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いざ鎌倉

『―――いいから取りあえず鎌倉に行ってくれないか。なあ小森よお?』

『そうわ言ってもさあ―――』

『緒方のことを託したいんだよ。お前にさ!』

『・・・・・・』

執拗に迫る安田の言葉に、父の理性は微妙に揺れ動き始めていた。

『緒方の歌には確かに華やかさはあるが、その実、真実が一向に見えんのだ。既にお前にも解ってはいるだろうけどな・・・』

緒方に対する安田の意味深な一言だった。

『真実って―――?』

『なあ小森よ、お前にとって歌うこととは何だよ?』

『え―――っ、今さらってかあ?』

『今さらもこれからもないだろうぜ。人生を賭したお前の全てだろうがよおっ!』

『あ、ああ―――っ、つまりはそうだけど』

『奴は違うぜえ―――、緒方は歌を弄んでやがる。け―――っ、おそらく我が身の出世欲のためだけに楽しんでやがるさ』

『――――――っ!』

『まあ、奴の歌への情熱なんて語ったところで、今更、俺たちに利点なんてあるわけもないしな。まあ、こう言う俺にしたってさ、奴を担ぎ上げて儲けたいばかりだもんあ』

まるで独り言のような安田の語り口には、ある種の効果を狙っているようだった。


『―――緒方くんはそんな男じゃないぜ。安っさん、あんたの見立ては相当間違ってる。色眼鏡で人を判断するなってよおっ!』

やはり父の思いは緒方側を誇示していた。しかしそれは安田の思う壷でもあったようだ。

それは、父の保持する緒方への期待感を逆撫ですることに特化していた。安田の口にする悪玉、緒方を引き合いに出すことで、父の自尊を揺すぶるのであった。


『立花だけじゃどうも心配でな、緒方の営業が一段落すれば、そのあとはお前の自由でいいんだ。郷里に帰るなり、ここに残るなり好きにすればいい。なあ小森よ、高々―――人生の中継点だ、大袈裟に考えなくてもいいんじゃないか』

無理矢理にでも父を手元に置きたい安田は、続いて条件の緩和を示唆していた。

『あのね・・・安っさん。これが大袈裟でなくて何なんだよ。亭主が家族と仕事をほったらかしてさ、他所で別のことをしてんだぜ。おかしいだろっ!』

『―――今だけを見ればな、確かにとんだ亭主だと思うぜ。けどな、夢を必死で追いかけている男に、後ろ指なんて指される筋合いでもないだろ?』

『そりゃそうだけどさ―――』

ついに詭弁さえ持ち出した安田の一言だった。


『ははあ――ん、そ――か。お前には―――つまり、帰らない理由が欲しいんだな』

さらに食い下がる安田は、意味深に呟き始めた。

『なるほど、なるほど―――。それじゃあ、体のいい文句を貸してやろうじゃないか。いいか、一語一句違わせるんじゃないぞ。正確になぞるんだ―――いいな』

そう前置きしてから、おもむろに安田が手の甲に顎を押し当てた。それはまるでロダンの“考える人”―――を彷彿させるかのような姿だった。

『ふ――ん、うん。いいか―――言うぞ』


“――クイーン・レコードの安田って社長がさ――、おれを欲しがっているみたいなんだ―――。何でも――今の給料の二倍――、いやっ、三倍を支払ってもいいって言ってくれてるんだよ―――。おれも、歌の世界で――もう一花咲かせてみたいと思ってるんだ―――。一ヶ月後には迎えに行けるだろうから―――、もう少し待っててくれないか―――”


『―――ってなあ―――。どうだよ、これならお前の女房だって頷くはずだろうが?』

納得性の強い魅力的な文言が、父の代弁として即興で披露された。

『―――!、そ、そんなに貰えるのか?』

『真に受けるなよ、そんなに出せる訳もなかろう。実力も査定出来ていない者に会社はそう甘くは無い』

『はあ・・・っ、なんだ方便かよ』

『そう気を落とすな。そうは言ったものの、お前には期待感でいっぱいだ。但し、7年前の小森ゆうじ―――であるとすればの、話だけれどな』

安田の正直とも聴こえる言葉の数々に、その熱意に、まるで父は催眠術にでもかかっているかのように従順になっていた。


『緒方を任せてもいいんだな、お前に?』

『ああ、おれの気にする大部分でもある訳だしな―――』

あの日の緒方健一との出会い以来、強く抱かれた父の思いが成就しようとする瞬間でもあった。

家族を捨てるなんて意識は、この時の父には一切なかったと思いたかった。母と僕たち兄弟を迎え入れるその日が来るのだと、父こそ、その覚悟で突き進んだに違いなかった。


『安っさん―――おれの歌、今、聴いてもらっていいか?』

『―――ああ、そのつもりだ』

まだ人気の少ない駅前の路上で、父は大きく深呼吸を整えて静かに目を閉じ、そして口を大きく開いた。


“グラスの底に――沈んでーいるのはあ――、清らなかあ――色の――ワインー、そして止まない――わたしのー心配癖え――”

そう、歌い出した曲は、もちろん―――“夢浪漫”だった。


“飲み干そうと――口元にー運ぶけど――、すでにー思いーい、くちびる――。

空にならなー―いグラス――、そっと片付けられて――え――。溜まったわたしの――お、沈痛おもいと――いえば――、愉快に傾く――う、嘲笑わらいに――消えた――あ。

記憶の――おー隅でえ――、揺らぐもの――お、切ったはずの――命の緒があ――あ、心から――離せ――なーい、刹那――あーちぎれない――い、あなーたから――あ、外れた――はずのお――ー、それは――あー、未練んーーなのでしょうか――あ、それは――あー、幻想ゆめ――なのでしょうかあ―――――――――“


“パチパチパチッッ―――”

“パチパチパチパチパチッッッ―――!!”

“パチパチパチパチパチッッ―――!、パチパチパチパチパチッッッ――――――!!”

いつの間にか路行く少数の通行人が、立ち止まって拍手を送ってくれていた。


『あっ、どうも・・・ありがとう』

照れ臭そうに深々と頭を下げる父だった。

『本業を目指してるんだろ、―――頑張れよ!!』

『あんたいい声してんな、期待してっからよ!』

『朝一番にいい歌聴かせてもらったわ。ありがとう―――』

数人の励ましの声に、父は満面の笑顔で応えていた。こうして不特定の人前で歌を披露するなんてことは、父の中では既に終わっていたことだった。

『あんた、名前なんて言うんだい?』

『あっ―――、はい、小森ゆうじっていいますっ!』

『小森・・・?、はて、聞いた事のあるような無いような・・・。まあ、頑張れよなっ!。おいらも応援してっからよお!』

『あ、ありがとうございますっ!!』

再び深く頭を下げる父の胸の内にあっては、じわじわ―――と、失っていたはずの歌手魂が徐々に再生されていくのだった。

『なあ小森よお、こうしてありがたい支持を受けるなんてなあ、しみじみと歌い手冥利に尽きるってもんだ』

感慨深そうに、安田がぽつりと吐いた。

『やめられないよな―――、実際』

『そりゃ、そうだろう。その拍手をもらえば、中毒患者にもなるぜ』

『うん、なるな―――』

迷いを断ち切ったように、父は晴れやかにその場に直立していた。


『そろそろ事務所に戻るか?』

『そうだな、そういう流れだもんな』

“流れ―――?”と、それはついに父の決心が固まっている証拠だった。追いかけていた夢の再出発が、ようやくこの時定まったのだ。



―――『ひと段落したら帰るから、心配するんじゃないぞ―――ああ、工場長の秋葉さんにはちゃんと伝えといたから、しばらく休暇をもらえないかって。―――ああ、分かってるって、来週には戻るから。―――うんうん、そういうことだ、じゃあな、切るぞ』

母との電話を切り終えた父は、やっと安心したのか事務所のソファーにだらしなくもたれかかっていた。

『どうだった、女房も納得してたろ?』

その会話を傍で聴いていた安田が、満面の笑みを近づけながら言った。

『納得までは無理だよ。しぶしぶってところかな』

『は――ん、亭主の夢の手伝いが出来るんだぞ。光栄に思わないとなあ』

『仕方ないだろ、クイーン・レコードって知名度ないんもんな。そりゃ不安にもなるさ、うちの奴もさ』

『う――ん、それは否めないな』

あっさりと安田が折り合いをつけた。

『で、明日からでいいんだよな、鎌倉だっけ?』

『ほ――っ、いいのか?。お前、忘れちゃいないだろうな、鎌倉には立花が待ってるんだぜ?』

『そんなことは承知で行くんだ、それが安っさんの狙いでもあるんだろ?』

『ちちっ!、勘付いていやがったな、お前よ』

『だらしない呑ん兵衛の考えそうなこった。筋書きも何もあったもんじゃないね』

安田の思惑を感じてていたのだろう、既に父の中には覚悟の文字が住み着いていたのだった。


『―――で、立花に会って何と言うんだお前は、今までの恨みつらみを被せるのか?』

『奴相手にもう喧嘩なんて御免だよ。しかも、もう7年以上も経ってるんだぜ、時効の成立ってことだよな』

『ふ――ん、そんな簡単にいくもんかねえ』

『難しくしたって仕方ないだろ。だって、あんたが行けって言うんだ、そう割り切るしかないだろ?』

『はは――っ、そりゃごもっともだ。俺がとやかく言えたもんじゃないよなあ』

まったく安田という男、掴みどころが無いうえに、経営者としての資質さえ疑い深いものがあった。


『明日、何時に出ればいいんだよ?。そもそもさ、先方には話なんて通ってんのか?』

『はは――っ、急に決めたことだからな、段取りなんてある訳ないだろうが』

『はあ・・・っ?。あのさ、経営者としてどうなのさ。安っさん』

『どうもしないぞ、これが俺流の経営だからな。嫌なら去ってもらって結構。従えない者とは仕事なんて出来っこないだろう?』

あっけらかんと述べる安田の経営理念は、実に自由・・・、いや、大いに淡白で質素ともいえるものだった。



『鎌倉のキャバレーに居るからよ、奴等に会ってこいよ』

『キャバレーって?』

『鎌倉のキャバレーって言ってるだろ、分からないのかお前?』

『だからあ、何処のキャバレーなんだよ!。話の展開が無茶苦茶なんだよね安っさんさ。普通言うだろ、どこそこの何ていうキャバレーとかさ?』

『馬鹿野郎っ―――。鎌倉のまともなキャバレーってな、一軒くらいしかないんだよ。行けば分かるってもんだろ』

『―――もしかして、本当は知らないって落ちじゃないよな―――』

恐るおそる、父は安田の返答を待った。


『鎌倉のキャバレーさ。それ以上は知らんぞ』

『あちゃあっ―――、やっぱりだよ、この人ったら』

計画性の無さ、経営者としての資質、そして酒依存症。どこをどう見ても、安田を正当化出来る材料は無かった。それでも父の安田に向けた想いはただ一つ。それは、飾らない人間性と、粗悪さに勝る正直さだった。


『もちろん、出張旅費を請求してもいいんだろうな?』

『ああ、当然だ』

『鎌倉までの往復と、宿泊代金は幾らなんだよ?』

『そ――だな。え――と、鉄道は往復10円くらいのもんだろ。宿泊はキャバレーの楽屋を使わせてもらうから、タダ同然だよな』

『じゃあ、20円は出せるってことだ』

『どうして20円になるんだ。列車代10円で足りるだろう?』

『だってさあ、食事手当てくらい出したっていいだろ?』

『お前な、飯代なんてのは自腹に決まってるだろうが。それでなくてもうちの財政は貧窮してるんだ』

『あのね、だったら何でジュニ黒なんて高級酒飲んでるんだよ。その方がよっぽどの贅沢だろ?』

『せめてもの役員報酬だ。何が悪い?』

『役員報酬・・・?って、よく言うぜ―――』

『つべこべ言わないで、とっとと行ってくればいいんだよ!』

そう言って安田が、引き出しの中からおもむろに取り出した1円札の束を、数える訳でもなくテーブルの上に重ねた。

『ええっ、多くねえかよ?』

『いいから持ってけ、少ないよりましだろが?』

『そりゃそうだ、ありがとう安田社長!』

『へっ、社長だなんておべんちゃらは御免だ。けどな、しっかりとやってくれよ小森。せいぜい俺の期待を超えてくれよな』

『はい、かしこまりました!!』

父の威勢の良い返事が、安田の耳に心地よく突き刺さっていた。この日、クイーン・レコードの新生、小森靖志の誕生の時であった。



茜色に染まった夕刻の駅の改札口は、帰宅に向かう人々で溢れていた。

『はぁ――っ、一体、何処に向かえばいいんだよ?』

やはり思った通りだ。鎌倉駅に着いた父は、西も東も判りっこないままに辺りを見回すことでやっとだった。

『鎌倉でまともなキャバレーかあ・・・』

安田の言葉を頼りにするものの、“まとも”っていう基準さえ曖昧過ぎていた。

『繁華街だよな、きっと』

判り切っているにも係わらず、意外にも父の隠された小心さが、その足を止めた。

『はて・・・?、どうしたもんか』

他人に助けを乞うことが元来苦手な父は、しばらく駅前を歩き回るしかなかった。過去、自力でなんでもこなしていた父にとって、世間ではなんら普通とも思える道訊きの行為が、とてつもなく億劫だったのだ。

『ええい、どうにでもなれってなあっ!』

一瞬、自尊を捨てた父は、丁度目の前を歩く一人の老婦人に言葉を預けた。


『ち、ちょっと―――、あのさ、道を尋ねたいんだけど』

『えっ、はあ?』

『この辺でさ、有名なキャバレーってどっちへ行けばいいのかなあ?』

『はあ・・・。キャバレーってねえ?』

まったく訊く相手を選んでいないようだった。それほど父の判断は鈍っていたのだ。

『ちょいと待っておくれよ』

そう言うとその老婦人は、辺りを歩く者を物色しはじめた。

『ああっ、そこのお兄さん。少し道を尋ねたいんだけどね、いいかしら?』

『どうしたのお婆ちゃん?』

『この辺で有名なキャバレーって知ってるかしら?』

『えっ?、キャバレー・・・て?』

『そう、キャバレーよ。知らない?』

『う――ん、この辺じゃ聞かないよな。―――あっ、そうそう、きっと大船の方じゃないかな』

『ああ、大船ねえ。そう言えば飲み屋さんが沢山あるわよね』

『うさんくさい店も相当あるからさ、お婆ちゃん気を付けたほうがいいよ。けどキャバレーなんて優雅じゃないの。羨ましいな』

『あら、あたしが行きたい訳じゃないのよ。この人が探してるみたいなの。ねえ?』

背後で他人行儀に突っ立ていた父に、その老婦人が振る返るとすぐに念を入れた。

『ああ、ごめんよお婆ちゃん。つまんない世話を掛けたね』

『いいえ、どういたしまして。お役に立ててよかったわ』

『何だ、親子じゃなかったんだお二人さんたちさ』

通行人の男が迷い無く言った。

『はいはい、そうじゃございませんよ。何たってね、ついさっき出会いましたからね。この人とは』

立ち去ろうとするその男の言葉に迷惑振ることもなく、老婦人が穏やかに話を明かした。

『いや――っ、紛らわしくさせてしまって申し訳ない。で、その大船っていう処に行けばいいってことだよな』

通りがかりの老婦人の配慮を受けて、父の目的とする場所が定まったようだ。


『さてと、大船に行くとしようか。うん、大船だよな・・・』

さもその場所を知っているかのように、父が軽く頷いて見せた。

『あらあら、あなた案外と土地勘があるのねえ。それはひと安心だわ。どうか気をつけて行ってらっしゃいな』

『ああ・・・、あの・・・お婆ちゃんさ』

『まあまあ、お礼なんていいのよ。気にしないでちょうだい』

『いやっ、はは・・・っ、実はね・・・始めてなんだ鎌倉ってさあ。で、その大船ってどう行けばいいもんだろうか・・・?』

見栄っ張りの父の本音がつい堪らずこぼれ出した。しかも小声での打診が精一杯だったようだ。

『あらまあ、この辺の人じゃなかったのねえ。それは大変失礼いたしました。よろしければご一緒にどうかしら。あたしもね、丁度、その大船に用事があるのよ』

『本当、お婆ちゃん!。いや――っ、それは助かるよなあ!』

『ふふ、こんな老いぼれじゃ迷惑じゃないのかしら?』

『迷惑だなんてとんでもないよお!。歓迎っ、大歓迎だってえ―――!!』

突然の旅先の救世主の出現に、少々、舞い上がり気味の父であったようだ。


『ところでお兄さん、何処からいらしたの?』

『うん、熊谷さ。埼玉のね』

『あら、それはそれはご苦労様だこと。で、鎌倉にはお仕事でいらしたのかしら?』

『そう、出張なんだよ』

『それはそれはお疲れでしょうね』

『へへっ、疲れたなんて言ってられないよ。なんたって大事な役目を仰せつかったんだ。社長直々にさ』

『あらあら、そんなに重要な出張なの?。若いのに偉いわねえ』

『本当は断ってもよかったんだけどね、どうしてもって言うもんだからさ、社長がさ』

老婦人の月並みの社交辞令に気を良くしてか、父のお喋りは随分と割増しされていたみたいだ。

『まあ、それは大役だこと。それならなお更、用心しないといけませんね』

『そういう訳でお婆ちゃん、道案内してもらっていいかな?』

『よろしくてよ。お兄さんのお役に立てれば、あたしにとっても嬉しいってものですよ。それも同郷のお人の道案内なんてね、余計、嬉しさも増しますよお』

『えっ?、お婆ちゃん熊谷の出身なの?』

『いいえ、上尾の出なのよ。けど隣町みたいなものでしょ?』

『なんだ上尾かあ、それじゃご近所さんじゃんか』

『そうなるわねえ。でも、なんとも言えない懐かしさが込み上げてくるみたいだわ。埼玉って響きだけで心が引き寄せられる思いですよ』

『そうか、故郷を慕う万感の想いって訳だ・・・。でもさ、何で鎌倉になんて居るんだよ、お婆ちゃんさあ?』

どんなことにでも介入を由とする父の癖は、ここにきても変わらず止まることを知らないでいた。

『嫁いだのよ、この鎌倉の人の家にねえ』

『あっそう、そりゃ良かったじゃない。旦那さんとは上手くやってるのかい?』

『そうね、30年程前までは円満な夫婦仲だったのよ。文句のつけようのないくらい幸せの真っ最中だったわ』

『―――30年前って?』

『ああっ、余計なことをついつい。御免なさいねえ、大船には歩いても小一時間で着きますからね、お喋りついでにどうかしら?』

『うん、おれは平気だけどさ、お婆ちゃんこそ大丈夫なの?』

『あたしらの年代はね、歩くことに慣れているから、どうってことはないわよ』

そう言いながらその老婦人は、細い右手にそれほど大きくはない手提げ袋を抱えて歩き始めた。


『戦争って嫌なものね。大切なものを取り上げてしまうの』

歩き始めてからほんの数分後に、ぽつりと婦人が嘆きをこぼした。

ついさっき、父に向けてその婦人の語った30年前の不都合。それは人類史上初の第一次大戦のことのようだった。

『ああ、おれの親父も戦争で亡くしたからね。それに兄貴たちもそうだったから・・・』

『どこも皆、同じ悲しみを抱いているのね。忌々しい歴史の被害者だわ。いったい誰がどう弁明してくれるのかしらねえ?』

悲惨な過去を悔やむような、そんな悲壮感はなかった。しかしその老夫人の呟く言葉の裏側には、全ての被害者の嘆きを代弁しているかのようだった。

『子供は居るの、お婆ちゃん?』

『お陰さまで4人育てましたよ。どの子も立派に家庭を持っていますからね。いつ死んだっていいくらいよ、あたしはね』

『死ぬって、そう簡単に言うなよな!。生きててなんぼさ、人間ってなあ』

『おや、殊勝なことを言うもんだね。まだ若いのにね』

『若いってさ、もう30も手前だからな。人生の半分は経験してるつもりだよ』


―――余談ではあるが、戦後すぐの我が国の平均寿命は、後に、おおよそ男性60歳、女性68歳との数値が公表されていたようだ。丁度、父の年頃は人生の折り返し地点でもあった訳だ―――。

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