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緒方健一 其の七

―――『根拠なんてないんだろ―――安っさん?。それだっやら、あんまりにも可哀そうじゃんかよお、緒方くんがさ』

そう言葉を返す父は、勿論、緒方側の人間だった。

『あ――あっ、真っ直ぐでいいよなお前は。俺もそんな風に生きてみたいよ』

『だからあ、茶化すなって言ってんだよ―――っ!』

『おいおい、そう憤慨するなって。意味のない言葉の繋ぎだ勘弁しろよ。―――んんっ、どうした?。もう呑み飽きたのか、お前?』

空のグラスを大切に握り締めている父に、安田の興味が移っていた。

『呑んだうちには入らないね。まったくあんたの無神経ときたら、さすがにおれでも遠慮してしまうよ』

『そうか無神経・・・か。ふっ、いいぜ―――。お前のその褒め言葉ありがたく頂戴するとしよう』

白髪頭を大きく?き揚げてから、口に含んだ憂いを飲み込むように、安田が父のグラスに向けて残っていた琥珀を躊躇わず注ぎ込んだ。

『今晩はここに泊まっていいんだぞ』

『そうだな、甘えさせてもらうとするか』


安田の人格と父の気性とが、不思議にも合致した瞬間だったと言えよう。

口調も見栄えも最悪を兼ねる男と、それに類似した粗悪な男の短いやり取りは、やがて共感という絆を生み出して行くこととなるのだ―――。


酒はふんだんに有るが、食い物は乾き物程度だ。お前、喰いたいものはあるのか?』

『これと言ってないな』

『ふ――ん。じゃあ、お任せでいいよな?』

『ああ、突然押し掛けといて贅沢の言える身分でもないからさ。今日のところは安っさんに頼るしかないよ』

『そりゃ一安心だってもんだ。普段は、うどん一杯程度で済ませてるからな。俺の懐にしても大歓迎さ』

『なっ―――、うどんってかあ?』

『やはりそうきたか。まあいいさ、今夜は久し振りに特別な夜みたいだからな。俺にしても少々の贅沢をしたいって、そう思ってたところだ』

黒縁丸メガネの縁を指で支えながら、上機嫌にそして静かに語る安田の口元からは、人懐っこさを感じさせるに相応しい笑顔さえ持ち合わせていた。


『悪いんだけど安っさんさ・・・、どうにかなんないもんかな?、その格好』

安田の余りにもしょぼくれたメリヤス姿に、ついに父の我慢の限界が具現化した瞬間だった。

『な――に、俺の自由主義の現われだ。そう嫌うなって!』

根拠のない安田の虚勢だったが、それが妙に様になっていた。

そうして向かえたその晩、意気投合した二人の居場所はというと、どういう訳か多嶋屋に在った。


『―――あんたも大変だよなあ。無名の会社じゃよ、出稼ぎの営業って言ったってさ、幅利かねえもんな!』

『う――ん、親父さん判ってるよねえ・・・。その通りなんだな、まったく』

父の強い思惑もあってか、多嶋屋に連れ込まれた安田は、既に親父さんとの面談を終えていたようだ。



『―――で、靖志を囲ってよお、一体どうしようってんだい、安田さんとやらよお?』

『な――んだ、随分とせっかちなんだな親父さんってさあ。俺は小森靖志を買った覚えなんてないぜ。そう、たまたま出会っただけのこった。まっ、仮にそうだとしてもさ、俺のところじゃろくな報酬なんて出せないけどね』

黒縁丸メガネを額にひっかけて、安田が当たり前のように無責任を持ち出していた。

『そいじゃ靖志はどうなんだよお、それでもクイーンに身売りすんのか?、お前さっ!』

『ちょ、ちょっと待ってくれよ。いきなりなんだよおっ!。そんなに簡単に話を進めんなよな―――』

多嶋屋の親父のせっかちときたら、相変わらず無尽蔵の奥深さを感じさせていた。

それにしても、さっきからの安田の落ちつきようときたら、見事なまでに開き直りを見せていた。


『だってよ、さっきからの二人の絡み合いなんてな、はなっから出来上がってるってことさ。どう見たってそんなとこだろう?』

『ちょいとお父ちゃんさ。あんたが仕切ってどうすんのよ。人間関係なんてものはね、当事者でしか判んないこともあるんだよお。それをどうさ、さも解った風に語るなんて、まったく失礼ってもんだよ。いいかい、あんたのいつもの悪い癖だよっ!』

おかみさんが堪らず仲介を申し出た。さすがに長年連れ添ったおかみさんの、的を得た最高の一言だった。

『う、ううんっ・・・。そうわ言ってもなあ。靖志の行く末がよお・・・、気にはなるしなあ・・・』

『おれのことはいいからさ。よっぽど親父の老後を心配した方がよかねえか?』

『ええっ―――?、おい、それはあんまりじゃねえのか靖志、お前よおっ!』

『だってさ親父、今のままいつまでも元気じゃいられないだろ?。そのうちにさ、足腰立たなくなっちまうんだぜえっ!』

当たり前のように吐かれた父の弁が、多嶋屋と父との時の隔たりを再認識させていた。


『そ――だ、うん、その通りだよ。人は皆、順番を守るべきなんだな。そうやって昔から我が身の末路を承諾したもんさ』

白髪頭を掻き毟りながら、急に安田が無頓着に言葉をねじ込んだ。

『末路って?、―――な、何だよ、俺に災いでも起こるって言うんじゃねえだろうなっ?、おまえさんよおっ!』

『はは―――っ、決まってるだろ――っ。近い先の親父さんの最期の時ってことさ』

『さ、最期って―――っ、あ、あんた、そんな縁起でもねえこと言うもんじゃねえよおっ!』

安田の軽々しい無礼に、つい親父さんが喰いついた。

『親父さあ、そう力むなって。なにも悪気があって言ってんじゃないんだ。元来こんな人物なんだよ、安っさんてな』

まるで安田の人間性を肯定するかのように、父は親父さんを宥めていた。

『ねえ親父さん、酒、お代わりもらえるかな』

拗れかけていた話の筋を迂回するかのように、ちゃっかりと安田が注文を口にした。

『あ、ああ・・・。二合でいいのかい?』

『そ――だな、うん、それでいいよ』

さっきまでの込み入った話を他所事に、どうやら安田の気紛れが動いたようだ。

『なんだよ安っさん、まだ残ってんじゃん。ゆっくりやろうよ』

『う――んっ、固めたい話もあるしな』

『固めたいって・・・?』

『そう、固めることが大事なんだよな』

『はあ―――?』

父には、愛昧に注がれている安田の思惑が、どうにも飲み込めないようだった。

『はいよ、お待たせ!』

待たずして徳利が安田の前に置かれた。

『親父さんも一緒にどうだよ?』

『えっ、俺もかい?』

『あ――、どうしても親父さんの許しが必要なんだな。今回の件はね』

『なんだよ、今回のって?』

『いいから、盃を出してよ。親父さんっ!』

『あ、ああっ・・・』

安田の勢いに押されてか、意味の判らないままに怪訝そうに親父さんが盃を差し出した。


『なあ―――親父さん、同意してはもらえないだろうか?』

そう告げるや否や、安田が掴み取った徳利の酒は、親父さんの構えた盃に向けて一気に注がれるのだった。

『な―――っ、さっきからどうしたんだよ、あんたさあ―――?。許しとか同意とかって言われてもよお、こちとら、てんで理解に苦しむってもんだよなあ―――?』

無理矢理な安田の言動には、やはり親父さんといえども、抵抗を感じていたようだった。

『はは―――ん。単刀直入だよな、やっぱりこの場合は―――』

それでも勿体つけている安田の口元は、さっきから緩んでいるように見えた。


『小森靖志をうちで預かりたいと思うんだ。―――いいだろ親父さん?』

そう切り替えて、案の定、安田の本題がようやく封を切った。

『はあ―――っ!?』

『えっ、ええっっ―――!?』

父と親父さんの声が甲高く裏返っていた。

『や、安っさん―――!!』

更に思わず声をあげる父だった。


『そ、そんなこと急に言われたってよお―――。ははっ・・・、靖志は他所様の子だもんな、こんな俺がとやかく言えた義理じゃねえよお』

『そんなことは既に承知のうえさ。だけどよ、親父さんたちにとってみれば、とても大切な子供のようにも感じたからさ。こいつはね』

父と多嶋屋の深い絆を鑑みてか、先ほどから一転しての安田の紳士的ともとれる気遣いは、あの秋山さんと同格、いや、それ以上の品格をも持ち合わせているように思えた。

それにしても、思いがけず安田の身に沁み入る言葉には、親父さんもおかみさんも、そして父でさえも感服するしかなかった。


『安っさんっ―――!』

『ど――した、そんなに不思議がることでもないだろう?。それとも俺の元では問題があるのか?』

『いやっ、おれは、その・・・』

予期せぬ安田の深い慈愛に、父は言葉を詰まらせていた。

『小森よ―――。今さらトウチクなんて無理な話だ。ましてやコランビアにしてもな、人気歌手の手入れで精一杯ってところさ。新規参入なんて下手な博打を打つみたいなもんだ。いくらお前に強力なコネがあるったってな、おいそれと冒険なんて出来るほど今の業界には体力はないんだよな』

さらに安田が父の去就を案じて強く言い加えた。


安田の懸念をして―――。それを知らしめるように、戦後の動乱期に新人として名を博した歌手の数は、公表されているだけでもごく僅かなものでしかなかった。

生き残りを賭けたこの業界の非情さに、しがみ付いていることでさえ稀であったことは想像に暇なかった。


それでも例外は必ず存在するのだった―――。


―――戦前より歌劇団の娘役スターであった並木路代は、昭和21年に“リンゴの唄声”で荒廃しきった市井に安らぎと希望を与えてくれた。

北海道小樽出身の岡本敦夫は、明るい曲調で国民の支持を受けた、“朝はいずこから”で、敗戦直後のこの国を励まし続けていた。

さらに服部良二の後押しで台頭した関西訛りの女性歌手、笠木しず子は、遥か南方の異風を唄う“アイラ可愛い”で、その人気を博した。後に、身体を張ってのダンス歌謡が大ヒットすることとなる。

そう―――、その曲こそ時代が要請した名曲、“東京ウキウキ”の誕生であった。


それは、無念にも戦時中に埋没を余儀なくされた楽曲と歌い手の苦悩が、戦後に訪れた開放感を頼りに一気に席巻せしめる勢いだった。

しかし、深く傷を負った日本経済の復旧と相まって、音楽業界の建て直しもそう簡単と言う訳にはいかなかったのだ。

例えば志を抱いた若き歌い手の卵であったとしても、名もないコネもないでは、レコード会社の玄関先にも辿り着けないほどの難業であった。

その難業をして、戦前歌謡の勢いに乗じての小森靖志のトウチク入りはというと、まさに奇跡そのものだったと言えたのだろう。

 

『安っさん―――。おれ、また歌えるのか?』

安田の思いに引き摺られるかのように、父の中の歌心が炸裂していた。

『そうだとも。お前の歌声をもう一度、世に出してみたくてな』

『や、安田さんっ―――、それ、本気なんだろうな。あんた、本気で靖志のこと面倒見ようって考えてくれてんだろうなっ!?』

親父さんが身を乗り出して安田に言い寄った。

『だからこうして盃を交わすんだろ親父さんよお?。俺と親父さんの契りの盃なんだ、是が非でも受けてもらうぜ、いいよな?』

『契りっ―――て?』

『も――う、じれったいなあっ!。いいかよ、あんたらの大事な子を預かるって言ってんだ。それくらいの覚悟がいるだろがっ!?』

クイーン・レコード代表、安田彰の偽りの無い本気が、ここ多嶋屋の隅々に威勢よく響き渡っていた。


『安田さん・・・。本当にそれでいいのかい?』

さっきまで奥に身を潜めていたはずのおかみさんが、いつの間にか安田の前に陣取っていた。

『俺の拙い話じゃ、奥さんにとってはさぞ迷惑だろうな?』

『そうね、ほんと迷惑にちがいないわよね』

『か、母ちゃんっ―――!、なんてこと言ってんだよ!』

ぶっきらぼうなおかみさんの愛想に、親父さんが慌てて口を挟んだ。

『だってそうじゃないよ。さっきからろくに料理に箸もつけやしないでさ、お喋りばかりじゃないよ。あたしがこさえた折角のご馳走が台無しってもんだよっ!』

『母ちゃん―――!』

そんなおかみさんの苦情には、実に奥ゆかしさが際立っていた。安田の持ちかけた重大な話に、おかみさんが喜ばない訳がなかった。

『はは――っ、それは迷惑千万でございました!。この安田彰、奥様の提供いただいた料理、まずは食してみるとしましょうかあっ!』

大袈裟に口上を垂れながら、安田が素早く箸を手に取った。

『小森よ、お前も同罪だからな―――』

『ええっ、おれがかよっ!』

『そうだとも。折角、奥さんがこさえた料理に箸もつけないなんて、もったいない罪に問われるってもんだ』

『もったいない罪・・・って、そんなのあるわけないじゃん。実際』

折角の安田の振りに、父は無関心に構えていた。


『ところで奥さん、―――生まれは何処なのかなあ?』

『ああ、あたしかい?。産地は吉備の里、岡山だよ。ほら、桃太郎で有名だもんね』

『へえ――っ、やっぱりそうなんだ』

安田の関心がおかみさんの出身地へとなだれ込んでいた。

『やっぱりって、あんた心当たりなんてあんのかい?』

『あ――っ、立派に持ってるさ。物を“こさえる”なんて方言はのお―――っ、悪いがここには無いけんのおっ!』

突如、安田の口から出された意外な方言とやら。そのはつらつたる語り口には、安田を語るには充分と言っていいほどの素顔が垣間見れた瞬間でもあった。

『―――あんたぁ、何処の生まれじゃあ?』

間髪入れずにおかみさんが口を開いた。

『あ――っ、広島でがんす。わしは広島から来ましたけん』

『なんなあ、広島じゃったらお隣じゃなあ。けど、でえれえ汚い訛りじゃな、相変わらず広島もんは―――』

ほんのりと小気味良い、お国言葉が流れ出した。

『はあ・・・っ?。なんて言ってんだよお、まるで通じてないんだけどさっ!』

目の当たりに繰り返されているお国訛りの合戦に、どうやら父が難色を示したようだ。

『関東もんには分からんで当たり前じゃけえ、聞き流してくれんさいや』

『ほうじゃ、あたしら田舎もんの世間話じゃ思うてな、かまわんでええがっ―――!』

『はあ・・・?』

早口この上なく捲くし立てられている方言に、やはり父の対応はおぼつかないでいた。


『いや――っ、こんなもんでどうだろう、いいかな奥さん?』

『付き合ってくれてありがとうよ。ほんと、懐かしいったらありゃしないねえ。お郷里の言葉なんて、ここじゃそうそう出るもんじゃないからね。里帰りにしたってさ、こんな商売なんてやってちゃねえ、中々、融通がきかないだろうしさ』

まるで申し合わせていたかのように、安田とおかみさんの単発劇は幕を閉じた。しかも、今までにお目にかかることが出来なかったおかみさんの側面が、茶目っ気たっぷりに披露された瞬間でもあった。


『ううんっっ・・・!、そりゃあ融通がきかなくて悪うござんしたねえぇ。あっしの甲斐性がねえばかりに、さも奥方には肩身の狭い思いをさせちまったよなあぁ―――っ』

調子に乗っっていたのか、それともおかみさんに向けた労いの気持ちがそうさせたのか、あの親父さんが歌舞伎のそれらしく演じて見せていた。

『なにつまらない見栄切ってんのさ、調子外れもいい加減になさいよね。―――ねえ、それよか、あたしにもお酒ちょうだいなっ!』

それからどう言う訳か、珍しくおかみさんは上機嫌だった。


『ねえ安田さん、あんたに約束してもらいたいことがあるんだけどさ。いい?』

『な――んだよ、もったいぶっちゃって、奥さん』

『あたしらには大切なことだからね。うやむやにしたくないんだよ』

そう前置きをしてから、安田に向けておかみさんが盃を差し出した。

『さあ、ついでおくれよ』

そう言って安田に酒の酌をおねだりしたかと思うと、おかみさんはちゃっかりと、その足で安田の席の隣に陣地を移した。

『さあ、ついでおくれって』

『へ――い、承知いたしました』

何を考える訳でもなく、安田がおかみさんの持つ盃に一気に酒を注ぎ込んだ。

『―――ありがとさん』

嬉しそうにおかみさんが、その盃を安田の額の前に掲げた。


『靖っちゃんのこと裏切らないでくれるかい?。ねえ、安田さん』

『そんな輩に見えるのかね?、俺は』

『そうね、見えなくもないわよね。ふふっ、今んところはさ』

『ふ――ん。それも、あながち正解かもな・・・』

『とぼけないでちょうだいな。はい、乾杯!』

『はいはい、乾杯っと!』

それはまるで得体の知れない儀式さながらだった。おかみさんと安田の交わした盃の意義には、今後の父の行く末を案じたものに他無いとしても、そこには確かな覚書など揃えられているはずもなかった。


そんな二人のやり取りにあっけに取られていた様子の親父さんはというと、さっきから身動ぎひとつ見せない父の満足気な横顔を眺めているだけだった。

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