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緒方健一 其の一

―――果たして、緒方健一の正体とはいったい―――?



―――二次世界大戦の戦中から戦後間もなくの動乱期。東京の街々においても、ほとんどの生活者が満たされぬ衣食住に天を仰いでいた。

その中でも親を失った多くの子供たちは、すでに路頭に迷うしかなかったのだ。

食と愛情に飢えた子供たちは、それでも生きることに必死だった。街頭のあちらこちらでは見も知らぬ他人に食を乞う少年少女たちが溢れ返っていた。その反面、大人顔負けに略奪行為に手を染める一部の子供たちも次第に増えていくのだった。

彼らのその悪辣な行為を非難することなど、傍から見れば余りに容易かった。しかし、そこには国家の自尊故に犠牲となった、戦争孤児という残虐な事実があったのだ。



『なあ健ちゃん、あそこの家は婆さんだけらしいってさ』

『へっ、ちょろいじゃんかよ。今夜荒すか?』

『けど、危害はなしだ。脅かすだけにしようよ』

『なに言ってんだよ。どうせ老い先短いんだろ?、あの世にでも行ってもらったほうがよかねえのか?』

『これ以上はやばいって―――』

『そっか、そいじゃ金品だけにしとくか』


空恐ろしい会話が、橋の下から漏れ出していた。その声の先はというと、みすぼらしいバラックの中で胡坐をかきながら背を丸めて煙草を貪り吸っている、若い二人連れの姿があった。

しかし、よく見ると十代半ばとも見れる少年二人たちの姿であった。

その少年の一方の名は、健ちゃんと呼ばれていた。


『あ――あ、最近ろくなもの食ってねえよな健ちゃん。この一週間、芋ばっかだぜっ!。あ―――あ、闇市のシチューが食いてえなあ―――』

『あんな進駐軍の残飯なんか食えっかよおっ!。バカにしてるぜ―――ったく』

『でもさ、栄養満点なんだって。たまに肉なんて入ってんだぜ、そりゃ最高さ』

―――進駐軍の残飯を漁って作られた、闇市自慢の“シチュー”とやら。洋風の味付けに様ざまな具を放り込んだ、所謂、ごった煮のことだった。

そんなお粗末な“料理”でさえ、彼らにして飢えをしのげる貴重なタンパク元だったのだ。


“支那の夜―――支那――の夜よ―――、港の――灯――り―――紫の夜――に―――

上――るジャンクの―――夢――の船――――――“


『それ、なんて歌だよ健ちゃん?』

『なんだ知らねえのか?、おはまさんの支那の夜じゃねえかよお―――』

『おはまさん―――って?』

『何にも知りやしねえな、おまえって奴は』

『だってよお―――健ちゃん。おれん家、相当貧乏だったろう。ラヂオなんてなかったもんな・・・』

『ああ、そう言えばそうだったよな―――。おまえんとこ』

『健ちゃん家が羨ましかったぜ、何でも揃ってたもんな・・・』

大衆娯楽の先端を担っていたラヂオ放送も、そう易々と手に入る時代でもなかった。一部の富裕層を外せば、大方、無縁の文明の力でもあったのだ。

『渡部はま子だよ。日本人離れした美貌がたまんねえんだよなあ―――』


―――渡部はま子。

彼女こそ戦前から戦後にかけて活躍した流行歌手であった。横浜生まれの横浜育ちからか、浜っ子をもじっての“はま子”が、彼女に名付けられた所以でもあったらしい。

もともと祖父がアメリカ人だったことで、系図はクォーターであった。その血統からか、彼女の美貌は特別に妖しく煌いていた。


“ああ――忘られ――ぬ――胡弓の―――音―――、支那―――の夜―――夢の――夜――――――”


『相変わらず、健ちゃんの歌声はいいよな』

『よせやいっ―――、おまえのお世辞は聞き飽きたぜっ』

『ところで、いつ襲撃すんだよ健ちゃん、あの家?』

『彰さ―――、襲撃なんて乱暴なこと言うなってよ。もっと紳士的にやろうぜ』

そして、もう片方の少年の名は、彰と呼ばれた。

『紳士的―――?って、健ちゃんに似つかわしくないよな、その言葉』

『馬っ鹿野郎っ―――!。そもそも育ちが違うだろ?。仮にもおれは医者のせがれだぜ、貧乏長屋育ちのおまえと一緒にすんなって』

『そんな言い方ってないじゃんかよ―――。そりゃ健ちゃんと比べると、おれは低脳だけどさ』

『ちっ―――この貧乏人が』

『けっ、このご時勢だ貧乏なんてほうがまだましだったよ。よっぽど人間らしい生活だったもんな』

貧乏がましな時代なんて、いささか理解に苦しむ表現にも感じた。

『それはそうと、二番目の兄貴は還って来ないようだな―――彰よお?』

『そんなもん、とっくに戦死してらあ―――』

『死亡告知書って届いたのか?』

『届くわけないだろっ。家だって焼け野原だ届きようがねえや!』

『―――そりゃそうだ』

それはまるで十代の少年の交わす類の会話ではないように思われた。

戦後の戦災孤児たちの中には、世間に毒づく浮浪児と呼ばれる階級があった。約12万人ともいわれた浮浪児たちは、生き残る術を模索しながら、東京の街の隅々でしたたかに息を潜めていたのだ。


『今から行こうぜ、彰』

『今からっ―――て、まだ明るいのに、大丈夫かよ健ちゃん?』

『婆さんだろ?。そんなの関係ねえって、ほら行くぞ』

白昼堂々と強盗まがいの行為を企むこの少年たちは、譬え孤児だとしても許されるべきものなのだろうか?


『彰、包帯あったろ?』

『ああ、あるけど』

『ほら、さっさと巻けよ。おまえの右手だ』

『巻く―――?』

『いいから、巻けばいいんだよ。言うとおりにしろって!』

『うん、ああっ』

健一が矢継ぎ早に、彰に意味不明の指示を出した。

『へへ、まるで様になってるぜ』

『で、健ちゃんさ―――、一体どういう了見なんだ?』

『んん、あのな―――――――』

すると彰に向けて、やおら健一が語り始めた。おおよそ強盗に押し入る算段に決まっているようだった。

『―――健ちゃんっ!』

『ああ、なんだよ?』

一通りの説明が終わったころ、彰が神妙な面持ちで健一の顔を見やった。

『健ちゃんって、やっぱり頭いいんだな』 

『今更なんだよ彰。そんなこと判りきってんだろ?』

『やっぱ、医者の倅は出来が違うんだな』

『そんなに感心するほどじゃないだろ、ほら行くぜ!』

不自然に肩から右腕に巻きつけた包帯の彰を従えて、健一は目当ての屋敷の前に立った。


『彰、ついでに裸足になれよ』

『裸足って―――?』

『そのほうがみすぼらしく見えるんだよ、ほら早くっ!』

『今だって結構それらしいけど・・・』

彰の破れかけた靴を乱暴に放り投げると、健一は屋敷の門扉を遠慮なく開いた。

『こんにちは、ごめんください―――っ。誰か居ませんか―――っ!。ごめんください―――っ!』

そして大きな声で住人を呼んだ。

『健ちゃん、―――誰も居ないみたいだぜ』

『婆あだから耳が遠いんだよ。仕方ねえな―――』

そう言ってから、さも当然のように玄関扉に手を掛けた。


“ガタッガタガタ―――ッ”


『ちっ!、鍵が掛かってるぜ』

“ドンドンドンッ―――!、ドンドン―――ッ!”

『誰か居ませんか―――っ!』

繰り返し声を張る健一だった。


『健ちゃん、留守じゃねえのかな?』

『留守か、仕方ねえなあ―――。それじゃ二階から忍び込むしかないな』

『そこまでやんのかよ、健ちゃん!』

『ああ、折角来たんだからな』

住人不在が確認出来たのだ。今こそ留守宅を狙う最高の機会でもあった。


『―――どちらさんかねえ?』

『えっ―――』

留守宅だと判断した健一たちの思惑を台無しにするかのように、小さく老婆らしき声が扉越しに聴こえていた。

『彰、出番だ!』

『ええ―――っ!?』

『やれよ、さあっ!』

臆した彰に、健一が囃し立てた。

『た、た―――助けてくださァ―――いっ。お願いで―――ぇす!』

彰の裏返った声は、玄関扉に跳ね返されそうに情けなかった。

『はい・・・?』

『・・・お願いです、助けて・・・ください・・・』 

その声はまるで、ひっ迫しそうな事態を駆り立てていた。

『は―――はいっ?、ち、ちょいと待っておくれよね―――』

どうやら慌てた様子の老婆の声は、当然、健一の思う壺だった。

『―――彰、手はず通りだ、分ったなっ?』

『あ、ああっ―――。分った』

彰に声を掛けた健一は、そそくさと玄関脇に身を隠した。


“ガラガラ―――ッ”

間もなくしてから、内側からゆっくりと扉が開けられた。

『どうしました・・・?。大丈夫なのかい?』

『助けてください・・・。助け・・・て・・・ください―――』

痛々しい包帯を左手で支えながら、彰の顔は情けなく老婆を見つめていた。

『もう何日も・・・喰ってないんです・・・。助けてください、お婆ちゃん・・・』

『まあ・・・、それは可哀そうにねえ・・・』

『・・・少しでいいんです・・・。食べるもの・・・分けて・・・ください』

『大したものは出せやしないけど、ここで待ってておくれよ』

丸めた腰を少し伸ばしながら、老婆は奥の部屋に進んで行った。

『―――健ちゃん、上手くやったぜっ!』

『でかしたぞ、彰っ!』

小声で相槌を送りながら、健一はそっと二階へと上る階段を目指した。

辺りを警戒するように、彰はそわそわと玄関内に腰を降ろした。奥の部屋ではがさがさと老婆が仕度を進めているようだった。


『へ―――え、結構な物が置いてあるぜ―――。骨董品ばっかじゃねえか』

首尾よく二階に侵入した健一は、物色する手を休めることなく機敏な動作で部屋を移っていた。

『んんっ?、これは―――?』

そんな健一の目に留まったものそれは―――。

『すんげえ数だ、おれん家とは比べ物になんねえやっ―――!。おおっ、二村定二じゃんか―――。“君恋し”かあ―――、まあおれは個人的には、“アラビアの唄”のほうが好きだけどよ。やっぱジャズは本場じゃねえとな』

立派な蓄音器の横に並べられたレコードの数々に、しばらく健一は目を奪われていた。

『佐藤千世子かあ―――。よく聴けたもんだぜ、こいつ東北訛りがひでえもんな。は――んっ、ここの住人と趣味は合わないってことか』

賊に忍び込んだはずの健一は、いつしかそんなことも忘れて、目の前のレコードにただ没頭していた。


一方、階下の彰はというと、老婆の手厚いもてなしに恩恵を授かっていた。

『余りものだけど、どうぞ召し上がっておくれ。お兄ちゃんの口には合わないかもしれないけどねえ』

老婆の差し出したものは、数個の饅頭だった。

『これっ、全部もらっていいの、お婆ちゃん!?』

『あたし独りしか居ないからね、残してしまってもねえ』

『じゃあ、持って帰ってもいいのお婆ちゃん?』

『構わないわよ、うふふ』

『助かった―――っ、恩にきますお婆ちゃん!』

『ところであんた、お家は何処なの?、家族は居るの?』

『―――家は焼かれちまったんだ。誰も残っていないよ。一人っきりさ・・・』

刹那、彰の漏らした孤独の現実は、健一の指図した身の上よりもはるかに上回っているようだった。

『そうなんだねえ―――。余計なことを言っちゃったけど、悪く思わないでちょうだいな。ねえ、お兄ちゃん・・・』

『俺だけじゃないからさ、気にすることはないよお婆ちゃん』

『気を遣ってもらって、ありがとうね』

『いやっ、そんなことないよ―――』

老婆の優しい言葉に、彰は後ろめたさを感じずにはいられなかった。これほどに施しを頂戴した彰にとっては、屋敷の二階で奪略行為を進行させている健一が、とても忍びなく思えていた。


“キキ―――ッ!”“ガチャッ―――”

すると急に彰の背後で、大きく自転車の止まる音がした。


『―――?』

『よっこらせっと―――。ああっ、小柴の奥さ―――ん。最近、特に変わったことはないかね―――?』

『や―――やべえっ』

浅黒の顔をした中年の男が、怪訝そうに彰の顔を覗きこんでいた。

『和泉さん、ご苦労様―――。お陰さまで何事もないわよ』

『うむ、その少年は誰なのかな?』

『あ、ああっ―――、この子はね、あたしの知り合いの子なの・・・。久しぶりに会いに来てくれたのよ、あたしを案じてね―――。感心な子だこと』 

とっさに何を思ったのか、老婆が彰のことを庇うように誤魔化しを入れていた。

『そうかね、そりゃ一安心だ。まったく物騒なご時勢だもんな』

『そりゃそうと和泉さん。この先の河原さんの奥さんね、ついに入院したんだってさ。聞いてる?』

『ああ、河原の奥さんだろ。俺もつい三日前に聞かされたところだ。結核だってな、この度は長くはねえって話だけど』

そう言いながら、その男は自転車を止めて敷地内に入ってきた。

『そうなの―――、残念ねえ』


『ところで君の家は何処なのかね?』

彰の素性を窺うかのように、和泉という男が彰に歩み寄った。

『う、うん―――押上だけど』

『押上って、先の空襲でほぼ全焼だったって話だが―――』

『うん、そう・・・』

『そうか、そりゃ酷い目に遭ったんだな。家の人は大丈夫なのかい?』

『みんな焼け死んだ・・・』

『―――。そうか、そうなんだな・・・。ところでその腕はどうした、やけに痛々しいじゃないか』

『あっ―――、の、のら犬に噛まれた―――んだっ』

『そりゃいけねえな、医者には診せたのか?』

『いや―――っ、た、大したことないからさ・・・』

『ちょっと診せてみろ。化膿してからじゃ手に負えなくなるからな』

その男は図々しく、彰の包帯をめがけて手を伸ばしていた。

『だ、大丈夫だって―――っ!』

その男の差し出した右手を払いのけるように、彰は気まずく抵抗をした。


『―――小柴さん、この子なんて名前だい?』

『え、えっ―――とお・・・』

『彰っていうんだ』

老婆の戸惑った瞬間、彰が自ら名を名乗った。

『ふ―――ん、彰かあ?』

『そ―――、そうそう、彰ちゃんだったわよねえっ。も――う忘れっぽくなっちゃってさあ最近、あたし』

『ふ――む。小柴さんねえ―――、知り合いの子だなんてどうせ嘘っぱちだろ。こいつ何か物でもせびりに来たんじゃねえのか?』

じんわりとその男は、彰の挙動に不信感を注いでいた。そもそも和泉と呼ばれるその男の正体さえ明かされていなかった。


『ああ―――っ!。まさかお前じゃねえだろうな、最近、この界隈で泥棒が頻繁に起こってるって話は―――っ』

なるほど―――。この地域の生活安全を見廻る役所の人間だった訳だ、この和泉という男は―――。

『えっ―――!』

『そうなんだな、やはりお前の仕業なんだなっ!』

『ち、ちょっと待ってよ―――!。そりゃあんまりだよっ!』

『怪しいっ!。そのうろたえ方は、さては図星だなあ―――っ!』

大声を上げて、その男は彰の巻いている包帯に手を掛けた。

『よせよ―――っ!!』

それに抵抗する彰は、その男の手を大きく拒んだ。


『―――んん?、なんだ、どうした―――?』

二階に忍び込んでいた健一の耳に、階下での騒動が届けられた。

『彰の奴、どうしたってんだ?』

慌てて窓の外に目をやった健一は、彰と対峙している中年男をまじまじと見つめた。

『もしや―――!』

と、棚に並べられていたレコードを手当たり次第風呂敷に包んだ健一は、他室の物色を諦めるとすぐさま一階の勝手口に向かった。

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