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懐かしき秋山邸

『―――この野郎、いっそ歌の世界に戻ってくればいいのによ・・・。ねえ、そう思いませんか、秋山さん?』

『俺は感知しないね。靖志の人生なんだ、他人がとやかく言う問題でもないさ』

『・・・。そうですよね』

歌を諦めずにいられなかった父の心情を、今さら問答しても何の解決にも至らないことは、皆、承知の事実だった。


『秋ちゃん、靖志のこと頼んだよ!』

『ああっ、親父さん申し訳ない。長居をしてしまったね』

『いいんだよ、気にしないでな秋ちゃん。お陰さんで楽しい宴だったよ』

『―――そうだね。俺も久しぶりに肩の力が抜けたようだよ。ありがとう親父さん』

『それじゃ、明日帰ることになるんだろうね、靖っちゃんはさ』

おかみさんが寂しそうに秋山さんの顔色をなぞっていた。

『そう、なるんだろうな・・・』

そう語る秋山さんにしても、父が東京を離れることには、いささか惜別の感は否めなかったようだ。


『ここに残る口実って、、どうにかならないんもんですかね、秋山さん!』

突然、何を思ったのか小田村さんが、良からぬ作戦を示唆していた。

『口実ってな、そんなもんあるわきゃねえだろうよ。小田っちさ―――』

親父さんが同意し難い口調で、その真意を探っているようだった。

『そうだっ!、親父さんが倒れるってのはどうだろうな?』

『ええっ?、お、俺がかよお!』

小田村さんの無茶な注文に親父さんが、動揺したかに見えた。

『そうすればあいつも引き留まるに決まってるさ。ねっ、いい考えだと思わない?』

『へえ―――、なるほどね。そういう手も残ってたんだねえ。さすが小田ちゃん、機転が利くわよね』

おかみさんが感心した様子で、親父さんの顔を覗いていた。

『な、何を見てんだよ―――、かあちゃん』

『あんたもね、たまには人様の役に立ってみればって、そう思ってるの。気遣いくらいしてもいいんじゃないの!』

更に、親父さんへの風当たりが強くなっていった。

『数日間はもつだろうけどね。ははっ、それじゃ何の解決にもならないだろう。靖志を永続的に留めたいのなら、根本を考えなくちゃね』

秋山さんの理性が、さっきまでの小田村さんの茶番を一掃した。

『小田村くん。明日、神部さんと連絡をとってくれないだろうか?。靖志が戻って来てるってね。どうしても会わせたいんだって伝えてくれないか』

『えっ、俺がですか?』

『だって他に適任っていないだろう?。まさか、この俺になんて出来っこない話だろう。考えてもみろよ』

秋山さんと神部さんの溝は、どれくらい深く出来上がっているのだろうか?。それは父にしても、いつかは知るべく権利があるのだろう。いや、知らずして通過してはならない道程にさえ思うのだった。


『だって、随分と会っていないんですよ。俺だって』

『そんなことなど、この際、論外だ。君の体裁より靖志の心情の方が優先だよ。いいな』

小田村さんの抵抗は、いとも簡単に撃沈されてしまった。

『だって・・・』

『これは社長命令だ。それでも従えないと言うのかな?』

ついに秋山さんが切り札を持ち出した。それは相当、重圧のかかった言葉に聴こえた。

『あっ・・・!。はい、そのように・・・』

小田村さんの困り果てた顔と、秋山さんのしたり顔が妙に交差した瞬間だった。

『この件は、全て君に任せるとしよう。掛かる費用は会社持ちだ。多少の出費にも目をつぶる。好きなようにすればいい』

つまりだ、飲み食いに相当額を浪費したとしても、そこは経費扱いでまかり通るらしい。なるほど、あとは小田村さんの腕の見せ所と、いう訳だ。

神部さんとの折り合いをつける確約を命じられた小田村さんは、深く溜息の末、多嶋屋を後にした。


一方、秋山さんに連れられた父は、懐かしき“我が家”へと運ばれて行った。


『ただいま!。―――ねえお袋!、手伝ってよ。お客さんだよ!』

玄関になだれ込むとすぐに、秋山さんは応援要請を出した。

『昭二、どうしたの?。こんな時間にお客様って・・・』

『靖志、帰ったぞ―――。お前の懐かしき我が家だぞ!』

『靖志って・・・?、小森くんなの、ねえそうなの?』

『ああ、正真正銘の小森靖志さ。驚いただろう?、お袋もさ』

『どうなってんのよ、あなた。一体、何がどうしたっていうの?』

『俺だって困惑してるんだよ、急な来客にさ』

『小森くん―――歌いに戻ったってことなの?』

『それはまだ未確認さ。たまたま親父の法要に参列していた。それだけが事実のようなんだけどね』

『たまたまって、そんな都合のいい話なんてないでしょう?』

秋山の奥方、澄江さんでさえ困惑してしまうほどの父の突如の帰宅だったようだ。


『話は後にするとしてさ、二階の寝室、使ってもいいのかな?』

『ええ、いいわよ。でも掃除していないから小森くんには申し訳ないわねえ』

『それは大丈夫だよ。だって、意識なんてないほど呑むんだからね。ほらこの通りさ』

秋山さんの肩にもたれかかったままの父には、部屋を選択するなんて権利はまったく及びもしなかった。

『明日の朝はゆっくり出来るのかしら?、小森くん』

『そこまでは知らないさ。なんたって電撃的な再会だったんだからさ。詳細は未確認なんだよ。悪いねお袋』

『じゃあ、我が家の習慣に沿ってもらうしかないわね』

『えっ、何のことだい?』

『何のことって、朝食の支度のことよ。なあに今更』

『朝飯がどうかしたの?』

『何を言ってるのよ。あなたに始まったのよお、知らないなんてずるいわよね』

『ええっ、俺から?』

『そうよ、あなたがあんまりにも朝の支度が緩慢だからって、あの人が決めたことなのよ。あなた覚えていないの?』

『う――ん、実感ないなあ。親父がだよね?』


山家の習慣なんて、父の居候時代にも一度も聴いた記憶はなかった。それでも澄江さんの言い分は否めなかった。

『朝飯が食べたい者は早く起きる。そうで無い者は、腹の足しは遠慮すべし。ってねえ、飯が食える有難さを身をもって体験させるんだって、息巻いてたわ』

『ははっ、なるほど親父の言いそうなことだ。でもさ、朝飯も喉を通らないくらい睡眠欲が旺盛な年頃だったからね、俺はさ』

『だからなのよ。自分の怠慢な生活習慣を、他人に背負わせてはいけないって。つまり、自我の促進の一環だったのよね』

『堅物な親父の、言いそうなことだよな』

秋山の爺さんの確固たる自尊が、この家を、そして家族を支えていたのだ。歌の世界にしか浸かっていないように見えていた秋山栄三郎の人間たる所以は、常に生きることへの執着でしかなった。

二度の大戦を経験した秋山の爺さんには、食を粗末にすることなどあってはならなかったのだ。否、食こそ人間の原点に他ならなかった。


『やっぱり基本だよね。食べ物に執着出来ない生き方って、すでに自分がどう生きるべきかを放棄してるってことだよね』

『まあ、やけに神妙になったものねえ。少し酔っているのかしら、昭二さん?』

『理性は残してるさ。仮にも会社の代表なんだからね、おいそれと裸は見せられないだろう?』

『あの人の受け売りかしら・・・?、それらしく聴こえるものね』

『やだなあ、俺はまだ子供扱いなのかな?、母さんには』

『そうね、いつだって子供のままなのかも知れないわ。案外、母親ってそういうものなのよ』

母と子の内輪話は、その後も淡々と進められていった。然るべく寝床を確保された父というと、それでもついに朝方まで目を覚ますことはなかったようだ。



『う、ううんっ―――?。ふわあ―――っ・・・んん・・・?』

やっと父は目を覚ましたようだ。しかし、残念ながら父にはことの顛末がまだ判別出来ないでいた。

『ああん、・・・何処だ―――?』

既に、高く陽が差し込んでいる寝室には、見覚えのない調度品が目に飛び込んでいた。

『あっ―――!。おれっ・・・』

どうやら、昨晩の失態に気付いた様子の父だった。

『どうしたんだか・・・なあ―――?』

夕べの記憶を辿りながら、辻褄の合わない目覚めにやや放心状態の父は、きょとんとしたまま光の差し込む方に目をやった。

『うん?、この匂いって・・・まさか・・・』

バラの高貴な香りが風に煽られて、部屋の中に充満していた。

『秋山の家だったんだ・・・』

秋山の爺さんの可愛がっていたバラの花さえ、父の帰宅を歓迎してくれていた。

『いけねっ!、もうこんな時間だよ―――!』

時計の針の角度を察知した父は、すぐさま身を起こし臨戦態勢に備えた。そして髪の毛を整える間も無く、大慌てで階下を目指して急いだ。


『おはようございます!。遅い目覚めでごめんなさい―――!!』

『ええっ!、どうしたの靖志さん?』

そこには驚いた様子の澄江さんの声が、待っていた。

『澄江さん、会長は・・・もう出かけたの・・・?』

身に沁みた生活習慣とは侮れないもので、つい、会長の気配を追っていた父だった。


『―――さあ、何処に行ったのかしらねあの人。折角、あなたが戻って来たっていうのにね・・・』

父の呆けに合わせて、澄江さんが白々しく応えた。


『あ、ああっ―――っ!』

澄江さんのその一言で、ようやく事態が飲み込めた父のようだった。

『おかえりなさい。小森くん』

『―――ただいま・・・。澄江さん』

父の佇むその場所には、秋山の爺さんが居るはずもなかった。老いた澄江さん一人が、この家を守ってくれていたのだった。

『あの人ね、あなたの帰りを相当待っていたのよ・・・』

『・・・・・』

『ごめんなさいね小森くん。つい我慢しきれなくて、あの人・・・。他所に行ってしまったようだわね』

澄江さんの言葉には、悲しみを超えた奥深ささえ感じ取れていた。

『会長・・・すみません・・・でした・・・。澄江・・・さん・・・。ごめんね・・・。ホント・・・、ごめんな・・・さい』

優しく微笑みを返す澄江さんに甘えるように、父は声を低くその場に泣き崩れた。

光沢のある床に頭を擦り付けたまま、丸く折られた背中はしばらく、震えているしか出来なかったようだ。

拳を強く握り締めたまま、ゆっくりと流れ落ちる大粒の雫が、どうしようもなく父の後悔の証を示していた。


『小森くん―――、自分を責めるなんてしないでちょうだいね。そうでもしないと・・・、あの人も・・・立場が悪そうだわ』

父の傍で同じくその思いを堪えていた澄江さんは、飾り立ててあった秋山の爺さんの写真を見つめながら、やっとの思いで父に向けて告げていた。

『澄江さん―――っ』

『さあさ―――、朝ご飯にしましょうよ。ねえ、いつまでそんなところでメソメソしているつもりなの?。小森くん、あなた立派なお父さんなんでしょ?』

そんな澄江さんの努めて明朗な口調が、父の萎縮していた心身にじんわりと溶け込んでいくのだった。

『澄江さん―――!。ああ・・・っ、まったく情けないな―――おれって』

『ありがとう・・・。小森くん』

頼りなくしょげこむ父に、澄江さんの返す感謝の言葉が僕にはとても嬉しく感じていた。そう―――、僕たち兄弟にとってはどうしようもなく体たらくな父親であったけれど、今に及んでは、澄江さんにとって心の拠り所であったに違いない。


時の流れに従ってみるも、どうしようもなく歯がゆい結末を回避できないことを、誰しも承知しているはずだ。しかし、それを手放しに受け入れられる者などいないことも、既に承知された事実なのだ。


『残さず食べるべし―――ってね、あの人、相当口やかましく言ってたわ』

『基本だろうね―――。そこんとこを粗末にする人間なんてたかが知れてるさ、ねえ、澄江さん』

『ほんと、そうよねえ』

豪華な朝食をほお張りながら、満足そうに父が力説を始めていた。それにしても久しぶりの歓談が、ここ秋山邸を賑やかにしていた。

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