恵さんと絵梨さんと—――、ついにお父さんと
『お邪魔しま―――す。ねえねえ孝子さんさあ―――』
『あら、恵ちゃん。丁度よかったわあ』
折り合いよく飛び込んで来たのは、やはり恵さんだった。
『丁度って―――、どういうこと?』
『ねえ恵―――、どうかしたの?』
続いて声を重ねていたのは、やはり絵梨さんのようだった。
勿論、この二人の訪問は、計画的であるはずもなかった。しかし渦中の恵さんの登場に合わせて、絵梨さんも一緒だったことは、既に想定内に思えていた。
『ねえねえ、強志くんて言ったけ。やるわよねあんたさ。あたしさ、とっても緊張してたのよ。一体どうなるのかってさ―――』
開口一番、恵さんは兄の功績を褒め称えていた。
『でもさあ、さっきの揉め事って何だったのかしら?』
早速、絵梨さんがアラジンでの経緯を訊いてきた。
『そうそう、お父さんの仇って―――、どういうことなのよ?』
それに続いて、恵さんも話を重ねた。
『―――う―――ん、説明しにくいよなあ、実際』
今更のことのように、兄は言葉を濁らせていた。
『も――う、もったいぶってないで説明しなさいよ強志くんっ!』
何故か恵さんが、やけに強引に兄に言い迫っていた。緒方との揉め事が、余程、気になったのだろうか。
『ど、どうしたのよ恵ちゃん―――っ、そんなにムキになってさあ』
孝子さんにしても、そんな恵さんの勢いに圧倒されていたようだ。
『ムキになるって―――っ、そ、そんなこと―――』
我に返ったように、恵さんが兄の顔から目を逸らした。
『そうよ、さっきから恵ってね強志くんの話ばかりするの。それってどうなのかなあ―――?』
すかさず絵梨さんが、恵さんの様子を誇張するように暴露した。
『な、なに言ってるのよ―――絵梨ったらっ!』
それに合わせて恵さんが、顔を紅らめていた。
『へえ、丁度いいんじゃないのお兄ちゃん。それって相思相愛ってことだろ?』
『ば、馬っ鹿野郎―――っ!。こんなとこでおまえ―――っ!!』
『ええっ?、まさかあなたたち―――』
さすがの絵梨さんも、そんな二人の態度に驚きを隠せないでいた。恵さんに至っては兄の顔を直視できずに、慌てて背中を向ける始末だった。
『な――んだ、そう言うことなのね。まったく隅に置けないわね、お二人さん』
ことを察してか、孝子さんが留めの一言に及んだ。
『ねっ、これでいいんでしょ?』
僕も手伝って、兄と恵さんの関係を祝福した。
『――――――っ!』
そこには兄の反撃は一切存在していなかった。動揺を隠せないでいたのだろうか、兄と恵さんは背をむけたままで、互いの気持ちを確かめ合っているようだった。
『は―――あ、不思議な廻り合わせって言うのね、あの時のあの人とのことも―――』
孝子さんがぽつり、当時の父との出会いを回想していたようだ。
男女の出会いの方程式なんて、僕にはこの際どうでもよかった。今の僕の言えることはただひとつ、孝子さんにとって父との出会いはその存在は、果たして仕合せに値したのだろうか―――?、それだけを問いたかったのだ。
『じゃあ行こうか、お兄ちゃんっ!』
『―――そうだな』
『孝子さん、本当にいいの?』
『ええ、ここで待ってる―――。だって待つしかないものね・・・』
簡単そうに聴こえたその言葉は、孝子さんの中でも高度の強がりだったんだと思う。
会いたいに決まってる―――。孝子さんと父の関係は、僕の考える以上の絆で結ばれていたからだ。
―――ごめんね孝子さん。
今まで発せられた孝子さんの言葉の数々は、確かに、父への愛情の積み重ねを物語っていた。
余計な詮索を繰り返す僕は、ただ均一の幸福論に甘えていただけだった。父親の居ない生活は確かに満足な幸せを与えてくれなかった。けれど、そんな父親を持ったからこそ、こうして僕たち兄弟の冒険旅行が成立したのだ。
幸せの定義なんて実に曖昧に語られている。だからこそ、僕の感じるものを優先したいとも思った。
僕の目の前の孝子さんは、充分に仕合せをつかんだと信じたい。父と孝子さんの偶然の出会いは勿論、過ごした日々は偽りのない充たされた時間だったはずだ。
『本当にいいの、孝子さん?』
『う、うん・・・』
それ以上、言葉を発しない孝子さんを、僕は抱擁したい気持ちでいっぱいだった。父に代わって感謝の言葉を贈りたいとも思った。
『ね、ねえっ、行くって―――何処になの?』
事の真相を知らずにいた恵さんが、きょとんと声をあげた。
『ああ、冒険旅行の仕上げだよな』
兄がすかさず目的を告げた。
『冒険旅行って―――、あんたたちっ、本当にそうだったの―――?』
当初、僕たち兄弟に向けて冒険旅行を仄めかした絵梨さんにしても、いささか驚いた様子だった。
『絵梨さん、中々、いかした見立てだったよ。僕にしたって、結構、冷や冷やものだったものね』
『た―――高志くんっ!』
『お父さんに会いに行くんだ。そして慰謝料を請求するんだよっ。だって―――、僕たちを捨てて出て行ったお父さんを許せるはずがないよっ―――!!』
冒険旅行の全貌を、僕は強く語った。
『そうだったの―――。それで・・・なのね』
絵梨さんが目を細めながら、僕の顔を覗きこんでいた。
『さあさ、行ってらっしゃい。あなたたちの気の済むように話をつけてくることね。強志、高志―――』
僕たちの目をしっかりと見据えた孝子さんは、迷いなくそう言った。女の強さを持った孝子さんに、僕は改めて敬服するのだった。
―――『高志―――おまえはここで待ってろ。おれが先に会ってくるから』
『だって、お兄ちゃん』
『いいから、待ってろって』
病院の受付で父との面会の段取りをつけた兄は、神妙な顔つきで僕を諭した。そんな兄にはどうしても父と一人っきりで会う理由があったようだ。
『さてとっ―――!』
意を決したように、それでも恐る恐る足を踏み出す兄だった。
『大丈夫っ、お兄ちゃん!?』
『大丈夫なもんかい―――。へへっ、ありがとうよ高志』
弱々しくそれでも苦笑いを浮かべながら、僕に向けて直立敬礼の仕草で応えてくれていた兄だった。
こんなにも不安そうな顔つきの兄なんて、今まで見せたことがあっただろうか。否、いつも自信満々で怖いもの知らずの粗悪な男のはずだった。そんな兄の姿を目の当たりにする僕は、弟としてではなく小森強志に係わる一人の人間として、背中を押したい衝動に駆られていた。
“前に進もうよ―――、小森強志”
そう心の中で叫んでいた。何度も何度もだ―――。
『そんな目で見るなって。んじゃ、行ってくるわ』
そう言って兄は、病院の長い廊下の真ん中をゆっくりと進み始めた。ぺたぺたとスリッパの底を鳴らしながら、確実に前に進路を取っていた。
『お兄ちゃん・・・』
―――この長く薄暗い廊下のずっと先には、兄の言ってた仇に値する憎むべき父が待っているのだった―――。
『確か―――、106号だったよな』
それらしき病室の前に立ち止まった兄は、両腕を組んだまましばらく辺りを窺うかのように仁王立ちしていた。
『―――うん、間違いない』
小さく記された表示版には、部屋番号のすぐ真下に“小森靖志”の文字が雑になぞられていた。
いよいよその扉の向こう側には、あの父の姿が待ち受けているのだ。
“コンコン―――ッ”
と兄が、薄っぺらい病室のドアを遠慮がちにノックした。
『あっ、は―――い』
するとドアの向こうから聴こえてきたのは、意外にも若そうな女性の声だった。
『ん、んんっ―――?』
父の声を想定していた兄には、一瞬、理解不能の出来事のようだった。
“ガチャリ―――ッ”
と、それでもドアは開かれた。
『あら―――、お見舞いなのかしら、あなた?』
『あっ、う、うん―――』
思いがけず出迎えをしてくれたのは、やはり間違いなく若き女性の姿だった。その女性の正体はというと、白衣を纏った看護婦だった。
『丁度さっきね、お庭に出たのよ。お父さん』
『お父さん―――って?』
不思議なことに、その女性は兄の顔を見るとすぐに、面会に立ち寄った息子だと断定していた。
『だって、お父さんなんでしょ―――、あなたの?』
『あっ、うん―――まあね』
『そっくりなんだもの、驚くほどにね』
『そっくり―――って?』
『周りの人からもそう言われるでしょ?。ねっ―――!』
ふいに繰り出されたその女性の屈託のない笑顔には、まさに白衣の天使との形容が見事に当てはまっていた。
『あ、ああっ―――。まあ、ほんのごく一部だろうけどさ』
とっさに応えるしかなかった兄の表情は、少し照れ笑いを浮かべているようだった。しかし、あれほどまでに父親を恨んでいた兄が、どうしてここまで急変したのだろうか?。
―――そうだ、思い出した―――!
“―――はあっ―――、ホントいい加減なのねあんた。まるであの人を見てるみたい”
“ちっ、一緒にすんなって!”
“まんざら悪くもないんじゃないの、父親似ってのも”
“これが普通の家庭だったらね、おれも文句なんて言わないさ―――”
そう、僕たちがキャッツに訪れたその晩に、兄に向けて孝子さんが何気に仕掛けた一言だった。無意識ながらも父親の面影を追い求めている兄の健気さの表れが、そんな孝子さんの一言に起因したに違いなかった。
『たったの一部なの―――?。ねえ、もっと自慢してもいいんじゃないの、あなた?』
『もっとって言われてもさあ―――、そんな簡単にはいかねえよ』
『どうして?、親子なんでしょ?』
『そ、そりゃ、親子には違いないさ。けどさ・・・』
『けど―――、なんなの?』
兄の躊躇いを他所に、彼女は平然と兄に迫り続けていた。引き続きその屈託のない笑顔は、むしろ兄に重圧を加えようとしていた。
『うん―――なんなんだろうな、親父の存在ってさあ・・・』
ぽつりと応える兄の一言には、意外にも重圧なんて微塵も感じられなかった。そんな兄の覚えた父への思いはというと、遥か遠く朧に浮かぶ懐かしさで溢れ始めていくのだった。
『ねえ―――、もしかして失礼なこと訊いたのかしら?、あたし』
感慨深くしかも力ない兄の口調に違和感を感じ取ったのだろうか、彼女は自身の言動に後ろめたさを暴露していた。
『ううん、そんなこと気にしなくていいんだ。おれの独り言みたいなもんだからさ』
そんな彼女の躊躇を嫌ってか、兄はあくまで手前の都合を詫びていた。
『そう―――、それならいいんだけど・・・』
兄の救いの言葉を受けたにしても、彼女のさっきまでの勢いは途端に半減していた。白衣の天使を思わせていたあの笑顔さえも、すっかりと萎んでしまうしかなかったようだ。
『元気でいなくちゃってさ、つい無理してしまう癖があるの。―――本当は小心者なのにね、わたし』
『だってさ、白衣の天使なんだろ、あんた?』
『そうありたいと願ってもいるわよ』
『ふ―――ん、そうなんだな』
彼女の吐く弱音に、兄はとぼけるように言葉を濁していた。
それにしても、この病棟に訪れる面会者の多くは、決して楽観な毎日を過ごしているはずも無かった。じわりと迫り来る病魔への恐怖が、彼らの絶しがたい苦悩を拭えないでいるのは明白だった。そればかりか、僅かに蓄えられた生活費でさえすぐに多額の治療費に削られてしまうのだ。
決して贅沢を求めるわけでもないお粗末な衣食住に、必死に堪えるしかない。そんな疲弊しきった生活の合間にも係わらず、いつも笑顔を持ち寄る面会者の健気さには脱帽するばかりだった。
ここを訪れるその一人ひとりに、絶えず安心感と最高の笑顔と、心からの真心を差し出している白衣姿の彼女たちにとっては、命を預かるという稜線ぎりぎりの精神力だったに違いない。
『埼玉だったかしら?、お父さんの故郷って』
『ああ・・・確かに熊谷だけど。どうして知ってるんだよ、あんた?』
『だって、小森さんいつも喋ってくれてたのよ。とっても懐かしそうにね』
『喋るって、熊谷のことをか―――?』
『そうよ、それがどうかしたの?』
『い、いやっ―――、別にどうもしないけどさ』
あの父が―――、とうに捨てた故郷に未練があったなんて、兄には不思議に思えてしょうがなかったのだ。
『だけど久し振りみたいね、お父さんの面会なんて』
『久し振りっていうか、なんていうか・・・』
『わたしね、去年の春から小森さんのこと担当してるの。もう一年半も我が侭に堪えてるのよ、あなたのお父さんの』
『えっ―――、そんなに駄々をこねてるのかよ、親父ってさあっ!』
『駄々って言ってもね・・・、喋れるわけじゃないのよ。そこは勘違いしないでちょうだいね』
『喋れないって―――、それ、どう言うことなんだよ?』
『まさかあなた・・・、お父さんのこと、まったく知らされてないの?』
知らされているもいないも、消息すら知らされていない父の状況なんて、僕たちに察知できるはずもなかった。
『あっ、ううん―――。まあ、そうかもな・・・』
彼女の怪訝そうな顔から目を逸らせて、兄は誤魔化しを入れるしかなかった。そんな彼女の説明する父の病状は、末期のガン患者のそれを意味していたのだった。
『衰弱が激しくてね、呼吸することすら精一杯みたい。けど立派よね、痛いなんて素振り微塵も見せないのよあの人』
『強がりの人生だもんな。へっ、まったく親父らしいぜ』
父親の愛情を素通りした兄だからこそ、それを求める思いにも従順だった。孝子さんの語ってくれた父の人間像は、紛れもなく僕たちの父親なのだから。
『なあ、親父って何処居るんだよ』
『あっ、そうよね。きっと裏庭に出てるはずよ、いつもの場所だわ』
『―――いつもって?』
『学校の校庭が見える場所なの。小森さんのお気に入りみたいだわ』
『学校―――?』
『小学校なのよ。休憩時間には子供たちの遊んでいる風景が賑やかそうでね、小森さんそれが楽しみみたいね』
『―――子供かあ』
『どれくらい会ってないのかしら、お父さんとは』
『そうだな―――。もうどのくらいなんてさ、まるっきし覚えちゃいないさ』
『えっ、どうしてなの?』
『う、う―――ん。つまりさ、なんて言うか・・・』
とっさに、とぼけたように声を詰まらせる兄は、父のしでかした悪行を庇うかのように曖昧に尻を窄ませていた。
冗談じゃないや―――。無責任にも家族を捨てて出て行った父親を、今さら美化する義理などあって堪るものか。そんな兄の返答次第では、僕だって黙ってはいないつもりだった。
『う、うん―――別にいいのよ。ごめんなさいね、わたしが立ち入ることでもなかったみたい』
『あっ―――、まあ、それはいいんだけどさ』
互いの不具合を隠すかのように、控えめな声だけが宙に浮いていた。
『そうね、そういうことよね―――。でも、久し振りなんでしょ。だったら、あなた一人で行った方が良くはないのかしら?』
白衣の天使の彼女は、すぐに兄の不具合を察知したのだろうか、自らの立会いを辞退する発言に移っていた。
『けどさ、一人じゃ無理だよな・・・』
『えっ、どうしてなの?』
『だってさ、親父の顔なんて―――ほとんど覚えてないもんな・・・おれ』
『えっ、どう言うこと?。親子なんでしょ、あなたたちっ!』
見当違いの兄の言葉には、さすがに彼女も口を挟まざるを得なかったようだ。
『ああ、親子には違いないけどさ。随分と離れて暮らしてたからなあ・・・』
『だって、そんな話なんてしてくれてないわよ、小森さん』
『当たり前さ、軽々しく他人に喋れるような美談でもないからな』
『そんなに深刻なの、小森さんの過去―――って?』
父の過去を例えるとするならば、極悪非道にも似た歴史を刻んでいたと言っても言い過ぎではないのだろう。
父の側から覗く浪漫溢れる夢行脚は至極美しいとされても、現に残された家族側からすると、まったく落とし処の見当たらないお涙頂戴の語りでしかなかった。
『親父って呼んでもらえるだけでもさあ・・・感謝してもらいたいよなあ、実際』
今日まで抱き続けるしかなかった父への複雑な思いなど、どうしてここではまったくどこ吹く風のよう。今までに募らせたはずの父への憎しみなんて、この際さらっと消え失せてしまうかのように淡々とした兄の言い草だった。
『失礼だったらごめんなさいね。いきなり話が飛びすぎててさ、わたしにもよく理解出来てないのよね―――、実際』
突然に漏れ出すかのように父の真実を暴き始めた兄の本音を、彼女は精一杯お道化て見せてくれていた。その様の真意は、さすがに白衣の天使たる格別な配慮でもあったのだろう。
『よせやい―――。薄々分ってるんだろ、あんたにもさ』
『やだ、やっぱりばれてるのね―――。そうよ、あなたの言う通り、なんとなくはね』
そんな兄のけん制に、引き続き彼女は努めて明るく振舞ってくれていた。
『だってよ、知らぬ間に家を出たんだぜあの人って。しかも、てめえの身勝手ときたもんだ―――。簡単に言うと家出だよな―――。家族を見捨てた最悪の父親なんだぜ、小森靖志って男』
父の履歴を簡潔に述べる兄の目元は、どこか緩んでいるようだった。
『本当の話なの、それって?』
『それでなきゃ、わざわざ鎌倉なんて来るわけないじゃんかよ』
『―――そうよね』
一連の兄の会話から概略を覚った彼女は、続く言葉に思案するかのように、目を泳がせていた。けれど家族を置き去りにする父親の印象は、彼女にもやはり悪者にしか映るほかはなかった。
『会って何て言うつもりなの、お父さんに?』
『考えちゃいないさ。―――今はな』
―――慰謝料を請求するんじゃなかったの?ねえ、お兄ちゃんっ!―――




