ついに緒方健一と
“キキ―――ッ”
『この辺でいいのかい?』
駅前の商店街そばで車が停止した。
『ああ、ありがとう―――』
タクシーの精算を済ませた兄は、慣れた様子でアラジンを目指して真っ直ぐに歩き始めた。
『高志、どんなことがあってもうろたえるんじゃないぞ。いいな』
『うん、分かったっ!』
『ねえ、あたしはどうすればいい・・・?』
『あん・・・?、ああっ、好きにすればいいさ』
『うん、分かったっ!』
そう言って恵さんは、アラジン目掛けて勝手に走り始めた。
『先に行ってるからねえっ!』
『えっ、―――先にって・・・お、おいっ―――!』
そんな恵さんの行動にはさすがに面食らったのか、兄は走り出す恵さんの後姿を追うだけで精一杯だったようだ。
『―――どうしようってんだよ、あいつ?』
『今時の若い娘の行動って分からないもんだよなあ・・・。ねえ、お兄ちゃん?』
『ちっ―――、馬鹿野郎・・・っ!、おまえが言うなってよおっ!』
『へへへっ―――』
けれど、恵さんの行動には確かに驚かされた。いくら地元の商店街だとしても、訳ありの僕たちを差し置いて駆け出すなんて、どうかしているとしか思えなかった。一体、何を考えての行動だったのだろうか。
『高志、あの店、開いてるよな?』
『うん、看板が光ってるよ、お兄ちゃん』
『そうか、光ってるか』
何故か動じる様子を見せる兄は、アラジンの数歩手前で急に立ち止まった。
『どうしたのお兄ちゃん?』
『ちょっと待てよ・・・』
顎に手を当てて、何かを考えているように兄が口を歪ませていた。
『ねえ、どうかしたのお兄ちゃん?』
『高志・・・。昨日喰った肉だけどよ、あれ、なんて・・・言ってたっけなあ・・・?』
『―――ああ、うん。えっと・・・、確か右からウエルダム、ミディアム、レアって呼んでたよ、お兄ちゃんっ!』
昨日、小太りの山手支配人から配られた皿に盛られた肉腫を、今更、復習する兄だった。
『うんうん、そうだったよなあ・・・。へへっ、おまえって賢いよなあ』
『うん、お兄ちゃんに比べればね』
『ちっ、それは余計だっての・・・』
苦笑いを浮かべながら、いつもの兄の勝手が戻っていた。そして兄の手が遠慮なくアラジンの扉を開いた。
『いらっしゃいませ―――』
蝶ネクタイの落ち着きはらった男性店員が、昨日同様、怪訝そうに僕たちを見ていた。
昼時のざわついた店内には、社交的な大人たちの雰囲気で一杯だった。まるで僕たち兄弟の来店を阻害するかのように、冷たい視線が待っていた。
『―――何か御用で』
蝶ネクタイの男性店員が、あからさまに声を掛けてきた。その態度がやはり気に入らなかったのだろう、またも兄が噛みついた。
『ここは、飯屋だろう―――?』
『はい、さようでございます』
『昼飯を食いに来た客にさ、何か御用っておかしくないか?』
『はあ・・・?』
情けないくらいに、昨日と同じやり取りが交わされていた。
『―――まあいいや、支配人呼んでよ』
『はあ・・・。生憎、支配人は他のお客様の応対中でして』
『その客って、もしかして片桐って歌い手じゃないの?』
『ええっ、確かにそのお方のようですが・・・、何か・・・?』
『おれたちさ、その男の連れなんだよ。いいな入るぜ?』
『ちょっと、あんたっ―――!』
ジョー片桐の在席を確認するや、兄は強引に店内に入り込んだ。
『勝手に入るんじゃねえよっ!、お前さ』
蝶ネクタイの男が、強引に兄の肩に手を掛けた。
『―――なに、この手?』
制止を受けた兄の目は、怖いくらいに冷めていた。
『困るんだよなあ、こんなことされるとさ』
『こんなことって―――、どんなこと言ってんだよ―――?』
そんな兄と蝶ネクタイの男との会話に、とっさに僕の中で嫌な予感が湧き起こっていた。
何故ならば、ここのところ封印されていた兄の凶暴さは、弾ける場所を探し当てていたかのように、今、破裂寸前の状態だったのだ。
それでなくとも父の仇とする“緒方健一”の姿は、もう手の届く距離にあった。
『お前なあ・・・何様のつもりだあ―――っ』
蝶ネクタイのその男にしても、譲る気はないようだった。
『何様ってかあ―――っ?、へへへっ・・・』
抑圧されていた兄の凶暴が、妙な笑いを誘っているようだった。
“―――まさかっ!!”―――嫌な予感が更に、僕の緊張感を高めた。
―――幼い頃から頭に血の上った兄は、決まって変に笑う癖があった―――。
いつだったかしら、僕が近所の上級生数名にお仕置きめいたいじめに遭ったときのことだった。兄はたった一人でその連中の中に飛び込んで行ったのだ。いくら兄が喧嘩に長けていたにしろ、相手の数には叶うはずもなかった。
やはり劣勢の兄に向けて、或る一人の者から心無い声が囁かれた―――。
『お前の逃げ出した親父と同じだ、―――この腰抜け野郎がっ―――!』
その一言に、何故か兄は急に笑い始めたのだ―――しかも妙に静かにだった。そしてその数秒後には、無残にも数人の叫び声を聴くはめになっていたのだ―――。
そんな兄の凶暴さは、手に負えないほど脅威を曝け出していた。
ましてや今、この場に撒かれた兄の笑い声に僕は、戦々恐々の思いでいた。
『お、お兄ちゃん―――っ!』
しかし、今日だけはそういう訳にはいかなかった。すぐその場に居る緒方との大事な面談を反故するわけにはいかなかったのだ。
『ふんっ―――、まあいいか』
『―――どうした、怖気づいたのか?』
『ああ、今はあんたに係わっている暇なんてないからね』
『何だと―――っ?』
『じゃあ、―――後でな―――』
そう軽くその男をあしらった兄は、店内に足を向けた。そんな兄の落ち着き払った態度が、僕にはとても逞しく見えた。
そうに決まってる。今の兄にとっても、緒方健一との話が最優先だったのだ
『高志っ、なにやってんだよお、おまえも入って来いよっ―――!』
『だからあ、お前らさっ―――!』
入り口で揉め始めていた様子は、すぐさま広い店内にも認知されたようだった。
『お―――いっ、何やってんだよ。ここだよ、ここ――っ!』
その時だった、奥の席から僕たちに向けて大きく声が掛かった。その声の主は、お決まりの派手な色合いのシャツを纏ったその男、―――ジョー片桐だった。
『あ―――っ、ど――もっ!』
その声に応えて兄が、愛想よく手を振っていた。
『えっ―――!?―――』
兄の肩に手を掛けていた蝶ネクタイの男が、その光景に唖然としていた。
『―――どうしたお前らよお!、なんかあったのかっ?。早く入って来いよおっ』
更にジョー片桐が怪訝そうに声を掛けてきた。
『そう言うことで、ねっ!』
『―――あ、ああっ』
蝶ネクタイの男の手を払いのけて、兄は当然のごとくその席に向かった。その後を付いて、僕も堂々とその席を目指した。
『遅かったな。―――もう来ないかと心配してたんだぜえっ!』
ジョー片桐が連れの女性の腰に手を回したまま、余裕の笑みを見せていた。
『あれ―――っ、昨日の彼女と違ってない?』
目ざとく兄が、軽い口調で片桐の隣の女を指摘した。
『ああ、あの女か・・・。どうにも俺には釣り合わないみたいでさあ――、お前らもそう思っただろ?』
『そんなことだと思ったぜえ。正解じゃないの、―――彼女って素敵だしさ』
調子を合わせたように、兄がその女に目配せをしていた。
『まあ座れよ―――』
『―――ああ』
相変わらず遠慮なくソファーに蹲った兄だった。
『弟くんもな』
『ああっ―――』
兄に負けじと僕も遠慮なくソファーに飛び込んだ。
『―――こ、こらっ―――!』
その余りの遠慮なさに、そばに居た山手支配人がしかめっ面で僕たちを睨んでいた。
『昼飯、まだだろ―――?』
『―――ああ』
『山手さん肉出してやってよ、えっと―――』
『おれ、レアでお願いねっ―――!。高志、おまえも一緒でいいよなっ―――』
片桐の言葉を遮って、兄が知ったかぶりに注文を口にした。
『へえ――っ、なんだ知ってんじゃねえかよお兄ちゃんさっ!』
『まあ、人並みってことだよなあ』
『へえ――っ、格好いいこと言っちゃってよお――っ!。この田舎兄弟があっ!!、ハハハ―――ッ』
取って付けたような生意気な兄の言葉に、皮肉たっぷりに高笑いを浮かべる片桐だった。
『あ―――山手さん、とにかく急いで頼むわっ。ゆうべから何も喰ってないんだってよお、この貧乏兄弟ってさあ―――っ、へへへ――っ』
更に悪ふざけを楽しむかのように、片桐が嫌味たっぷりに僕たちのことを嘲笑していた。
そんな片桐の子供じみた様に、とうに白けていた僕は、ある別のことを考えていた。
そもそも昨日の時点で片桐が画策した今日の約束にしても、何故、僕たちを誘ったのかが、どうにも疑問だった。
『お前らさ、遠慮なんてすんなよな。よかったらよお、明日の分まで喰って帰っていいんだぜえっ!』
まるで滑稽そのものの片桐の甲高いお喋りは、店内の隅々まで響き渡っていた。
『ねえ、可哀そうだわ・・・この子たち』
雑然とする雰囲気の中、片桐の隣でお人形のように構えていた女が、初めて僕たちの前で声を発した。
『ああん、どうしたんだお前―――?』
『こんな大勢の前でさ、可哀そうじゃないよ』
『可哀そうなもんか、こうして有難い飯にありつけるんだぞ?。どうして贅沢極まりないじゃないかよ』
昨日の様子とは打って変わって、片桐の女に対する態度が少々紳士的にも思えた。確かに隣の女は、品のある洋服を身に付け髪の毛もまともな黒髪だった。
『君たちごめんなさいね。乱暴なこと言ってさ、この人ったら』
まるで派手な井出たちの片桐とは不似合いの、お嬢様のような女性だった。
『―――ねえ、どうして僕たちを誘ったの』
この話の隙間を窺って、僕は持っていた疑問を素直に片桐にぶつけた。
『訳ありの旅なんだろ―――、お前らさ?』
何かを察していたかのように、すぐさま片桐が口を開いた。
『―――う、うん・・・』
予期せぬ片桐のその言葉に、僕は素直に従った。
『家出だよな、―――お前ら?』
そしてあっさりと僕たちの所業を見抜かれてしまっていた。
『どうした、青春の過ちか―――?』
『いやいや、冒険旅行だよ。つまり―――青春の証ってやつさ』
片桐の知ったかぶりに、兄がやんわりと乗った。
『格好つけやがってえよお――っ。実際、そんな立派なもんなのかあ?』
『―――相当なもんだよな、実際』
今の兄の思惑には、まだ緒方に対峙しているとういう実感は見えてはいなかった。
『ふ――ん、本当のことは言えないって心境か―――?』
そんな片桐の興味の先が、ほんの少し垣間見えていた。
『そんなに気になるのか―――、あんた?』
『ああ、お前らと同じ年の頃なあ―――俺も散々、方々を歩き回ったな。まあ、はなっから帰る家なんてなかったけどよ。―――俺の場合さ』
『へえ、―――そうなんだ』
その言葉に、軽く兄が応えた。
『戦争で―――全て無くなってしまったからよ―――』
無意識にグラスの中の氷を人差し指で掻き回しながら、片桐は自身の天涯孤独を示唆していた。
やはり孝子さんの話しの中身同様、確かに緒方健一の履歴には違いなかった。
『―――惨い少年時代だったんだね、あんた』
そのことを知っていた兄は、当然のように話を合わせていた。
『ちっ!、―――お前に言われたくねえよっ!』
それまで豪快だった片桐の雰囲気が、一転、寂しさを醸し始めていた。
『誰の責任でもないさ、あんたも被害者ってことだ―――っ』
『生意気言うんじゃねえぞお―――っ、この野郎があ、へへへ―――っ』
強がりを保つべく、不自然に片桐が笑いに転じた。
『ところで、有名な歌手なんだってな―――、片桐さんあんた?』
兄が、じわりと本題に踏み込んだ。
『なんだあ?、知ってんのかよ―――お前っ!?。なんだよお―――、まいったよなあ―――っ』
兄の言葉に気を良くしたのだろうか、照れ笑いを含みながら片桐はソファーに深々と身体を埋めていた。
今までの話の内容から、確かに目の前に座るジョー片桐は、緒方健一に間違いはなさそうだった。
けれど―――、片桐が緒方なのか、緒方が片桐なのか―――?。さっきから目の前で女といちゃついていた男は、本当にあの緒方健一なのだろうか?。
孝子さんの語った緒方健一とは、本当に父に係わったとする人物に相違ないのか?。僕の中で渦巻いている葛藤が、どうにも抑えられないでいた。
『んん―――っ、どうしたよ弟くん。そんなに腹が減ってんのか?。情けない顔しやがってよおっ―――!』
『あっ・・・うん』
もう我慢で一杯だった。いっそ僕の口から目の前のこの男の素性を暴いてやりたかった。
『高志っ―――!、もうちっと我慢できるよな―――?』
すかさず兄が僕の葛藤を察知してくれていた。どうしようもない僕の憤りをしっかりと受け止めてくれていたのだ。
『若いっていいよなあ―――っ。縛られるものなんて、これっぽっちもねえからよお――っ!。ほんと羨ましい限りだぜ―――』
横柄にテーブルの上に足を投げ出した片桐は、胸ポケットからおもむろに煙草を取り出した。そしてそれを口にくわえると、隣の女性に向けて火種を催促していた。
『ねえ、止めたんじゃなかったの、煙草―――?』
『―――ちっ』
その隣の女性に咎められて、仕方なく片桐は煙草を揉み潰していた。
『その煙草おれに吸わせろよ。―――なあ、いいだろ?』
その瞬間、兄と片桐の間合いがとても狭く見えていた。
『―――怖いもん無しか・・・。お兄ちゃんよお』
確かに今の僕たちには怖いものなんてなかった。あるとすれば唯一、緒方健一へと向けられた強い憤りだけだった。
『本当のこと言えばいいじゃんかよお―――っ。どうした、親父とでも喧嘩したのか?、へへっ、図星だろう。どうせそんなとこだろうぜ、なあ、お前らさあっ!』
―――この男、いささか調子に乗り過ぎているようだ。
『―――探してんだよ。ある人をさ』
兄の顔色が次第に変わっていくのが見えた。
『ほう、誰だよそいつって?』
『10年前に、おれたちを捨てたんだよな―――その男』
『捨てたって、お前らをか?』
『そう、お袋とおれたちをね』
『じゃあ、親父ってわけだあ、その探し人ってよ』
『そう、―――親父に間違いないね―――』
すでに兄の口元からは穏やかさが消えていた。
『でっ、探してどうするつもりなんだ?』
『慰謝料を請求するさ』
『慰謝料ってお前っ!、親父からかあ?』
『そう、親父から』
『しかし、何処に居るのか分かってんのか、その親父さん?』
『ああ、突き止めた』
『へえ―――っ、やるじゃんかよお前さあっ!。で、何処に居たんだよっ、その親父ってさあっ!!』
興味深そうに片桐が、いやっ、緒方健一が身を乗り出して訊いていた。
『ふ―――ん、そんなに気になるんだ、あんた?』
『だってよお、面白そうじゃんかよ。そんな父親ってさ』
『へっ、―――面白いってか』
『そうだろ?、失踪した親父を探しての兄弟の冒険旅行なんてさ、絵になるってもんだぜえっ!。なあっ、そう思わないかっ?』
『そうだよな』
兄の口元からは、完全に体温が抜け出していた。
『け―――っ、どうせよ、ろくでもない生活を送ってんだろうぜ?。お前らの親父ってよおっ』
繰り返すけど―――、奴は、緒方健一は、余りにはしゃぎすぎたのかも知れない―――。
『そう思うのかあんたも・・・?、へへへ――――――っ』
そして―――そして兄が、ついに激しく変に笑った―――。
『どうせそんなもんだろうよ。なあ、いくらお前たち――――』
“バチ―――ッッッ―――――!!”
『ぐ、ぐふう――っ―――っ!!』
次の瞬間、片桐の身体は真っ白い大きなソファーにのけぞることとなる。その掠れたうめき声は、兄の突き出した拳の先に纏わり付くように渦を巻いていた。
『キャ――――――ッ!』
隣にいた女性の叫び声は、もちろん兄に向けられたものだった。
『お、お兄ちゃん――っっ!!』
『騒ぐなよな―――高志』
僕の声に反応した兄は、意外なほど冷静に応えていた。
すでに片桐の隣でうろたえている女性といえば、身動きも出来ないのか両手で顔を覆ったままだった。
たちまち店内には不穏な空気が立ち込めていた。
『な、何やってんだ―――っ!、お前ら―――っ!!』
慌てて駆け寄ってきた山手支配人が、目の当たりの一大事に大声を張り上げていた。
『ああっ・・・!、な、何てこと仕出かしてくれたんだよ―――っ!』
その場に立ち尽くした山手支配人は、ようやく気を取り直したのか、片桐の傍に恐る恐る歩み寄った。
『だ、大丈夫でしょうか、片桐様―――っ!』
額に汗を絡ませながら山手支配人が絶叫していた。店内に居合わせた客の目線も、兄の挙動に釘付けになっていた。




