供のくせに知ったかぶりするもんじゃないわよ―――!』
僕の幼稚な直感は図星だったようで、孝子さんは少しだけ慌てている素振りだった。
『じゃあ、どんな関係だったの?。ねえ、否定するくらいだったら言ってくれてもいいでしょ!』
僕のことを子供扱いする孝子さんの言葉に腹を立ててしまった僕は、つい意地悪な問いかけをしてみた。
『ふっ―――。何をとぼけたこと言ってんのよお、あんた達が思っているような関係じゃないわよ』
二本目のタバコに火を点けた孝子さんは、すぐに体勢を立て直して反論した。
『賛成っ!。おれも聴きたいんだよなあ、あんたとあの人の関係をさ!。いっそのこと、全部喋っちゃえばあ―――!』
それに便乗して、兄が囃し立てるように言った。
『僕たち、ここに遊びに来たわけじゃないんだよ。孝子さん―――』
そんな兄の調子を反らすように、僕は彼女の目線だけを追っていた。
『・・・どこまで知りたいの・・・?。本当に、聴きたいの?』
僕たちの意思を確認するように、孝子さんは静かに語った。
『どこまでって―――?』
『おれは全て聴きたいぜ―――。あんたの知ってるあの人のことを、おれ達を捨てたあの人が、どんな顔をしてここで生活してたかを、おれは―――、おれは全て聴きたいんだよお―――っ!!』
ついさっきまではしゃいでいたはずの兄は、ぐっと拳を握りしめながら、思案に暮れる孝子さんの顔を凝視していた。
『どうしても放っておけなかったのあの人のこと。なんだかとても可哀そうに思えてさ・・・』
そう切り出してから、父との想い出を噛みしめるように孝子さんが喋り始めた。
『ちょうど10年前のこの時期だったわねえ―――。あの人、酔ってこの店に入って来たの、それもいきなりよお。もう手のつけられないくらい酔っ払ってたわ。よくよく見ると鼻血を拭ったあとがあってね、白いシャツの所どころが赤く沁みになってた。顔もね相当腫れていたようだったわ』
『けっ!、喧嘩かあ―――っ。どうしようもないじゃん!、あの野郎っ!!』
父親への正当性を持たない兄は、すぐさま否定の言葉を挙げた。
『もう―――、黙って聴こうよお兄ちゃん―――っ!』
とっさに僕は、兄の放漫さに釘を刺した。
『あっ―――、う、うん』
僕の制止に驚くほど従順だった兄の態度に、正直、僕自身が耳を疑ったほどだった。
そうか―――。素直になれない父への反発心なのだろう、兄は無意識の内に声を張ってしまっていたのだ。
しかし、そんな兄が一番聴きたかったのは、偽りのない父を記した議事録だったに違いないと。
『でも―――どうして、この店になんて来たのかなんて、本当に覚えていなかったのよね、あの人・・・。なんだか馬鹿みたいでしょ!。けどね、あの人が最初に言った言葉は、今でも忘れられないんだ、あたし』
鮮明に残っている記憶をまるで懐かしむ様に、彼女の言葉は流暢になっていた。
『あの人仰向けになってさ、そうっ―――、丁度この辺にね』
孝子さんはその場所を確かめながら、感慨深そうに目を細めていた。
『―――大の字になっていたわあの人・・・。意味不明なこと喚きながら当分騒いでいたのよ。他のお客さんも気持ち悪がってさ、もうその時間から商売にならなかったわよホント―――。お客が逃げて静かになったと思ったら、今度は急に気持ち悪いって言い始めたの。慌てて洗面器を取りに行ったんだけど、もう間に合わなくてさあ、そこいら中、垂れ流し状態だったわ―――』
困ったような嬉しいような、そんな面持ちの孝子さんだった。
『何度、警察を呼ぼうって思ったか知れないわ。ふっ、でもね・・・。仕方ないからおしぼりであの人の顔を拭いてあげたの。そしたらね、誰かさんの名前を呼んでた・・・。“光代、光代おっ!、水をくれっ”ってさ―――』
『えっ!、父さんそう言ったの?』
『そう―――。あんた達の、お母さんの名前でしょ?』
『ああ・・・そうだよな、間違いない』
『挙句のはてにさ、あたしの胸にしがみ付いて泣き始めたの。子供みたいにさ・・・。あんな大きな図体で抱きつかれてみなさいよ、そりゃ大変なのよっ。だって支えきれないんだもの』
なんだか嬉しそうに喋っている孝子さんは、いつしか兄の顔ばかりを見ていた。
『力自慢のあたしだけどさ、全然、歯が立たないの。仕方ないからね、子供を寝かしつけるようにさ、しゃがみこんだままあの人の頭を撫でていたの。静かだったからさ、寝息が聴こえるのよね・・・あの人の・・・。ああっ、男の人の寝息なんてさあ、もう、何年も聴いて無いでしょ!、あたしって―――』
随分と長く独り暮らしを続けていたのだろう。孝子さんは訊きもしないのにすらすらと、進んで自身の履歴を披露していた。
『―――あのね、独身生活の長い女の人って、やっぱり、男の人って欲しいのかな?』
本来、訊くべくことでもない下世話な話だけど、少し遠慮がちを装って、僕が孝子さんに訊いた。
『そりゃあ欲しいわよっ!。―――誰だっていい訳じゃないけどさ、実際、欲しいのよね。隣にいてくれる誰かが、欲しくて仕方ないの・・・』
『はーん、なるほどねえ、それがつまり、あいつって訳かよお―――っ』
『だから、あいつって言わないでよ!、もうっ―――!』
そんな兄の挑発を掻い潜るように孝子さんは、素早くカウンターの中にすべり込んだ。
兄の無神経な一言に照れていたのだろうか、俯きながらほのかに紅らめた顔の彼女を、僕はしっかりと確認していた。
『ね、ねえ―――高志くん、オレンジ・ジュースでいいわよね?』
上ずり加減の孝子さんは、まるで僕に救いを求めているかのようだった。
『―――うん、何でもいいよ』
『強志は何がいいの?』
『う――ん、そうだな―――。やっぱジョニ黒かなあ』
棚に並んだ幾つものボトルを眺めながら、兄は気取ったようにそれをオーダーした。
『まあ贅沢ねえ!。普段からそんなの呑んでんの?、あんた』
『呑んでる訳ないだろ!。いつもはトリスさ、しかもソーダ割り。あっ、ロックにしてね!、ダブルがいいや』
まるで慣れた常連客のように、兄の発する大人びた会話が僕にはとても不思議な感覚だった。さすがに大人社会をかじっただけのことはある。真面目な学校生活だけが、正しい十代の過ごし方なのだろうか―――?。ふと、僕は考えてしまった。
だって目に前に座っている兄は、とても格好良く映っていたからだ。
『はい、お待たせ。じゃあ、乾杯!』
孝子さんはビール・グラスを片手に兄のロック・グラスと親睦を交わした。
“カチンッ―――”心地よい音色とともに、兄は一気にグラスを空けた。
『プハ―――ッ!。たまんねえなあ・・・。やっぱ、黒は美味えや!』
『まあ―――、大丈夫なの?。そんなんで』
『もう一杯、おかわり!』
『まるで不良少年なのね、強志は―――』
『違うんだなあ。おれはね、若くして社会経験が豊富なだけだよ』
『へえ、ものは言いようね―――』
勝ち誇ったように兄は屁理屈を並べていた。それに対して孝子さんが、ちょっとだけ呆れて応えていた。
『だってそうじゃないかよ、大人の準備を始めて何が悪いんだ?。そのための思春期だろ、おれたち?』
『物事にはね、秩序ってもんがあるの。それを無視してさ、世の中は成り立たないの。とても大切なことよ』
『―――あんたも他の大人と同じ種類なんだな。そうやって諭すようなこと言ってさ、結局、決めつけてるんだ』
カウンターに肘をついて、あからさまに失意を見せた兄だった。
『―――ごめんね、そんなつもりで言ったんじゃないのよ。そうよねえ、こうやって未成年に酒を出してるなんて、秩序どころじゃないわよね。あたしもさ』
『そうだろ?、いい加減なんだよ大人社会ってさ、いつも都合のいいことしか見ちゃいないんだよ!、勝手なんだよっ!』
『でもね、そう言うあんたもずる賢こくない?。そんな勝手な大人たちに要領良くぶら下がっているんでしょ?』
『――――――っ』
孝子さんのカウンター・パンチには、さすがに兄も言葉を失っていた。
『ねえ、高志くんは優等生なのかな?』
兄の撃沈を確認してから、孝子さんは僕に話を振った。
『ええっ、優等生って?』
兄と対照的な僕のことを勘ぐるように、孝子さんはにんまりと僕の方を見ていた。
『ああっ、こいつは真面目だけが取り得でさ、学級長ばっかやってるんだぜ。なんたって、将来は博士か大臣ってところさ。なあ、高志!』
『勝手に決めつけないでよ。僕だって考えるところはあるんだし』
『ほらあ、ねっ、真面目だろ!、こいつ』
自分に向けられた体裁の悪さを回避するためにか、撃沈したはずの兄は調子よくいとも簡単に僕の将来をなぞっていた。
『へえ・・・。お兄ちゃんとは対照的なのね高志くん!。なんだか楽しみだわあ!』
『興味本位で言ってもらっても僕には迷惑だよ。誰も僕の一生なんて保障してくれないんだからさ』
『高志くん・・・』
そんな無責任な発言に責任を感じたのか、一瞬、孝子さんは消沈したように見えた。
『―――ねえ高志くん。あなた彼女なんていないでしょ。そんな気難しい顔しちゃって、そんなんじゃ女子も逃げて行くわよおっ!』
『えっ―――?』
『ほら図星!。真面目過ぎるのよ高志くん。もっとくだけなきゃさあ、今時の女の子なんてついて来ないわよ!』
『あっ―――』
なんだ・・・。見せ掛けの消沈は孝子さんの十八番のようだった。場を盛り上げるための手法に、僕もまんまと網に掛かってしまった。
『でも、芯はあると思うのよね高志くんは』
大人の女性は七色の声を持つって聞いたことがある。その場の雰囲気で瞬時に声色を変えるらしい。けれど、声の変化は特段珍しいことでもなかった。
僕の家の近所の猫たちでも、季節毎に鳴き声を変えている。高く低く、艶のある鳴き声で相手を誘うのだ。
でも孝子さんのそれは、猫の比ではなかった。彼女自身から迸る霊的な雰囲気、そして怪しく刺さる目線。まるで目を操られるかのような仕草。酒の力を借りたにせよ、どこまでも妖艶でそれでいて親しみを感じてしまう彼女の特異性に、僕には父さんの心の内が読めたような気さえした。
『父さんは・・・、どんな言葉をかけたの?。孝子さんに、なんて言ったの?』
僕の話題の落ち着き先なんてどうでもよかった。何故なら、父さんを求めてここに来たのだから。
『ちょっとお、いきなりじゃずるくない?』
『だって、そのために来たんだよ!。鎌倉まで』
『高志よ、時間はあるって。ゆっくりと語らい合う、これが大切なんだぜえ―――』
酔いがまわってきたらしく、兄はまったりとロック・グラスを眺めていた。
『時間なんてないよ!。結局、父さんには会えなかったじゃないか!。だから―――今日中に帰ろうって言ったんじゃないか、違うのお兄ちゃんっ!』
『仕方ないじゃないかよ―――、帰りの電車はもう時間切れだったんだからよ』
確かに高崎に経由する東京行きの最終電車は、すでに走り去ったあとのようだった。鎌倉駅の階段を駆け上がった兄がそう伝えてくれたからだ。
『何時の電車に乗る予定だったの?。結構、遅くまであるはずよ?』
『だってお兄ちゃんがあの時確認したもん。もう、電車は無いって』
『いい加減なのね―――、強志って』
『いやっ、おれもさ考えたんだよね。このまま帰っていいかなってさ。でも鎌倉まで来たんだから会わない訳にはいかないだろ?。何日掛かってもさ、あの人の顔を見なきゃ気がすまないってね、そう思った訳さ』
『―――じゃあお兄ちゃん、最終電車の話は嘘だったの?』
『おまえがさ、だだをこねるから帰る振りをしたんだ。そうでもしないと収まらないだろうが、おまえは』
『ひどいよ!、お兄ちゃんひどいっ!』
『会いたいんだろ?、高志。おまえ親父に会いたいんだろ?。だから着いて来たんだろ!』
『―――だって・・・』
『だってもくそもないだろがっ!。おれは会うぞ絶対会ってやる!。会って言ってやるんだ、あいつに会ってな―――』
会ってやると強く言い放った兄だったが、そのあと何故か言葉が続かなかった。
『会って何て言うの、あの人に?』
『―――。ああ、まだ考えてなかった・・・』
『はあっ―――、ホントいい加減なのねあんた。まるであの人を見てるみたい』
『ちっ、一緒にすんなって!』
『まんざら悪くもないんじゃないの、父親似ってのも』
『これが普通の家庭だったらね、おれも文句なんて言わないさ』
孝子さんの前では素直な兄の弁だった。正直なところ、やはり兄は父親の存在が欲しかったようだ。
『ねえ孝子さん、お父さんってどうして孝子さんを選んだのかな?』
『そ、そんなことっ―――、当人に訊くもんじゃないでしょ!』
顔を幾分紅らめた孝子さんは、はぐらかす様に話を続けた。
『ここに住み着くようになってさ、しばらくしてからやっとあの人言ってくれたのよ。俺は家族を捨てたどうしようもない男だって。夢ばかり追っていた大馬鹿野郎だって』
孝子さんと父の関係は大よそ理解できたものの。父はどうしてこの町にやって来たのだろうか?。
ここ、“キャッツ”に立ち寄ったのもほんの偶然だったのだろうか?。僕の興味の先はどんどん膨らんでいったのだ。
『当分は真面目にで働いてくれていたのよあの人―――。けどね、すぐに衝突してしまうのよ、職場の仲間たちとさ。だから頻繁に職を変えたわ―――土建業や、酒屋の配達。そして新聞の集金でしょ、それからたい焼き屋と、パチンコでしょ・・・えっと、確か、警備員を辞めてから―――』
『もういいよ、そのへんで止めとこう・・・。結局さ、ちゃらんぽらんな男だってことは間違いないようだし』
『短期がいけないのよねえ・・・。普通にしてれば見掛けだっていいし、口は上手だし。文句の付けようがないのにさ』
『まるで、誰かさんみたいだ。―――ねえ、お兄ちゃん』
『誰かさんって・・・誰のことだよ?。まさか、おれのこと言ってんのか高志!、この野郎―――!!』
『だから―――、短期はいけないんだよお、強志くん』
『―――。だ――っ!、話を戻そうぜ、もっと先に進めてくれよ。なあ、孝子さん!』
父親に似た自分の気性を恥じていたのか、それともそんな父が懐かしく思えたのだろうか、兄の顔は、充分に穏やかだったように思えた。
―――それからは、とにかく僕たちの知らない父の話で時間を過ごした。
孝子さんの中に詰め込められていた小森靖志という男は、アルコールと煙草の煙の中で、ものの見事に再現されていったのだ―――。