ありがとう―――”キャッツ”
父を追って鎌倉へと進んだ冒険旅行の成す意味とは、これから先の僕たち兄弟の道程に必ず糧となることだろう。
―――今はただ、それを信じたいばかりだった。
『世話になったね、ありがとう』
『いいえ、わたしこそあなたたちに感謝しなければね』
彼女はそう言うと、僕たちに向けて深々と頭を下げた。
『悪いけど、親父の最期を任せていいかな?』
『はい、それがわたし達の使命でもあるから―――』
凛と背筋を伸ばして彼女が、誇らしげに最高の笑顔を披露してくれた。
『―――ありがとうよ、“天使さん”!』
別れ際に兄が、敬愛を込めて彼女に挨拶を終えた。
―――さようならお父さん。そして、ありがとう―――
僕は心の中で何度もそう呟いていた。
己の身勝手さ故に、家族を捨てて歌の道を目指して故郷を出て行った父親。残された妻と子供に抱かれた思いは、実に、半端な憎悪とは言い難いものだった。
幼い頃から父親の愛情は無きものとして生活を送ってきた兄の父への反発は、余程のものだったはずだ。
しかし今、その父親に向けられた思いはというと、最高の愛情に変化していた。
父の、そして小森靖志の生き様は、僕たち兄弟の誇れる人間像でもあったのだった。
―――『小夜子さん、お世話になりました』
父の人生に於いて、簡単に忘れてはいけない人が居た。それは、小夜子さんだった。
『はい?、何のことでしょうねえ』
『10年前のこの時期に、小夜子さんに助けられた男が居ました』
『へえ、この私にかい・・・?』
『その男は鎌倉の地に永住を構えました。そして、とても幸せな人生を選択したんだ』
『そんな大そうなことは、した記憶なんてないですよお』
『ううん、小夜子さんの生き様が、きっとその男の心に響いたんじゃないのかな?』
『人様に自慢出来ることなんてありはしません。只ただ、必死に生きて来ただけですよ私はねえ』
そう言うとタバコ屋の小夜子おばあちゃんは、にこりと満面の笑顔を僕たちにくれた。
『僕のお父さんが言ってました。鎌倉の大船に素敵な女性が居るって。その女性は激しい恋心を今も心に纏っているって』
『―――それはそれは、恐れ入りますねえ』
軽く会釈を済ませると、小夜子おばあちゃんはそそくさと店の奥に姿を隠して行った。気負いのない自然体のその姿こそ、父に与えた影響を感じるに値した僕たちだった。
“小夜子さん、いつまでもお元気で―――”
―――『おい、どうだったよ、親父さん元気だったかい?』
『ああ、さっぱりとしたもんさ。ちゃっかりと女までこさえてた』
『そうか、よかったじゃねえか。ところで、慰謝料はもらえたのか?』
『ああ―――、たっぷりとね・・・』
『へえ、そりゃあ来た甲斐があったってもんだ。なあ、あんちゃんよ』
『ああ、そうだな・・・』
『何だどうしたよ。昨日の元気は何処にいったんだ?』
『―――おっちゃん、ラジオ点けてもいいかな?』
『ああ、いいぜ』
おととい僕たちを鎌倉まで乗せてくれたダンプのおじさんは、その後のことが心配になっていたらしく、わざわざ鎌倉まで寄ってくれていたのだ。いや、心配ではなく興味本位が先行していたに違いなかった。だって僕たちを見つけるとすぐに、イヤラシイ笑顔で近づいて来たからだ。
ダンプに乗り込んだ兄は、ラジオのスイッチをひねってから、ぼんやりと車外に目をやった。
―――“チャラチャラッ―――ッチャラッ―――おお、ベイビー―――ッ―――”
ラジオから流れ出した曲は、皮肉にもあのジョー片桐の歌声だった。
『チャラチャラした流行歌がよお、最近やたら多いんだよな。俺たちには耳障りなんだよなあ』
『へっ―――。苦労を知らないからな、奴はね・・・』
『んんっ、なんだって?』
『いや―――、何でもない独り言さ』
『そういえば、お前の名前訊いてなかったよなあ。何て言うんだ?』
『小森強志っていうんだ。強い志って書く』
『強志かあ、いい名前だな』
『そうだろ、なんたって―――親父が付けてくれたんだからな』
それは感慨深そうに、兄は目頭を手で覆いながら再び車外に目をやった。
見れば夕陽は更に西に傾こうとしていた。
僕たち兄弟の家出は、父の軌跡を追った冒険旅行は、ようやく終わりを告げようとしていた。
―――『ビールお代わりね!。カウンターさん二丁!』
『はいよっ!。すぐ行くからねえ!』
『鳥皮、追加出来るかなあ?、大将』
『ごめんよ!、もう5分待てってくれるかい?』
―――“ガラガラッ!”
『へいっ!、いらっしゃーい!!』
『強志くん、こんばんは』
『おおっ、孝子さん!。どうした、今夜はえらく早いじゃねえかっ!』
『なんだかさ、無性にあんたの顔が見たくなったのよねえ・・・』
『相変わらず嬉しいこと言ってくれるよねえ!、さあ、とっとと座んなよ』
『あのさ・・・強志』
『何もたついてんだよ、そこに座んなって!』
『あのね・・・。もう、キャッツ閉めようかな・・・ってさ』
『ああん?、どうしてだよ?』
『やっていく自信なくなってきたのよ―――、最近さ』
『何言ってんだよ。そんなことしたら常連さんたち、怒るぜえ!』
『だってさあ、ここんとこいつも暇なんだもの・・・。いいわね、ここだけ繁盛しててさ。ねえ、恵ちゃん?』
『そう思うでしょ?。繁盛はいいんだけどさ、価格見直した方がいいのよ。薄利多売も、いい加減うんざりなのよ、孝子さん』
『へえ、そうなの?。ねえ、聞いてるう――強志い。あなた、恵ちゃんのことも考えてあげてよね!』
『ああん―――?、おまえまた孝子さんに愚痴言ってんのかあ?。へえ―――、やっぱりそうなんだな。いいか、ここが嫌なんだったらよお、とっとと郷里に帰ってもいいんだぜえっ!』
『―――あのね。残念ながら、ここがわたしの生まれ故郷なんですっ!』
『そうよ強志!。帰るんだったら、あんたの方かもよ!』
『ああっ、そうか―――。へへへっ、そうでございましたねえ』
『大将っ!。鶏皮まだあ?』
『あっと、ごめんよお―――。はいはい今すぐねえっ!』
兄はと言うと、強引に恵さんを嫁に迎え入れてから、ついに鎌倉に永住を決め込んでいた。
念願の焼き鳥屋を開業し、孝子さんの監視の下、“夫婦鳥”は、毎晩多くの客で賑わっていた。
『孝子さん、皮のいいのが入ってんだけどさ。それでいいかよ?』
『ええ、あんたに任せるから』
『はいよっ!』
『でも、繁盛してるわよね強志さあ。羨ましいくらい』
『ああっ、お陰さんで何とかやってるよ。あんがとよ孝子さん』
『恵ちゃんのお陰よねえ。ねえ強志、そこんとこ感謝しなきゃね』
『はいはい、承知いたしましたってねえ―――っ』
相変わらず調子のいい兄は、持ち前の人懐っこさで客の受けも上々のようだった。
『ねえ―――っ、鶏皮まだなの大将―――っ!』
『ちょい待ってくれよお。身体はひとつしかないんだぜ、そこんとこ――――――』
―――“グラスの底に―――沈んでーいるのはあ―――、清らなかあ――色の――ワイン――ー、そして――止まない―――わたしの――心配癖え――――――”
『んんっ―――?、夢浪漫じゃねえかよ、この歌って』
店内の有線放送から流れ出した曲は、偶然にも―――あの“夢浪漫”だった。
―――“飲み干そうと――口元にー運ぶけど――、すでにー思いーい、くちびる――。
空にならなー―いグラス――、そっと片付けられて――え――。溜まったわたしの――お、沈痛と――いえば――、愉快に傾く――う、嘲笑に――消えた――あ。
記憶の――おー隅でえ――、揺らぐもの――お、切ったはずの――命の緒があ――あ、心から――離せ――なーい、刹那――あーちぎれない――い、あなーたから――あ、外れた――はずのお――ー、それは――あー、未練んーーなのでしょうか――あ、それは――あー、幻想――なのでしょうかあ―――――――――“
『へへっ、高志のやつ―――、相変わらず下手くそな歌うたいやがってさ。まったく、聴いてらんねえよ―――』
『高志くんさ、頑張ってるのね』
『そりゃそうだろうよ。なんせ親父の形見だもんな―――この歌』
『息子としては感慨深いだろうけどさ、兄貴の立場とするとどうなのよ、実際っ!』
『う、ううん―――。ど、どうって言われてもさ・・・』
『どうやら高志くんに持っていかれたようね、あの人のいいところをさ』
『ち―――っ!、それを言うなってよおっ!』
あの頃の兄にとってみれば、運命なんて不確定な言葉には見向きもしないはずだった。いいや、それ以上に虫唾が走るほど最悪な二文字だった。
けれどあの日―――。キャッツの孝子さんに出会ったあの時から、兄の運命は転換を始めていたのだ。
それは長い年月の末に兄の抱いていた父への憎悪は、孝子さんの幾つもの言葉によって次第に剥がれ落ちていく。そして聴かされた父の生き様に心を揺さぶられ、ついには父の生涯に共感するまでに至るのだ。
そんな父の遺した偉大なる歌を弟に取られたなんて、兄には口が裂けたとしても言い難いに違いなかった。
―――あの日、
僕たちが面会に訪れた翌日にも、父はやはり白い車椅子に腰を降ろして大好きな小学校の校庭を眺めていたらしい。
心地よい風に包まれた小高い丘の上で、子供たちの無邪気な声々に囲まれながら、ゆっくりと静かに、父は―――息を止めた。あれほど無表情だった父の口元には、今にも歌い出しそうな気配さえあったとも聴いた。
あの時の白衣の天使の彼女から、“奥さん”である孝子さんへと連絡があったようで、涙に枯れたはずの孝子さんのその声は、受話器越しに清々しく聴き取れていた。その訃報を受けた母も、負けず堂々と父の最期を受け止めていたのだった。
それでも悔しそうに母は、“最期に文句くらい言いたかったわね、あの人に―――”と、終始、強がっていた。
あっさりと台所に身を隠した母は、しばらくは僕たちの前には姿を見せずに、まな板に悔しさをぶつけていた。
そして、その後の僕はというと、クイーン・レコードのあの安田さんの手によって、歌手デビューを果たすことに至ったのだ。実を言うと、あの緒方健一の強引な後押しも手伝って、念願の父の形見の“夢浪漫”を歌えることが叶ったのだ。
とは言っても、父の夢の続きを引き受けることは決して並大抵なことではなかった。
それというのもトウチクの秋山さんを筆頭に、今だ健在の小幡のじいさん率いるコランビア社からの圧力も相当なものだった。終いには夢浪漫の産みの親である服部先生も加わっての壮絶なる争奪戦が繰り広げられる始末だった。
けれど、その重圧を乗り越えさせてくれたのは、唯一、小森靖志の血を受け継いだ息子だという事実だけだった。その事実さえあれば僕は何にでも挑戦出来るんだと信じ切っている。少々、単純な発想だとしてもね―――。
『それにしてもさ、絵梨ちゃんとは上手くやってるのかしら?、高志くん』
『ああ、絵梨の奴、高志の付き人やってるんだってよ。それが結構やり手らしいぜ』
『そうなの恵ちゃん―――?』
『籍はまだ入れてないみたいよ。なんでも高志くんが成功するまでわって、どうしてあの娘、したたかだものね』
そう―――、僕と絵梨さんとは懇意な仲に収まっていたのだった。あの頃と変わらず絵梨さんの胸元は大きく開かれたままだった。業界関係者の間でもそれが話題に上がるほど、彼女のシンボルとして注目されていた。けれどそれは、僕にとっては悩みの種でもあったのだ。何故ならば、僕の歌の実力で集まるよりも遥かに、彼女の魅力に集る関係者の多さに舌を巻くほどだったからだ。
以上、僕の近況はこんなところで勘弁してはもらえないだろうか―――。
一方、孝子さんの分身ともいえる“キャッツ”は、来年早々、店を空け渡すことになったらしい。
亡き父の思い出が詰まった場所。そして、その父を追った僕たち兄弟の冒険旅行は、ここ、“キャッツ”の記憶と共に封印されてしまいそうな、そんな気がした。
纏まりの無い、ただ感情移入に頼っただけの僕たちの思い出の冒険旅行。
短い間の滞在だったけれど、充分過ぎるほど思い出の詰まったナイト・バー・キャッツは、僕たち兄弟の、いいや、僕たち親子の数奇の運命を背負ってくれていたのだと、つくづくそう思わずにはいられなかった。
ありがとう―――さようなら。
僕たちの“キャッツ―――”。
家出 完




