再訪―――多嶋屋
“上野お―――っ、上野――――っ”
昼過ぎに到着した列車から、父の一行が駅のホームに流れ出た。溢れんばかりの人の列に、あっけにとられた10名であった。
『ねえ、秋葉さん。これからどっちへ行くんだい?』
『ああ、右手が改札だろうなあ・・・。なあ靖志?』
『う――ん、勝手が違ってるなあ、―――やっぱり米軍に焼かれてしまったかよお』
そう、昭和20年の空爆被害により、各主要駅のほとんどが焼き払われてしまっていた。上野~渋谷を結ぶ山手線にも、その被害が及んでいたのだ。
『流れに着いていこうぜ、その方がてっとり早いさ』
そう言って父が足早に進路を取った。
『大丈夫かよ!、お前』
『任せなって―――。悪いようにはしないさ』
父の後を渋々追いかける一行の列は、なんとも滑稽な様を見せていた。
悪戦苦闘の末、ほどなく目的の渋谷の中心地に辿り着いた父たちだった。
『ここからは、歩いて30分くらいだと訊いてるがな』
工場長の秋葉が、皆に声を掛けた。
『どうでもいいけど―――なんだか腹へらねえか?、なあ』
『なんだ充―――、お前さっき弁当食ったばかりだろう!』
『だってよお、おっ母の弁当、量が少ないんだもんなあ―――』
自前弁当の不満をこぼす男。そう、一行のこの中で唯一独身の吾妻充だった。
『充よお、もうちっと我慢出来ねえのかよ!』
『だって、靖志さんの弁当ってさ、すんごい盛ってあったろ?』
『ちっ―――、子供かよお前っ!』
父の後輩でもある吾妻充。父には弟のように親しみを寄せてくれていた。兄弟を戦争で亡くした父にとっても、可愛い存在であった。
『ほれっ!、飴でも舐めとけよ』
『靖志さんのポケットの中、チョコレート入ってたよね?』
『なっ―――、目ざといんだよお前っ!。どんだけ卑しく出来てんだ?』
『お願いだよお、靖志さん。ねっ!』
『おい、お前ら―――。何やってんだよ!さっさとしないと置いて行くぞっ!』
秋葉の激の飛ぶ中、一行の東京見物が始まったのだ。
『すんげえや、ねえ靖志さん―――』
『ああ、こりゃ大したもんだよな充よお』
渋谷での某大手の工場見学では、最新技術を取り入れた工程に一同があっけにとられていた。熊谷の田舎工場で働く者にとって、それは羨ましくも映っっていた。
『おれ―――、ここで働きたいな』
吾妻が身を乗り出して、重機を眺めながら言った。
『お前なんか雇ってもらえるもんかい。身の程を知れって!』
『秋葉さん、それはないでしょうが?』
『充よ、この街では暮らせないぜ。下手な考えは止めとくことだ』
感情を押し殺したように、父が吾妻を諭した。
『だって、靖志さんこの街にいたじゃんよ。―――夢を追いかけてたんだろ?』
『―――とうに終わったよ。昔の話だ』
『ねえ、どんな生活だったんだよ。もしかして、派手に遊んでたりなんかした?』
『馬っ鹿言うなよ―――。そんなに甘い世界じゃないって』
『ねえねえ、何で靖志さん諦めたのさ、その歌の世界をさ―――』
東京での父の挫折を知らない吾妻にとっては、それはとても興味深いことのようだった。
『もういいよ、黙れよ』
『なんだあ、もったいぶっちゃってさ』
『いい加減にしろよっ!。お前っ―――!!』
『――――――っ!』
珍しく怒りを見せた父は、そそくさと次の場所へと移動を始めた。
『充よ、人には言いたくないこともあるんだ。察してやれ』
そう言って秋葉が、吾妻の肩をポンと叩いた。
『ちっ、立花の野郎、余計な時に出てきやがって―――』
忘れかけていたあの事件を、父はどうしようもなく引き摺るしかなかったようだ。
そんな父が足を踏み入れたのは、紛れも無く東京という街だった。忘れたくてもこの街の匂いが、容赦なく父の鼻にまとわり付いていた。
『―――そうだっ!』
突然顔を上げた父は、思い立ったように吾妻の所に駆け寄った。
『充よ、今晩付き合えよな』
『えっ?、今晩!』
『美味い飯、喰わせてやるからさ』
『ホント!、靖志さん。嘘じゃないよね』
『馬っ鹿野郎!、おれのことが信用出来ないのかよ?』
『いやっ、そんなことないっす』
工場見学を早々に切り上げた父と吾妻は、電車を乗り継ぎある場所へと向かった。
流石に土地勘のある父は、造作もなくその場所へと辿り着いた。そこは懐かしさ溢れる我が家同然の場所でもあった。
『―――多嶋屋かあ』
店の暖簾の前で吾妻が文字をなぞっていた。横に立つ父はしばらく静止したまま、じっと暖簾を見つめたままだった。
『ふ――――っ』
『どうしたの靖志さん?。入るんじゃないの?』
『―――ああっ、ちょっと待てよ』
『おれ、入ろうか?』
『待てって言ってるんだよ、充―――っ!』
敷居が高いとはよくも言ったものだ。ろくに挨拶もせずに郷里に戻った父にとっては、多嶋屋の暖簾は余りにも眩しかった。
『なんだよ靖志さん、どうかしたの?』
“ガラガラッ―――!”
と、突然、店の扉が開かれた。
『―――どうも暇でいけねえなあ。どうなってんだよお―――』
そうぼやきながら暖簾をかき上げる声は、紛れもなく親父さんのものだった。すかさず父が直立を決め込んだ。
『んんっ!、どうしたよ?、あんたたち―――』
『いやっ、あの――っ』
吾妻が父の横で困っていた。
『お客さんかい?。それなら歓迎だ、さあ、とっとと入んなよ』
父の姿に気が付いていない様子の親父さんは、相変わらずの無愛想を装っていた。
『親父・・・』
『どうしたよお兄ちゃん?、んんっ?』
『―――久しぶりだな、親父よお』
『え―――っ、ま、まさか――――――!。や、靖志―――?、お前っ、本当に靖志なのかあっ―――??』
直立した父の顔をまじまじと眺めながら、親父さんが驚いたように口を開いた。
『親父・・・。ただいま』
『か、かあちゃんっ―――!、靖志だ、靖志が帰ってきたぜえっ!!』
慌てて店の中に入り込んだ親父さんは、しばらく姿を隠していたけれど、暫くするとばたばたと、すぐさま舞い戻って来た。
『靖っちゃん・・・て?。本当に―――?』
親父さんに引っ張り出されたのは、懐かしい顔のおかみさんだった。幾分やせ細ってはいたが、その笑顔はちっとも変わってはいなかった。
『ただいま、おばちゃん―――』
瞼に涙を堰き止めて、父は半泣きのようにおかみさんに頭を下げていた。
『かあちゃん、今日はもう締めるぜ!。いいな』
『勿論よお、あんたこそ断ってよね』
いそいそと暖簾を仕舞い込む親父さんは、とても嬉しそうにしていた。我が子の帰省は、それは待ち遠しかったに違いない。
それからというもの、親父さんとおかみさんは調理場に釘付けになっていた。息子に喰わせる最高の料理に腕を振るっていた。
『あんちゃんよ、足りなかったら言ってくれよ。なあ!』
『あっ、は、はい・・・』
テーブルに並べられた皿の数々に、さすがの吾妻も戸惑っていた。
『行儀よく食べんだぜ、充よお―――』
『分ってるって―――、靖志さん』
『―――どうしたよ靖志。えらく大人しくなったなあ』
『そりゃあそうだよ。こう見えても二人の子供の父親だもんな』
『ええっ!、子供がいるのか?。それじゃあ嫁さんもかい?』
『何言ってんのよ―――あんた。そんなこと当たり前じゃないさ、ねえ、靖っちゃん』
『靖志に―――嫁さんとはねえ?』
『変わってないよなあ、二人ともさ―――』
懐かしさを噛み締めながら、同時に父は喜びを感じずにはいられなかった。黙って去るしかなかったあの時の背信の日々を忘れさせてくれるかのように、多嶋屋は父を歓迎してくれていたからだった。
『さあ、どんどん喰っていいんだぜっ!。ああ、そっちのあんちゃんもなあ、遠慮なんてするんじゃねえぞ―――わっはっはっは――――!』
つい嬉しさを隠しきれない親父さんのやたらと甲高い声が、父と吾妻充の耳元にすっぽりと覆い被さっていた。
そう、それは親父さんにとってみても、余りに信じられない父の帰宅だった。
『少しは黙ったらどうなのさあ―――。ほら、靖ちゃんだってご飯が喉を通らないってもんだよ!、おとうちゃん―――!』
親父さんとおかみさんの、そのはしゃぎようときたら、とても尋常とはいえなかった。
あまりに浮かれていた二人の様子には、我が子同然の父への、懐かしさと嬉しさが交差していた。
それからは郷里に戻ってからの父の話で、多嶋屋は更に盛り上がりを見せていた。
『んでよ、秋ちゃんとこには挨拶に寄ったのかい、靖志よ?』
『いや、まだだけど』
『まあ、あの人も偉くなったからなあ。今じゃトウチクの社長さんだもんなあ』
『ええっ、そうなの?。秋山さんが!』
『親父さんが亡くなってからな、相当揉めたみたいだけどよ』
『えっ、会長がっ―――?。親父―――っ、本当にあの爺さんがか―――!?』
『あ、ああっ・・・なんだ知らなかったのか靖志よお?。―――かれこれ、もう6年にもなるぜ』
『・・・そうだったのか』
親父さんから繰り出された突然の秋山会長の訃報には、さすがに父も肩をすぼめていた。郷里の熊谷に身を落ち着けていたその知らぬ間に、時の流れは容赦なく父の大切な人を亡き者に仕立てていた。
『爺さんには、世話になりっぱなしだったからな・・・おれ』
秋山会長の他界の知らせには、いささか父にとっても消沈の事実だった。
『悪かったね・・・靖っちゃん。あたしらの気遣いが足りなかったみたいだね。許しておくれよ』
すかさずおかみさんが父の萎んだ心情を庇うかのように、報いるべく言葉を添えた。
さっきまでしょぼくれていた父はというと、鼻頭を指で擦りながら、懸命に平常を保とうとしていた。。
『・・・じゃあ、神部さんはどうしてるんだよ。元気なのかな』
『ああ、元気ではいるが、残念ながらトウチクを辞めちまったよ。まあ・・・引き抜きってことだ』
『引き抜きって―――?』
『ああ、確かクイーンって・・・言ったかな?。なあ、かあちゃんよ』
『ええっ!、クイーンって―――?』
親父さんの口からこぼれだした“クイーン”という名の響きに、すぐさま父が敏感に反応していた。
『そうそう―――、まだ若い会社みたいだってね。でも、トウチクからも何人かは移ったって聞いてるわよ』
『そうなんだよな。で、俺も意見したんだけどな、神部さんの身の振りかたによお。けどな・・・結局、何でもそこの重役に収まるって話みたいだ』
『・・・、秋山さんは黙ってたのかよ?』
『―――秋ちゃんもな、相当引き止めたようだったけど、会長亡き後のトウチクは、無法地帯みたく荒れてたって聞いたからなあ。神部さんにしても嫌気が差したんだろうぜ。まったくよお』
唯の偶然なのだろうか―――。奇しくも神部さんの移り住んだクイーン・レコードには、あの緒方健一が在籍していたのだ。
『そうだったんだ・・・』
父は自分の耳を疑った。脆くも崩壊した夢の隅には、他人事とは思えないような残骸が山積みされていたのだ。
『ところで靖志なあ・・・。明日、熊谷に帰るんだよな?』
『うん、2時には上野を発つよ』
『そうか・・・まあ、お前も忙しい身だもんな』
『どうしたよ親父、なんだかもったいぶってさあ!』
『いやっ、その・・・明日、一日だけな、何とかここに留まるってことは出来ねえもんかな・・・靖志さ』
『そりゃ無理だよ親父。おれだって遊びで来てるんじゃないんだぜ』
『それは判ってるけどよお・・・』
『でもどうしてだよ?、明日、何かあんのか?、親父っ』
『あのなあ靖志よお。明日なんだけどな・・・その・・・』
妙に口ごもる親父さんは、一拍おいてからゆっくりと喋り出した。その口調はまるで相談事のように父に向けられていた。
『なんだよ、んん?』
『も――う、しょうがないわねえ。あのね、明日、秋山会長の七回忌なのよ。この人、靖っちゃんに出てもらいたいの。ねえ、そう言いたいんでしょ。あんた―――』
『ああ・・・、そうだな』
さっさとおかみさんが気を利かせてしゃしゃり出てくれた。
『何時からだよ、会長の法要って』
『ああ、11時からだ。会社でやるらしい』
『それだったら行けるさ。顔を見せるだけでいいんだろ?。そんなに深刻になることないじゃないか、親父さ』
『それだけじゃないみたいよ靖っちゃん。この人、他のこと企んでるみたい。ねえ、どうなのよ、おとうちゃんさ!』
『う、うん。まあ、出来れば・・・その、うちに泊まってくれればなんてよ、考えてたりする訳で・・・』
親父さんの相談事とは、結局、久しぶりに再会した父を手放したくなかったのだ。
秋山会長の法要にかこつけて、父の東京滞在を引き伸ばしたかった。実に単純ともいえる動機だった。
『親父・・・』
そんな親父さんの篭った言い訳を受けて、父もそれなりの覚悟を決め込んでいた。
『充よ・・・、そういうことだ』
『えっ、そういうことって―――?』
『なっ―――、分かんだろがあ!、この馬っ鹿野郎っ―――!』
そんな吾妻に向けた父の罵声が、何故か白々しく感じられた。
『ああ―――っ、なるほど・・・』
『頼んだぜ―――充よ』
二人の間で交わされた暗黙の合意。しかし、吾妻の裁量には幾分かの疑問が拭えない感があった。
『じゃあ・・・靖志さん、明日戻んないのか?。―――それでいいの?』
さっきまで食べることに躍起になっていた吾妻が、父の指名を受けて、第三者の弁を醸し出していた。
『帰るぜ、おれは帰る。但し、皆とは違う時間でな―――。そうだろ、充!』
『そういうことになるよな。うん、そうだ。靖志さんは別の用事で送れて列車に乗り込む。しかし何らかの事故で、翌日の便で熊谷に帰ることとなる。それで解決ってことだよなあ―――』
父の言葉に申し合わせたように、吾妻が相槌を送っていた。
『そうだ、充の言うとおりだな。実に理に適った筋書きだ』
そして父も、大きく頷き返していた。
『あんたたちねえ。そんな大袈裟に考えなくていいんじゃない?。世話になった人の法要ってことで、忌引き扱いにしてもらえばいいのよ。そうじゃないの?』
おかみさんが呆れたように決定打を添えた。
『ほう―――』
親父さんに至っては、待ってましたとばかりに腕を組む始末だ。
父と吾妻の粗末な筋書きは、一瞬にして消滅することとなった。
『靖っちゃん、明日、行ってあげてよね。あんたの恩師の、七回忌だものね』
『ありがとうおばちゃん。気にかけてくれてありがとうよ。秋山の爺さんに受けた恩は、忘れちゃなんねえもんなあ・・・』
『へえ、文句が様になってるよお・・・。大人になったもんだねえ、あの靖っちゃんがさあ。どうりであたしたちも歳をとるはずだよねえ』
割烹着の袂をもみくちゃにしながら、おかみさんは噛みしめるように、過ぎ去った父との時間を埋め合わせていた。
『よく戻ってきてくれたよな、靖志。礼を言うぜ』
親父さんにしても感慨深そうに、じっと父の顔に見入っていた。
『やだなあ―――!、二人してなんでしんみりしてんだよお。充、お前もっと食えよお。親父さ、酒くれよ。おばちゃんもこっちに座んなって。再会の宴だ、楽しくやろうよ!。ねえ―――、親父も・・・、こっち・・・へ・・・さ』
言葉が詰まる。慣れ親しんだはずの店内が、今はやたらと広く感じられる。忙しないこの東京の地で親代わり同然に面倒を看てくれた親父さん、おかみさんの優しさが、今になって情けないほどに身に沁みていた。
頬を流れ落ちる大粒の涙は、東京を、夢を捨てた後悔の証ではなく。我が身に係わった人々の心を、無下にしたことへの後悔に違いなかった。




