ジョー片桐という男
“なあ――がい旅路の―――航お――海終え――えてえ―――、船う――ねが港に――泊ま―――る夜う――――”
ラジオから流れる歌が、やけにもの悲しく聴こえていた。
“あ――あ――港町ち――十う三番地い―――――”
『ひばりは、やっぱりいいよなあ。なあ?』
『そうだね・・・』
おじさんの言葉に、僕はなんとなく調子を合わせているだけだった。
ぼんやりと国道沿いの町並みを眺めているうちに、僕らを乗せたダンプはようやく鎌倉の市街地に到着した。
“プシュ――――ッ”。
『着いたぜ、この辺でいいのか?』
『多分・・・』
『おい、兄貴を起こせよ。優しくな―――』
最後まで気を遣ってくれたおじさんは、にんまりと笑っていた。
『そいじゃあ、気をつけてな。親父さんと揉めんじゃねえぞ!、兄ちゃんよ!』
『ああ、ありがと、おっちゃん!』
“バシュッ、ブロロロ――――ッ”
黒煙を撒き散らして、ダンプが走り去った。
『あ――あっ、やっと着いたかあ―――っ』
『寝てただけじゃんか、お兄ちゃん』
『馬鹿野郎っ!、ダンプの後部座席ってな、案外と体力を消耗するもんなんだよ―――。ふわあぁっ・・・』
『けど、歩かなくてすんだね。鎌倉まで直行だなんて得したね』
『言った通りだろ、おれの筋書きのお陰だろが?』
『けど、本気で絞めることないじゃんか!、死ぬかと思った・・・』
『大げさなんだよ、おまえは』
車内での騒動は、すべて兄の仕組んだ芝居だった。ああでもしないと、横浜で降ろされたに決まっている。横浜止まりなんて中途半端は御免だった。
『さてと―――、昼飯でも食うかあ!。親父の捜索は、それからだ』
意気揚々と、兄は鎌倉市内の飯屋を物色し始めた。
『洋食かなあ・・・。それとも中華、いや、無難に和食かも・・・』
そう呟きながら、思い荷物をぶら下げながら僕たちは商店街を練り歩いた。
『おっ―――!、肉だぞ、ビフテキだぞっ!』
“アラジン”と書かれた店先の大きなケースの中には、美味そうなステーキが陳列されていた。しかし、とても高級そうなお店だった。
『折角だ、喰ってやろうぜ』
『―――お兄ちゃんっ!、300円って書いてあるよ。ほらここっ』
勢い店に入ろうとした兄を、僕は引き止めた。
『ええっ、300円だってえ――っ!』
『うどんが10杯も食べれるよ。ねえ、やめとこうよ』
『う――ん、うどん10杯かあ・・・。どうしたもんか?』
しばらく店の前で悩んでいた兄だったが、どうやらビフテキの魅力には勝てなかったようだ。ついに諦めきれずに店のドアを開いた。
『いらっしゃいませ』
入り口のすごそばで、待ち構えていたかのように声が掛かった。
兄の入店とともに、落ち着き払った蝶ネクタイの男性店員が、怪訝そうに僕たちを見ていた。
昼時のざわついた店内には、社交的な大人たちの雰囲気で一杯だった。まるで僕たち兄弟を阻害するかのように冷たい視線が待っていた。
『な、なんだよ―――』
怖い物知らずの兄にとっても初めての経験だったようで、めずらしく腰が引けていたようだった。
『何か―――御用で?』
蝶ネクタイの男性店員が、あからさまに声を掛けてきた。その態度が気に入らなかったのだろう、次の瞬間、兄が噛みついた。
『ここは、飯屋だろう?』
『はい、さようでございます』
『昼飯を食いに来た客にさ、何か御用っておかしいだろうが?』
『はっ・・・?』
『飯を出す意外に、何かサービスでもあんのかよ!。おいっ!』
『―――!』
『訊いてんだよ!、何とか言えよっ―――!!』
入り口で大声を出した兄は、荷物を放り出したかと思うと、そのまま店の奥に進んで行った。
『ち、ちょっと―――っ!』
兄の勢いに押されたのだろうか、蝶ネクタイの男性店員の制止には強制力など見当たらなかった。
そして入り口に残された僕はというと、更に身を細く構えてだんまりを決め込んでいた。
既に火が点いた兄の暴走を、止める術はなかったのだ。
『―――責任者って、誰?』
厨房の入り口で、兄はそれとらしい男に声を掛けた。
『ああ―――?。アルバイトの募集は、確かしていないはずだけどな』
長身の気取った男が、見下げるように兄に応えていた。
『おれ、客のつもりなんだけどさ。この店ってどういうつもりなんだよ?』
『はあっ・・・、客う?』
まるでとぼけたように、その男が言った。
『飯を食いに来たんだよっ!、とっとと座らせろよっ――――――!!』
広い店内にも充分過ぎるほどの兄の大きな声が響き渡った。やはり、簡単に物事は進まなかった。改めて僕は反省するはめになる。
『な―――、何だっ!!』
『やだ!、どうしたの・・・』
『おいっ!、どう言うことなんだね―――』
各テーブルから届けられた疑念の声が、ホール全体を包み込んでいた。その光景を目の当たりにしながらも、今回ばかりは僕の出番は無いと高を括っていた。
『なんだ小僧っ!。営業妨害だぞ―――っ!』
どうやら支配人らしき小太りの中年男が、小走りに兄の処に走り寄って来た。
『一体、どういうつもりだ!。ええっ!、警察を呼ぶぞ――っ!』
その小太りの男は、兄に向けて更に余計な一言を告げた。
“警察を呼ぶぞ――”、その中年男は、遂に兄の一番嫌がる言葉を口にしてしまった。
『警察だと―――?・・・いいんじゃないの・・・。呼べば』
その瞬間、嫌な予感がした。まさか兄はまた、僕を利用するかも知れない。いや、確実にそうするに違いない。
『いいのか・・・本当に、呼ぶぞ―――っ!』
『・・・。母親との別離のあとくらいは、美味しいものを食べさせてやりたいよ・・・。弟の悲しみは、兄貴であるおれにしか判んないからな・・・』
嫌な予感的中―――。
兄の嘘めいた芝居が始まっていた。そして僕の出番は,すぐ先に準備されているってことだ。
『なあ・・・弟よ・・・』
“そら、来たっ!”。まるで入り口で待機していたかの様に、僕は困り果てた顔を見せるしかなかった。
『まあ――、可哀そうに・・・』
『母親との別離って、死んだのかなあ・・・?』
『きっと、訳ありなんだろうね』
兄の即興の芝居に、数人の客が同情をこぼしていた。出番を控えていた弟役の僕には、思い当たる台詞など出て来るはずもなかった。
数秒間の沈黙が続いた時だった。
『お―――い。ここの席が空いてるぞ、良かったら来ないか!』
店の一番奥のテーブルから、予期せぬ声が掛かった。
その声の持ち主は、浅黒い精悍な顔立ちで、派手な色柄のシャツを身に纏っていた。
まるでお伽の国からやって来たような、不思議な格好をしていた。
『ねえ、やめときなよ・・・』
隣で迷惑そうに、連れの女性が呆れていた。へんちくりんな白い枠のサングラスを右手にぶら下げて、しかも金髪の凄さってきたら獅子舞を遥かに超えていた。
『いいじゃんかよ!。困ってるんだろ、あの兄弟』
『あいやっ、片桐様・・・。ご冗談を・・・』
小太りの支配人らしき男が、派手男の傍に歩み寄っていた。
『山手さん!。いいからここに呼んでよ、あの二人』
『あっ、そうでございますね・・・。はい、かしこまりました』
山手という支配人らしき男は、暑くもないホールの中でやたらと汗を拭いながら、僕たちの方向に進んで来た。
『あっち―――!。行ってよ、早くっ!』
兄の放り出した荷物を抱えながら、目線を下げたまま不本意そうな動作で、兄のシャツをやたら引っ張っていた。
『おい、もう一度言うぞ。おれ達は客だぜっ!』
山手という支配人らしき男の顔の前に、兄は鼻を突きつけるかのように接近して、勝ち誇ったように言った。
『ぬぬ―――っ』
みすぼらしい小僧に悪態をつかれた挙句、客として招かなければならない不条理に、額からは次々に大粒の汗がこぼれおちていた。
『高志、入れよ。遠慮なんていいからさっ!』
周りの客の目線なんて気にもせずに、兄は派手男の座るテーブルへと向かった。その後を遠慮がちに着いて歩く僕は、少なからず場違いを痛感していた。
『座んなよ!。遠慮なんてしなくていいんだぜ』
『ふーん、良い席じゃんか・・・』
派手男の計らいに礼を言う訳でもなく兄は、満足気に腕を組んだ。
『どうした、座んなよ』
『ああ―――』
“ドサッ――ッ!”
遠慮なんて知らない兄は、荷物ごとソファーに蹲った。そして、得意の無礼を披露した。
『あんた、ここの社長さんか?』
『社長なもんか、ただの客さ』
『ただの客にしては、おれ達とは雲泥の差だよね』
『当ったりまえじゃんかよっ!、金持ってるしよ――俺っ!。お前らみたいにしょぼくれてなんかねえぜっ!』
派手男の言葉に、僕は気が気じゃなかった。何故ならば、兄の一番嫌いなタイプだったのだ。その傲慢な態度は。
『―――。だよねえ!、そうだよ、その通り!!』
―――。長い物に巻かれた兄を僕はこの時初めて見た。いいや、きっと打算が先行したに違いない。
『それにしても臭い芝居打ちやがったなあ、お前らさ』
『判ったあ―――?。へへっ』
『度胸だけは認めてやるぜ。こんだけの大勢の客の前で、中々、出来るもんじゃないさ』
派手男があっさりと、さっきの芝居を見抜いていた。
『肉喰うか?』
『もちろんっ!』
『弟くんは、どうするよ?』
さっきからソファーに座りあぐねている僕に、派手男が訊いてきた。
『―――。もちろん・・・』
兄の真似をしたつもりが、まるで呟き声になってしまっていた。
『山手さ――ん、ここ、特大二枚ねっ!。特大だよっ!!』
大きく手を上げて注文を繰り返す派手男の横で、金髪女がうんざり顔をしていた。
『ねえ、もう出ようよお!。皆、変な目で見てるよお――こっち』
ホール内の客の目線が僕たち一行に注がれていた。けれどそれは、至って自然な事の運びのようにも思えた。
店の格式を損なうかのような小汚い兄弟の入店。それに申し合わせたように気取った派手男の演出。目の前のステーキに齧り付く暇を与えない、それはとても陳腐ともいえる余興だったからだ。
『見られて嫌なのか、お前』
『だって、恥ずかしいじゃん!』
『そうか、恥ずかしいか―――』
天井で回っている扇風機の羽根を目で追いながら派手男が、ゆっくりと金髪女の肩に手を回した。
『恥ずかしいよなあ―――』
『ええ・・・?』
『恥ずかしいんだよなあっ!、俺もさ―――っ!!』
そう言って派手男の手が、金髪女の髪の毛を引っ張り上げた。
『いやああ―――っ!』
『人前で恥をかいてなんぼだろ―――っ!。すましてんじゃねえぜっ!、この役立たずがあ――っ!』
髪の毛ごと持ち上げられた金髪女は、必死に喘いでいた。その勢いで余っていた派手男の左手が、その金髪女の顔面へと向けられていた。瞬間、彼女の可哀そうな結末が僕にも想像出来た。
『―――っ!、ぬぬっ???』
振りかざしたはずの派手男の左手が、何故か急に重く感じられていた。
『ちょい待ちっ!』
その原因は、兄の正義感だった。
派手男の左手は、兄の手によって動きを封じられてしまったのだ。
『―――なんのつもりだ?』
『こういうつもり』
『―――ふふ・・・はははっ―――わっはっはっは―――っ・・・!』
まるで交わりのない会話の後、派手男が狂ったように笑いだした。
そして自由を許された金髪女と、ホール内でその光景を見ていた客たちは、共に声を押し隠していた。
高笑いを興じる派手男を追って、すかさず兄も笑い出した。
派手男の誘いを受けた時から調子に乗った兄の行動パターンは、僕の心配を煽っていた。が、しかしそれは、穏便な解決へと実を結ぶことになるのだった。
『はっはっ―――っ、はあぁ・・・』
燃料が切れたように、派手男が静かになった。
『ふうっ・・・』
大きく深呼吸を済ませてシャツの襟を正しながら、派手男が厨房の傍に身構えている支配人に目をやった。
『山手さん、帰るわ』
『あっ、はい―――?』
『帰るよ、俺たち』
『あ、ありがとうございますっ!』
深々と頭を下げた山手と言う支配人が、会計係に目配せをして手元に伝票を運ばせた。
『片桐様っ、本日は二千円でございますっ!』
『お前らは残ってていいんだぞ。折角だ―――、肉喰って帰れよ』
派手男が僕たち兄弟に向けて言った。しかも彼の約束はまだ履行中だった。
『それでいいのか?』
兄がすかさず確約をねだっていた。兄にしたも、目的を果たしてはいなかったからだ。
『いいぜえ―――。けどな、明日もここに来るって言うのが、ひとつ条件だけどな』
『明日あ・・・?。う――ん、そうか明日か・・・。判ったそうするよ』
少し考えてから、兄は派手男の約束に従った。
『じゃあな、愉しかったぜ』
そう言うと、金髪女の腰に手を回して派手男が気障に店を出て行った。