懐かしきトウチク
―――『お父さんって、義理とか人情に厚い人だったんだ。なんか安心したよ僕』
『へっ―――、どうやらお前は騙されやすい人種なんだな。いいか、人間とはな元来損得の臭いに敏感なんだ。義理や人情なんてまやかしは、もう大昔の遺産だぜ』
人に依存しない兄の弁は、悉く人間味を欠いていた。それもそうだ、家族を残して失踪した男に、褒め与える言葉なんてないあるはずもなかったから。
『ねえ、もう話止める?』
孝子さんが、気を遣って中断をほのめかした。
『まだ聴きたい。最後まで聴きたいよ僕!』
『ああ・・・、おれも付き合うぜ。こうなったら終いまで聴いてやるさ』
退屈そうに見せている兄だったけれど、父の真実に一番触れたかったのは、実は兄だったに違いない。―――僕はそう確信した。
『ちょっと、お手洗いに行っていいかしら?』
そう言って孝子さんが席を外した。
『安心したね、お兄ちゃん。お父さんていい人だったんだね』
『・・・お前なあ、孝子さんの美談に酔ってんのか?。まだまだ明らかにされてないだろ、おれ達を捨てた親父の素顔がよお!』
『そうかなあ?』
『そうかなあ・・・って、おまえなあ―――具体的な話なんてまだ聴いてないんだぜ―――。そうだろ?』
『だって―――』
兄の言い分にも頷ける。いくら情に厚い人間だっていっても、結局は僕たち家族を放棄したことに間違いはなかった。
事実は事実として、何故、父はその道を選んだのかが、まだ明らかにされていなかったからだ。
しばらくして、孝子さんが戻ってきた。おもむろに煙草に火を入れてからしばらく沈黙の孝子さんは、数分後にようやく僕たちを見た。
『その顔じゃまだ物足りないようね』
僕も兄も、ただ首を縦に振るしかなかった。それ以外の選択は有り得なかった。
『ぐすっ・・・、なんだかやけに湿っぽいよなあ・・・。かあちゃん、そこのあんちゃんもよ、靖志との再会を祝して“乾杯っ!”』
湿っぽい親父さんの乾杯の音頭の後、多嶋屋の特別な宴は夜の更けるのを忘れたかのように華やぐのであった。
『靖志い、寝ちまったのかあ・・・?』
『ふぁ――っっ・・・、親父さん、とうに潰れてますよ靖志兄さんは』
『相当疲れてたんだな、この野郎は』
『先週も働きづめだったから、相当堪えてるでしょうね。そんなに頑張らなくてもいいのに、真っ直ぐな気性だからなあ』
『へっ、そこがこいつの良いところなんだよ。だから、皆慕ってしまうって訳さ。なあ、あんちゃんにも判んだろ?』
『まったく同感です。はいっ』
『あのまま歌を続けていれば、今頃は花形だったのによ・・・。惜しいことをしたもんさ』
親父さんが当時の父のことを振り返りながら、ぽつりと言った。
『靖志さん、どうして止めたんですかあ、歌?』
『止めたんじゃねえよ、止めさせられたんだよな、実際はよお』
『何があったんです?。ああ見えて、靖志さん何も言わないから』
『そうか・・・うん。なあ、あんちゃんさ、他言は控えてくれよな。靖志にとっても心外だろうからよ』
そう前置きしてから、親父さんが当時の父のことに触れ始めた。父の酔いつぶれた寝顔を横目に、瞼を閉じて大きく深呼吸をついた。
『ふううっ―――。靖志の奴な、あの頃は相当やんちゃな年頃でよお――――』
初めて父が多嶋屋の暖簾をくぐった頃の悪態の数々。余りに身勝手過ぎる自分主体の発想。恐れを知らない非常識な発言から巻き起こる、対人関係のいびつさ。
どの話を持ち出したとしても、父の理解不能な人間像が拭いきれないでいた。小森靖志の歩く傍には、常に数多の敵の存在があった。
異端な父の過去を暴きながら親父さんが、それは懐かしそうに、時に嬉しそうに延々と話を続けていた。
『―――ほんと、これほどの生意気は、俺は知らねえなあ・・・』
そう言って一通りの父の解説に、親父さんが落ちを着けた。トウチク入籍後からの破天荒な父の行動が、吾妻には別世界の話しのように困惑を招いていた。終始、“きょとん”とした表情で我を無くしているようにも見えた。
『そうか・・・。靖志さんて、おお馬鹿野郎だったんだなあ』
そんな吾妻の結論は、この一言で結ばれていた。
『そうよ、これほどの馬鹿は中々いないぜ。まったくよ・・・』
その吾妻の言葉に合わせたように、親父さんが大きく頷いた。
『でも親父さん、どうして辞めなきゃならなかったのさ。生意気だけで折り合いがつかなくて辞めたなんて、靖志さんらしくないじゃない?。もっと、別な事があってもいいような気がするんだけど』
―――今までの親父さんの得意話の中には、確かに肝心な父の挫折話が欠けていたようだ。
実は、親父さんの話の中には、あの立花勇気の件が曖昧に省かれていたのだ―――。
『はあっ・・・、やっぱりそうきたか・・・。上手く素通りしようとしたんだけどよお、あんちゃんの靖志への強い思いは、どうやら誤魔化せなかったようだな』
少し躊躇いがちの親父さんではあったが、吾妻の父を慕う強い心根が、充分に窺い知れていた。
『あんちゃんを疑うわけじゃねえけどよ、いいかい、ここだけの話で収めちゃくれねえだろうか?』
『安心してよ親父さん。おれは靖志さんの弟分みたいなもんだから、兄貴の自尊心を揺るがすような真似はできないさ』
『よくぞ言ってくれたな―――。なあ、あんちゃんの名前、何て言うんだよ?』
『ああ、吾妻充だ』
『充かあ、いい名前だ。まさに字のごとく、充たされた境涯に向かってるんだろうなあ』
吾妻の名を褒めた親父さんは、目の前のコップの水を一気に飲み干すと。神妙な面持ちで語り始めた。
『事故だったんだよな・・・そう、それ以外には考えられねえよ――――――――』
七年前に起きた忌まわしい師走の出来事を淡々と口にする親父さんは、テーブルの前で寂しそうに丸まっていた。
凝縮された父の履歴が、親父さんの口から滔々とこぼれ落ちていく。それを聞いていた吾妻の瞼からは、次第に大粒の涙が頬を伝わっていた。
『何でだよ、何でなんだよお―――っ!』
込み上げる怒りに吾妻が、震える拳を抑えながら嘆きの声を絞り出していた。
『まあ、仕方ねえやな・・・。靖志の選んだ道だもんなあ』
父の後悔を代弁するように、親父さんがゆっくりと口元を閉めた。
『だってさあ、親父さん―――』
『もう言うな。これ以上は靖志を、否定するってもんさ』
『・・・・・・』
『充くんよ、―――靖志のこと頼んだぜ』
『あっ、はい―――』
吾妻の右肩を握り締めて、懇願するように親父さんが結んだ。
厨房の隅ではおかみさんが、洗い物の飛び跳ねる水に便乗して、母親同然の涙を必死に拭っていた。
東京の一夜は、まるで父の儚くも消えた夢を庇うかのように、ゆっくりと過ぎて行った。
『靖志―――、もう時間だぜ。支度済んだのかよ!』
『なあ親父、この服だぼだぼなんだけどさあ』
秋山会長の法要に出かける準備を整えた父が、少し困っている様子だった。
『仕方ないでしょ、おとうちゃんのものだもん。我慢しなきゃね』
親父さんの喪服に袖を通した父は、実に滑稽な出で立ちであった。もちろん親父さんの体型に誂えた服に、細身の父では着こなせるはずもなかった。
『そんなことはいいから。早く会長の処に行ってやんなよ靖志』
『ああ、そうする』
『秋ちゃんと神部さんによろしく伝えてくれな。出来れば・・・、今晩なんて贅沢は言えねえけどさ』
『連れて来たほうがいいよな、親父?』
『そりゃあ、俺としちゃ願ったりだけどよ。なんせ忙しいお二人だもんな』
『おれが何とか口説いてみるよ。折角会うんだし、あの二人には礼を返したいからな』
『無理はしなくていいんだよ、靖っちゃん。なるたけ自然にね。それから、これ持っていかなきゃね』
『おばちゃん―――』
『法要に手ぶらはないでしょうよ。はい、収めて』
おかみさんが淡い紫の袱紗を父に手渡した。
『恥ずかしくないだけの額は入れておいたからさ。堂々と胸を張って行けばいいんだよ。誰にも媚びることはないさ、いつもの靖っちゃんで充分!』
『・・・。ありがとう、恩に着るよ』
そう言って父は多嶋屋を出た。向かうはトウチク・レコードの社屋。張り詰めた緊張感を抱き、久しぶりに歩く東京の街並みを父は迷わず闊歩していた。
渋谷神宮前に居を構えるビルの前には、大勢の関係者らしき人々が屯していた。
正面入り口には、“故秋山俊造七回忌法要”の看板が華々しく施され、大偉業を成し遂げた秋山会長に相応しい行事に整えられていた。
『え――っ、会社関係者の方は、どうどあちらへ』
玄関前では役員の腕章を翳した職員が、参列者の誘導に当たっていた。
『会社関係者かあ・・・。おれはどうしたって、一般参列だよな』
そう呟きながらも、急に寂しさが込み上げた父だった。
確かに、元関係者には違いなかった―――が、今の父の立場というと何とも敷居の高い思いで一杯なのだ。
『ええい―――っ、当たって砕けろだ!』
父の足の向け先は、やはり堂々と関係者側の受付場所へと進んだ。
『ご参列、誠にありがとうございます。こちらにご芳名をお願い申し上げます』
『えっ、芳名って?』
帳場でのやり取りに至極疎い父は、一寸躊躇っていたようだ。小脇に袱紗を挟んだまま、隣の参列者の所作を凝視していた。
『あの・・・、こちらに』
堪らず、受付の女性が父に催促を申し出た。
『あっ、はい・・・』
ようやく要領を飲み込んだ父は筆を執り、やや、ぎこちなく帳面と対峙した。
『さてっと―――』
名前を記帳するべく、父は筆の先を紙上に当てた。
『―――ああ、いいんだよ、この人はさ―――』
―――と、突然、受付の奥の方からか、聞き覚えのある声が近づいてきた。
『特別な参列客なんだ。だから受付はしてもらわなくてもいいんだよ』
父の緊張を唯一救うべく、その声が差し出された。
受付の女性が怪訝そうに振り向いた先には、懐かしい人物が父に向けて微笑んでいた。
『お帰り、靖志!』
『お、小田村さん―――っ!』
その声の主は、小田村明だった。あの頃とは違って少し貫禄を付けてはいるが、目の前のその笑顔には、あの頃の小田村特有の親近感が残されていた。
『いいから入れよ、遠慮なんてしてんじゃねえよ!』
そんな小田村さんの計らいで、父は特別扱いのまま会場に連れ込まれた。
『連絡くらいしろよ・・・。もう会えないかもって諦めてたんだけどな、どうして待ってみるもんだよなあ』
『大変ご無沙汰しております・・・。小田村さん、お変わりないですか?』
『うん、どうした?。お前―――、人が変わったかあ?』
『いやっ・・・、場所が場所なもんでさ。なんて言うか・・・』
さすがに法要の会場ということもあってか、父は借りてきた猫同然に縮こまっていた。
『まあいい、ちょっと来いよ』
小田村さんは父の袖を引っ張ると、足早に階段を駆け上がって行った。それに従って、慌てて父が着いて行く。歩き慣れたはずの階段をたどたどしく父は上って行った。




