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小幡家と和美ちゃん

『ねえ、小森くんはもう歌わないのかしら?』

『う―――ん、そこなんだよなあ・・・。正直さ、その情熱は失せたかも知れないよ、澄江さん』

『―――そうなの、それは残念ね』

『今は、家族を守ることで精一杯なんだなあ・・・おれ』

『素晴らしいことよ。それ以外に道はないと思うわ』

『そうだよねえ!。それが全うな人生っていうものだろ?』

『間違いないと思うわ。それがあなたの信じた道ならばね』

『信じた―――道?』

『そうよ、いくら家族を養うって言ってみても、信じた道を外してごらんなさいよ。すぐに足場なんて崩れてしまうものよ』

『足場ってかあ―――』

『どうしたの小森くん?。何か迷いごとでもあるのかしら?』

『いやっ、そんなんじゃないんだ。別にさ・・・』

澄江さんの言った一言に、やや迷いを隠せないでいる父だった。それもそのはず、歌を諦めた振りの父の言葉には、信じた道なんてものは曖昧に形成されていたからだ。


『ご馳走様―――!。相変わらず美味い玉子焼きだったよ、澄江さん!』

『それは何よりだわ』

『澄江さん、少し、外出して来ていいかな?』

『どうぞご自由になさいな。ここはあなたの家も同然なんですからね』

『そりゃ、ありがたいや。―――ありがとう澄江さん』

『こちらこそ、ありがとう。小森くん―――』

『けど、それにしてもなあ・・・』

『どうかしたの、あなた?』

今朝からの秋山家の妙な静けさに、父は違和感を隠せないでいた。

『澄江さん―――。二郎は何処にいるのかな・・・?』

秋山家の愛犬、二郎の気配がないことに気付いたのか、父は恐る恐る澄江さんに訊ねた。

『そうそう二郎ね―――。今は小幡さんの家で面倒みてもらってるのよ、あたしの手には負えなくなったの・・・』

『―――そうか、小幡の爺さんとこなら庭も広くて二郎も喜んでるだろうなあ。ああ、ベッシーもいるしさ!。それと小幡の奥方にも挨拶に行かないとな―――』

『・・・そうね』

『どうしたの澄江さん。そんなに心配なの?、二郎のことが』

『まあ、そんなところかしらね・・・』

澄江さんの声は、どこか余所余所しく歯切れが悪かった。


『大丈夫だよ、おれが元気付けてやるからさ』

『それは頼もしいわね―――』

『うん、任せてよね。それと、電話借りるね―――澄江さん』

『どうぞ、ご自由にね』

『ありがとう―――!』

澄江さんの変わらぬ恩恵に包まれながら、さっさと電話機に辿り着くと、父は忙しく送受話器を持ち上げた。

『―――えっとお、熊谷に繋げてもらいたいんだけど、―――そう埼玉の。こちらの番号はね―――――はいはい』

電話交換手を介した後、待つこと暫く。ようやく熊谷宛の電話のベルが鳴った。


『もしもし―――ああ―――おれっ、小森だけど―――――そう。今、東京なんだ。え――とさ、悪いんだけど充に代わってよ―――――。ああ充か、―――悪いな。―――あのな、まだ帰れそうにないんだ。うん、そうそう―――――――。なあ、上手いこと言っといてくれないか充。ああ―――、頼んだぜ。それとさ―――、うちの母ちゃんにもお願いな。ああ――――――そいじゃな―――!』

父の電話の内容はというと、どうやら東京滞在延長の連絡のようだった。その橋渡しは、勿論、弟分の吾妻充に託されたようだ。そんな父にしても今回の東京滞在は、冒険旅行に値するもののように思われた。



秋山邸を出て父の向かった先は、やはり小幡家しかなかった。少しも変わらない道のりを進むと、見覚えのある立派な門の前に着いた。

『相変わらずでかい構えだよなあ』

慣れ親しんだ門の扉をくぐると、鮮やかな庭の緑が眩しく飛び込んできた。

『こんにちは、失礼しますっ!』

礼儀正しく挨拶の後、父は直立したまま家主の返事を待った。しかし、一向に人の気配がしない。

『なんだ、無用心だよなあ・・・』

庭の裏手に向かって歩き出した父に、突然、背後から――――。

“ウォッフッ―――!、ウォフッッ!!ッッ”

『あわっ―――っ!』

父を驚かせたのは、二郎にしてはやけにやせ細った一匹の老犬のようだった。


“ウォフッッ!!、ハッハッハッッハッッ―――”

『も、もしかしてお前っ―――?』

“ウォッフッ!、ウォフッッ―――――!!”

得意の前足を投げ出したおねだりの仕草は、まさにあの二郎に間違いは無かった。

『―――二郎なんだなっ、お前っ―――二郎に違いないよな―――っ!』

“ハッハッハッッ・・・ウォフッッ――――――!!”

確かに、あの逞しかったはずの大型犬の二郎との再会であった。

『この野郎―――!、爺になりやがってえっ!!』

辛抱できずに、やたら父に纏わりつく二郎。その身体を抱き寄せるかように包み込んだ父の両手と、年老いた二郎に向けられた偽りのない愛情。

くしゃくしゃになりながら再会の喜びに酔いしれる父と二郎の姿は、7年と言う長い歳月を掻き消してくれていた。


『おおい―――っ!。誰なのかな、そこに居るのは―――?』

少し間を置いてから、ついに家主が姿を見せた。

『あっっ!、二郎もういいよ。また後で遊んでやるからさ』

“ウォッフッ!、ハッハッハッッ・・・ウォフ―――ッッ!!”

気を利かせて次郎が、父の傍に行儀よく座り込んだ。


『どちら様かな?、えらく家の犬が懐いているようだが―――』

『やだなあ小幡さん。やけに他人行儀じゃないさ?。おれだよ、おれっ―――!。忘れたって言わせないぜえっ!』

意気揚々と顔を上げた父に、小幡の爺さんはまだ“キョトン”とした様子のままだった。

『まさか―――、お前っ!』

『そう、そのまさかだよ。へへっ・・・。ただいま帰りました、小森靖志ですっ!!』

『おおうっ、―――こ、小森・・・くんか?。本当に、あの小森くんだよな?』

『も――う、疑い深くなったもんだよなあ。ねえ、爺さん!』

『だ、誰が爺さんだっ―――!。言葉を慎みなさいっ!!』

『ははっ、やっぱり小幡さんに違いないや。安心したよ』

親しみの中にも礼儀ありってやつのようだ。小幡さんの自尊心は、まだまだ衰えてはいなかったようだ。


『はははっ!、その生意気な口調はまさに小森靖志に違いないな―――。少々、親父臭くはなっているがな』

『それはお互い様って言うんだろ。ねえ小幡さんっ!』

『そうに違いないな―――はははっ』

ここにも、過ぎ去った年月を埋めるに相応しい二人の再会の言葉が交わされていた。


『やっぱりここは居心地がいいやあ―――。ふわあぁ―――っ!』

かつての憩いの場に案内された父は、やはり図々しく座を取っていた。大きく背伸びを見せた父は、しばし開放感に浸っていた。

『んん―――?』

けれど目の前の庭の木々の衰えに、父は敏感に何かを感じ取っていた様子だった。

『―――ねえ、奥さんは外出してるのかな?』

『―――ああっ、そうだったな―――。君には知らせてはいなかったようだな・・・』

『どうかしたの―――、何かあったの?』

『うん、家内は病院暮らしなんだよ・・・。随分と、前からではあるが』

『病院・・・って?』

『正確に言うと―――、療養所になるのかな。どうにも家では面倒が看れなくなってしまってな・・・』

『・・・、どんな病気なの?』

『なにやら記憶障害・・・があるらしい。うん―――、最近では私のことでさえ、―――認識してくれては、いないようだがな・・・』

『呆けって、こと?』

『ははっ、回りくどい言い方で悪かったな。君には相応しくない言い方だった。申し訳ない』

努めて明るく振舞う小幡さんの態度に、次第に父の顔が強張っていった。


『―――無神経でどうしようもないな・・・おれ。ごめんなさい―――小幡さん―――ごめんなさいっ!!』

小幡の奥方の予期せぬ近況の前に、余りに無礼とも思える自分の言葉に、父は深く頭を垂れた。

『いいんだよ、誰が悪いと言う訳でもあるまい。生ある人間の背負うしかない宿命ってものだよ小森くん―――。老いるってやつはな』

まるで近い未来を悟ったかのように、しかし、穏やかな表情の小幡さんが静かに父に向けて言った。

『小幡さん―――』

『我が家の都合で不憫な思いをさせてしまったな。勘弁してくれ、小森くん』

『そんなことないさっ、ここに来れただけで充分だよ、おれは』

『ああっ―――、ベッシーは家内の処に預かってもらっているんだ。相当な婆さんにはなっているがな』

『そうなの?、ベッシーも元気でいるんだ!』

『幾ら私の行いが悪いからってな、全てを奪われるほどの極悪人じゃないつもりさ』

『まったく、仰せの通りです。それはおれが保証するよ』

小幡の奥方の様子が気になる一方、ベッシーの健在を知らされた父には、少しの安堵感で充分だった。


『ああ―――丁度いい。君に紹介したい子がいるんだ』

『―――おれに?』

『和美ちゃん、良かったらこちらに来んかね?』

『んん―――?』

小幡の爺さんが、おもむろに奥の座敷に向けて誰かを誘い込んでいた。

『こんにちは―――』

すぐに姿を見せたのは、可愛らしさ盛んな、まだ幼い年頃の少女だった。

『えっ、お孫さん―――っ?』

『そうじゃないさ―――勘違いは困るな。こう見えて、彼女もれっきとした歌手の卵なんだからな』

『はあっ―――、こんなに幼いのに?』

『幼くて失礼しましたね―――。加藤和美と申します。よろしくね』

まだ小学生とおぼしき少女が、それでも大人びた態度で自己紹介を済ませた。

『ああ―――おれ、小森靖志って言います』

その幼い少女の持つ威圧感に、つい父は臆してしまっていた。

『さすがに小森くんも感じているようだな、彼女の存在感に』

『ああ、そうみたい―――だよね』

『そんな目で見ないで欲しいわ。まだ可憐な年頃なのよ、わたしだって――-』

和美という少女。その幼い容姿とは裏腹に、おませな口調がとても様になっていた。

『で、幾つなの和美ちゃんは?』

『まあ失礼ね!。レディーに歳を訊くなんてさ―――』

『―――あちゃっ、そうきたか!』

『はははっ―――。こと和美ちゃんの前では、さすがの小森くんも蛇に睨まれた何とか―――だなあ』

『まあ、そういう小幡のおじい様も、相当失礼だわね!』

『はははっ―――。そう拗ねることはない。和美ちゃんの在りのままを言ってるだけだ。悪気はないぞ』

『それが失礼なの。まったく大人ってデリカシーに欠けてるわ!』

『デリカシーって―――?』

父でさえ舌を巻いた幼き歌手の卵とやらは、目の前の可憐な少女とは、その名を加藤和美と言った。

まだ幼さを醸し出すその少女は、後に昭和を代表する歌姫を名乗ることとなる。そんな彼女を支える取り巻き連中からも、“お嬢”の名で親しまれるほどの可憐さであった。その実力は、歌に止まることなく映画の舞台でも一世を風靡するのであった。


『しかし、よく喋るもんだよな―――おまえさ』

そんな和美の勢いは止まることなく、大人の女性顔まけの発言には、父も小幡さんもあっけにとられていた。

『そう言う小森さんは、女性の社会的地位の向上を、どうお考えでしょうか?』

『どうって、特に弁はないけどさ―――』

『じゃあ、黙秘と考えていいのかしら?』

『いやっ―――、黙秘ってほどじゃあ―――ないけど』

『ほら、そんな男性のご都合主義が、ここにもあらわになってるわ』

『あらわって―――、別に・・・』

『勝手なのよね、男っていつも―――』

『あのさ、和美ちゃん。いつも―――って、どんな時のことを言ってるんだよ?』

『ほら、また誤魔化しに入ってる。自分の都合の悪い証拠だわ!』

『証拠―――って、おまえなあ――――――っ!?』

幼き弁論者を前に、ついに父は理性を投げ出した。

『いつまでも解んないこと喋ってんじゃねえよお―――!!この野郎っ!!』

『ま、まあ―――なんて乱暴なの―――っ』

『子供だからってなあ、大人しくしてりゃあよお―――っ!!』

『まあまあ―――、和美ちゃんも小森君もさ、穏やかにやろうじゃないか。なあ?』

余りの二人の険悪な雰囲気に、小幡さんも割って入るしかなかったようだ。

『ほんと―――、ひばりのように縄張り意識が旺盛のようだよなっ―――おまえって奴わ―――っ!』

『―――えっ、なんのこと言ってるの―――?』

『うん―――?、ひばりって、どう言う意味なのかな、小森くん?』

和美ちゃんも小幡さんにしても、父の突拍子も無い表現には、いささか着いて行けなかったようだ。

『知らないの――小幡さん?。ひばりって鳥のことだよ。春先によく鳴くだろ?』

『ああ、あの鳥のね―――』

『加藤ひばりって名乗ったらどうなんだよ!、お喋りなおまえには、丁度似合いだろ―――っ!』

『―――まあっ、なんて失礼なのっ―――!』

『へへへっ、とってもお似合いだと思うぜ―――っ』

得意げに笑う父の気紛れな発言が、後の彼女の歌手人生にとって大きな役割を果たすことになろうとは、今は知る由も無かった。

加藤和美―――。この2年後の昭和24年には、天才少女“美園ひばり”として、わずか11歳で電撃デビューを果たすのであった。

そんな昭和の歌姫は数々の名曲を口ずさむ傍ら、銀幕での活躍も人並み外れた才能を発揮していた。


『じゃあ、わたしここで失礼します。小幡のおじい様、また後日ね!』

『ああ和美ちゃん、またいつでもおいで』

『小森さん。あなたとは良きライバルになれそうね―――』

『―――ああっ、そうだよなあ・・・』

大物の予感を残しながら、加藤和美は小幡家をするりと出て行った。

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