そんな父の履歴
『遅いわねえ・・・、相当、立て込んでいるのかしらねえ』
そんな老婆との会話が途切れてしばらくして―――、
“ジリリリリッ、ジリリリリ――ッ―――!”、ようやく電話のベルが鳴った。
『はい、もしもし―――。ええ、お手数をおかけしました。ありがとうさん―――。お兄ちゃん、繋がったみたいよ。さあ』
老婆が送受話器を兄に向けると、兄は腕を組んだままそれを受取ろうとはしなかった。
『高志、おまえ話せよ。ほら――』
『あっ、うん』
送受話器を左耳に当てた僕は、正直、どうしていいのかが定まっていなかった。たかが電話だけど、まるで重い使命を与えられたかのように戸惑っていた。
左耳元で繰り返されていた、“もしもし―――”の声は、確かに隣家のおばちゃんの声だった。
『もしもし―――、喫茶アカシヤですけど?。どちらさん?』
『ああっ、おばちゃん!。僕―――高志!、判る―――?』
『あれえ、高志ちゃん・・・?。どうしたのよ・・・急用かい?』
『うん、お母さん呼んで・・・もらえるかな?』
『あのね、みっちゃんさあ、さっき買い物に出掛けたみたいだけどお。何か伝えることあるのかなあ?』
『―――。あっ、そうなの・・・えっとねえ・・・』
母に伝えたいことは沢山あったけど、とっさのことで僕は喉を詰まらせてしまっていた。
『あ―――っ!、おばちゃんさっ、二人とも元気でいるって―――。そう母さんに伝えてよ』
『元気で・・・って?、何処にいんのさ高志ちゃん。二人って強志ちゃんも一緒なのかい?』
『うん、それだけでいいから・・・。ねっ、お願いっ!』
『ところで、連絡先―――』
“ガチャン―――ッ”。つい堪らず、僕は受話器を置いてしまった。ろくに伝言も出来ないまま、僕は中途半端な面持で兄の顔を見るしかなかった。
『どうだった?、話―――出来たのかっ?』
『母さん買い物に出てるって・・・木村のおばちゃんが』
『そうか・・・』
母の様子が判らなかったことが、兄には、さも残念そうに見えていた。
けれど、あれほのど悪態をついて家を出て来たんだから、兄にはそれなりの覚悟は持っていると僕は思っていた。
『あとでもう一度かけてみるか・・・。なあ、高志』
僕の顔色を察してか、兄は言葉少なにこの場をやり過ごした。けれど僕の目の前の兄は、確かに僕の知っている傲慢な強志ではなかった。
『おばあちゃんありがとう。助かったよ。で?、電話代はいくらなの?』
『いいよ、あたしが出しておくから。それより行く宛てがあるんでしょ二人とも?。ぼやぼやしてないで、さっさとお行きなさいよ』
『おばあちゃん』
『高志って呼ばれてたわねえ、君』
『うん、高い志って書くんだ』
『いい名前だねえ。お兄ちゃんの方は、なんて名前だい?』
『ああ、強志さ。強い志って書く』
『へえ、兄弟そろって素敵な名前をもらったねえ。いいご両親だよお』
『おばあちゃんこそ、名前は?』
再び僕の応酬だ。
『小夜子っていいますよ。小さい夜の子って書くの。ねえ、いい名前でしょ?』
『へえ―――、ロマンチックなんだね、おばあちゃんって!』
『あれま、高志ちゃんて物知りなのねえ。感心、感心』
『―――?。どう言うやり取りなんだよ高志。さっぱり判んねえなあ、おれには』
『あとで説明するから。じゃあねおばあちゃん、ありがとう。あっ、違った、“小夜子”ばあちゃんだ!』
大きく手を振りながら、僕たちは小夜子さんのお店を離れた。とても親切にしてくれた小夜子ばあちゃんが、僕には愛おしくてたまらなかった。
『―――小夜子とロマンチックって、どうつながんだよ?。高志』
早速、兄が疑問を口にした。さっきの小夜子ばあちゃんとの会話に、一人、残された感があったのだろう。兄の偏った自尊心がきっとそうさせたに違いない。
『ああ、あれね。お兄ちゃんセレナーデって知ってる?。音楽の』
『セレナーデって―――、ああ、なんかこう・・・いやらしそうな・・・』
『やだなあお兄ちゃん、そんなの間違ってるよ。男の人がね意中の女性に思いを馳せて歌うんだ。時には楽器を奏でたりしてさ、甘い求愛の歌なんだ。それを漢字にするとね、小夜曲って書くんだ。だから小夜子って名前、ロマンチックでしょ?』
『ああん―――?、そうなるな・・・うんっ』
兄は、半分理解出来てなさそうだったけど、僕はそれ以上の説明を止めた。何より兄の自尊心は弟のそれより大切なのだ。
『次、何処に寄ろうか。お兄ちゃん』
『パチンコ屋!』
即座に返答を返した兄の目には、すでに辺りのネオンが映し出されていた。
通りに面した“パチンコ・楽座”の店の前に立つと、即座に賑やかな音楽が更に兄の心を引きつけていた。兄の後を着いて店内に足を踏み入れた瞬間、タバコの煙が僕の身体中に巻き付いた。
『おまえは外で待ってた方がよさそうだな』
『うん、そうするよ』
得意気に台を物色し始めると、ものの1分で兄は着席した。しかも、隣の中年男性からタバコをもらうあつかましさときたら、大人顔負けの仕業だった。それにしてもこんな場での兄の姿は、とても妙に堂に入ってた。
以前から母が兄を嫌うのには理由があった。図々しく他人様の懐に入り込む父の性分を、兄はそのまま受け継いでいたからだ。今までの母と兄の繰り返される衝突にしても多分そんなことなんだろうと、幼い頃から僕は想像してきた。
僕が物ごころついた頃には父の存在はすでに無く、当たり前に母子家庭で育てられた。とは言っても、父親のいない家庭は特に僕たちの家に限ったことではなかった。大戦により一家の大黒柱である父親を亡くした家庭は、そこいら中にあったのだ。
父は幼少の頃から多少荒らくれた人物ではあったが、根は気の良い息子だったと父方の祖母から聞かされた想い出がある。それでも多くを語りたくない祖母は、いつも言葉を詰まらせていた。
家族を捨てて出て行った息子をどうしても許せなかったのだろう。
祖父はというと、日露戦争に駆り出され若くして命を落としたそうだ。そう言う父も、父親の温もりを知らないまま育っていたのだ。
父が母と出逢った頃は、我が国が戦争に突入して間もなくのことだった。熊谷の鉄工所に勤める父と、近くの銀行に勤める母は、偶然の出会いをきっかけにすぐに同棲するようになった。
早々に兄を身籠った母は、しばらく離れるしかない実家を訪れることとなる。草津で温泉宿を営んでいた母の両親は、そんな娘の都合などおかまいなしだった。
そもそも母が実家を離れる理由となったのも、偏った旅館経営に携わる両親への背信の末だったようだ。
地元の有力者相手に頼る放漫経営に異論を唱えたことが発端だった。有史以来、大切にしてきたはずの一般客に疎遠を決め込んだ挙句、老舗旅館の名をいいことに法外な宿泊料を請求するようになったのだ。
それを見かねてか、女学校の卒業と同時に家出同然に故郷を捨てた母だった。利益重視の他の姉妹の目もあってか、引き止めることも渋々、やがて娘一人を諦めてしまうしかなかった。
それでも母のすぐ下の妹は、時折、手紙と一緒に僕たちのために洋服とかおもちゃを送って来てくれていた。僕たちはその人を、“幸子”おばちゃんと呼んでいた。何年か前に一度、僕たち兄弟の前に顔を見せた幸子おばちゃんは、奇麗な着物姿で僕たちにお小遣いをくれたのだ。
それに気を悪くしてか、母はこう言ってた。“父親はいないけど、お金には困ってはいないわ。幸っちゃん、ありがたいけど・・・貰うわけにはいかないわ”。
本当は喉から手がでるほど欲しかったに違いない。僕たちの服だって継ぎはぎだらけの粗末なものだったから。
唯一、そんな母が心を許していた人が、川越の伯父さんだった。
伯父さんも草津の祖父に反目し合ったまま、勘当同然に家を飛び出したのだ。
元々、祖父の傲慢な旅館経営と、利権争いに躍起になった兄弟姉妹を見かねてのことらしかった。
お金の無い悔しさからか、母は仕事を掛け持ちにして朝から晩まで働いていた。兄を高校にやるんだと必死にお金を稼いだ。
やっと兄が高校に入ったと安心した矢先だった。生徒同士の争いに兄が率先して名乗りを挙げていた。元来、短気で喧嘩好きな兄にとっては、好むところだった。
当然、退学処分が科せられた。兄は僅か2ヶ月で自ら自由を手に入れたのだ。
それ以来、昔の仲間とつるんでは、やくざ擬いの悪さを繰り返していた。警察沙汰も日常的になっていたのだ。
やっとの母の苦労を尻目に、兄はというと始末の負えないチンピラ家業を楽しむ様になっていたのだ。
―――そんな時だった。父の昔からの友人が我が家を訊ねて来たのだ。なにやら出張先の鎌倉で、父と似た男を見たとの情報だった。昔の父の面影はとうに無く、あまりに痩せ細った姿に目を背けたくなる程だったと、その男は語っていた。
その話を聞いた兄は、俄然、父に会いに行くと言い出した。兄の行動を引き止めた母に対して、兄は一歩も引く気配を見せなかった。
どうせ母が会ったところで、元の鞘に収まるはずもなく。例えそうなったところで、それを兄が許すはずもない。
兄の語る、“慰謝料”とは、本当にお金だけの問題なんだろうか―――。
あれこれと考えているうちに、周りの店先のネオンが幾つも灯り始めた。僕は頃合いを見計らって兄のところに戻った。
やはりご機嫌そうな兄は、悠々とタバコをふかしながら足元に溜まったドル箱に左足を掛けていた。
『お兄ちゃん、もう時間だよ。行こうよ』
『何だよ高志―――。いま調子いいんだ、止められるかよ!』
『―――10数えるから。それまでには終わってよね!』
『あん―――?』
『いーち、にーっ・・・・はち、きゅーっ、じゅうっ!・・・。じゃあ、僕一人で行くから。いいでしょっ!』
この冒険旅行が始まってから、僕は兄に反抗することが目立って多くなった。兄の行動パターンも発言の怖さも、以前とは全く異質なものとなっていたからだ。
元々、兄には近寄り難い雰囲気があったから、僕は極力兄を避けて来た。学校の同級生にしても、兄はとんでもなく怖い存在だった。その弟というだけでつまはじきにされることも少なくはなかった。
その兄に今、僕は堂々と反抗が出来ているのだ。弟として真っ直ぐに口ごたえが出来るのだ。
『おまえなあ、我が儘もほどほどにしとけよおっ!』
タバコをくわえた兄は、相当悪ぶっていた。それも弟に対してだ。他人ならともかく、僕に今更、そんな脅しが利くわけがない。
『行くから!。僕が父さんに会って、慰謝料を請求するから―――っ!』