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おしゃべり女と、タバコ屋のお婆ちゃん。

『どちらを探してるの―――かなあ?』

繰り返しその女性が訊いた。

『どちらって―――』

その女性は真っ直ぐに僕の傍に近づくと、大きく髪を掻きあげながら僕の顔を覗き込んだ。

『ねえ、君の探し物って何なのかな?』

『あっ、うん・・・』

目の前に置かれたその女性の顔付きはというと、逞しく揃えられたまつ毛の迫力と、ふっくらとした唇の輪郭がとても印象的だった。

『―――何だか、訳ありの旅行みたいね』

僕の挙動を察したのか、彼女は迷いなくそう言った。

『うん、店を―――探してるんだ』

『やっぱりそうなんだ。そんな風に見えたもの』

『そんな―――って?』

『そんな風に見えたのよ』

彼女は念を押すように、僕を諭していた。

『住所とか分ってるの?』

やはり地元の人らしげに、彼女はもっともらしく僕に訊いた。

『バー・キャッツって店さ!。知らない、おたく?』

その女性と僕の間に無理矢理割り込んだ兄が、積極的に言葉を返した。

『ええっ?、キャッツ―――』

するとまるで戸惑うかのように、彼女は何故か目を丸くしていた。

『―――なんだ。知ってるんだ、おたく』

その反応にすかさず兄も念を入れていた。

『ま、まあ―――、地元だものね―――』

そそくさとバッグの中からタバコを取り出し、彼女は口にくわえたタバコに火を点けた。

『ふう―――っ!』

『なっ、ゲホ――ッ・・・、ゲホ―――ッ・・・!』

どこか誤魔化しを見せつけながら、妖艶な彼女の紅い唇から吐き出された煙が、勢いよく兄の顔面を直撃した。

『ついていらっしゃいよ』

そう短く言うと、タバコを指にはさんだまま彼女はすらっと歩き出した。

『ちゃんと着いて来てよね』

『えっ?』

ほんわりと笑みを浮かべた彼女のその横顔は、まるで吸い込まれてしまいそうな、とても奇麗な輪郭を見せていた。

しかも眩しいほどの白いTシャツは、均整のとれた上半身にピタリと張り付き、窮屈そうな赤いミニスカートがすらりと伸びた脚を余計に長くさせていた。

それ以上に魅惑的だったのは―――、彼女の口元にやんわりと並ぶ“ほくろ”が、小悪魔のように見えていたことだった。

『あなたたち、もちろん兄弟でしょ?』

『―――当然でしょう!』

“もちろん・・・?”、彼女の妙な問い掛けに、兄が果敢に応えていた。どういう訳か、互いにけん制し合うような、そんなちぐはぐな会話だった。

『東から、それとも西から?』

彼女の言葉に、一瞬、何のことだか戸惑っていた僕は、じっと彼女の顔を見ていた。

『わたしの顔に、なにか付いてるの?。弟くん』

『いやっ!、そうじゃなくて―――』

『どうやら東からのお客様のようね。この街って観光客が多いでしょ、なんだかゴミゴミしてて好きじゃないんだ、わたし』

『へえ、東からって判るんだ―――、おたく』

兄が彼女の隣へ歩幅を合わせて寄って行った。

『お兄ちゃんは、高校生かな?』

『ああっ』

『じゃあ、背伸びしたい年頃ってわけだ―――』

兄の気性を即座に判断した彼女は、“クスッ”と小刻みに笑った。

『子供扱いしてんじゃねえよっ!』

そう言うと兄は、彼女との距離を少しだけ開けた。

『今夜、どこに宿とってるの?』

『ああ、まだ決めてない。駅のベンチには予約済みだけどさ』

『駅のベンチ?。ふふっ、面白いこと言うのね―――。まるで冒険旅行みたいね、羨ましいわ』

“冒険旅行―――”って、まるでさっきのアラジンの絵梨さんみたいなことを言う不思議な女性だった。

でも彼女の語尾の上げ方は、絵梨さんのそれを彷彿させていた。

いや、鎌倉の女性特有の喋り方なのだろう。と、この時の僕は敢えて詮索を止めた。

『もうすぐ着くけど、お店は7時からよ。いいの?』

『今、何時だっけ?』

『5時過ぎよ、どうするのお兄ちゃん?』

『どうするって、待つしかないだろ?』

そんな会話を続けながら、路地を一歩進んだ奥手に“キャッツ”の看板が見えた。

『あんたたちの目的ってわたし知らないから、ここでいいでしょ?。それじゃあ、行くわね』

『ああ、ありがとう。助かったよ』

『弟くん頑張ってね。お兄ちゃんって案外、頼りになんないかもよ』

そう言うと彼女は、更に奥へと歩いて行った。

『ちっ!、お喋り女だなあ』

彼女の残した言葉の中には、もしかすると僕たちの訳ありの家出を察知しているかのような、そんな雰囲気がしていた。しかもキャッツを知っているとなると、彼女にしても僕たちの行動が気になるはずだろう。

それにしても、他人に依存しない性分なのだろうか、彼女は何も訊かずにさっさと行ってしまった。

『7時かあ―――。飯を食うには、腹ぱんぱんだしなあ』

『ねえ、お兄ちゃん観光しない?。折角だからさ』

『そうだな、時間潰しにはもって来いかあ。気が利くじゃないか、おまえ!』

普通はそうするだろうけど・・・。そんな兄にはやはり社交性なんて皆無だった。長く生活をともにしていたはずだが、今、改めて兄の特質を垣間見た気がした。

『結構大きい街じゃんか―――。なあ』

『そうだよね』

高を括っていた僕たちに、鎌倉大船という街がやけに大きく迫って見えていた。熊谷の隅っこで暮らしていた僕たち兄弟にとっては、カルチャー・ショックとも言える、そんな冒険旅行でもあった。

『なあ、見てみろよ高志っ!。色っぽいお姉ちゃんたちがいっぱいだぞ』

『繁華街だもん、夜のお勤めがあるんじゃない?』

『へ――、おまえやけに詳しいな?。ひょっとして、助べえな本なんて読んでんじゃないのか?』

『そ、そんなことくらい想像出来るだろ?、お兄ちゃん!』

『そうか?、おれは極道もの専門だからな。もっぱら女になんて興味なんてないしな』

『そうなんだ、それにしてもやたらと喰い下がってたじゃないお兄ちゃん。絵梨さんといい、さっきの人といい』

『ば、馬っ鹿野郎―――っ!。男としてだなあ――、舐められたくないんだよお、おれわあっ!』

そういえば、兄と今までこんな話なんてしたことがなかった。兄弟であってもこんな男子的な話題で盛り上がることなんて決してなかったからだ。

『お母さん、心配してるだろうね・・・』

ふいに母のことが気になった。書き置きはして来たものの昨日から何の連絡もしていなかったから、相当心配しているだろう。

『ああ、おまえのことに限ってはな』

『なんで?。なんでそんな風に言うの?、お兄ちゃん』

『どうせおれなんてさ、邪魔者扱いに決まってる―――』

母親の期待を裏切ったことへの罪悪感からか、兄は進んで墓穴を掘っっていた。

『そんなこと言わないでよ・・・誰も邪魔だなんて思ってないよ』

『判ってんだよ。皆、おれのこと煙たがってるからな。そうに決まってるさ』

『だって、それはお兄ちゃんが悪いんだろ!。自分から敵を作ってさ、好まれる人間から外れようとしてるから―――』

『好まれる―――?。他人に媚びろって言うのか、高志は』

『そうじゃなくて、仲良くやっていけばいいじゃないか!。好きな仲間と好きなこと語り合って、楽しくすごせばいいんだよ。―――違う?』

『理想論かあ?。そう出来る奴とそうでない奴がいるんだ。実際、いるんだよ』

自分のことを顧みて言っているのか、その言葉にはまるで兄自身の歯がゆさが伝わってくるようだった。

『心配だったら電話しろよ。おまえの声は聴きたいだろうからな・・・』

卑屈になっている兄は、それでも僕のことを案じてか、遠回しで了承してくれた。

『電話していいの?、お兄ちゃん!』

『好きにすればいいだろ』

『うん!、そうする!』

公衆電話を探し始めた僕は、途端に嬉しくなった。それもそうだ、僕の言うことに兄が従うことなんて今までに無かったからだ。

『お金ちょうだいっ!』

ポケットから一枚の10円玉を掴むと、顔を背けながら兄は僕の手に収めた。

『もうすぐ帰るって言っとけよ!。あの人は鎌倉には居なかった。まったく人違いだったってなあ』

『いいの?、それで・・・』

『いいもくそもないぜ―――、母さんもそれで安心するさ。それ以上は喋んなよ、いいな!』

“それで安心する―――”?。その意味が僕にはすぐにピンとこなかった。

おそらく兄は母に対して後悔の念があったのだろう。、今まで理由も無く母に反発してきたこと、そして黙って家を飛び出してしまった今回のこと。

父親が居ないことで肩身の狭い思いをしてきた僕たち以上に、母は辛い日常を強いられていた。そのことには触れないにしても、兄には充分理解出来ていたはずだ。

だから、少しでも母の不安を払拭させたいとの思いが、僅かばかりの言葉に集約されていたのだった。

僕はそんな兄の配慮にも気付けるはずもなく、とにかく電話器に急ぎたかった。

母に家出の事実を詫びたかったというのが正直なところだった。

『うん、判った―――』

角のタバコ屋に設置されていた赤い電話器に、飛び付くように僕は走った。


“ガチャ―――ッ”、受話器を取り上げるとすぐさま、10円玉を滑るように入れ込んだ。

“ジ――コ、ジ―――コ、ジ――コ―――”、そして慎重にダイヤルを回した。

公衆電話なんて母が使っているのを見たくらいなもんだ。なんとなく要領は判ってはいるけど、本当に相手の声が出るまでは気がきではなかった。しかし―――。

“プ――プ――プ――ッ―――”幾ら待っても呼び出し音がしない。

『お兄ちゃん!、かかんないよっ!』

『ああん?、なにやってんだよおおまえ。番号、間違いないのか?』

『うん、ちゃんとここに書いてあるもん・・・』

母親から渡されていた緊急用の連絡番号を、僕はいつも首からぶら下げていた。

『よこせよ、おれがかけるよ』

今度は兄の指先が、慎重にゆっくりとダイヤルを回していた。

“プ――プ――プ――プ――プ――ッ”やはり、幾ら待っても呼び出し音には至らなかった。

『間違い無いよな・・・』

その事実を確認した兄は、それでも引き下がろうとしなかった。

『あのさ―――っ!。表の電話故障してるみたいなんだけどさ、何とかなんないのかよ――っ!』

タバコ屋のこじんまりとした小窓に首を突っ込み、兄は当然のことのように苦情を申し入れた。

“――――――”

しかし残念ながらそこには、住人の気配は見当たらなかった。

『ちっ―――、なあっ、誰も居ないのかよお―――っ?』

催促するように兄は、更に苛立った声でケチをつけていた。

『―――はいはい、何をお求めで?』

すると兄の大声にようやく反応するように、物静かな家屋の奥まった方からいそいそと顔を見せたのは、白髪に染まった老婆だった。

しかも大きく背中を丸めながら、やっとの勢いで僕たちの前に辿り着いた。

『あのね、この電話機壊れてんだけどさあ!』

『はて、どう言うことでしょうねえ』

『―――、どう言うことって、あのさ、話が出来ないんだよ!。ねえ、聴こえてるおばあちゃんっ―――?!』

『ああ、そうなの?。そりゃあ、お気の毒にねえ』

ふんわりと笑顔を見せながら、目の前の事態に少しも遠慮のない店主だった。

『あのねえ、かかんないんだよ!。10円入れても通じないんだよっ!、判ったあ?』

『あれまあ、昨日までは何ともなかったのにねえ』

『今だよ、たった今のことっ!。こいつが10円入れたの、そしてダイヤルしたんだ。普通呼び出しするよね、おばあちゃん?。けどさ、この機械は駄目なんだよ。まるで使いもんになんないんだからさっ!』

『あれま・・・。それはお気の毒にねえ』

そう言って深々と頭を下げる老婆に、僕たち二人はそれ以上は言葉を控えてしまった。

『どちらへ電話しようとしてるの、あなたたち?』

『家だよ、どうしても母さんに伝えたいことがあるんだ』

『お急ぎなのかしら?』

『急ぎでなきゃ電話なんて使うわけがないだろ!。ねえ、おばあちゃんなんとかなんねえのかなっ!』

『そうだねえ・・・。ところで、電話番号に間違いはないのかねえ』

『ここに書いてあるよ!、ほらっ、ここっ!』

僕の首から吊下がっていた電話場号入りの巾着袋を、兄は強引に引っ張りあげてから、その老婆の目の前に置いた。

『これは鎌倉の番号かい?』

『違うよ!。熊谷だよ埼玉の』

『おや、埼玉なのかい?。あらあら懐かしいねえ―――。あたしはね、上尾の生まれなんだよ。嫁ぎ先がなんだかこの町になってしまってねえ。もう50年も前のことになるんだけどさ。本当に懐かしいねえ―――』

『おばあちゃんね、懐かしいのは判るんだけどさ、一体どうすればいいんだよおれ達さ』

半ばあきれ果てたように、兄は解決の糸口を模索していた。

『はいはい、さっきの10円玉貸してちょうだいな』

『ああ、こいつが持ってる』

兄は僕の握っていた10円玉をむしり取ると、素早くその老婆に差出した。

『市外はね、このままでは駄目だからねえ』

ぼやくようにそう言ってから10円玉を投入口に流し込むと、老婆はダイヤルに指をあて大きく手首を回した。

『だから、それじゃ駄目なんだってえっ!』

兄が堪らず老婆の耳元へと大きく声を送った。それでもその老婆は懲りずにダイヤルに指を差し込んだままだった。

三回もダイヤルを回しただろうか、送受話器をしっかりと耳に当て何かを待つようにじっと赤い電話器を見つめていた。

『―――ああっ、埼玉の熊谷だけどねお願いできるかしら。はい・・・、そうです。―――いいですよ待ちますから。はい、どうぞよろしくね』

それは、電話交換手を介した、市外通話発信のやり取りだった。

『番号はね―――413です。はい、お願いね』

そう伝えてそっと送受話器を戻した老婆は、にっこりと僕たちを眺めた。

『折り返しの連絡があるのよ。もうしばらく辛抱出来るものかねえ、お兄ちゃん?』

まるで兄を宥めるかのように、老婆は引き続き愛想を保っていた。

『市外って・・・、何なの?』

それまでの老婆の仕草にきょとんとしていた僕は、率直にそう訊いた。

『そうよねえ、そうそうかけるもんじゃないわよね、市外なんてね』

当時の電話発信の仕組みはというと、電話交換手を介しての手間が当たり前だった。そのことを知らない僕たちにとってみれば、まったくもって迷惑千万に値するものだった。

『―――でっ、いつまで待てばいいんだよ!。おばあちゃん!』

『そうだねえ、もう5分ってとこかねえ・・・』

『5分かあ―――っ』

ここに来て急ぐ宛てもないはずの兄は、何故か少しイラついている様子だった。

『おや?、もしかして家のことが気になるんだね、お兄ちゃんは』

『そんなんじゃねえよっ!。―――いやっ、おれは別にいいんだけどさ・・・、弟がさ、どうしてもって聞かないもんだから、つい―――』

やはり母のことが気掛かりだったようで、素直になれない兄はその気持ちを僕へとすり替えていた。

『そう、優しいんだねお兄ちゃんは』

『・・・・・・・』

『二人だけで来たようだね?。鎌倉へは初めてかい?』

兄の様子を和らげるように、老婆は当たり障りのない質問を投げかけた。

『ああ、そうだけど』

『いい町でしょ。少し他所の人の出入りが多いようだけどねえ。仕方ないのよ、この町の役目だろうからさ』

老婆の語ったこの町の役目とは、全国に名を馳せる観光地としての受け入れ体勢を皮肉っているのだろうか、それとも歴史ある文化を背負うべく、責務を感じての言葉だったのだろうか。この時の僕には、ただ目の前にいる老婆の独り言として気に留めることも無かった。

『おばあちゃん、このお店ひとりで留守番してるの?』

他愛のない質問で、僕が応酬した。

『息子夫婦は勤めに出てるのよ。どうやらこの店には興味がないみたいね』

『興味っ―――て?』

『儲からない割に何かと忙しいのよお。それに商店街の付き合いってものもあってね、最近の若い人たちには億劫みたいだわね』

『だって、こんな街中にあったらお客さん大勢来るんじゃないの?。ほら、あそこにも沢山人だかりがあるしさ』

『個人商店はね、どこもきびしいの。特に最近はねえ大きなスーパーマーケットが人気なのよね・・・。あそこは価格だって安くなってるし、品数だって相当なものよ』

老婆の言う通り、この頃から百貨店に次いでスーパーマーケットの進出も中央都市から徐々に地方に波及を始めていたからだ。

『おじいちゃんの遺したこの店を守ることで手一杯よ。あたしにはねえ』

『そうなの。おばあちゃん大変だね』

『そう言って慰めてもらうと、とっても嬉しいものね。ありがとう』

老婆がまた深々と、頭を下げていた。

『ところで、連絡は?、もう5分は経ったんじゃないのか!』

さっきからのイラつきを抑えられない兄は電話のことばかり気にかけていた。


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