失望
『こんばんは―――。おじさん、邪魔するよ―――』
若い男性客の威勢のよい声が、店内になだれ込んだ。
『ほい、いらっしゃい。おっと―――!、今日も来てくれたのかいお兄ちゃんたちさ。丁度いいや、お連れさんがみえているよ、―――ほらっ』
『ええっ!?』
思わず父が振り返った先には、何とあの緒方健一と、既に面影の失せてしまっている立花と思われる男が立っていた。
『お、緒方くん―――っ!』
すぐさま父は緒方に向けて声を飛ばした。
『―――えっ―――。なんでっ!、どうして―――?。まさか、―――あの小森さんなの?』
『んん―――こもり――?』
『立花さんこの人だよっ、小森靖志さん―――。ねえ、知ってるんでしょ?、トウチクの小森ゆうじさんだよっ―――!』
大袈裟に、緒方が浮かれたように立花に向けて声を振っていた。
『本当に―――、あの小森ゆうじ・・・なのか、君は―――?』
恐る恐る、立花が近づいてきた。まるで覇気のない表情は、当時の立花勇気の欠片も見当たらなかった。
『立花勇気なのかよ、―――あんた?』
父にしてもその事実を確かめるべく、目の前の立花の顔を凝視した。
『―――ああ、そのつもりだよ小森くん。あの頃と比べると随分とみすぼらしくなってしまったけれどね・・・』
『―――ああ、そのようだな』
伏し目がちに、しかも小声で応える立花の風貌に、父は暫し呆然とするしかなかった。
『どうしたんだよお兄ちゃんたちさ。さあさ、突っ立てないでどうぞ座っておくれよ。―――ああ、皆、酒でいいよね。おでんはこっちで勝手に盛って出すからさ、おかわりが要れば言ってちょうだいな―――』
そんな場の沈黙を埋めてくれるかのように、店主が気を利かせてその場を取り繕ってくれていた。
『ねえ座ろうよ小森さんもさ。でも―――正直驚いたよなあ。ねえねえ、どうして小森さんが鎌倉になんて居るの?。そ――か、もしかして観光だったり?。そうそう僕もね小森さんと会いたいって思ってたところなんだ。いや――っ、驚いたよ、ほんと偶然じゃないよねえ―――っ!』
間髪を容れずまくしたてる緒方には、―――ある種の―――昂揚を抑えきれない様子だった。
そんな緒方の醸した、ある種の昂揚―――とは?
『なあ、元気でやってるのか―――、緒方くん?』
『勿論、元気ですよ。まあ、元気しか取り得がないのも事実ですけどね僕は―――。ねえ立花さん、そうでしょ!!』
『あ、ああ・・・。そうだよね』
反面、横に居る立花の挙動には、やはりみすぼらしさが否めなかった。
『やだなあ―――、立花さん。ああ―――っ!、もしかしてさ、緊張なんてしてるの?。そうなの、ねえ―――っ!?』
『―――、緒方くん―――』
やたらとはしゃぎ出す緒方の表情に、思わず面食らっていた父だった。
思えば、熊谷での歌謡祭で父と出会った頃は、あれほど大人しかった緒方健一だった。―――が、今夜は一風、変わった個性を身に纏っていた。
『おじさんさ、もっとお酒出してよ。それとおでんも大盛りで出してくれないかな。いや――っ、小森さんね、ここのおでんって最高に美味いんだよ。夏におでんっていうとさ、、馴染みが薄いって思うじゃない。けどさ、実は年中やってるんだよね。静岡辺りじゃさ、当たり前って話らしいよ―――』
『―――えっ、そうなんだ。はは・・・、よく知ってるんだな緒方くん』
『いや――っ、実はここの大将の受け入りなんだよ。僕だって最初は文句から始まったからさ。ねえ、おじさんっ―――!』
それはまるで別人のように、緒方健一らしからぬ言動だった。
『へへっ、そうなんだよな。夏におでんってあるわけ無いだろって、このお兄ちゃんにだな、そりゃあひどく言われちまったさ。そうそう、さっきのあんたのようにね』
『なんだ―――、小森さんも文句つけたの?。ははっ、小森さんらしいよねまったくさ―――。でもさ、ほんと美味しいから。熱々のおでんってさ、夏場でも最高の食い物なんだよね。小森さん早く食べてよ、この厚揚げなんて味がしみててさ、申し分ない味わいなんだよねえっ!!、ホントッ―――!』
『おやっ、今夜はえらく饒舌じゃないのお兄ちゃん。やっぱしあれだな、連れが増えて賑やかってのもいいもんだよなあ』
勢い乗じてまるで貸切状態の、“おでん処旬”の賑わいだった。しかし、緒方との再会の喜びはあるとしても、一方の立花との再会には、無論、複雑な心境の父だったはずだ。
『―――酒のおかわりはいいのお・・・?、小森さんさあ・・・』
『おいおい緒方くんよ、そんなに呑んで大丈夫なのかよお?。今日はもう歌わなくていいのか?』
さっきから調子に乗って酒をあおる緒方に、父の心配事が及んだ。
『も――う、散々、歌ったんだからさあ・・・。今夜くらいは勘弁してくれてもいいんじゃないの・・・小森さん』
『勘弁って―――』
あからさまに仕事放棄をほのめかす緒方に、父の顔色が瞬間、くすんだように見えた。
『―――なあ緒方くん。そんな簡単でいいのかよ?。先方さんにだって都合があるはずだろ、事前に断るのが筋じゃないのかよ?』
『・・・。じゃあさ、立花さんに任せようかなあ・・・。この際だから・・・、ねっ、いいでしょお――立花さん?。へへっ、もちろん・・・歌えるよねえ。あんただってさあ、売れた・・・時期が、あったわけだし・・・?』
調子よく酒の勢いに任せた緒方の言い分が、立花へと無責任に放たれた。
一方、緒方の無礼とも聴こえる発言に当の立花はというと、こんにゃくを小さくほお張りながら、他人事のように沈黙を固めていた。
『ああっ―――、緒方くんさ、いきなりそれは無理じゃないのかな―――。彼だって、相当歌の世界から遠ざかっていた訳だし』
緒方のその無礼に、すぐさま父が割って入った。それはまるで立花に気を遣っているかのようだった。
『だってさあ――っ。小森さんと・・・立花さんわあ・・・、そうは言ってもねえ、本業で歌ってたんでしょお――二人ともさあ・・・。今さら歌えないなんてさあ――情けないってことじゃないんでしょうかねえ―――!』
更に追い討ちをかけるように、さっきからろれつの回らない様子の緒方が皮肉たっぷりに続けた。
『・・・。緒方くん、そんなことは判りきってるんだよ』
こんにゃくを啄ばむ箸を休めて、伏目がちに立花が小さく呟いた。
『はあっ・・・?、なんか言いましたあ――立花さん?』
立花のか細い声を無視するかのように、緒方の無礼が続けられた。
『―――歌う自身がないんだよ・・・俺には。俺には・・・ないんだ―――』
自身の諦めを無理やり搾り出すかのように、立花は小さく吐くしかなかった。
『ふ――ん、そうなんだ・・・。ふ――っ、それは・・・困ったもんだ・・・。実に困りましたねえ―――』
立花の心情などまるで掬う気もないのだろう、皮肉っぽく緒方が言い回した。
『じゃあさ・・・っ、丁度いいやあ・・・。小森さんが、歌えばいいんじゃないのお――。ねっ、へへっ、機転か利くでしょお。やっぱり、僕って・・・頭いいよなあ・・・』
『おいおい緒方くんさあ!、いくらなんでもそれは突拍子過ぎやしないかな?』
酔いに任せたまま勝手に無邪気さを装う緒方の姿には、父にしても今は様子を窺うしか手立てがなかったようだ。
緒方健一と出会ったあの日以来、閉ざしたはずの歌の道への未練が危うく疼き始めた父だった。自ら断ち切った歌への執着、もはや叶わぬものと諦めていた夢の続き―――。
良き家庭人を自負する父にとって、決してあってはならない現実逃避への扉が用意されてしまった。
その扉に手をかける危険性を知りつつも、父はうかつにもその扉を開いてしまったのだ。たかが一人の若者との出会いを切っ掛けに、閉じていた父の夢は再び開花することを由としたのだった。
しかし今、そんな無謀ともいえる道程を選択した父にとって、目の前にある緒方健一の人としての技量には、いささか眉をしかめずにはいられないほどの違和感を感じていた。
勢い父の追った夢の先には、霞がかったもやもやが幕を張っているようだった。
『いや・・・、歌えるよ・・・。歌ってもらわないと、困るんだよ』
先ほどから終始伏目がちだった立花が、今、ぽつりと声をもらした。その声の行き先は、あたかも父に向けて歌を強要するかのように、切迫した重さがあった。
『いやっ、困るって・・・言われてもなあ』
『きっと俺の分もさ―――、歌ってくれるよね・・・小森くん』
“俺の分も―――”と、わざわざ立花が飾り立てて言葉を繕った。
『ああっ、―――ううん。まあ、おれでよければの話だけどね』
父もそれに付き合うしかなかった。
『小森くんの歌が聴きたいんだよ。だって久しぶりじゃないか、トウチク時代のライバルだった君の歌なんてさ―――』
淡々と語る立花の表情には、7年前のあの忌々しい記憶など既に忘れてしまっているかのように、軽々としたものだった。
『ああ・・・、―――確かに、そうだよねえ』
父にしても、今さらという感があったのだろう。蒸し返す必要のない、つまりは割り切った関係に収めることが得策なんだと。
『小森さ――ん、いいのかなあ・・・そんな軽はずみでさ。素人のね・・・歌自慢ってわけにはいきませんよお――っ!。へへへっ!』
その場の雰囲気を飲み込もうとしていないのだろうか、更に酔いの加速度を増して緒方が、調子はずれに父を軽視する発言に転じていた。
『緒方くん、ホントに大丈夫なのか?』
『んん・・・?、大丈夫って・・・どう言うこと・・・なのお?』
『この後も営業があるんだろ、それとも飲んで歌うのが君のスタイルなのかよ?』
『ふう・・・。飲んじゃいけないって・・・ことなの・・・?』
『・・・。話になんねえな、こりゃ』
緒方に向けた父の苦言は、いともあっさりと引き戻されてしまった。
『やはり小森くん君が歌うべきだ。それ以外にこの場を収める方法は無いんだよ。残念ながらね』
全てを察したかのようにもっともらしく、立花が父に耳打ちをした。
『ん――っ?。何か言った・・・、立花さん・・・?。―――やだなあ、また・・・僕の・・・悪口なんて言ってるん・・・でしょお?』
『緒方くんさ―――、他人の忠告は聴いたほうがいいと思うんだけど―――』
遠慮がちに立花が、緒方に対して警鐘をほのめかしていた。
『―――いつもこんな調子なのか、緒方くんは?』
『いいや、今日はめずらしくね』
『そうなんだな―――』
『こんなに崩れた緒方くんは、正直、始めて見たよ』
緒方の腑に落ちない行動を前に、父と立花が小声でやりとりしていた。
『へっ・・・!、おじさん―――、もう一杯ちょうだいよ。お酒っ―――!』
『―――もう止めておけよ緒方くん。なにやけになってんだよっ!』
今度は父が緒方の無茶を制止することになる。
『・・・。なんだ、なんだあ――――っ。あのさ・・・結局さあ・・・あんたらは・・・、僕のこと妬んでるんだよね―――っ。歌わせてもらえない情けなさをさあ・・・、僕に当てつけがましくねえ――――っ』
『そんな訳ないだろう―――緒方くん。おれはさ、―――ただ君のことが心配なだけだよ』
緒方の絡みを解こうと、父はあくまでも静かに語るしかなかったようだ。
『―――心配――?。僕の・・・どこがだよ・・・?』
『ああ、緒方くんさ。君はまだ若いんだから―――、呑み方には気をつけた方がいいよ。喉を潰してしまわないようにさ』
紳士的に対応する父の言葉は、今の緒方を鎮めるための方便のようにも聴こえていた。
『ふ――っ、小森さん・・・さ。ねえ・・・、どうして鎌倉になんて居るんだよ・・・?。へへっ―――、ねえ小森さん・・・、やっと僕のこと・・・連れ戻しに来てくれたんだよねえ・・・?』
相当酔っていたにしろ、緒方の期待感は父のその言葉を求めていた。
『連れ戻すって―――?』
『僕は・・・トウチクに憧れてたんだ・・・。前に言いましたよね・・・、小森・・・さん・・・?』
やはり緒方の記憶の中枢には、父の投げ掛けたトウチク入りの甘い言葉が確かに刻まれ続けていた。
『緒方くん、実は・・・おれさ、安田さんに会ったんだ』
『えっ・・・?』
一瞬、きょとんとする緒方は、おもむろに顔を上げた。
『ここに来る前にさ、クイーンの安田さんと会ったんだ』
『安田って―――、社長に―――っ!?』
父が安田の名前を口走るや否や、緒方が正気を取り戻したかのように父に向けて目を剥いた。
『そう、それで君の居場所が判ったってことさ。どう、納得だろ?』
『じゃあっ、社長と交渉してくれたんですか?、―――小森さんっ!』
『交渉って―――緒方くん、それ、どういう意味かな・・・?』
『だって―――、小森さんトウチクに顔が利くって言ってたじゃないんですか。僕のこと気にかけてくれてたんじゃなかったのおっ―――!?』
『ああっ―――、そんなこと・・・言ったっけ・・・おれ』
緒方のトウチクへの期待は、やはり半端なものではなかった。父の得意気に語った武勇伝は、緒方の中では相当な希望として残っていたのだった。
『―――何だよ・・・本気じゃなかったんだね、小森さん・・・。どうして、何で社長に会ったの?。なあっ、小森さん・・・何でここに来たんだよっ――――――!』
『―――。ああっ、クイーンに所属したんだ。・・・成り行きってやつだけどさ。安っさんとなら、あの人となら組んでもいいと思ったんだよな、実際―――』
安田との思いの丈を、緒方に向けて真っ直ぐに吐いた父だった。
『ちっっ―――!、とんだ間抜けな客だぜ・・・。それでのこのこと鎌倉くんだりにまで来たって訳だあ・・・。どうしようもないぜ―――、まったくよお』
途端に緒方の表情が強張っていた。そしてその口調も、荒々しく低く篭っていた。
『おやじ―――、勘定してやってくれよ。これ以上はもちそうもないからな』
『緒方くん待ってくれよ。おれ、君の手伝いに来たんだ。冷静に話をしようじゃないか、なあ―――――?』
『冷静だ―――っ?』
父の精一杯の誠意にも、緒方は応えようとはしなかった。
『クイーンで一緒にやって行きたいと思ったんだよ、君とさ』
『一緒にだあ―――?』
『そうさ、おれと一緒にだよ。どうだろう?』
『―――はあ―――っ、面倒くさい奴だよな―――!』
吐き捨てるように緒方の言葉は父を直撃した。
『君と一緒に夢を追いたいんだよっ!。君とならそれを実現出来るんだ。なあ、おれの気持ちも分ってくれよっ―――!』
そう言いながら父は、立ち上がって緒方の肩を揺すった。
『―――面倒―――くさいんだよなあ、お前さ』
父の手を払いのけて、緒方はゆっくりと席を立った。
『なあ緒方くん―――っ、どう――――――』
“バチッッッ――――ッ!!”
と、その刹那、鈍い音が炸裂していた。
“ガラガラッガタッッ――――!!”
父の身体が、近くの椅子とともに横倒しになった。
それは―――父に向けて、緒方が拳を振るった瞬間だった。その反動で父の身体は、辺りの椅子とともに床に倒れ込んでいた。
『―――痛っ――っ!』
『―――こ、小森くんっ―――!』
すかさず立花が倒れた父の元に駆け寄った。
『ああっ―――!。あんたたちさ・・・揉め事だったら、悪いけど外でやっておくれよなっ!!』
店主にしても、慌てて口を挟むしかなかった。
『―――ったく。トウチクの関係者でもないくせによお、格好つけてんじゃねえや。お前みたいなゲスな男にさ、これ以上付き合う気なんてないんだよな。とっとと帰ったらどうだ―――。なあ、小森さんよおっ―――!』
店主の警告を無視しながら緒方は、自身の右手の拳を庇うように、不敵に父のことを見下していた。
どうやら安田が懸念していた通り、緒方健一の品格には隠された過去を拭いきれない危うさを持っていたようだ。
『緒方くん、どうして・・・!?』
床に倒れこんだ父は、唖然としたまま緒方の顔を見上げた。
『元々、クイーン・レコードなんてさ、通過点でしかないんだよね―――僕には。言ってみれば腰掛け程度ってことかなあ。あ――あ、つまんねえ地方巡業しか取れないなんてよ、クイーンなんて高が知れてるよなあ―――』
『緒方―――!』
『あんたはどうやって口説かれたんだよ、あのお調子ものの安田にさ―――?』
続けて緒方の暴言が、安田を罵る準備を始めた。
『あいつ、ほんと口が上手いんだよな―――。しかもさ、音楽関係者にもってこいの独特な威圧感ってさあ、持ってんじゃんか。ね――え、そうだよね小森ゆうじさん?。あっ―――!、まさかっ、あの風貌に騙されたってことじゃないだろうね。―――そうなのかなあ――?』
じわじわと薄笑いを浮かべながら、ぺらぺらと喋りまくる緒方の軽薄さが際立っていた。
『―――止めておけよ・・・緒方くん。それ以上は君自身を卑しくするだけだ』
唇に滲んだ血を手のひらで拭いながら、冷めた口調で父が言った。
『ぷふうっっ!、くくくっ・・・。も――う勘弁してくれよおなあ・・・。もしかしてさ、俺にお説教でも始めるつもりなのか、あんた―――?』
『ああ、そのつもりだけどな、―――おれは』
緒方の、余りにも歪みきった素性を知った以上は、父も黙っている訳にはいかなかったようだ。
『はんっ・・・。あのさ――あ、いつまでもそんなくだらないなこと言ってんじゃねえよおっ!。いったいさ、何様のつもりなんだよ貴様―――っ!』
酔っていたにしても、まるで節度を度外視した緒方の暴言は、父に向けて容赦なく連発された。
『やっぱりな・・・。安っさんの見立ては間違っていなかったってことか』
意味深のように、ぽつりと父が嘆いた。
『見立てだってえ―――?。ちっ、あのおっさん、余計なこと喋りやがったなあ?』
『図星のようだな、お前さあ』
『なに得意になってんだよ―――あんた。だからどうしたってんだ、そんなに俺の存在が疎ましいのかよ?』
『ああ、まったくお前の言うとおりだ。さっきからどうにも邪魔臭くてさ、苦情を言いたいくらいだぜ』
『な、何を―――っ!!』
ここぞとばかりに返す父の言葉じりには、粗悪を持ち味としていた父の本領が発揮されていた。
“ドスッッ――――――!!”
“ううっ―――っ!、げほっっ・・・!ごほっっ――――――っ!!”
次の瞬間、鈍い音とともに、呻き声が散乱した。
緒方の右足の先端が、半身を起こしていた父の下腹部に勢いよく突き刺さっていた。
『黙っていればいいのにさあ・・・、よく喋る男だよなあ』
『ごほっ・・・、ううっ――――――っ!』
父の苦痛は身体を丸めて咳き込むので精一杯だった。
『な、なんてことをするんだっ―――!!』
緒方の理不尽な様を間近で見ていた立花が、声を張らして狼狽していた。
『ちっっ―――、どうにも役に立たない奴だよな・・・。そういう者にこそさ、身をもって知らさないといけないんだよね―――え。ははっ、そうだよねえ――っ、立花さんにも理解できるよねえ―――?』
狂った歯車がきしみ合うかのように、緒方の理性は既に崩壊していたようだ。更に今、立花に向けられた緒方の眼差は、その危険性をはらむ一歩手前を予感させていた。
『―――黙っていてくれるよなあ、―――立花よ?』
『・・・。あ、ああっ・・・』
『だってさ――あ、勝手に割り込んで来るんだよこの男ったら。こっちだって準備ってもんがあるじゃないよ、そうでしょ――っ?』
既に緒方の主張は行き先を見失っていた。もはやトウチクに縁の無いと知った父の介入が、彼の未来を、希望を落胆させてしまったようだ。
『くくく―――っ、うううっ、うう・・・。止めだ・・・、止めだあ――――っ!。帰ろうよおっ、ね――えっ、立花さんっ!。・・・訳がわかんないよお、僕は・・・僕わああぁぁ―――っ!!』
両手で顔を覆いながら、緒方は半狂乱さながらに絶句していた。
予期せぬ父との出会いに高鳴る胸の鼓動。そんな束の間の喜びから一転、一気に奈落の底に突き落とされたかのような絶望感で溢れかえっていたのだろう。それ程、緒方健一にとっては、トウチクへの願望が強かったのだ。
『―――緒方くん―――っ!』
成す術もなく、立花にしてもその場に立ち尽くすしかなかった。
『おじさ――ん。・・・ごめんね、僕は・・・帰る・・・よ。もう、帰るしかないんだってさあ・・・』
ゼンマイ仕掛けの人形のように、緒方の目線は定まることを知らなかった。
『あ―――ありがとうございましたっ―――!』
そんな緒方を呆然と見つめながら、店主がお決まりの台詞を返した。
『ああっ―――、勘定はそこの彼に任せたから。じゃあ・・・』
立花が、さも当然のようにその場をすり抜けた。
残された父を見捨てるかのように、二人は当たり前のように店の暖簾をくぐって出て行った。
『あ、あんちゃん、―――大丈夫かい?』
床に伏せたまま身動きしない父に、心配そうに店主が声を掛けた。
『・・・。ああ、なんてことないさ・・・』
ようやく起き上がってきた父の顔は、おびただしい血で染まっていた。
『―――さあ、これで血を拭いなよ』
『――――――』
おしぼりを差し出す店主の手を払いのけて、父は席に着いた。
『大将、―――酒くれよ』
『大丈夫なのかい、あんたっ―――?。それとも警察呼ぶかいっ―――!』
『いいんだ・・・気にしないでくれよ。こんな茶番・・・みっともなくてさ・・・』
そう嘆きながら薄笑いを浮かべる父は、店主の用意した徳利を握り締めるとそのまま口に運んだ。
『痛っ――っ!・・・沁みるなあ』
『さっきのお兄ちゃんたちとの関係は知らないけどさ、あんたー――』
『黙っててくれよっ!・・・悪いけど・・・大将・・・』
『あっ・・・ああ』
『それよか、お代わり頼むわ―――』
特大の徳利をあおり続ける父の目からは、鎌倉に来たことを後悔しているようなそんな憂いが漂っていた。
それもそのはず―――。あれほどまでに夢中になっていた緒方との再会は、父にとっても特別な夢の置き場所となっていたからだ。
半ば、家族を捨てたも同然の鎌倉への訪問。しかし、いざ蓋を開けてみると、信じがたい緒方健一との軋轢を生じさせてしまった。いや―――、それ以上の絶望感を生んでしまったという方が正しいのかも知れない。
『―――へへへ・・・っ、どうに・・・でも、・・・なれ・・・てかあ・・・』
ついに酔いつぶれた父は、空の徳利をむやみに揺らしながら、独り言のように呟き返していた。
『あんちゃん・・・悪いんだけどさ、・・・もう、店閉めるから、いい加減帰ってくれないかなあ・・・』
遠慮がちに店主が、父の退席をほのめかした。
『ふっ・・・ごめん・・・ねえ・・・大・・・将っ・・・』
おもむろにポケットから掴み出した数枚の一円札をばら撒くと、父は危うい足元を躍らせて席を立った。
『そ、そんなには要らないよおっ―――!あんちゃんっ』
『へっ・・・迷惑・・・料だよ・・・』
真っ赤に染まった手を二・三度振りながら、よろりと父は店をあとにした。左右によろめく身体を引き摺るように、行く宛も無く大船の夜の街を彷徨い歩いたのだ。




