父と―—―”夢浪漫”
孝子さんから聴かされた父の波乱の人生を、兄はここにきて憎むことすら出来ないでいたのだ。あれほど抱いていた父への憎悪はいったい何処へ?、そしてそれは何故なのだろうか―――?
小森靖志という人間は、余りにも正直すぎる無骨な男だった。けれど半端を由としない人間性には、兄も敬服するところがあったようだ。
『親父ってさ、てめえの夢の実現のために家族を捨ててこの町に逃亡したって訳さ。まるでアメリカ映画の悪しき象徴だよな、実際』
『ええっ、本当に家族を捨てたの―――小森さんっ?』
彼女の確信は、ついにこの場で定着された。
『その息子が証人ってさ、これ以上確かなものはないだろうぜ?』
『う、うん―――。それは正論だわ』
『案内してもらっていいよな?』
『はい、もちろんですとも』
彼女の快諾を得て二人は病室を出た。そしてついに父との再会が約束されたのだ。
『ご兄弟はいるの、あなた?』
『ああ、弟がいるよ』
『その弟さんは一緒じゃないの?』
『ああ、一緒に来たんだけどさ、訳あって受付んとこで待たせてる』
『呼んだらどうなの?、弟さんもお父さんに会いたいでしょうに』
『最初はさ、おれが様子を見るって決めてたんだ。いきなりなんてあいつには荷が重過ぎるってことさ』
勝手に兄は、僕のことをひ弱い子供だと決め付けていた。そうなると断然意欲が湧いてくるというものだ。兄との年齢はたった3つしか変わらないもの。
『お兄ちゃんの配慮なの?、それとも勝手な思い込みかしら』
『あいつはまだ中学生なんだぜ、辛い現実には堪えられないだろう―――実際』
『まあ、中学生だって立派な自立心を持ってるわよ。あなたが考えているより随分大人かも知れないわ』
『へえ、そんなもんかねえ―――』
『それに―――今のうちに会ってたほうが賢明だとおもうわ。そう長くは―――ないみたいだしね』
『―――やっぱり、そうなんだな』
孝子さんから聴かされた時点で、父の病状の深刻さは明白であった。それは兄にも解っていたはずだった。父に会えたとしても、その時間には制限があるということを。
『肺ガンてね、手の施しようがないの。しかも小森さんまだ若いから』
若き父の身体を蝕むガン細胞は、その進行を早めるばかりであった。
『―――タバコは止めたほうがよさそうだ』
『そのほうが賢明だわね』
『ちょっと待っててくれよな。可愛い弟を呼んでくるわ』
神妙な面持ちを見せる兄は、とても大人びた雰囲気で薄暗い廊下を遡って来た。
父の最期を看取るために、兄の覚悟も絶頂に達していた。さっぱりとした兄の目線は、迷いなど見せることなく僕の元へと真っ直ぐに向かっていた
『お兄ちゃん、どうだった?』
『高志、おまえも一緒だ。裏庭に居るんだってさ、親父』
『僕も行っていいの?』
『馬鹿野郎っ―――!。おまえが居なくてどうする。おれ達の親父だろうがっ!』
『う、うん―――っ』
僕の肩をしっかりと支えながら兄は逞しく進んで行った。彼女はというと、気を利かせて裏庭に通じる扉を大きく開いて待ってくれていた。
『ほら見えるでしょ。あれがあなたたちのお父さんよ』
彼女の指しだす右手の先には、白い車椅子に腰掛けた男性の後姿があった。なで肩でしょんぼりと丸まった背中は憂いを浮かばせていた。
そして眼下に拡がる小学校の校庭は、大勢の子供たちのはしゃぎ声で爛漫さを引き立てていた。
『高志、ここで待ってろ』
僕の肩を“ぽん―――”っと軽く叩いて、兄は父の背中に向けて歩き出した。ゆっくりと大きな歩幅は、確実に父親への元へと吸い込まれて行くようだった。
『あなたのお兄さんて、とても素敵ね』
『でしょ―――。なんたって、僕の自慢のお兄ちゃんだからね』
そんな彼女の一言につい甘えてしまっていたのだろうか。いつかしら、兄のことを尊敬している僕が居た。あれほど嫌悪感を抱いていたはずの兄の奔放さが、何故かしら父の面影をかすめるように愛おしく思えたほどだった。
『そう―――羨ましいわね、ホント』
父の病状を差し引いたにしても、彼女の感心は少なからず僕たちの兄弟愛に移行していたようだ。
『ねえ、正直に言ってもらいたいんだけど―――』
『えっ、正直にって?』
『僕たちのお父さんて・・・、良い人だったのかな?』
まるで父を疑うかのように、僕は正直に口を開いていた。
鎌倉のこの地で散々聴かされた父の履歴。でもそれは、他人の仕立てた御伽噺のようにさえ感じていたからだった。
父の真実をどうしても、僕は知り得る必要があったのだ。
『ええ、とても紳士的に接してくれてたわよ。少しやんちゃな面もあったけどさ。それに羨ましいくらい楽天的な人だったわ。それと―――、とても歌が上手だったわね。まるで本業の歌手のような華やかさを見せていたわ』
『歌ってたのっ?、お父さん―――っ!』
『そんなのしょっちゅうよ。あの人ね、朝だろうが晩だろうが思い立ったらおかまいなしなの。皆の迷惑なんて考えもしないで好きな歌に興じていたわ。しかも、お父さんの歌ったらね、ここの患者さんたちにすごく注目を浴びていたわよ』
『どんな歌、歌ってたのお父さん?』
『そうね、色んな歌を披露してくれてたけど、わたしのお気に入りだった歌わね―――、えっと―――そうそう、何とか浪漫っていう歌だったかしら?。とても優しくてすっごく憂いを含んだ印象的な曲調だったわ』
彼女の勧める父の歌とは、勿論、小森靖志の持ち歌だった“夢浪漫”に違いなかった。
若き日の父の人生を賭した夢浪漫という現実は、遠く熊谷を経てここ鎌倉の地に、ようやく咲き乱れていたのだ。
―――そしてついに、ついにその夢は、ここに枯れ果てようとしているのだった。
『そんなの夢浪漫に決まっているよ―――っ。そうでしょっ!』
急にぶっきら棒に声を荒げる僕がそこに居た。彼女の態度になんら不満なんてあるはずもないのに、どうしてだろうか僕は不機嫌さを晒していた。
孝子さんから引き継がれた父の驚きの履歴。波乱にとんだ小森靖志という歌い手の人生の中にあって、父の歌の後押しをしてくれていた人たちには、僕自身、感謝さえ惜しまないでいた。けれど、父の末路を知らされた今となっては、そんな自意識など無意味に思えたのだ。ただただ無性に、どうしようもなく、どうにも腹立たしく思えてきたのだった。
生き続けて欲しい。そして、僕の名前を呼んで欲しいんだ。お父さん、あなたの名付けた僕の名前には―――
『そ、そうだと思うけど―――、どうしたの急に?』
そんな僕のとっさの不機嫌を察知したのだろうか、彼女は怪訝そうに僕の顔を覗きこんでいた。
『あっ、ごめんなさい―――っ!。お姉さんが悪いわけじゃないのにね・・・。ごめんなさい』
『いいのよ。けど、お父さんのことよく知っているのね。えっと―――?』
『高志っていうんだ。高い志って書くんだよ。お父さんがね、寝ずにやっと考えて付けてくれたんだってっ!』
『へえ、そうなんだ』
『僕の大切なお父さんだもの。知らないなんておかしいでしょ?』
『―――そうね、その通りだと思うわ、わたしもね』
兄の強烈な先制打に気おくれを許したのだろうか、白衣の彼女が迎えてくれた僕への配慮は、まったく自然な成り行きを揃えてくれていた。
『良い天気だよな―――実際』
背中を向けたままの父の傍に寄ると、兄はあまりに簡単に言葉を投げた。
『・・・・・・』
そんな兄の言葉をまったく無視するかのように、父は相変わらず校庭の様子を凝視するばかりだった。
『子供って無邪気でいいよな。おれもあの頃に戻りたいってもんさ』
『・・・・・・』
いよいよ父の真後ろに立った兄は、車椅子のハンドルに手を掛けた。それはまるで介護人のように自然に馴染んで見えていた。
『ねえ―――、お父さんどうして喋らないのかなあ?』
『―――喋れないのよ。記憶だって確かじゃないわ。全身がガン細胞に侵されてしまってるの、もう体力の限界だわ。立つことさえままならない状態なのよ』
『ええっ!、じゃあ、僕たちのことも覚えてないのっ―――!』
『おそらくそうかもね。残念だけど』
『そ、そんなあ―――っ!』
すごくショックだった。やっと父親に会えた喜びが、ここにきてすう――と引いたような思いだった。
『先日ね、小森さんの奥さんが見舞いに来たんだけど、やっぱりあのままだったわ。じっと校庭に目をやったまま、身動きひとつしなかったの』
『えっ、来たの―――孝子さんっ?』
『孝子さんっていうんだ、奥さん』
『う、うんっ―――』
彼女の問い掛けに僕は少々戸惑っていた。奥さんなんて呼び方が、果たして孝子さんにとって自然なことなのだろうか?。ふと、そう考えてしまった。
『そう―――。複雑なのね、きっと』
僕の返答に合わせて多くを語らない彼女にしても、僕たちの面会には複雑な心境だったはずだ。家出した父親を追いかけてやって来た息子二人を待っていたのは、すでに死の淵をさ迷うしかない父親の姿だった。そこに再会の喜びなんてあろうはずもなく、惨い現実しか残されていなかったからだ。
『こんなところで言い憎いんだけどさ、慰謝料を請求しに来たんだよ。なあ―――、どうにかなんないかなあ?』
『・・・・・・』
『へっ、そんなもん請求しても無駄ってかあ―――?。でもよ、帰りの電車賃くらいはあんだろ?。どうして熊谷までって結構かかるからなあ。それとさ、孝子さんに幾らかでも払っておきたいしな。そうそう、あの晩の寿司代も半端じゃなかったみたいだぜ、よく覚えてないんだけどさ、おれ―――』
―――“ぴくっ”
とその時、父の右手の指先がわずかに動いたように見えた。
『んん―――?。どうしたよ、あんたも寿司が好物なのか?』
それを茶化しながら、兄は父の耳元に顔を近づけた。その様はまさに父親を慕う子供のように自然に映っていた。
『まったく―――、どんだけ勝手をすれば気が済んだよ。なあ、孝子さんを幸せにするんじゃなかったのかよ―――あんた?』
『あっ・・・・・・』
掠れた小声が兄の耳元をかすめた瞬間だった。父は兄の言葉に確かに反応していた。
『なんだ・・・喋れるんだ・・・』
喉を詰まらせたように、兄は俯き加減に応えた。
それから暫く無言を構えていた兄は、つい小学校の喧騒に耳をやった。心配事を一掃するかのように楽しそうな子供たちの声々が、幾分、兄の冷静さを支えてくれていた。
『父親の居ない生活ってな、―――惨めなもんさ』
ぽつり兄が、父に向けて言った。
『家族を置いて出て行かねえだろう―――、普通よお。どんだけ身勝手なんだあ、あんたさあ』
まるで他人行儀に、薄笑いさえ浮かべる兄だった。
『お袋になんて報告すればいいんだよお、おれの身にもなってくれよなあ―――』
淡々と独り言のように父の耳元で悪態をつく兄は、それでも感慨深そうに父の横顔を眺めていた。
『―――緒方健一に会ってきたぜ。へへっ、奴も恵まれない境遇だったって訳だ。むやみに責められたもんでもねえや』
『・・・・・・』
『ちゃっかり歌で成功してんじゃんか、緒方の野郎さ。まったく、あんたとは雲泥の差だよな。ホント、情けなくなるぜ―――息子としてわさあ・・・』
父に投げ掛ける兄の話には、今回の冒険旅行を報告するかのようにも聴き取れていた。
時を超えた親子の会話は、少しだけ息子のほうが饒舌だったようだ。
『もう歌は辞めたのか?。あの頃の情熱は捨ててしまったのかよお―――?。なあ・・・、どうなんだよ・・・。なあ―――ぁっ!』
あくまでも無言の父に、兄の憤りはすでに空回りを繰り返していた。当初、あれほど憎むべきはずの父を前に、今、どうしようもなく愛おしさが増していくのだった。
『歌で成功を収めるんじゃなかったのかよお・・・。夢の続きを追ってたんじゃなかったのかよお・・・この・・・いん・・・ちき・・・野郎が―――っ』
そう呟きながら、父の肩に顔をうずめる兄の背中は、小刻みに震えているように見えた。
さっきまで悪態をついていた兄の素顔は、校庭ではしゃぐ子供たちのように純心そのものだった。父の両肩を抱擁する兄の大きな背中が、次第に小柄の男の子のそれに見えていた。そこには、父に甘える少年“強志―――”の姿が、確かにその場に居合わせていた。
『あ・・・うう・・・』
わずかに唇を震わせて、父はなにか言いたげだった。持ち上がらない手を弄ぶかのように、それでも徐々に兄の顔に触れようとしていた。
『お父さん動いてるよ―――、ほらっ!』
『ほんと、すごいわっ!』
『お、お父さん――――――っ』
抑揚を押し殺しながら、一歩一歩、僕は父の処に歩き始めていた。
『お父さん・・・』
孝子さんに聴かされた父の面影が、寸分も違わず僕の目の前に現れたのだ。反面、父との距離が近づくにつれ、どうしようもない緊張が押し迫っていた。
『お父さんだよね・・・』
今更のように僕は念を押していた。信じ難い父との再会に、込み上げる涙は瞼に溢れ止まっていた。
『おれのこと―――、覚えていないなんて駄目だからな・・・。なあ・・・分ってるよなあんたっ!。白々しい嘘なんてよお、つくんじゃねえよおっ―――!』
さっきから人形のように表情を固めた父の耳元で、繰り返し兄が叫び続けていた。
『いい加減にしろよおっ!。なあ、あんたの息子が来たんだぜ。わざわざここまで来たんだぜ。なあ―――っ、何とか言ったらどうなんだよ、親父い――――――っ!』
半ば泣き崩れるように、兄は父の両肩を必死に掴んでいた。孝子さんから散々戒められていた、“あんた”との呼び方も、ついに―――“親父”へと変わった瞬間だった。
―――“グラスの底に――沈んでーいるのはあ――、清らなかあ――色の――ワインー、そして止まない――わたしのー心配癖え―――――”
『ん、んん―――っ?』
“飲み干そうと――口元にー運ぶけど――、すでにー思いーい、くちびる――。
空にならなー―いグラス――、そっと片付けられて――え――。溜まったわたしの――お、沈痛と――いえば――、愉快に傾く――う、嘲笑に――消えた――あ。
記憶の――おー隅でえ――、揺らぐもの――お、切ったはずの――命の緒があ――あ、心から――離せ――なーい、刹那――あーちぎれない――い―――“
『ああ・・・あっ・・・!』
『お、親父っ―――!。た、高志っ、おまえ―――っ!?』
僕の口ずさむ歌―――“夢浪漫”に、父は激しく反応していた。その父の様子に驚いた兄はあっけに取られたように僕の方を見ていた。
記憶の――おー隅でえ――、揺らぐもの――お、切ったはずの――命の緒があ――あ、心から――離せ――なーい、刹那――あーちぎれない――い、あなーたから――あ、外れた――はずのお――ー、それは――あー、未練んーーなのでしょうか――あ、それは――あー、幻想――なのでしょうかあ―――――――――“
『うう・・・ああっ・・・あっ―――!』
『お、親父い――――――っ!』
全身に痙攣が走るかのように、父は身体を上下に揺すり始めた。それに驚いた兄は、父の身体ごと両腕で包み込んでいた。
兄の抱擁で落ち着きを戻したのか、やがて深く目を閉じた父の頬には、次第に大粒の涙がこぼれ落ちていた。
“夢浪漫―――”は、やはり父の分身そのものだった。あの日、家族を捨てて出て行った後悔も、常に歌を求めて止まない自身の人生の証も、すべてがこの歌の中に閉じ込められていたのだ。
単に後悔や憎しみなどという言葉を並べるのは容易い。言葉に出せない辛さを背負っているからこそ、余計、自分に正直に生きていこうとするのだろう。それは自分以外の他に、責任を求めるものなど無いと知っているからなのだ。
しかし―――、父の求めた行動は、悪行という以外には形容し難いものだった。
いったい、父の流す涙の訳は何処に求めればいいのだろう。僕たち兄弟の背負った憎しみに、単に結び付けていいものだろうか?。
それは答えを持たない。いや、答えなんて求めなくていいのかも知れない。
平々凡々と暮らすことが美徳とするのならば、敢えて僕はそれに否定を加えたい。どんな人生が待っていようとしても、生き抜く強さがある限り、夢を求める気概が褪せないのならば、その者の人生の価値を見出せると考えるからだ。
事実、悪行を背負ったままで生きてきた父。そんな許しがたい父の流した涙の訳を、今こそ僕は気付いたのかも知れない。
それは、後悔でも罪の意識でもない―――。いつか会えると信じていた、いつも心の支えと信じていた親愛なる息子たちへの、感謝の涙なのだ―――。




