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田嶋屋での安堵

その晩、多嶋屋に陣取っていた父は、健気にも調理場の中で汗を流していた。

『親父―――、揚げ物って他にあんのか?』

『ああ、冷蔵庫の中によアナゴが入ってる。丸揚げだ』

『へえ、贅沢だねえ。もちろんおれの口にも入るんだろうな?』

『へへっ、残念―――。秋ちゃんと小田っちの二本きりだ』

『なんだよお?、折角帰ってきた息子にはひとつも無いのか―――』

『仕方ねえだろ、それっきゃねえんだからよ!』


江戸前天婦羅には、アナゴは定番だった。古くから親しまれた庶民の料理法ではあったが、戦後間もない東京湾事情においては、その流通経路からもやはり贅沢な素材でもあった。

しかも冷温度管理なんて無いに等しい時代だった。新鮮な魚は、常に有名料理店に直行される始末。貧弱な個人店への配給など、至難の業だったのだ。


『おとうちゃん、そんな意地悪なんて言いっこなしだよ。ちゃんと数揃えてんでしょ?』

『ええ、そうなのおばちゃん?』

『知り合いの漁師さんに頼んでね、無理やり持って来させたんだから、この人ったら』

『そんな大袈裟に言うなってよお―――。たまには美味いもんが喰いたかっただけだよお!』

『うん、そうだよな。いつもお粗末なものばかり出してるものな』

『なっ、なんてこと言いやがんだよ靖志―――、てめえこの野郎っ!!』

『へ――え、見事な靖っちゃんのお返しだねえ、どう、おとうちゃんさ』

『なっ・・・!』

父の戻ってきた多嶋屋は、騒々しくも賑やかなあの頃が見事に再現されていた。楽しそうな家族のやり取りが、いつまでも続けばいいと願うばかりの多嶋屋夫妻だったのだろう。


『―――秋ちゃんたち、本当に来るんだろうな、靖志よお?』

時計の針は既に、夕刻の6時を告げようとしていた。

茜色に染まった西の空からは、弱弱しい光の束が、多嶋屋の半開した扉の隙間から遠慮がちに射し込んでいた。

『本当に来るのかねえ、あの人たちさ、靖っちゃん?』

『も――う、二人して同じこと訊かないでくれよお!。当のおれだって心配してんだからさあ・・・』

次第に冷めていく料理を前に、父の我慢はついに限界を超えた。

『もう待てないや、おれ、食うぜえ!』

そう言って父は、豪快に箸を持ち上げた。

―――と、その時だった。


『お邪魔するよ』

『遅くなりました!。―――靖志、いるのか?』

そう―――待ち人の来店だった。秋山さんと小田村さんの声が程よく重なりながら、多嶋屋の暖簾をくぐっていた。

『はあ―――っ。も――うっ、何時間待たせるんだよお!、あんたらさあ!』

怒り心頭の父は、箸を持ったまま二人に向かって抗議していた。

『何だ、もう食べてるのか靖志?』

そんな父におかまいなしに、秋山さんが調子外れの合いの手を入れた。

『まったく、相変わらずの食いしん坊だよな、お前ってよお』

それに続いて小田村さんが、父の止めを刺した。

『はあっ・・・?。あのね―――、もう来ないのかと心配してたんだぜえ。そんな人の気も知らないでさあ・・・』

安心を通り越して呆れた様子の父は、椅子に腰掛けたまま深く溜息を漏らした。

『秋ちゃん、いらっしゃい!』

父のそれとは対照的に、親父さんが無邪気に歓迎の声を上げた。

『親父さん、無沙汰しちゃったねえ』

『いいんだよ、そんなことなんてよお。それよか無事に終わったのかい?』

『ああ、盛大だったよ。招かざる客もそこそこ居たけどね、まあ、そんなこと言ってる場合じゃないだろうけどさ。ところで、気を遣わせて申し訳なかったなあ親父さん。父のためにさ』

『いやいや、そんなに大した気遣いでもないさ。まったくもって恥ずかしいくらいだよ』

親父さんが父に持たせた袱紗の中には、勿論、多嶋屋の名を入れた香典が託されていたのだった。

参列者の、それを全て把握した上での秋山さんの言葉には、さすがに会社代表の肩書きに恥じない周到さを垣間見せていた。

『お二人さん、特等席を準備してるからね。さあさ、どうぞこちらへ―――』

おかみさんが指差すテーブルには、多嶋屋史上最高の料理が盛り沢山に並べられていた。

『へえっ、こりゃすごいや!。無理したんじゃないの、おかみさん?』

『へへっ、おれも手伝ったんだぜ秋山さん。どう、中々の腕前だろ?』

『靖志、、お前がかあ?』

小田村さんが心配そうに父を確かめていた。

『あのね小田村さん、おれもまんざらじゃないんだぜ。この位は序の口ってもんさあ!』

『でっ、どの皿がお前のだよ?』

『どの皿って、ほぼ全部かな』

『親父さん、本当―――?。こいつの手に掛かった料理なんてあるの?』

『もちろんあるさ、そこの端の皿に盛ってあんだろ。黒っぽいのが』

『黒っぽいって―――、ああ、あれね・・・』

大皿にたんまりと盛られた肉と思しい塊に、小田村さん以下全員が注目した。

『大胆に、香ばしく揚げてやったぜ!』

自慢気に父がそれを紹介した。なるほど、香ばしい色には違いなかったようだ。

『焦げてるようにしか見えねんだけど、靖志』

更に小田村さんが、呆れたように父を追い詰めた。

『まあまあ、何だっていいからよお。お二人さん、座ってくれよ。なっ、そうしろよ!』

父の言い訳の代弁は、やはり親父さんが引き受けてくれたのだった。


『んじゃあ、靖志との再会に―――、“乾杯―――っ!”』

親父さんの先導の下、父の歓迎会のごとく高らかな発声が、ここ多嶋屋の隅々に喜び響き渡っていた。


懐かしさを超えた互いの言葉のやり取りは、まさに留まることを知らなかった。7年間も閉じ込められていたお互いの履歴が、今夜いとも簡単に明かされていくのだった。

見れば、あれほど並べられていた皿々も次第に洗い場へと運ばれ、代わりにテーブルの上には皆の持ち寄った思い出話で溢れ返っていた。


『ああっ!、そうだ忘れてたよ小田村さん―――。おれがさ・・・、今晩おれが訊きたかったのはさあ―――、あれなんだよなあ―――。ねえ小田村さん、聴いてる―――?。うんうん、そう・・・。あの件だよ、あの件―――っ!』

随分と酔いの進んだ父が、ついに本題に突入しようとした。

『ううん?、どうしたよ靖志。あの件って、一体なんのことだ?』

調子付いていた小田村さんにしても、つい父の言葉に便乗していた。

『なんでなんだよお?。ええ―――っ、小田村さんさあ・・・。なんで?、どうして神部さん―――辞めちまったのさあ・・・』

赤く染まった顔の父から発せられたその言葉は、酔いに任せていたのだろうか、悪びれる様子もなく禁じ手を指してたのだ。

『えっ―――?』

不意をつかれた小田村さんは、瞬間、秋山さんの顔を窺っていた。

『少し飲みすぎたようだな?、靖志』

『なに言ってんだよお―――秋山さん―――。へへっ―――こんなの、飲んだうちに入んないさあ、ねえっ、そうだろ―――小田村さんさあ?』

完全に酔いが回っている父は、目線の定まらないまま小田村さんに同意を迫った。

『お前なあ、いい加減にしといたほうがいいぜ』

『やだなあ小田村さん―――、ここからが本番じゃないかっ!。そう―――、きっちりとさせておかないとさあ。ねえ―――、秋山社長っっ!』

さしてついに、秋山さんへと父の不満が及んだ。

『・・・。どこまで聴いているんだ?。そしてお前は、何を知りたい?』

目の前の父の勢いを受けて。グラスを口元に当てながら、予測していたかのように落ち着いた口調で秋山さんが答えた。

『もちろん、全部だよ秋山さん―――。だって、だってさあ―――、おれの知らないことばっかりじゃないかよお―――もう―――っ!』

『―――そうか、そうだったよな。まさしく浦島太郎みたいなもんだ、今の靖志にとってはね』

父の気持ちを掬うかのように、秋山さんが穏やかに切り出した。

『いいか靖志、どんなことがあったにせよ神部さんを嫌わないでくれよ。それだけは約束してくれるかな?』

『あのねえ―――、今さら、そんなこと言うかなあ―――。どうしておれがさ、神部さんを―――嫌いになるってんだあ。ねえ、秋山さん―――?』

『ははっ、お前らしい答弁だ。まったく僕が油断していたよ』

『茶化さないでくれよなあ―――、も――う。おれにはさ・・・、えっとお―――。そうだよ、そうだ。うん―――、それなりの―――覚悟は、出来てんだからなあ―――っ!』

空になった湯飲み茶碗の底を気にしながら、やはり赤い顔の治まらない父が、もたついた舌を転がしていた。

『靖志よお、今晩は遠慮しといたほうがよかねえか?。少し飲みすぎちまったんじゃねえのかなあ、靖志―――?』

親父さんにしても心中穏やかにはいられなかった。もしや、酔った勢いであらぬ話に絡む父を想像すると、どうにも不憫ではいられなかったのだ。

『親父っ―――!。・・・もう一杯、くれよお―――』

ぶっきらぼうに親父さんを向けて、父が絡んだ。

『靖志、そろそろ止めた方がいいんじゃねえか?。なあ、そうしろよ』

『―――何言ってんだよおっ、少し酔ったくらいでさあ・・・これくらい―――なんてことねえよ。それよかもう一杯くれよ―――、なあ―――親父いっ!』

歯止めの利かなくなった父の様子に、誰しも閉口していた。酔っている父にあったとしても、神部さんを慕っていたが故の、正当な問い掛けであったからに他なかったのだ。

『親父さん、もう一杯だけ飲ませてやってよ。後始末は僕がするからさ』

そう言って秋山さんは父の肩を撫でた。

『靖志、親父さんにお代わりしたから、もう一杯だけ飲もうな』

『・・・そりゃ・・・ありがたいなあ・・・。やっぱり、秋山さんは大したもん・・・だぜ。へへっ、今さらって・・・ことだよな・・・』

すでにうな垂れている父の言葉は、健全な意識とは程遠いように思えた。


『靖志のことどうします?、秋山さん』

『ああ、実家に連れて行こうと思うんだ。こいつにとってみても、実家みたいなものだろうからな』

『そうですよねえ・・・』

秋山さんの気配りに、小田村さんは短く言葉を結んだ。

『靖志、もう帰ろうか?。お前の大好きな宿にさ。なあ、靖志!』

『んん・・・?。宿って・・・何の・・・ことだよ・・・?』

『いいから、さあ立てって。多嶋屋はもう看板だってさ。なあ靖志、ここを出るんだ。いいよな?』

『親父・・・、これ以上は、もう喰えねえよお・・・。明日に・・・してくれないかなあ・・・ごめんな・・・』

テーブルに蹲った父は、まるで虫の鳴き声ように小さく呟いていた。

『何言ってやがる・・・。へへっ、いつだって食わしてやるさ―――、心配すんなって』

くしゃくしゃになった顔を整えながら、親父さんが強がりを見せていた。

久しぶりの我が子の帰省を迎え入れた父親の、それは嬉しいひと時だったに違いない。

『また帰っておいでよ靖っちゃんさ!。あたしら、何処にも行きやしないからね』

寂しさを漂わせているおかみさんにしても、束の間の母親の顔を取り戻せた一時だった。突然すぎる父の多嶋屋への帰省は、親父さんたちにとって、特別な幸せを感じるに足りる、家族団欒の二日間だった。

それきり寝入ってしまった父は、どうしようもなく重い荷物のように扱われることになるのだった。


『さあ、帰るぞ靖志。僕の肩に掴まれよいいな―――?。ああ小田村さ、そっちに回ってくれないか。一緒に持ち上げよう』

『あっ―――、はい』

だらりと寝込んだ父の重い両脇を抱えて、ようやく席を立とうとする秋山さんと小田村さんの顔には、どこか消沈の気配が見え隠れしていた。

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