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緒方健一 其の三

『―――どこに書いてんだ?。その掟ってさ』

『おっと―――?、やけに元気がいいんじゃねぇか、おめえさ』

『わざわざ訊いてんだよ。なあ―――、どこに書いてんだ?』

『け、健ちゃんっ、止しなよ―――っ』

彰が健一の袖を引っ張り、警告を促した。

『彰、おまえあっち行ってろ!』

その彰の手を払い、健一はある種の余裕を見せていた。


『ふっ!、怖いもん知らずって奴かあ―――。あ――あ、何処にでも居るもんさ、身の程知らずって馬鹿がよお―――。たまんねぇべなあ』

健一の抵抗にその男は、組んでいた両腕を解きながら、やたらと大きく首を回していた。坊主頭に小太りの風体が余計に凄みを見せていた。

『ここの人間じゃないようだな―――、あんた?』

横目で男を確認するように、健一がその男の素性を割った。

『ほう―――、分んべさ、おめよお?』

『あんた―――、さっき怖いもの知らずって言ってたよな、おれのこと』

番格らしき男の正面に向かって、健一は続けて悪態を見せつけていた。

『だべから―――どうしたんべ?』

『―――なあ、空襲の怖さって知ってるのか、あんた―――?』

『はあん?、空襲だってぇ―――?』

その男に向けて、健一が小さく牙を剥いた。

『米軍の爆撃機さ―――。B29って名前の恐ろしく頑丈な奴がさ、低空飛行しながら寄って来るんだぜ。すごい地響きを連れてさ―――、屋根を突き破って轟音が耳を劈いたよ。一機どころじゃねえや、そりゃ数え切れないほどのもんさ―――』

『あ、あん―――?』

健一の身振り手振りの説明に、その男の口は開いたままだった。

『そのうちにさ、夜の町が急に明るく光るんだ―――。ありゃまるで昼間と勘違いするくらいだったなあ。何処も一瞬にして火の海だもんな――――――』


―――昭和20年3月10日、午前0時7分。深川地区に初弾が投下されたのを皮切りに、それ以降、32万発もの焼夷弾が、東京の大地に夥しく炸裂するのだった。

身に迫る火の粉を振り払いながら逃げ惑う多くの民は、囲まれる火柱に吸い込まれるように黒く姿を変えていった。よしんば運よく川原に逃げ込めたとしても、早春の3月の水は余りにも冷たく、炙られた身はすぐさま凍りついた。

それでも必死にもがく手足は懸命に水を掻いていたが、それも束の間、やがて流木のように従順に流されてしまうだけであった。

10万人を超える犠牲者を余儀なくされた、“東京大空襲”により。焦土と化した街々は、もはや立ち直れる状態ではなかった。

そんな健一と彰の辿り着いた孤独も、この悪魔の日によって運命付けられたのだ―――。


『空襲以上に―――、怖いもんなんてあるものかい』

健一が悟ったように、ぽつりとこぼした。

『―――けどよ、そのおっかない空襲に助けられるんだよな、おれたちさ。空襲警報が鳴るだろ、お約束どおり何処の家も空っぽだ。へへっ、盗み放題ってやつだぜ―――』


―――それは火事場泥棒の最たるものだった。食料や衣類は勿論、運がよければ金品にまで手を付けた。逃げ遅れて家の中で震える老人に遭遇するや、腕力で押さえつけては容赦ない行為を繰り返すにまで至っていた―――。


『どうしたよ、少し顔が蒼ざめてんじゃねえのかい、あんた?』

『―――――っ!』

健一の余りにも淡々と語る非道に、番格の男でさえも隙を見せるしかなかった。

『な、なんて悪党なんだよぉ、おめえ―――っ!』

『もう行っていいよな。ショバ代にふさわしい話だったろ?』

『話は終わってねえべさっ!、この野郎―――っ!』

いきなりその男の手が、健一の胸ぐらを掴んだ。

『付き合ってもらうべな』

そう言うと健一の胸ぐらを掴んだまま、男は向きを変えて歩き出そうとした。

『ちっ―――!』

健一の口元が、今までになく歪んでいるように見えた。


“バキッッッ――――――ッ”


『ギ、ギャァ―――ッ―――!!』

突然湧き起こった悲鳴とともに、何故かその男の両膝は鈍く地面に墜ちた。

健一を掴んだはずの男の右腕は、意を反して背後に無理矢理押し曲げられていたのだった。

『ギャ―――ッ!!!』

その男の右腕は、だらりと下がったままだった。

『あ、兄貴―――っ!!』

その場に立ち会っていた数人の輩からは、やはり弟分らしき声が上がっていた。

『お―――っと、動くんじゃねえぜ。この男の目ん玉が惜しけりゃなあ―――』

なんと健一の手には、ポケットに忍ばせてあった小刀がしっかりと握られていた。その小刀の先端は、今にもその男の左目を抉り出す勢いだった。

『――――――!』

連れの数人の男たちは、凍ったようにその場を動けずにいた。

『立てよ―――っ、ほら』

『ギャッ―――ッ―――』

『子供みたく喚いてんじゃねえぜっ!。ほら立ってってえ―――っ!』

『け、健ちゃん―――っ!』

その男を盾に、じわりと逃げ道を探す健一だった。彰はただ大人しく健一の挙動に従うしかなかった。

『動くなって言ってんだ―――っ!!』

再び連れの男たちを威嚇して、健一たちの姿はビルの隙間を縫うように消えて行った。


『ギャギャッ――――――ッ』

『うるせえよっ、あんた―――』

ビルの影に身を潜めた健一たちは、追っての過ぎるのをしばらく待っていた。

『い、痛えよおぉ―――っ。折れてるって―――なあぁ―――っ』

『情けねえな―――、外しただけじゃんかよ』

『健ちゃん―――、大丈夫かな?』

彰が心配そうにその男の顔を覗き込んでいた。

『た―――、助けてくろな・・・な、なあぁ・・・っ・・・?』

あれほど威勢のよかった男も、今は情けなく健一に媚びるしかなかった。

『大袈裟なんだよ、あんた。―――しっかし、つまんねえ見栄張ってんじゃねえよ、この田舎モンがさ―――』

『す、すんません・・・』

『大丈夫だよ、健ちゃんって医者の倅だからさ、骨接ぎくらい造作ねえやっ!』

『馬っ鹿野郎―――っ!。うちは内科専門だ、そんな芸当できるわけねえだろっ!』

『あっ、そうか―――』

『・・・ど、どうなるのけぇ・・・おいら・・・?』

半泣きで訴えるその男は、まるで怯えたように健一を見つめた。

『隅田川にでも―――、潜ってもらうしかねえな』

小刀をちらつかせながら、健一が男の後始末を仄めかした。

『―――はっ、はああぁぁぁ―――っ!!!』

口を開いたまま小刻みに震える男は、助けを乞うかのように彰に目線を移した。

『大丈夫だよ―――。健ちゃんそこまで悪党じゃねえって。こう見えても結構、優しいとこもあんだぜっ』

『こう見えては余計だってんだよ―――、彰っ』

『えへへへっ、ごめんよ健ちゃん』

『だって・・・さっきのぉ、空襲の話・・・ってぇ・・・?』

『ああ、あれな―――。うん、半分は聞いた話だ。そこまで非情じゃねえや、おれだってよ』

『ああぁっ・・・ほおぉっっ―――』

健一の空襲における話の半分は、どうやらハッタリのようだった。それを鵜呑みにしていたその男にしても、半ば生きた心地はしていなかったようで、やっと身の安全を思い知ったのだ。


『けどな―――。あの大空襲以上に、怖いもんなんてないさ―――。それは本当のことだよ。ほんの目の前で大勢の人が焼かれるんだぜ、まるでサンマのようにな―――パチパチパチって―――炙る音がしてんだ。まったく声も出やしねえ・・・』

淡々と語る健一の言葉には、むしろ恐ろしいまでの真実の描写が込められていた。そんな恐怖と対峙した健一にとっては、人力に及ぶ命のやり取りなど、痒いばかりの戯言にしかなかった。


『なんで栃木なんて田舎から出て来たんだよ、あんた?』

『えぇっ―――、どうして分んべか―――!?』

『どうしてってさ―――、あんたの訛りって、他にないだろ?』

『なっっ、茨城だって―――、同じ言葉だべよお―――っ』 

『茨城はもっと滑らかだぜ。水戸に居るおれの親戚のおっちゃんだって、あんたほどは訛っていねえべよ―――』

『つつっ―――、それは失礼じゃなかんべかあ―――っ!』

命に別状のないのを悟った男は、幾分、平静を保ったように健一とのやり取りを過ごしていた。

『あ―――あ、けど、厄介なことになっちまったよな』

健一が頭を掻きながら口を歪めて言った。

『どうしたの健ちゃん?』

『どうしたも、このままこの男と一緒になんて居られねえだろ。そんなの御免だぜ―――。そうだろ彰っ!』

『じゃあどうすんの、健ちゃん?』

『だからそれを考えてんだよ―――っ。黙ってろよおまえっ!』

『―――。ごめんね健ちゃん』

『す、すんません・・・』

健一と彰のぎこちない会話に、この男も合いの手を入れるしかなかった。


『なあ、あんたらを仕切ってる元締めって居るんだろ?』

『はあ、元締めっていうか世話役―――っていうんだべか・・・?』

『どっちでもいいんだよっ、居るんだろっ!』

『あっ、はい―――っ!』

『そうか―――』

そう言って、しばらく思案の最中の健一だった。


『―――。そいつらと穏便に取引できねえかな、なあ―――?』

『取引って・・・?』

『おれの歌でもって興行の仲介ってどうだよ?』

『こ、興行―――?』

『はあ―――っ、あんたも相当、頭悪そうだな?』

『うん・・・。学校出ていねえんだべぇ・・・』

『じゃあ、こうしようぜ―――』

『えっ―――?』

健一の企みが、順を追ってその男に伝えられた。始めは怪訝そうに聴いていた男の顔も、次第に真剣な面持ちに変わっていった。


『なあ、結構な話だろ?』

『ああっ、そうだんべな―――』 

『明日のこの時間、さっきの通りで待ってるよ。いいな』

『―――承知したんべ』 

『裏切るんじゃねえぞ。分ってるよなっ?』

『そ、そんなことしねえべよぉ・・・』

『そうか分った。じゃあ行っていいぞ!』

『なあ、この腕・・・、どうにかなんねえべか・・・?』

だらりと下がったままの男の右腕が、みすぼらしく健一に向けられていた。

『おっと、そうだったな―――』

そう言うと男の右腕を、健一が無造作に握った。


“グキグキ―――ッ―――ッ!!!”


『あぎゃあ―――――ぁっ!!!』

するといとも簡単に男の右腕が肩に差し込まれた。

『ああっ・・・痛っ・・・・・っ!!』

『当分、痛みは消えねえがよ、明日には楽になってるはずさ』

『健ちゃんっ、なんだ骨接ぎ出来んじゃねえかよお―――っ』

『ああ、内科だけじゃ身入りが厳しいつってさ、内職で接骨もやってたぜ。そういえば赤ん坊も取り出してたよなあ―――。へへっ、とんだ親父だなっ!』

そんな健一の無鉄砲な一面は、亡くなった親父さんの後を継いでいたようだ。


『ところであんた、名前は?』

『将太―――。山部将太ってんだべ。―――健ちゃんさ』

『おおっとお―――、いきなりかよ』

『そう呼んでいいだべなぁ?』

『ああいいぜ、山ちゃんっ!』

『へへへっ―――』


何とも奇妙な巡り合わせだった―――。山部将太20歳。戦後すぐに栃木から出稼ぎ同然に数人の仲間と上京した身の上だった。

荒れ果てた地でのどさくさ紛れの領地争いに便乗するも、心底、悪人に成りきれない気性からか、テキヤ集団での子分としての扱いに甘んじるしかなかったようだ。



『緒方健一っていいます。どうぞ面倒を看てやってください』

『ふ―――ん。で、そこに居んのはお前の連れかい?』

『はい、木野谷彰って、おれの幼馴染です』

健一と彰は、目論み通り山部将太を介しての交渉事に当たっていた。


『歌で稼いでるって?、お前ら』

『はい、この辺じゃ割りと有名ですけど』

『そうなのか、将太よお―――?』

『はい確かに、親方っ!』

『で、どんだけ稼いでるんだ?』

『少ないときで20円、多いときは50円の水揚げがあります』

『ほ―――う、50円ねえ―――っ』


ちなみに昭和21年当時の物価は、米10キロ=36円。山手線初乗り=20銭。鉛筆一本=50銭というものだった。

当時50円と言うことは―――、今の昭和32年に置き換えると、約1200円相当の稼ぎという計算になる。 注)昭和32年当時の米10キロ=850円に換算。

1200円というと、うどん40杯がゆうに食べれるほどの稼ぎだった。


『―――で、俺にどうしろって言いたいんだよ?、お前なあ』

『おれの歌の興行の後押しをしてはもらえないでしょうか?、宮田の親方さんに』

『興行だあ―――?。へへっ、一端な口の利き方をするもんだぜ、なあ―――将太よお』

『はい、親方っ!』

『ふ―――ん。で、歩合はいくらだ?』

『はい、折半で』

『おいおい、商売を甘く見てんじゃねえぞ小僧。今時、折半なんて取引なんざあるもんかい。なあ―――将太よお』

『あっ―――はいっ、親方っ!』

山部将太の従順すぎるほどの態度が、宮田という親方の貫禄を醸し出していた。


『しかし、元手の掛からない危険性の薄い商売です。しかも、食いつきが良いときてる。折半だとしても、損は出させません!』

『食いつきだって―――?。はは―――ん、相当な自信家だよなあ―――、お前よお』

『自身がなけりゃこんな話なんて持ち出しやしませんよ。親方っ!』

『いいだろうぜ、お前のその自信ってやつを見せてもらおうかい?』

『―――望むところです』

そう言って健一は、臆せず宮田の前に直立した。そしてお腹に両手を当てて、大きく息を吸い込んだ。


“丘を越えて行こうよ

真澄の空は朗らかに

晴れてたのしいこころ

鳴るは胸の血潮よ

讃えよわが青春(はる)

いざ行け遥か希望の

丘を越えて

 

丘を越えて行こうよ

小春の空は麗らかに

澄みて嬉しいこころ

湧くは胸の泉よ

讃えよわが青春を

いざ聞け遠く希望の

 鐘は鳴るよ――――――”


『ほ―――う、丘を越えてか―――』

高音をふんだんに用いて歌う健一の技術に、宮田も思わず頷くしかなかった。

それにしても、当の藤山二郎を彷彿させるに充分な、健一の圧巻な歌唱力であった。

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