緒方健一 其の二
『ち、ちょっと―――、放せってっ!』
『どうせ盗みにでも入ろうって算段だろうが―――っ?。正直に言えよこの野郎っ!』
玄関先ではその中年男に絡まれていた彰が、きつく羽交い絞め状態でもがいていた。
『い、和泉さん―――、勘弁してあげてよ。こんな子に盗みなんてできやしないよおっ!。ねえ、お願いだからさあ―――』
家主の老婆はというと、彰を庇うようにその和泉という男に嘆願するしかなかった。
『小柴さん、あんたこいつらを甘くみてちゃ駄目だからなっ!。たちの悪い浮浪児が蔓延ってるんだ。財産どころか、人の命だって簡単に奪っちまうってほどだぜ―――っ!』
『勝手に盗人扱いすんじゃねえよ―――っ、このくそ爺ィ―――っ!』
『へっ、犬に噛まれたなんて見え透いた小細工しやがってよお、同情を煽ってる証拠じゃねえかよおっ!』
健一の周到なその企みが、ここにきて裏目に出てしまった。
『同情を煽ってなにが悪いってんだよ―――っ。住む家も食う飯も無いんだ、他人にめぐんでもらう以外に、どうしろってんだよお―――っ!』
『なんだあっ、開き直りやがってこの野郎―――っ!』
『あ痛てててえ―――っ、離せってんだよ、このくそ爺ィが―――っ』
あからさまに口をついて出た彰の本心は、この国の都合で理不尽にも飢えや孤独と闘う全孤児たちの正直さを代弁していた。
それは健一と彰に限ったことではなかった。既に道理を弁えたはずの大人達の都合のいい身勝手な判断は、国際犯罪に加担する道を突き進んでしまったのだから。
その煽りを受けるしかない未来あるべき末端の生き証人には、自分の都合を主張するしか無かった。
『おいおいっ、これ以上暴れるとよ、この包帯が洒落になんなくなるぜえっ!』
彰の腕を締め付けながら和泉という男が、やんわりと脅しを掛けていた。
『ねえ、おっちゃん―――、どうかしたのか?』
するとその男の背後から、心配そうな少年の声が飛んできた。
『ああん―――?』
『どうかしたのか?、おっちゃん』
『おおっと―――丁度いいや。このガキったらよお、泥棒の最中って訳さ。悪いがお前さ、こいつの足を押さえちゃくんねえかなあ―――』
彰の四方に暴れる足に難を示しながら、男は背後の少年に援助を申し出た。
『ふうん―――足ね。いいぜ加勢するよ』
『ありがとよ』
『礼には及ばねえや。でっ、どっちの足がいいんだ?、おっちゃん』
『そうだなっ、両足やってくれよ』
『両足って、本当にいいのか?』
『本当にってよお―――?、どうでもいいから押さえてくれよ。なあっ!』
『―――弱い者いじめは感心しないぜえ、―――おっちゃんさ』
『うんんっ―――?』
“バコッ―――ッッ―――!!!”
『あたっ―――!、痛う―――っ―――っ!』
『彰っ!、大丈夫か?』
その若者とは、やはり健一だった。裏庭から拝借した巻き割り用の小型斧の峰で、その和泉という男の向こう脛を思いっ切り叩いた。
『うぐ―――っ―――!!』
身体を円にして、その男は悶え苦しんでいた。
『な、なんてことを―――っ、和泉さん、大丈夫―――っ!。あ、あんたたち―――っ!。一体、どうして―――っ!!』
目の前の事態に驚きを隠せない老婆は、その場で狼狽するしかなかった。
『なにやってんだ彰っ、行くぞ―――っ!』
健一が躊躇いなく彰に声を張った。
『―――お婆ちゃんありがとう。ありがとう―――。ごめんねっ!』
老婆の顔を見定めた彰は、もらった数個の饅頭へのお礼とともに、知人の子だと言ってとっさに自分を庇おうとしてくれたその情けに、感謝の言葉をその老婆に向けて投げた。
『あっ―――』
そんな彰の純粋な眼差しに、老婆は声を詰まらせていたようだった。
『彰、おまえ何やってんだよっ!』
『ごめんな健ちゃん―――』
間一髪で御用となる羽目を逃れた二人は、いつもの橋の下のボロ小屋に戻っていた。
『んで、何を手に入れたんだ?、彰よお』
『ほらっ、饅頭さ。しかも、こんなに沢山だぜっ!』
『なんだ―――、饅頭かよ』
『贅沢言ってんじゃねえぞ、健ちゃん。饅頭なんて久方振りだろ?』
『まあ、そうに違いねえや』
『健ちゃんの持ってる物ってなんだよ。金目の物か?』
『へへっ―――。レコードさ、しかも貴重なもんばっかだぜっ!』
『え―――っ、レコードって、そんなん喰えやしねえだろ―――っ?』
『馬っ鹿野郎っ!、売りさばくに決まってんだろ。相当金になるはずさ、今時、手に入らないもんばっかだぜ』
『じゃあ、売った金でシチュー喰えるよな、健ちゃんっ!』
『お代わり三昧ってことさ、彰よっ!』
『えへへっ―――、ありがとう健ちゃん』
『上野にでも行って、店開きだ。いいな彰っ!』
『合点だっ!、健ちゃん』
当時の上野駅の周りでは、闇市の軍勢でごった返していた。様々な品や食料が、そこに溢れんばかりに並んでいた。
『さてと、この場所するか―――。おい彰、並べろよほらっ』
『売れるといいな、健ちゃん』
『待ってろよ、おまえの好物のシチューたんまりと喰わせてやっからさっ!』
『えへへ―――っ、分ってるよ健ちゃん』
二人はそそくさと、風呂敷から取り出したレコードを並べ始めた。それはどれも貴重な代物だった。
『おおっ!、ロバート・ジョンソンだぜえっ!。―――ブルースの神様さ、堪んねえな―――彰よおっ!』
『そうなのか―――?、健ちゃん』
『ベッシーまで揃ってるぜっ!。く―――っ!』
健一の音楽好きは、どうやら半端ではなかったようだ。さすが医者の倅だけあって、高尚な趣味を蓄えていた。
『家が焼けなけりゃ―――、おれん家にも相当あったんだけどな』
『残念だったな、健ちゃんさ』
『へっ、仕方ねえや―――っ』
それぞれを手に取りながら、健一が寂しく笑っていた。
豪華絢爛に並べられた貴重なレコードは、果たしてこの二人の飯代を稼ぐことが出来るのだろうか?。
『―――そりゃそうと、全然売れないぜ。健ちゃんさ』
『贅沢品だもんな―――』
『そうだ、人集めに歌ったらどうだよ健ちゃんっ!』
『ここでかよっ!』
『健ちゃんの歌だったら、人だかりが出来るよ。絶対さっ!』
『そうか―――?』
『ねっ!、お願い』
『ううんっ―――、そうねえ』
彰のおねだりに、健一がすくっと立ち上がった。しかし最初は、辺りを窺うように戸惑っていた様子の健一だった。
“―――赤いリンゴに くちびる寄せて―――だまっ――て見ている 青い空―――”
やがて小声ながら歌いだした健一だった。
『よっ!、健ちゃんっ!』
囃し立てる彰の声に、健一の声は次第に大きく辺りに響き始めた。
“―――赤いリンゴに くちびる寄せて―――だまっ――て見ている 青い空―――”
リンゴは何にも いわないけれど リンゴの気持ちは よくわかる
リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ
あの娘よい子だ 気立てのよい娘 リンゴによく似た 可愛いい娘
どなたがいったか うれしいうわさ 軽いクシャミも トンデ出る
リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ――――――“
“リンゴの唄―――”
新たな時代への歌謡を託された若き美唱の持ち主、並木路代の明るく溌剌たる歌声に乗せられて、敗戦の色濃く残る消沈しきったこの国を一気に駆け抜けた名曲であった。
そんな健一の熱唱に、気が付けば数十人の人だかりが二人を取り囲んでいた。
『上手だな―――兄ちゃん』
『この歌って、歌詞がとてもいいのよね―――』
『へえ―――っ、若いのにえらく様になってんじゃねえかよお!』
『レコードなんて売ってんだなあ。ほお―――っ、珍しいもんが並んでるよお。こりゃいい代物ばかりだなあ―――』
『分るのかい、おっちゃんっ?』
『ああ、俺もかじってたからなあ―――っ。けどさ、レコードだけあっても仕方ないよ、肝心の蓄音器なんて手に入るもんじゃないしな』
『そ、そりゃそうだけど―――。ほら、どれも貴重なもんばっかだぜっ、ねえ買っておくれよ―――』
『生憎、レコードは買えないけどよ、兄ちゃんの歌なら買ってやってもいいぞ。続けてくれよ―――、りんごの唄―――』
『えっ、おれの歌をか―――?』
『そうよ、あんたの唄の続き聴かせてよ。―――ねえったら!』
『健ちゃんっ、ほらさ―――、ねっ!』
『あ、ああっっ・・・』
健一自身にも、目の前で起こったその反応に驚くばかりだった。確かに幼い頃から歌うことは好きではあったが、こうして人前で評価されるなんて機会などあろうはずもなかった。
ましてや街頭流しに身を置こうなどとは、まったくもって初めての体験だったからだ。
『どうしたよ、とっととやってくれよ―――、なあ』
『ほらほら、どうしたんだよ―――っ!』
『あっ―――はいっ』
それらの声々にやっと観念したのか、健一は大きく息を吸い込むと、ゆっくりとその顔を空へと向けてまっすぐに口を開いた。
“―――朝のあいさつ 夕べの別れ いとしいリンゴに ささやけば
言葉は出さずに 小くびをまげて あすもまたネと 夢見顔
リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ
歌いましょうか リンゴの歌を 二人で歌えば なお楽し
皆なで歌えば なおなおうれし
リンゴの気持ちを 伝えよか
リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ――――――“
“パチパチパチ―――ッ―――、パチパチパチパチパチパチ―――ッ―――”
―――パチパチパチ―――ッ―――、パチパチパチパチパチパチ―――ッ―――“
『よっ!、立派じゃねえかよおっ―――』
『ありがとうねえ―――っ、励みになるわ―――っ!』
『明日もここで歌ってくんねえかな。聴かせたい連れがいるんだけどよお―――』
『そうだ、そうだぜ――――――っ』
健一の歌声は、確かに目の前の聴衆の心を射止めていた。閉塞された戦時下の暮らしはもとより、敗戦に打ちひしがれた国民の感情を掬うかのように、健一の奏でた朗々とした歌声は、立派に世間様のお役に立っていたのだ。
『幾らも出せないけど―――』
そう言いながら一人の男性が、よれたズボンのポケットから取り出した僅かな小銭を、健一に手渡した。
『えっ、いいのか?』
『ありがとうよ―――』
満面の笑みを残してその男性が去ると、残った者たちも健一の傍に寄って来た。
『足しになんないけどさ―――。もらってよね』
『少ないけどさ―――』
『いい歌声だったなあ、兄ちゃんよ―――』
すかさず彰の差し出した風呂敷には、多くの小銭が投げ込まれていた。皆、健一の歌に対しての僅かばかりの謝礼だった。
ようやく人影の薄らいだその場所に、健一は立ち尽くしたままだった。
『やったね、健ちゃんさっ!』
『あ、ああ―――』
『どうしたんだよ健ちゃん?』
『うん―――、うん』
『泣いてるのか、健ちゃん―――?』
『くしゅっ―――、なっ―――っ、そ、そんなんじゃねえよ・・・うう・・・』
『健ちゃん―――っ』
この時、健一は始めての感動に浸っていたのだった。歌うことの意義を、その素晴らしさを、しみじみと噛み締めていた。
この日を境に、健一と彰の街頭流しの生活が確立されたのだ。都内の要所を歩き回り、健一の歌声は多くの聴衆をかき集めたのだった。
『健ちゃんさ、本業の歌い手になればいいんじゃないか?』
『そうは簡単にいかねえだろう―――。流し家業が関の山ってさ』
『そうかな―――』
『さあ、飯にありつくとするか彰―――っ』
『今夜は何が喰えるのかな―――健ちゃんさっ!』
『肉が喰いてえよな』
『うんっ、それがいいやあ―――っ!。へへへっ』
健一の歌声は、毎夜の飯に困らないほどの稼ぎを見せていたのだ。
池袋の大通りで流しを終えた健一と彰は、晩飯の算段に浮かれている最中だった。
『お―――い、おめえらっ!。誰に断ってここで商売してんべんだあ?、―――こらっ!』
『えっ?』
『聴こえていねえべのか、ああん―――?』
やけに威勢のいい声が二人の背中越しにざわめいていた。振り向くとそこには、いかにも人相の悪そうな男たちが数人立ち構えていた。
『―――誰に、だって―――?』
振り返った上半身を敢えて戻し、鼻をこすりながら健一が不機嫌に吐き捨てるように言った。
『おい―――、ふざけてんじゃあねぇってよお!。聴こえていねえべのかって言ってんだよおっ!、おらっ!!』
更に強く、さも煽り立てるように、その男が続けた。
『歌うのに誰の許可がいるんだって―――?』
その輩に向けて、健一が臆することなく応えていた。それはまるで喧嘩を売ってるかのように―――。
『おいおいっ―――、どうやら口の利き方も知んねぇようだな―――。ああん―――っ!』
さらに凄みを増して、そのうちの一人の番格と思しき男が近づいて来た。
『何処から来たのか知んねぇけどさ、この品川界隈にはそれなりの掟ってもんがあってよお。勝手は出来ねぇようになってんべんだあ。ああん―――?小僧らよおっ』
縄張りを誇示する、所謂、ショバ代の請求のようだった。しかしその男達の言葉には、北関東特有の強い訛りが発せられていた。
この当時、力なく東京の街々には、関西系の博徒系組織とともに、北関東からのテキヤ系組織の台頭激しく、まさに無法地帯そのものだった。ともに縄張り争いに凌ぎを削るのが日課ともされていた。




