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緒方健一 其の五

『でもさ、この子大丈夫なのかい?。ほらあ、さっきから目が空ろだよ』

『大丈夫だって―――。まだ若いんだ、しばらくもすると元気になるってもんさ。頼んだぜえ女将さあ―――』

『頼んだって―――、正夫さんはどうしようってんだい?』

『ああ、今夜はもう帰るしかねえよなあ。どうせ明日も早いんだ、親方に従ってちゃ身体が幾つあっても、もたねえってもんさっ!』

『でっ、この子はどうすんのさ。今晩、ここに泊めて行くつもりなのかい?』

『女将に任せるからさあ、ほれっ、これで充分だろ?』

そう言って正夫の取り出した札束は、さっと女将の着物の襟元にねじ込まれた。

『あ、ああ―――っ、いつもすまないねえ・・・あんたには』

すると急にしおらしく見せる女将だった。


『それとな女将よお―――、この錠剤を飲ましてやってくんねえかなあ。こいつも忙しい身でさ、薬でも入れねえとバテちまうからよお―――。なっ、そこんとこよろしく頼んだぜっ!』

『大丈夫なのい?、こんなの飲まして―――。どうせヒロポンでしょ、これ?』

『察しが早いねえ女将ってさあ。けど心配は要らねえって、こいつの常備薬なんだ、免疫は出来てるって―――』


“ヒロポン―――”それは、戦後の闇市を介して流通を許された薬の呼称だった。名前の由来は『疲労をポンととる』との効用から名付けられたとされていた。

当初は疲労回復薬として重労働者に重宝されていたが、その即効性はやがて多方面に使用されるほどになっていた。安価に入手出来ることも手伝って、瞬く間に世間に広まっていったのだ。

元々は軍部を中心とした軍用薬品として用いられていた。その多くは、突撃前の兵士に服用させていた事実だった。その効果は高く、恐怖心は皆無。ましてや士気を鼓舞するほどの薬の威力に、半ば強制的に用いられていたほどだ。


そう―――。覚醒を促すことだけに用いられた危険極まりない薬物だったのだ。


『関心しないねえ―――。まだ若いのにさあ・・・』

『仕方ねえよなあ、がむしゃらに働ける年頃にはよお』

ヒロポンの副作用に関しては、まだ認識の足りない時節でもあった。

信じ難い敗戦国という名の虚無感とともに、瞬時に奪われたかけがいの無い日常。そんな失望と同居せざるを得ない民衆にとっては、現実逃避を容易くさせてくれる薬ほど有難いものはなかった。


『大丈夫なの、本当に?』

『大した量はやってねえからさ、心配には及ばねえって女将よお』

『そう―――?。そうだといいんだけどさあ・・・』

気弱にそんな心配を優先させる女将には、ヒロポンという劇薬の存在も、その副作用による結末さえもよもや承知出来ていたはずだった。


『頼んだぜ女将よお、じゃあなっ!』

『あ、ああっ―――、正夫さんったらあ・・・』

酔いつぶれた彰をそのままに、正夫は一仕事終えたかのように走り去って行った。

女将はというと、困惑していたのも束の間、さっさと次の行動に移ってしまうのだった。


『お京―――っ、ねえお京ってばあ、出番だよっ!、とっとと仕度すんだよお―――』

二階に向かう階段口で仁王立ち姿の女将が、お京という名を連呼した。

『あ、はい・・・・・・。すぐに・・・』

女将の勢いとは裏腹に、か細く貧弱な声が階上でもたついていた。

『なにもたもたやってんのさあ、早くおしよお―――っ』

『は、はい・・・』

ようやっと届けられたその声色の主は、明らかに幼さを感じさせるものだった。


『お兄さんもさ、いい加減しっかりなさいな。ねえ、ねえ―――?』

次に彰の身体を揺すりながら、女将は商売の仕切り直しを始めていたようだ。

『は―――あ、この様子じゃ当分は駄目なようだねえ―――。ちょと香織さあ、手伝ってちょうだいよお。あたし一人じゃどうにもなんないよおっ!』

ぴくりとも動かない彰のことを諦めたのか、女将はすぐに助けを呼んだ。

『―――どうしたの女将さん?』

『この塊をあんたの部屋に回してよねえ。そんでもって悪いんだけどさ、お京と入れ替わってやってくれないかい?』

『それは構わないけどさ、どうしたの、その人?』

『宮田組の正夫さんからのお土産だよ。今晩、世話してくれってさあ、まったく調子いいったらありゃしないよねえ。とうに?み過ぎて潰れてんだもの・・・』

『わたしの部屋に運べばいいの、女将さん?』

『ああ、悪いけどそうしてくれるかい。お京―――っ、さっさと降りて来たらどうなんだよ。さっきからお前の客が待ってんだよおっ―――』


“たん―――っ、たんとんっ、とんっ―――たんとん―――ととん―――っ”

そろそろと階段を踏みしめる足音が、お京とやらの恥じらいを余計に露わにしていた。


『なにとろとろやってんのさあ―――っ。さあ運ぶよ、そっちに回っておくれよお』

大の字になった彰の身体の足先を取り、引き摺るように部屋に移動する女将たちだった。懸命に彰の足を持つお京とやらの素顔は、ほんのりと紅を差した唇が、まるで熟したりんごを彷彿させるように艶やかに映っていた。


『よっこいしょっと―――。これで一安心だわねえ、ごめんよ香織―――。お京、あとは任せるけどいいかい?』

『あっ、はい・・・』

『大丈夫だよ、おそらく朝まではこの調子だもの、お前の出る幕はないかもね』

『あっ、は、はい・・・』

『それからさ、この子が目覚めたら飲ませてやって欲しいんだよ、この錠剤をさ。3粒くらいでいいからね』

『えっ?、この薬をですか?』

『栄養補強剤らしいから忘れないようにね、いいね?』

『あっ、はい』

女将から手渡されたヒロポンを受け取ると、お京は怪訝そうに頷いた。

『栄養補強って、まだそんな年でもなさそう・・・』

彰の寝顔を前に、お京がぽつりとこぼした。

『ふっ、まるで弟みたい・・・』

さっきまで緊張の面持ちだったお京も、彰の無邪気な寝息につられてか、一人の少女の顔を見せていた。


いつまでも静まり返る部屋の中では、いつしかお京も、うとうとと眠りに誘われていたようだ。彰の手を胸に当てながら、寄り添うように身体を預けていた。



『うんっ・・・?、うう―――っ?、ふわあぁぁ――――――っ・・・』

―――ようやく息を吹き返した。そう、彰のやっとのお目覚めのようだった。

『―――え、ええっ―――?』

とんと見知らぬ光景に、きょとんと辺りを窺う彰だった。

『んん・・・・・・』

『おわ―――っ!、な、なんだっ、誰だ―――っっ!!』

彰に被さるように、艶やかな黒髪の一つの固体が可愛らしく呻いていた。

『―――!、どうして―――っ?』

『あ、ううん・・・・・・』

彰の胸に密着していた黒髪の固体は、安らかなその眠りを妨げられたようだ。


『ちょいっ、どうなってんだよっ!。お、おい―――っ!!』

『う、うん・・・?』

『お、女ってかあ―――っ!?』

『―――あっ、やだあ―――ッ!』

慌てて飛び起きたお京にも、ことの次第が理解出来ないでいたようだ。とっさに乱れていた襦袢を纏めるのに精一杯だった。

『な――――――っ!!』

呆然とお京を見定めるしかない彰に、言葉を発する余裕などあろうはずもなかった。やっと喉元を過ぎる唾液でさえ、重く息苦しいほどだった。


『お、おはよう・・・・・・』

『んんぐ―――っ―――!?。だ、誰だよ―――っ、あんた!』

やっと平常を戻した彰は、すぐ目の前のお京を指差していた。

『えっ、わたしの・・・こと・・・?』

『だ、だってよお、他に誰も居ねえだろ―――っ!』

『あっ―――、確かに・・・』

無粋な彰の指摘に納得するように、お京がきょとんと応えていた。

『ところで、ここは何処なんだよっ?。正夫さんは、正夫さんはどうしたってえ―――っ?』

『帰って行った・・・みたいだけど』

『ええ―――っ、帰ったあ―――!?』

『うん、帰ったよ』

『―――!。なんで、どうして帰すんだよおっ!』

『―――、そんなこと聴かないでよ・・・、わたしに』

『でっ―――、ここは何処なんだっ。ねえ、ここ何処っ?』

『う、うん・・・・・・』

愚直なまでの彰の問いかけに、お京は声を詰まらせていた。


『訊いてんだよ、応えろよおっ―――!』

『・・・女郎・・・宿』

『じょ、女郎―――って!?』 

『知ってて来たんじゃないの・・・あんた?』

『あっ―――いやっ!』

『もうね、御代は済んでるみたいだから』

『お代って―――?』

『なんだ、初めてなの・・・あんた?』

『あ―――うん・・・』

『そういうわたしもね・・・、まだ・・・浅いんだ、ここ・・・』

そう言うと、押さえてた襦袢をぎゅっと握り締めながら、お京は彰からゆっくりと目を背けた。

『浅いって?』

『やだっ・・・。鈍感なのね・・・あんた』

『―――、そんな言い方はないだろっ?、分んないから訊いてんじゃねえかよおっ!』

『分らないって・・・?』

『だ、だって―――、初めてだもんな、こんなとこさあ・・・』

こじんまりとした小部屋の様子を確かめるように、さも、おどおどしい態度を見せながら、彰が口を開いた。

無理もない―――。彰のような年頃の男子が、容易く訪れる場所ではないことは明らかだった。


『ねえ・・・どんなことがしたい・・・?』

『なっ、どんなこと―――?』

『触っても・・・いいんだよ』

『う、うん―――っ?』

『ほら、ねえ』

躊躇気味の彰の手を取って、それを自身の胸に当てがったお京だった。

『よ、よせやいっ、気は確かかよお―――っ!』

お京の手を振り払うと、いかにもばつの悪そうに背を向ける彰だった。


『だって・・・、御代ももらってるし』

『いやらしいこと考えてんじゃねえぞ―――、おまえなあっ』

『仕方ないでしょ・・・お仕事なんだもん・・・』

背を向けたまま発する彰の乱暴とも聴こえる言葉に、それでもお京は事実を告げるしかなかった。

『こんなことしてて・・・、それでいいのかよ―――?。ろくな女になんねえぞっ、とっとと止めちまえよお―――っ!』

お京の身の上なんて察する術もなく、彰の道徳心は真っ直ぐに進むしかなかった。


『好きで・・・やってるんじゃないわよ・・・』

『んん・・・?』

『―――!、好んでここに居るわけじゃないよおっ!。なんにも知らないくせに―――、勝手なこと言わないでよおっ!!』

『――――――つっ!』

赤く染まった唇を震わせながら、お京は彰の背中を強く掴んでいた。

『こんな女郎宿に来れる身分のあんたになんて分るはずもないでしょ―――っ!。あたしの境遇なんて―――、知りもしないくせに――――――っ!!』

『なっ、どうしたんだ―――?』

『・・・なんにも・・・知らない・・・くせに・・・』

振り向いた彰の眼前には、お京の搾り出された涙が散らばっていた。悔しさに震える小さな肩は、すでに崩れ落ちそうに傾いていた。

『なんにも・・・知らない・・・くせ・・・』

『ち、ちょっ―――っ!』

お京の掠れた小声は、充分過ぎるほど彰の心に突き刺さっていた。そしてお京の哀しみは、しばらくは彰の懐に溜まるしかなかったようだった。


『うううぅ―――っ、えっく・・・ひっく―――っくううっ・・・っ・・・!』

小さく嗚咽を繰り返すお京は、ただ彰の胸にしがみつき顔をうずめるしかいられなかった。自分の置かれしまった不本意な境遇を―――悔やむしか無かったのだろう。

『どうしたんだ・・・?、なあ?』

訳の分からないままお京に泣きつかれた彰には、もちろん彼女の嘆きを介抱する要領など持ち合わせているはずもなかった。

ただ、お京の細い腕を摩りながらうろたえている彰にとって、このお京という少女との交わりは特別な意味を介していたのだ。



『―――もう、落ち着いたのか?』

『・・・う、うん』

『そうか・・・』

『ごめんね・・・わたし・・・』

『―――なんで謝るんだよ?』

『だって・・・』

『全部、戦争がいけないんだ―――。アメ公の野郎の責任だぜっ!』

やっとお京の身の上を知った彰は、己に降りかかった不遇さえ他所に、ただお京のためだけに怒りを露にしていた。 


『あんたも・・・、酷い目に遭ってたのね・・・』

『ああ・・・。けど、そんなもんだろうぜ』

『そうなんだ・・・』

『おれは男だからな、大抵のことは我慢出来んだ。けど、おまえは女だからな、誰かが守ってやんないと可哀そうで仕方ねえや』

『・・・・・・』

実直なまでの彰の逞しい言葉に、お京はただ黙って受け取るしかなかった。

『ここを出れるといいよな』

『ええっ!?』

『だって、おまえに相応しくないよ。そうだろ?』

『だって・・・』

『幾ら借金してんだよ、おまえの親父さん?』

『・・・・・・』

『どうした、言えないのかよお?』

『・・・そうじゃ・・・ないけど』

『おれさ、こう見えて金回りいいんだぜ』

『・・・そうなの?』

『緒方健一って歌い手の付き人やってんだ、おれ―――。ああっ、直に有名になるに決まってんだ、健ちゃんの歌は最高にいいんだぜっ!』

『そ・・・、そうなんだ』

『健ちゃんに付いていればさ、おまえの親父の借金なんて造作ねえや。なあ、そう思うだろう?』

『ええっ・・・ああっ・・・?』

『そうに決まってらあっ―――。見てろって、きっと近いうちに健ちゃんは大物になるに違いねえやっ―――!』

『そ・・・そうね・・・』

そんな彰の勢いには、閉口するしかないお京だった。そもそも口早に滑り出す彰の確信めいた言葉に、当のお京にしても簡単に頷けるような現実味などなかったからだ。

それもそうだ―――。彰が付き人をやってるとする緒方健一の存在さえも、お京にとっては相当危ういものだったからだ。


『だって毎日が盛況なんだぜ―――。健ちゃんの歌を聴きにさ、大勢の客が集まって来るんだっ!。親方だってそりゃご機嫌ってもんさ』

『親方って?』

『宮田組の親方だよ。貫録があってさ、すっごく人情に厚い人なんだ。健ちゃんの付き人で大変だろってさ、特別に飯も喰わせてくれるんだぜ。そうそう、ここの代金だって親方持ちなんだ。存分に遊んで来いってさあ―――っ』

『そ、そうなんだあ・・・』

『おまえの借金なんて、おれが何とかしてやるよ。ああ、よければ女将にでも話をつけてやるぜ』

『そ、そんなっ!』

彰の勢いは止まることを知らなかったようだ。自分の置かれた不利な立場を顧みるどころか、健一への執着に囚われるばかりの彰だった。


『今晩も来るから。なっ、待っててくれよな―――』

『う、うん・・・』

その彰の言葉に、訳も分からず相槌を見せるお京だった。

『あの・・・、これ』

『ううん?』

『栄養・・・補強剤なんだって』

『栄養―――?』

正夫から女将に手渡された“ヒロポン”が、お京から彰に都合よく引き継がれた。

『女将さんからなの』

『へえ―――、気が利くじゃんか。栄養を摂って元気に働けることが何より大事だもんなあ』

そう言って手に取った瓶の蓋を開けるや、手の平一杯に盛った錠剤を、一気に口に運んだ彰だった。

『んんっ、もごごっ!』

『―――お水』

『うんぐっ―――』

お京の慌てて差し出した湯飲みを受け取ると、彰はそれを一気に飲み干した。

『大丈夫なの?』

『ぷっふう―――っ。ああっ、なんとかな』

『あっそう・・・』

『そんじゃあ、今晩なっ!』

『あ、はいっ―――』

大きく背伸びを済ませた彰は、にこやかな顔を天井に向けるとすぐに部屋を去って行った。


“今晩”と、約束を残されたお京には、複雑な心境は否めなかったようだ。彰の出て行っって暫く、彰の体温を手探りするかのように静かに吐息をもらしていた。


『お京―――っ。もう客は帰ったんだろ?、何をもたもたしてんだいっ!』

『あっ、はい―――』

『あれまあ、こんなに飲ませちゃったんだねえ―――、大丈夫なのかい?』

様子を確かめに来た女将が、半分空いた瓶を眺めながら呆れたように口を開いた。

『大丈夫って・・・女将さん?』

『あっ、ああ―――何でもないよ。あたしの独り言だよ、独り言――――――』

そそくさとその場を濁して退散する女将の動揺には、幾分、違和感さえ覚えざるを得ないお京であった。が―――しかし、その後の彰の大事に至ることなど、今は気付く由もないままだった。


『今晩かあ・・・』

やんわりと首をかしげながらも、ほのかに顔を紅らめていたお京だった。それにしても突然に舞い込んできた彰という男の存在が、お京にとっては何よりも嬉しかったようだ。

さっきまでの屈託のない眼差しと馬鹿正直な彰のその心根が、お京の心肝に響き渡っていくのだった。


“そんじゃあ、今夜なっ!”―――と、残して去って行く彰の後姿には、少女の面影を隠せないお京の初々しい肌の艶が、それを待ち望んでいるかのように弾けて見えていた。

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