鎌倉大船駅に降り立つ
『何者だよ、あいつ・・・』
感心していたのか呆れていたのかは別にして、元来、兄の口から他人を察する言葉なんて滅多にないことだった。
『お前たち知らないんのか?。ジョー片桐だよ、歌手のっ!』
山手と言う支配人が派手男の正体を口にした。
『歌手?、あいつがかあ?。歌手って言えば春日七郎とか三橋美智夫くらいしか知らないぜっ!』
『・・・。ロカビリーってなあ、今、巷で流行ってるんだよ。特にあの男は、横浜辺りじゃ有名でな。結構、ラジオでも流れてるよ。なんでも相当稼いでるって噂だ。うちもひいきにしてもらってるからねえ。仲間連れで来た時なんてなあ、そりゃあ貸し切り状態さ』
『へえ―――?、どうりで態度でかい訳だ』
『気に入られたみたいだな、お前さん!』
『おれが・・・?』
さすがに人付き合いに疎い兄だ。明日も―――なんて声が掛かる意味合いを、全く理解していなかった。
『ところでお前たち、肉は喰うのか?』
『もちろんっ!』
つい食べ物の話になると、俄然、嗅覚が敏感になった兄だった。
『焼き加減はどうする?』
『はあ?、焼き加減って・・・?』
ステーキなんて食べたことのない僕たちに、支配人の言葉は意味不明だった。
『ミディアムでいいか』
『ミディアム・・・?』
その支配人の言葉に興味を持った兄は、すかさず厨房へと足を向けた。
『これ以上は駄目だ!、客が入れる場所じゃないっ!』
支配人も、さすがに兄の行動を遮った。それでも興味の尽きない兄は、支配人の耳元で何やら呟いていた。
『ふ――っ、そうきたか・・・』
呆れた様子の支配人は、それでもどこか楽しげに厨房内に指示を出していた。
しばらくすると僕たちのテーブルへと数枚の皿が並べられた。
真っ白い皿にどっしりと盛られた、焼きたてのステーキがテーブル狭しと配置された。
『いいか、右からウエルダム、ミディアム、レアだ。まっ、平たく言うと歯ごたえの硬い順だな』
話を聞く間もなく、兄はそれぞれの皿の肉を一切れずつ順に口に運んでいた。それだけではない、別の大き目の皿には、ライスがやはりたんまりと盛られていた。黙々とそれらを口にほお張る兄の顔は、至福の時を満喫しているかのようだった。そして咀嚼を繰り返していた兄は、ようやくその反応を見せた。
『―――。美味いな・・・これ・・・』
テーブルに並べられた、左端の皿の最後の肉片を口に頬張ってから、兄は妙に頷いていた。
『やっぱ、肉はレアだよな』
そう言って、“ふう―――っ”と、満足気にお腹をさすりながら兄が箸を置いた。
派手男の財布に甘えて、兄は三枚ものステーキを一気にたいらげた。そればかりか、明日のメニューの打診を支配人に耳打ちさえしていた。
『はあ―――っ?。中々、図々しい奴だなお前は』
『支配人ありがとう。良い店だよな、ここ!』
『調子に乗るんじゃないよ、この若造が』
『へへっ―――』
店を出る頃には穏やかな笑顔の支配人が、兄の再訪を期待しているようだった。
思わぬ展開に目的を忘れ掛けていた僕たちは、鎌倉に入ってからすでに二時間近くを浪費していた。
『満腹だ――っ!。たまんねえ――なあ』
一人はしゃぎ始めた兄は、まるで観光気分のように次を物色し始めた。
『高志、この後はどうするよ』
『どうするって、お父さん探すんだろ・・・。違うの?』
『判ってるって、だから鎌倉へ来たんだろうが』
まるで父のことを忘れていたかのように、気のない返事だった。
『今晩、ここに泊まるのお兄ちゃん?』
『ああ、あいつに会うまでは帰れないよ。明日の約束もあるしなあ』
『父さんの働いてる店、覚えてる?』
『キャッツだろ?、確か』
『うん、そんな名前だった』
『キャッツかあ。どうしたもんかな』
重い荷物を引き摺りながらわずか店名だけを頼りに歩き回るなんて、そんな時間の余裕はないはずだった。
『そうだ、電話番号簿だっ!。おい高志、戻るぞっ!』
そう言って兄は、さっきまで居たステーキ屋、“アラジン”に舞い戻った。
兄にしては気の利いた発想だった。
『支配人!、お願いがあるんだけどさあっ!』
『ああん?、どうしたお前ら・・・?。もしやもう腹が空いたとでも言うのか?』
『そうじゃないって。ねえ店探してよ!、キャッツって店だよっ!』
間髪いれずに兄は、説明も無く支配人に言い寄った。
『キャッツ、だってえ?』
『探してよ!、電話番号簿あるだろ?』
『ああ、あるけどよ・・・』
『早く、探してってえ!』
『落ち着けよ、なに焦ってるんだ?』
『いいからっ!』
兄の勢いに押されてか、支配人は僕たちを事務所に案内した。
『絵梨ちゃん!、電話番号簿ってあったろ?』
事務員らしき若い女性が、怪訝そうに僕たちを見ていた。
『あっ、はい、そこの戸棚の中に』
『キャッツって店知ってるかい、絵梨ちゃん?』
『キャッツ―――?、ですか?』
『兄ちゃんよ、なに町にあるんだそのキャッツって?』
電話番号簿をめくりながら、支配人が訊いた。
『知らないよ、そんなの!』
『知らないって―――。そもそもお前ら、この町の人間じゃないな?』
『そうだよ、この町のモンじゃない』
『どっから来たんだよ?』
『埼玉からさ、熊谷!』
『観光か?』
『いや、違う!』
説明下手の兄は、聞かれた事だけに端的に応えるだけだった。
『あのう、実は―――』
つい僕が口を挟む結果となった。でも、その方が正解だとも思ったんだ。
鎌倉への目的を少し簡略させて、父のことも親戚の手伝いでこの町に居るってことにした。夏休みを利用しての兄弟の訪問と言うことで話をまとめた。
『そうか、そりゃ感心だなあ。それにしても弟の方が随分としっかりしてんだな』
『クスッ―――!』
事務員の絵梨という女性が、僕の方を見て笑っていた。二十歳前後だろうか、ブラウスのボタンをふたつ外した胸元が大きく開いていた。
『キャッツねえ、キャッツ・・・』
『ねえ支配人、電話番号案内で聞いたらどうです?』
『有料だからな―――、もったいなくて駄目だよ!』
折角の彼女の言葉を無視して、支配人と兄はひたすら電話番号簿をめくりながら、“キャッツ”という名を繰り返していた。
この時代の電話帳には50音引きなんてものは存在していなかったから、やたら時間を費やしていた。
『ねえ、訳ありなんでしょ?』
事務員の絵梨という女性が、僕の傍に寄り添ったかと思うと、さりげなくそして小さく呟き掛けた。
『えっ―――?』
『だって、そうじゃなかったら事前に住所くらい調べるわよねえ。そうじゃないかしら?。電話番号も知らないなんて、大冒険よね』
『あっ、そうかも―――』
『ほら自白した!。やっぱりそうよね』
彼女の誘導尋問に、僕はまんまとはまってしまった。けど、その絵梨という女性の言葉の発し方には、語尾を持ち上げる独特な響きがあった。まるで映画の中の女優の台詞のようにも聴き取れた。
『あったあ―――!。これだ、キャッツだあっ!』
電話帳に人さし指を当てて、支配人が記帳を始めた。電話番号と所在地を書き写していたのだ。
『―――大船かあ。ここからだと、そう遠くはないよなあ』
『結構、大きな商店街がありましたよね。確か、飲み屋さんも多いはずだわ―――。でも、すぐ見つかるかしらね?』
『まあ、電話番号も判ってるんだしさ。きっと大丈夫だろ?』
僕たちの探していたキャッツは、大船という場所にあったらしい。その二人の会話から察して、わりと大きな繁華街を持つ町のようだった。
『で、どう行けばいいんだよ?。教えてよ』
『そうねえ、大通りに出てから線路伝いに歩けば間違いはないと思うわ』
『線路伝いかあ。―――まあ、行ってみるか!。なあ、高志』
『タカシくんって言うんだ君。ねえ、どう書くの、“タカシ”って?』
『うん、高い志って書くんだ』
『へえ、いい名前ね』
にっこりと微笑んだ彼女は、何故か僕の目の前に顔を近づけてきた。そんな彼女の前傾姿勢に、大きく開いた胸元が露わになっていた。
やがてその胸元が近づくにつれ、僕の理性の許容は溢れつつあった。
『あ、あの―――っ』
『えっ、なに―――、どしたの高志くん?』
『ああっ、エリさん―――って名前なんだねお姉さん。すごくいかしてるね』
目の前の動揺をはぐらかすように、すぐに僕は彼女の名前に話題を傾けた。
『―――そうでしょ。父が名づけてくれたの、すっごく気に入ってるんだ、わたし』
『うん、そうだと思った。いいお父さんだね』
取って付けた会話のようだったけど、僕は先を進めるのに懸命だった。このままだと、どうしたって彼女の一部分に固執してしまいそうな勢いだったからだ。
『まあ、外見によらず抜け目ないのね、高志くんって』
『えっ、抜け目ないって―――?』
『女性の気を引くことに長けているっていうのかなあ―――?。そうね、相手の特定された箇所にすうっと入り込むっていうか、自然な口説きって言うのかな・・・』
『ええっ―――、口説くって、僕があ―――?』
『あっ―――なんだ、そうじゃなかったの?』
そんな彼女の解説によると、僕はまるで彼女の気を引こうとしている軽率な男のように勘ぐられていたのだった。
『そ、そんなことないよ―――、僕はただ―――』
『なんだ―――、そうなの』
繰り返しそう言って絵梨さんは、何故かつまらなそうな顔を残して、僕の前から身を引いた。
『ねえ―――、おれの名前は聞かないのか、あんた?』
すると、少しむっとしたような顔付きの兄が、やはり彼女の方に向いた。
『そうね―――。お兄さんの方にも聞かないとね』
まるで義務を果たすかのように、彼女が応えた。
『強志って呼んでくれよ。強い志って書くんだぜ、どう―――、いかしてるだろ?』
『そうね、その通りだと思うわ』
曖昧に言葉を濁すと、彼女は机に戻りそそくさと伝票類に目を通し始めた。
『ちっ、感じ悪いなあ―――』
『急がないと、日が暮れてしまうわよ』
そろばんを弾きながら彼女はさっきとは別人みたいに、事務的だった。
『一時間も歩けば着くだろうさ。さあ、急いだ急いだっ!』
支配人も僕たちを追い立てるように、事務所から離れて行った。
『一時間かあ―――』
頭を掻きむしりながら、兄は何やら考え込んでいるようだった。
『ねえあんた、悪いけどタクシー呼んでくれない』
『えっ、タクシーなの?』
『そう、タクシー。それだったら、すぐじゃんか!』
『だって、タクシーなんて贅沢だわ、止したほうがいいわよ』
そんな絵梨さんの言い分は充分に正しかった。いくら伯父さんからの助援金を持っているからって、タクシーなんて贅沢極まりない選択だった。
『そうだよ、歩こうよお兄ちゃん』
当時のタクシーの代金なんて知りもしない僕でさえ、相当、高額な支払いになることは想定できていた。
『でもさ、雨が降りそうだったぜえ―――外は』
絵梨さんのけん制にも似た一言に、兄は取り合えず回避の方向を算段していた。
『今日は降らないわよ―――。いい加減なのね、あなた』
そろばんを弾く手を休めることなく、冷たく彼女が兄に言った。
『おれの金じゃないか、あんたにどうのこうの言われる筋合いなんてないねっ!』
『だったら外で拾いなさいよ。あたし、忙しいんだからっ!』
『ちっ―――。あのね、そんな言い方ってないだろうがっ!』
『ふう――っ!。あのね・・・どうせ宛ての無い冒険旅行なんでしょ!。無駄な出費は止した方がいいって、そう言ってるの!』
幾分、声を張り上げた兄に、彼女は一寸手を止めて、細く溜息を吐きながら言った。
『宛ての無い、だと―――?。高志っ!、おまえまた何か喋ったのかっ―――!?』
『いやっ―――、僕はただ・・・』
『見れば判るわよ。お父さん探しの旅なんて事前に準備しておくものでしょう?。それに、あなたの顔に書いてあるわよおっ、“いい加減”な男ってさ』
『なっっ―――!』
年上の女性からの攻撃にはさすがに免疫がなかったのだろうか。兄は充分過ぎるほど戸惑いを隠せないでいた。
それにしても、妖艶な彼女の視線は僕たち二人をまるで金縛りにでもしそうなくらい、魅力的だった。
『いっそ、電車にすればいいんじゃないの?。その方が安上がりだわ』
『なんだよ!、それなら最初からそう言ってくれよ!。あんたが線路伝いなんて言うからさ、歩いた方が近いて思うだろ!。なあ、高志』
『まあ、なんて言い方なの―――!。どうせ貧乏旅行なんだから歩けばいいのよ!。二人とも若いんでしょっ!』
そんな兄の乱暴な言い方に感化されたのか、彼女がヒステリックに応えていた。
『ああ、少なくてもあんたよりはな。失礼しました、絵梨お姉さま―――』
『―――。さっさと出て行ってよ。感じ悪いわ・・・!』
目を反らして、どこか悔しそうに唇を噛む彼女の横顔がとても印象的だった。
どうやら兄の反撃も功を奏したようだった。その後、“アラジン”を出た僕たちは、とにかく大通りを目指して歩き始めた。
『もうすぐ駅が見えるはずだよ。多分、その先の交差点を左だと思う』
『おい、そんなに急がなくていいぞ。腹いっぱいで大変なんだ、おれは―――』
『だって、もうすぐだから急がなきゃ!』
『焦るなって、電車は逃げやしないって』
マイペースの兄は、どこまでも自分勝手だった。
『今日は、泊まりなんだよね・・・お兄ちゃん?』
判っていながらも心配になっていた僕は、敢えて兄に訊いた。
『今日だけじゃないぞ―――。決着が着くまで終わらせないさ。長期戦は覚悟しとけよ!、いいな!!』
『そんなあ、夏休み終わっちゃうよ。どうすんの・・・?』
『あのな―――そんなこと気にすんなって。学校だってよ大目に見てくれるさ。だって鎌倉に居るんだからなおれたち。そりゃ、どうしようもないだろう?』
勢いだけでなんの根拠もないまま、やはり自分勝手に全てを判断していた兄だった。
『お兄ちゃんはいいけどさ・・・僕は―――』
『どうでもいいけどなあ、まだ着かないのかよ駅ってさあ?』
僕の心配事なんて気遣う様子もないまま、兄は目指す鎌倉駅にだけ神経を尖らせていた。
―――ここだけの話。
兄は実に方向音痴に長けていた。地元、熊谷の駅前の繁華街でさえ、覚束ないほどに危うさを暴露していたほどだ。そんな兄の頼りとするのはただ一人、そう僕以外には有りえなかった。
『あっ、駅だよ。お兄ちゃん、ほら―――あそこ!』
そうするうちに大通りに差し掛かったほぼ正面に、鎌倉駅の文字が見えた。
『へえ―――、割かし小さいじゃんか。思ってたよりさ』
鎌倉駅を目の前にそう言い出した兄の形容には、しばし逆の場合を意味する変な癖があった。
『えっ―――、そんなことないよ。随分と立派な二階建てだよ、お兄ちゃんっ!』
『へえ、二階建てねえ・・・』
地元、熊谷駅の佇まいから比べても、相当大掛かりな造りの駅に違いなかった。
兄の言葉の矛盾にはいくつかの憶測が成り立っていた。それは、弟に任せるしかない道案内への不満と、まるで都会的な街の雰囲気に萎縮してしまった自身への、不甲斐なさによる強がりでしかなかったのだ。
そう―――つまり、典型的な天邪鬼だった。
物事を素直に肯定することを由としない歪んだ性格には、まったく意味を成さない会話こそ、自己主張の最たるものだったのだ。
『どうしたの?、感心している場合じゃないだろ。早く行こうよお兄ちゃん』
兄の先手を打って、僕が生意気を装い声を張らした。
『ああ、そうだよな―――まあ、こんなもんかあ』
やはり兄はつけ込む先を見失っていた。つまらない兄弟の意地の張り合いは、時に兄と弟の配列を狂わせることもある。
『ところで高志、おまえ惚れたのか、さっきのあの女に?』
そんな不具合を嫌ったのか、兄が奥の手を持ち出した。
『えっ―――?、あの女って・・・?』
『はは――ん、とぼけやがってえ―――この野郎っ!』
『―――!』
『ほらあ、赤くなった。図星だな!、高志ちゃんよお』
得意そうに僕を困らせ始めた兄は、執拗にそのことに迫った。
『さっきの絵梨って女さ、いいオッパイしてたなあ。見たんだろおまえ!?』
『―――。なんのことだよ!、それって・・・』
『へへえ――?。照れてんじゃないぜ―――ったく。しかもあの女、おまえのこと誘ってたんじゃないのか?』
『そんなことあるわけないじゃない!。年上だよあの人、しかも相当上だってえっ!』
そう言いながらもさっきまでの絵梨さんの顔が、大きく開かれた彼女の胸元が、僕の言い訳じみた言葉に割り込んできた。
『思春期の特権だよなあ―――。年上女からの求愛ほど、そそられるものは無いからなあ・・・』
『お兄ちゃん、僕もう帰るよ―――!。お父さんを探しに来たんだろ!。だったら、早く探そうよ!。そうでなきゃ帰るよ―――。帰るよ、僕―――っ!』
更に追い打ちをかける兄の興味本位な言い方に、遂に僕の反論は最上級に達した。
勢いに任せていた兄との冒険旅行を考えるにつれ、やはり我慢出来なくなったのだ。
『次の電車で東京行きに乗るから・・・いいよね――?』
『なんだよ高志。おまえ―――本気なのか?』
先ほどの勢いが途端に消沈したように、兄が語気を弱めた。
『お兄ちゃんこそ本気なの?。どうしてもお父さんと喧嘩するの?。それでいいの?。それで・・・それでお兄ちゃんは満足なのっ!!』
『満足って―――・・・』
堪らず叫び出した僕のことを、兄はどうすることも出来ずに立ちすくんでいた。
駅では発車の合図に応えて時刻通りに走り出す電車の騒音が、僕たち兄弟の隙間をくぐり抜けて行った。
『―――あいつに会うために出て来たんだろ?。おまえもそれを望んだんだろ。なあ、高志?』
もっともらしく兄が、僕を取り込もうとしていた。
『会いたいから出て来たんじゃないよ。お兄ちゃんが馬鹿やらないかって・・・心配だったから・・・着いてきた・・・』
『おれが馬鹿を―――?。そんな心配してたのか?、おまえ』
『だってそうだろ!、無茶苦茶じゃないか!。今までお兄ちゃんのやってきたこと、知らないって言うの?。どんだけ母さんが悲しんでいたか―――。本当に知らないのかあ―――!。お兄ちゃん・・・』
今回に限ったことではない。兄の自由奔放な行動には、他所様から見ればとんでもなく極道息子に見えたことだろう。
『お兄ちゃんが学校を退めた時も、母さん平気そうな顔してたけど。泣いてたんだよ―――!。寝れずに泣いてたんだよ―――っ!、母さんは。―――勝手なんだよ!、自分のことばっかり考えてさ。簡単そうにいつも、いつもお兄ちゃんは片づけてるけど。周りの人は、僕は・・・いつも大変なんだっ―――っ!!』
『高志っ、おまえ・・・!』
『う・・・、うう―――っ、ううう―――っ―――』
兄に対して口ごたえなんてしたことのなかった僕が、堰を切ったように兄にお説教を始めていた。
我慢を超えて流れ出した涙は、僕の頬を溶かすように落ちていった。
『――――――っ!』
急に黙り込んだ兄は、駅の階段を見上げながら暫く突っ立っていた。
『―――そうだよな』
そう言うと荷物を肩から降ろして、何を思ったのか兄は急に階段を駆け上がって行った。
『どうするのっ―――!』
『帰りの時間見て来るから!、おまえはそこで待ってろっ!』
僕の声に半身になりながら兄が応えた。
一気に階段を上って行く兄は、僕の気持ちを察してくれたのだろうか?。帰りの電車の時刻を調べるために急いでくれていた。
『お兄ちゃん・・・』
無鉄砲で短気で自己中心的な兄にも、周りを労わる心は少なからず存在していたのだ。
―――そして数分後に、めずらしく兄が落胆した様子で降りて来た。
『どうしたの・・・?。帰る電車はあったの?』
『高志・・・。残念だが一足遅かったようだ。もう東へ向かう時刻は、とうに過ぎてしまったようだ・・・』
『ええっ!、だってえ!』
『ここからだと横浜経由になるんだ。上野に着いたとしても、その後の高崎線は無い。仕方ないけど今日はここに泊まるしかないさ』
『そうなんだ。―――それじゃあ仕方ないよね』
兄の折角の気遣いも、電車が走らなきゃどうにもならない。でも兄の改心とも思えるその行動が、僕にはとても嬉しく思えたのだ。
『お兄ちゃん美味しいもの食べようよ、今晩!』
『ああそうだな。そうするか』
兄は僕を抱擁するように、大船行きのホームに進んだ。
『宿が見つからなかったら、駅のベンチでもいいか?。高志』
『うん、我慢するよ。一晩くらいならね』
『そうか、そりゃ頼もしいや。さすがおれの弟だ』
『お兄ちゃん・・・ごめんね・・・。さっきは』
『いいんだよ、そんなこと。元はと言えば全ておれのせいだもんな・・・。母さんにもおまえにも責任は無いって。気にすんじゃないぞ!』
『うん、判った!』
次の大船行きの電車が来るまで、二人、駅のホームのベンチで暫くは呆けていた。
夏の終わりとはいえ、太陽はまだ高く留まったまま、休むことなく熱を放出していた。
汗を拭うのに飽きた頃、ようやく電車がやって来た。乗り込むと、割合に閑散とした車内には、やはり夏休みということもあってか学生の姿はまばらだった。
空いた席に腰を降ろした僕たちは、揺れる車窓の風景にしばし気を取られていた。15分足らずで到着した大船の駅のホーム。降り立った僕たちは言葉を交わすわけでもなく、ぽつりと佇んでいた。
『怖くないの・・・、お兄ちゃん?』
兄の様子を窺うべく、あえて僕から声を発した。
『なにがだよ?』
『お父さんのことだよ・・・』
『なんでだよ、父親に会うだけだろ?。何が怖いもんか!』
いささかも動じていない兄は、僕の肩を支えてどんどん前に進んで行った。
今まで僕が兄に抱いていた不満が、その心配事が、急に萎えてきたように感じていた。
『高志、おまえ覚えてるか?。あの人のこと』
『・・・。あんまり覚えてないよ』
『そうだよなあ、おれだってそうかも知れないな・・・』
『花火が奇麗だったよね、確か家の前だったかなあ』
『ああ、あの人が一度に花火に火を点けるもんだから、母さん怒鳴っていたな。高志の浴衣の裾に火の粉が―――!、って。親父のこと』
『えっ!、親父って言ったよね―――。今、お兄ちゃんっ!』
『な、なんだよ――っ!。そんなこと言ったかあ?、まさかあ―――』
弟の指摘を受けてか、照れ笑いの兄は大きく白い歯を見せていた。
当初の勢い弱く駅の改札をくぐると、真正面に商店街の看板が立てかけてあった。
『どうだあったか?、“キャッツ”』
『待ってよ!、そんなにすぐに見つかりっこないだろっ!』
『おまえなあ、真剣に探せよっ!』
『お兄ちゃんこそ一緒に見てよお!。ほら、そっち側だって!』
『いちいち指図なんてすんじゃねえよ、だいたい――――――』
『ねえ―――どちらを探してるの?』
兄から漏れ出す愚痴の狭間を堰き止めて、看板に見入っていた僕たちの騒動に、突然後方から仲介人が声を差出した。
『はあっ?』
振り返った僕たちの目の前には、黒髪の長くしたたる若い女性が首を傾げながら立っていた。