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鎌倉にて

『立派な感性をお持ちのようだわね。あなた、お名前はなんていうの?』

『小森靖志さ。靖国の靖に、志って書くんだ』

『そう、立派な名前だこと。国を案ずる志を持つってねえ・・・』

『ところでお婆ちゃんの名前は?』

『立花小夜子っていいます。小さい夜の子って書くのよ』

『へえ――っ、小夜子さんかあ。そりゃ魅惑的だよな、求愛の音楽でしょ、“小夜曲”てさ』

『あらまあ、よく知ってるわねえ。感心、―――感心』

流石、音楽を志すだけあって、父の教養の一部分が開花していた。

『大船ってさ、結構大きな町なのかな?』

『そうね、交通の便もあってまあまあの賑わいようだわ。あら、靖志さん知らない?、大船には松竹の撮影所があるのよ。その関係もあってね、役者さんや監督さんも大船に住む方が多くなったわ』

『なんだそうだったの。へえ――っ、いかした町じゃんか』

『あたしが嫁いできた頃なんてね、何にも無い小さな村だったのよ』

『ふ――ん、でっ、そもそもどうして上尾からなんだよ、小夜子さん?』

『そうねえ・・・。娘時代に旅行で立ち寄ったの、この鎌倉にね。そして何故かしらあの人と出会ったのよ』

『出会ったって、何処で?』

『小町通りの茶店に寄ったの。散々、歩き廻ったでしょ。二人とも甘いものが恋しくなったのね』

『は――ん。その茶屋で偶然出会ったんだ。そして、見初められたってことだな』

『声を掛けられたの。あたし達がよそ者だって分かったみたいだったわ』

『よくある光景か。つまりガール・ハントだよな』

『ガール・ハントって・・・?』

『なんだよ、小夜子さん知らないの?。あのね、ガールって少女って意味でさ、ハントは、“狩る”って言葉なんだよね。つまり、少女狩りってことさ?』

『そんなに危ない目に遭った覚えはないわよ。単に声を掛けられただけだわ』

『近頃はそう言うんだよ。遊ぶ女目当てに声を掛ける輩ってことさ』

『そんなに野蛮な男性が蔓延っているの、この頃は?』

『ああ、米軍の奴らの影響さ。好き勝手にこの国の女性を弄んでるのさ、いい加減にしてもらいたいよな』


―――戦後間もなく、この国の治安の悪化は加速度を増していた。暴力に台頭した愚連隊の対抗に、地元のやくざが黙っているはずもなかった。小銭稼ぎに毎夜、各地で小競り合いが繰り返されていた。

そんな事態を尻目に、相次いで巻き起こる婦女暴行事件。我が国に駐在する一部の米軍兵士の放漫な行動が、夜の酒場に悪臭を撒き散らせていた―――。


『横須賀辺りじゃさ、米兵の好き放題って聞いてるよ』

『やっと、戦争が終わったっていうのに、物騒な世の中になったものねえ・・・。あなたもね、そんなことに手を染めたりしないでちょうだいな』

『ははっ、おれは大丈夫だよ小夜子さん。こう見えたって妻と二人の子供がいるんだぜ、今さら浮ついた気持ちになんてなれないだろ?』

『あら、そうなの。じゃあ立派なお父さんなのねえ。あなた』

『立派だなんて、そんな言われ方すると照れちゃうもんだよなあ・・・。実際』

この時の父には、僕たち家族を置き去りにするなんて気持ちは、微塵もなかったに違いない。そう、間違いなくそうであって欲しかった。

『それでどうしたの?、旦那さんの口説きを受けたの?―――小夜子さんは』

『受けるわけないでしょ、だって、あたしなんて蚊帳の外だものねえ』

『んん、―――蚊帳の外?』

『最初なんてそれは乱暴な口ぶりで、まるで野蛮人を思わせるほどの悪印象だったわね、あの人。そう、大嫌いだったわ・・・とても』

『大嫌いってさあ・・・。それじゃあ、なんで一緒になったんだよ。まるで話しが纏まらないじゃんかよお?』

滅多に他人事に口をはさまない筈の父が、この時ばかりは勝手が違っていた。


『だって、とても雑な扱いを受けたんだから。ホント、信じられないくらいのね』

『信じられないってさあ、いったいどんな扱いだったのさ?』

『もう、あの人ったらね、あたしの連れの友達にばかり言い寄るのよ。佳代ちゃんて言う可愛い娘でね、あたしの幼馴染だったの。それはお人形さんのように色白でね、近所でも評判の娘だったわねえ』

『なんだ、その佳代ちゃん目当てだったんだ。結局さ』

『そうでしょ、あたしも最初の頃はそう思ったの。だって、誰が見たって彼女の方が美形だもの。そんな当たり前のことに気付かないほど、鈍感な女でもなかったつもりよ』 

『へえ、最初は違ってたんだ。小夜子さん目当てかと思ってたんだけど』

『あの人、佳代ちゃんにばかりひいきにしてさ。あたしのことなんてまるで無視だったのよ。迷惑な話よね、佳代ちゃんとの思い出の二人旅に無理やり割り込んできてさあ・・・。あの人ったらね、あたしたちの鎌倉滞在中ずっと付いてくるの、それはしつこいくらいにね』

『へえ、そうなんだ。でもさ、小夜子さんのことも少しは気にかけていたんだろ?、旦那さん』

『そんな風には見えなかったわ。まるであたしのことなんて邪魔者扱いだもの』

『だって、現に一緒になったんだろ?。小夜子さんに気を許したからに決まってんじゃないのかよ?』

小夜子さんの思い出の語りに、父はいつしかのめり込んでいた。


『結果としてはそうよね・・・。でも辛かったわあ。あの人、あたしの目なんて見てくれていなかったものね。こんなにもときめいた思いを酌んではくれなかったの』

『ときめいた・・・ってさあ・・・?。小夜子さん大嫌いって言ってたじゃんか、さっきまで旦那さんのこと』

『そうよ、とても大嫌いだったわ』

『ち、ちょっと待ってよ!、なんか話が乱れてない?。嫌いだったり、ときめいたりってさ、一体、どっちが本物なんだよ!』

小夜子さんの定まらない口調に、いささか父の心中も穏やかでなかったようだ。

『どちらも本物だったわね。大嫌いも大好きも同居させられるものなのよ。靖志さん』

『へっ、同居ねえ・・・?』

『あたしが口を開くとね、必ずあの人が言うの、“お前は黙ってろ”って。佳代ちゃんばかりに笑顔を振りまいてさ、辛いったらありゃしないわ』

『ん――っ、いまいち理解できないんだよなあ、その辺がさ』

『乙女心ってそんなものなのね、理屈じゃないのよ。だってあの人ね、今まであたしが出会ったことのない男性だったの。とても強引で、とても素直で、とっても大らかな心根を持ってる人だったの』

まるで現役の乙女のように、小夜子さんがはしゃぎながら父の顔を見た。

『小夜子さん・・・て、可愛いよなあ』

『いやですよお・・・、からかわないで頂戴。見たとおりの、もうお婆ちゃんですよあたしは』

『それで、どうして一緒になれたんだよ。佳代ちゃんにふられたの旦那さん?』

『佳代ちゃんに耳打ちしてたの、あの人ったらねえ・・・』

『もったいつけないで言ってくれよお―――。つまり、佳代さんに惚れてたんだろ?、旦那さん』

『確かに佳代ちゃんに入れ込んでいたように見えたわ。けど、違っていたのね。あの人、案外と照れやさんだったのね。あたしと正面きって話ができなかったようなの、馬鹿みたいでしょ。それを佳代ちゃんに白状してたのね』

『なんだよ、だらしないなあ。男ならびしって言えばいいだろう!』

『佳代ちゃんの口から伝えてもらっても、あたしは素直になれなかった。それならそうと言って欲しかったの。女心ってね、曖昧な態度と言葉じゃ納得なんて出来やしないものなのよ。そうでしょ、靖志さん?』

一転、世の男性を叱咤するかのような、強い女の顔を見せた小夜子さんだった。

『いやっ、おれに言われてもさあ』

『ごめんなさいね、あなたに罪はないのにねえ。ほほほっ』

『それで結ばれたって訳だ。ねっ、小夜子さん』

『それはまるで運命的な出会いだったわ。人を愛するって生まれて始めて知ったのよ。17歳の秋だったわねえ。あの頃はまだ無垢だったからねえ。それは半端な気持ちじゃいられなかったわ』

『そんなに情熱的になったんだ、小夜子さん』

『あの頃はね、大抵、決められた男性との婚姻が当たり前の世の中だったからね、あたしも地元の男性との見合いに従うつもりでいたのよ』

『なんで?、恋愛の自由ってものがあるだろ?』

『そんな時代だったのよ。あなたの年頃には理解なんて出来やしないわよねえ。そんな狭い世の中だったのよ』

『じゃあ、縁談を蹴ったってこと?』

『逃げ出すようにね、黙ってこの地にもぐりこんだの。それは必死だったわ』

『駆け落ちってこと?』

『そういうことになるわね。よもや故郷を捨てたんだからねえ・・・』

『なんだか辛いよなあ。そんな時代があったからこそ、今のおれ達がある訳だ。なお更、小夜子さんには感謝しないとね』

『あなたにそう言ってもらえると、あたしの人生も少しは掬えてもらえるような気がするわよね。ありがとうさん』

『そんな大袈裟でもないだろ、恐縮ものだって小夜子さん―――!』

それから父は、小夜子さんとの会話を繰り返しながら、ようやく大船の駅前に辿り着いたのだった。


『ありがとう小夜子さん。無理やりこんな男に付き合ってもらってさ』

『いいえ、とても楽しい時間を過ごせた気がしますよ。鎌倉滞在中は、どうかご自愛くださいな』

『はい!、もちろんっ!!』

『それでは失礼しますね。小森靖志さん』

『お元気で、小夜子さん。いつかまた会おうね!』

大船の駅前通りで、互いに手を振りながら名残惜しそうに、左右に歩き出した二人だった。



―――『ねえお兄ちゃん、お父さんと出会った小夜子さんて、―――もしかして昨日のタバコ屋のおばあちゃんじゃないのかな?』

『ああん?、電話を借りたあの婆さんのことか?』

『そうだよ!、小夜子おばあちゃんだよ、きっと―――!』

運命のめぐり合わせとはよく言ったものだ。10年前の父の思い出の中に、今、僕たち兄弟が踏み込もうとしていた。

『偶然過ぎやしねえかあ?。話が出来すぎてるって、お前なあ』

『だってさ、小夜子さんの年齢もそれらしいじゃないか―――っ!。そうじゃないの、お兄ちゃんっ!?』

『な、なんだよお、そんなにむきになんなよな―――』

珍しく僕は、兄に向けて言い迫っていた。

『あっ・・・、ごめん』

父に係わったとされる人物には、僕の中ではどこか憧れの想いが強かったんだと、そう感じていた。だから、父に係わった実在の人たちを、否定してもらいたくなかったのかも知れない。

『じゃあ、帰りに寄って訊いてみようぜ。その小夜子ばあさんによ』

『えっ?、ホント、いいのお兄ちゃん!』

『な――に、それくらい楽勝だぜ』

いつもなら皮肉物の兄が、次第に素直さを見せていた。

『ねえねえ、続きがあるんだろ?、早く聴かせてよ、孝子さん』

待ち通しそうに兄が、孝子さんを煽った。

『あら、そんなにあの人に興味があったのかしら、強志くん?』

『親父になんて興味ねええよ・・・。おれは小森ゆうじが気になってんだ』

『素直じゃないわね、強志ったら』

『―――いいから早くやってくれよ!』

『はいはい、ご要望とあればどんどん続けなきゃね』

意気揚々と、孝子さんが更に身を乗り出した。父のその後の動向が次第に明らかにされていくのだった。



『う――ん、何処も日が落ちないと判んないもんだよな、飲み屋街って』

ネオンの要らない時刻の繁華街は、まるでゼンマイの切れたおもちゃ箱のように静まり返っていた。

『有名なキャバレーって言ってもな・・・』

所在地さえおかまいなしの安田の無責任な対応に、案の定、不満を隠しきれない父だった。

『仕方ないよな・・・。は――あ、時間を待つとするか』

目に留まった公園のベンチに腰を降ろした父は、おもむろに腕を組みながら自身の言葉通り、時を待つことにした。

やがて日が暮れるのを待てば、いやでも夜行性の輩が自然とその道筋を灯してくれる。そんなネオン街の法則には、とても従順な父の発想だった。

『 “緒方健一くん。君には裏の顔なんてあるのかな―――?”。いや、駄目だなこんなんじゃ、そう、硬すぎるし唐突だもんな。う――ん・・・。“緒方くんさ、正直に言ってもらいたいんだ。この先もクイーンでやってくれるよな―――?”。ふ――っ、駄目だ、どれもおれの柄じゃないよなあ・・・』

妙に独り言を繰り返す父は、緒方に接する心構えを習得中だった。

『当たって砕けろだよな、実際』

“下手の考え休むに似たる―――”とはよく言ったもので、まさに父の思案はその限界を超えていたようだった。

『さてと、ぼちぼち言い頃合だよな』

灯り出す街頭の眩しさが、辺りの暗さに反発するかのように光を提供してくれていた。それはまるで夜の訪れを迎え入れているかのようだった。

そしてついに父の足が動き出した。あれほどまでに夢に見た緒方健一の待つ、ここ鎌倉大船の一角を探すべく。



歓楽街を歩き回る父には、すでに熊谷に戻る気配は失せてしまっているようだった。華やかな歌の世界に舞い戻れた実感が、今までの平凡な生活を反故する結果となることを、この時はまだ気付かないでいたのだ。

『キャバレーかあ・・・。本当にあんのかねえ?、こんなこじんまりとした町にさ』

東京の街を経験している父にとって、地方の歓楽街に構える施設を探し当てることなんて、造作もないと高を括っていたに違いない。たかが数人の通行人を呼び止めて、その場所を訊き出せるくらいにしか思っていなかっただろう。

『ああ、ちょいとごめんなさいよ。この辺にさ、キャバレーってあるだろ?』

『キャバレー・・・?。そんなもの知らないねえ』

『あ、そう。それはどうも・・・』

まず一人目は外れのようだ。

『そこのお父さんさ、キャバレーって何処にあるのかな。結構、有名なとこらしいんだけどさ』

『ううん、キャバレー・・・?。何を食わせてくれるとこなんだ、その店って?』

『ああっ、ご存じないみたいだね・・・。ありがとう』

そして2人目も空振り。

『ねえねえ、この辺りにキャバレーがあるって聞いたんだけど。知らないかなあ?』

『キャバレー・・・、この大船にかい?』

『そう、大船に』

『う――ん、聞いたことないな』

『お兄さん地元の人だよね、心当たりないかなあ』

『そうそう、その角を右に曲がってまっすぐ行けくとね、左手に赤提灯のぶらさがってる店があるんだけど。昔っからやってるからさ、そこの親父にでも訊いてみれば?』

『赤提灯かあ・・・。どうもありがとう』

3人目にして、ようやく明るい兆しが見えてきた。

『赤提灯、赤提灯っと』

そう呟きながら、父は小走りで赤提灯の店を目指した。

『はは――ん、あの店だな』

確かに、大きく立派に灯っている赤提灯が、父の眼前に浮かんでいた。

『おでん・・・処・・・旬って?、この時期にかよ?』

赤提灯には大きな文字で、“おでん処旬”と書かれていた。まさに冬の代名詞ともいえる“おでん”の文字が、この夏場に堂々と店先に吊らされていた。


“ガラガラッ―――”躊躇なく父は、その店の扉を開いた。

『邪魔するよ!』

『へいっ、いらっしゃい!!』

『あのさ、ちょっと―――』

『お一人さんかい?。どこでも好きなところに座ってくれよな。見たとおり今日は暇だからさ』

『ああ、あのさ―――』

『飲みもんは酒でいいかい?、一合、二合どっちだい?』

『いやっ、あのさ大将―――』

『客のくせしてなに遠慮なんかしてるんだよ、どうぞ入んなよお!』

『―――ああ、そうだな・・・』

店主の勢いに押されて、父は入り口付近に着席した。

『地元の方かい、お兄ちゃん』

『いや、熊谷さ埼玉の』

『へ――え、そりゃ遠くからご苦労様だよね。でっ、観光かなんかで来たのかい?』

『いや、出張だよ』

『そりゃまたご苦労様だねえ。こりゃ、奮発しないといけないよなあ』

軽快なお喋りと愛嬌の旺盛な店主。次第に、父の調子も上がっていった。

『大将さ、なんでこの時期に“おでん”なんだよ。ちょっと無理があるんじゃない?』

ついさっきまで店先で首をかしげていた父が、やはりそこに突っ込みをいれた。

『なんだよ、あんたも無知の類ってやつかい・・・』

『な―――っ、無知ってなんだよいきなり!。そんな言い方ってないだろ?、大将さっ!』

予告なしの店主の駄目出しに、無論、父が黙っているはずもなかった。

『気を悪くしないでくれよお兄ちゃん。俺の店の都合ってものもあるんだよ。けどね、仕方ないんだよね・・・。熱い食い物、特におでんなんてさ、あらかた冬場の食い物って決めつけてられてしまうものさ。そう、世間じゃ当たり前の話だ。けどね、じゃあ、うどんや蕎麦はどうなるんだよ、味噌汁だってさそうさ。年中、熱々をいただいてやしないのかい?。ねえ、お兄ちゃんよ』

『それはそうだけどさあ・・・。なんだか不自然じゃないのかなあ?』

『まあまあ、そう言わず喰ってみてよ、うちのおでんさあ。お兄ちゃん、嫌いなタネはないのかい?』

そう言いながら店主が、おでんの入った釜から幾つかを皿に盛った。

『自慢のおでんさ、どうど召し上がれ!』

『ああ、ありがとう』

『出張ってさあ、どんな仕事をしてるんだいお兄ちゃん?』

『ああ、歌い手さ。とわ言っても、へへっ―――まだ駆け出しだけどな』

敢えて駆け出しと言い回した父の内心には、再出発に賭けた意気込みとともに、僅かながらの謙遜の思いがかけ合わされていた。

あれほど傍若無人だった父の面影は、既に過去のものとなっていたのだ。

『へえ、そりゃ先が楽しみだ。ははっ、いつか有名な歌い手になって欲しいもんだよなあ。ところでお兄ちゃん、名前は何て言うのかな?』

『小森ゆうじって言うんだ』

『小森ゆうじかあ・・・。でっ、持ち歌ってあるのかい?』

『へへっ、夢浪漫って曲さ』

『ほ―――っ、大した題名じゃないかよ。そりゃ相当いい曲なんだろうね。―――ほい、お待たせ!。二合、冷でよかったよな?』

『ああ、どうも』

『あ―――、そういえばさあ、夕べもお兄ちゃんと同じ歌い手って人がね、そこの席に座ったんだけどさ。ここ一週間に数日、顔を出してくれているんだけど』

『えっ―――、歌い手って?』

『ああ、二人で来てくれてるんだけどね。一人は、結構若手だったなあ―――。何でもその先のキャバレーで歌ってるって言ってたけどさ』

『ええっっ!、キャバレーっ―――!?』

歌い手の情報に加えて、ついにキャバレーまでもが飛び込んできた。

『どうしたんだよ、そんなに驚くことなのかい?』

『そのキャバレーって、何処にあるのっ!!』

『ああっ・・・、店を出て左手を少々歩くとね、こじんまりとした三叉路に出るんだよ。その真ん中を突っ切ると見えるよ。“グランド・キャニオン”って看板が大きく目立ってるからさ、すぐ分かるんじゃないかな』

『そうなんだ、ありがとうっ―――!』

コップにつがれた酒を一気に飲み干すと、父は急いで席を外した。

『大将、御代はいくら?』

『ええっ?、どうしたんだよ―――。もう終いかい?』

『そのキャバレーにさ、おれの探してる連れが居るんだよ。悪いけどそっちが優先なんだよな』

逸る気持ちを抑えながら、父は店主に気遣いを見せていた。

『じゃあ、おでん喰っていかないのか?』

『用件が済んだらまた戻ってくるからさ。ごめん急いでるんだ―――』

『はあ―――っ、なんだよ、熱々が美味いのにさあ』

皿に盛られたおでんを眺めながら、大将が力なく溜息をついた。

『絶対戻ってくるから。ホント、悪いね大将っ!』

そう言いながらすまなそうに両手を合わせ、父が店主に御代を渡そうと立ち上がった。


“ガラガラッ―――!” と、その時だった。勢い良く店の扉が開かれたのだ。

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