危うくも父の上京
やがて開幕を待つ音楽祭の舞台裏では、そんな父の期待を担って緒方が待機していた。
『緒方くん、東京に戻ったら連絡しろよ。おれも頃合を見て行くから』
『小森さん、本当に大丈夫なんですか?』
『本当って、心配なのかよ?、おれの言ったことが』
『―――いえっ、そんなことは』
『お前なあ、成功したくないのか?。いつまでも下っ端でいいのかよ!』
『そ、そんな訳ないじゃないですか。僕はこの道に賭けているんです。ここまで来て引き下がる訳にはいかないんです!』
『そうだろうとも。お前のことはおれが引き受けた。だから心配するなって』
『小森さん―――』
『もうすぐ出番だぞ。皆に聴かせてやろうぜ、緒方健一の最高の歌をさ!』
『はいっ!』
そう言って緒方は舞台の横で大きく深呼吸を済ませた。そして父に向けて最高の笑顔を搾り出すと、大きな歓声に吸い込まれるかのように身体を翻し、軽やかに舞台へと駆け出した。
案の定、磨きのかかった緒方の歌声を噛み締めながら、父はしばらく止めていたタバコに火を入れると、嬉しそうに指でリズムを刻んでいた。
『いいぞ、いいぞ緒方健一よお―――』
まるで自分のことのように、父は拳を強く握り締めていた。
盛大なまま音楽祭の夜が更けた頃、父は上機嫌で酒盛りに興じていた。緒方の肩を何度も抱きかかえながら、自慢の弟子を擁したかのように、それは饒舌だった。
―――皆が寝静まった頃、ようやく家路に着いた父を待っていたもの、それは我が家にとっての一大事だった。
『ただいま・・・』
声を押し殺してそっと玄関の戸を閉める父を待っていたのは、掠れた鼻声の母の異変だった。
『―――遅かった・・・のね・・・』
その声は、疲れ果てた母の溜息のようにも聴こえた。
『―――ああ、つい、付き合っちまった』
『家族より・・・大切なの・・・?。歌謡祭って』
こんな時間に帰る父に、いつもなら不機嫌に大きな声を発する母が、この時だけはやけに静かに呟いていた。
『大変だった・・・のよ』
『―――えっ、どうしたんだ?』
『強志・・・、大変だった・・・のよ』
母のその言葉に動揺を隠せない父は、慌てて部屋の中に飛び込んだ。
『―――強志っ!』
半分開いた襖に首を突っ込んだ父の目の前には、真っ赤な顔をした兄の、荒々しい息遣いだけが耳を打ちつけていた。
『どうしたよ!。強志―――?』
兄の枕元に腰を降ろした父は、じっと兄の顔を覗きこんだ。
『―――肺炎を起こしかけてたのよ』
『肺炎だ?』
『今朝からおかしかったでしょ・・・強志。―――その後もね、咳がとまらなくて大変だったの』
『でっ、どうなんだ、今は?』
『なんとか落ち着いたけど、まだ熱が残ってるみたい』
『ふ――っ、そうか、そうなんだな。そりゃ、ひと安心だ』
大事に至らなかった兄の病状に、父が安堵の声で落ち着いていた。
『なにが安心なのよ・・・あなた―――。家を空けてばかりで勝手なことをして、なにが安心なのよおっ!!。も――うっ―――!』
父の背中に向けて涙ながらに訴えかける母の声。それは余りに重く父に響いていた。しかも、その母の嘆きは、同時に父の罪悪感をも煽っていたのだ。
『――――――!』
母に向けて言い返せる立場ではない父は、思い詰めたかのようにそっと、兄の頬に手を当てた。
『ごめんな強志―――。父さん最近忙しくてなあ、お前のことかまってやれなかったんだ。ほんとに、ごめんなあ―――』
兄の頬に当てた手をまさぐりながら、ひたすらに詫びる父の姿がとても寂しそうに映っていた。
その声は、まるで切ない音色のように悲しく揺れていた。
『―――もういいのよ、あなた』
丸くうずくまるように固まった父の背中を庇うように、母は労わりの声をこぼさずにいられなかった。
目の前の我が亭主の情けない姿ほど、耐え難いのもはなかったようだ。
その夜、母のすぐ横で寝返りをうつ父は、どうやら寝付けずにいた。それは緒方の将来を担ったかのような自分の意思の介入が、どうにも気になって仕方なかったのだ。
緒方に重ねた自分の夢の居場所が、ここに来てどうにも定まらないでいたのだ。
緒方に託した調子のいいばかりの話に、こと父にしても半端な心境でいられるはずがなかった。
『んん―――・・・』
朝方になってようやく寝付いた父の脳裏に、ある男の顔が浮かび迫っていた。
“―――小森くん久し振りだね”
ぼんやりと顔の輪郭の定まらない男は、父の名を呼ぶと、暫く調子を合わせるかのように笑っていた。
“えっ?、あんた、誰だったかなあ?”
“へえ、僕のこと忘れたんだ。なんだ冷たいよなあ”
“ちょっと待ってくれよ、すぐ思い出すからさ!”
残念なことに、父にはその男の素性を割り出せないでいた。
“いいよ待ってなんかいられないんだよ。僕は忙しいからね、大勢のお客さんが僕の歌を聴きに集まってくれているんだよ”
“えっとお―――確か、あんたの名は―――”
“小森くん、これを君にあげよう”
必死に名前を思い出そうとしている父に向かって、その男が懐から何やら光る物を取り出した。
“小森くん、これで君に罪を償ってもらいたいんだけど”
その男の差し出した物、それは刃渡り僅かなナイフのようだった。
“ああん?、罪って何のことだよ?”
“僕の歌を横取りしたよね、君って男は”
“―――横取り?”
“ああそうさ、トウチクの人気者はずっと僕だったんだよ”
“えっ―――?”
一瞬、父の記憶が巻き戻されていく。
“もしかして、あの―――立花かっ―――!?”
“ようやく思い出してくれたんだね小森くん。ははっ、嬉しいなあ―――。ははははははっ――――――!!”
“た、立花――――――っ!』
その男の正体とは、紛れもなくあの立花勇気だった。だらしなく無防備にナイフを手に携えながら、狂ったようにけたたましく笑う立花の姿は、いつの間にかすうっと父の正面に立っていた。
“やっと、思い出してくれたんだね。嬉しいなあ”
ついさっきまで引きつっていた立花の顔が、にわかに、まるで妙に柔らかく笑みを浮かべていた。
危うく手の中に収めたナイフの先を見せ付けながら、立花は操り人形のようにぎこちなく父の懐に進み寄っていた。迷いなくそしてゆっくりと、父の身体の中心へとそれを差し入れた。
“あっ―――、ああ――――――っ!!”
凍りついたように身動きも取れず、父の構えた抵抗はというと、ただ哀れに声を上げるしかなかったようだ。
―――しかし、体内に差し込まれたはずの異物の感触は、あまりに鈍いように感じられた。
“え、ええっ――――――?”
呆然とする父の下腹部には、確かに致命的な痛みなど微塵もなかった。
“ううっ―――!、ぐふううっっ――――――っっ!!”
すると突然、父に寄り添う物体から搾り出されるように呻き声が発せられていた。まさか自分の腹部をえぐったはずのナイフの先が、別な誰かのそれに突き立っているようだった。
“――――――!?”
父の足元に横たわっている物体の正体は、すぐに特定された。
“へへっ・・・間に合ったな、靖志よ―――”
“―――か、神部さんっっ――――――!!”
と、その瞬間、父は夢から目を覚ました。
『はああっっ――――――!、ああっ・・・っ・・・』
『ねえっ―――大丈夫―――っ、あなたっ!?』
すぐ横で母が心配そうに父の身体をゆすっていた。
『あ、ああっ―――あっ?』
流れ出る汗といかにも放心状態の父。遠く忘れ去っていたあの事件が、忌々しくも夢の中で再現されていた。
『も―――う、心配させないでよ。随分うなされてたのよ』
『ああ―――、何だ・・・夢だったのか・・・』
その母の言葉で、ようやく正気に戻った父だった。
『歌謡祭の疲れが溜まってたのね。―――ご苦労様』
東京を離れてからというもの、父はあの事件に触れることなど一切なかった。母にでさえ語ることを拒み続けた忌まわしき過去の産物だったのだ。
わずかの関係者にしか知らされていない立花勇気の起こした不祥事は、すでに封印されてしまっていたのだから。
『立花・・・勇気』
『えっ、誰のこと?』
『いいやっ、なんでもない―――っ!、ああっ、なんでもないさ―――うん、ただの独り言さ』
懸命にその場を取り繕う父の額には、大粒の汗がまだ噴出す勢いを失っていなかった。
『あっそう―――っ、じゃあ今日はゆっくりした方がいいわね。あっ、そうだ、お酒でも買っておこうかしら』
『そうだな・・・、そうしてもらえると有難い。すまんな、光代』
動揺を見せまいとする父は、母の言葉に甘えることでやっと平常を保っていた。しかし、この時の父の異常を軽く受け止める母には、この後の無謀とも思える父の行動に、当然、悔やむこととなる。
さっきまでうろ覚えの忌々しい夢が、忘れ難き立花勇気の出現が、確実にこの先の父の進路を決定付けることとなるのだった。そんな岐路に立たされている我が身を、確実ではないにしても、父は何処かで察知していたに違いなかったと思う。
歌謡祭から一夜明けて、ようやく現実の生活に戻った父だった。朝ご飯を済ませた父は、いつもと変わらぬ様子で職場へと向かって行った。
『靖志―――、夕べはお疲れだったなあ。お陰さまでいい歌謡祭だったぜ!』
『そうそう、お前の歌が聴けなかったのが残念だったけどさ』
職場の仲間からは、異口同音に労いの声が掛かった。
『ああ―――っ、仕事に集中出来なくてすんませんでした。今日からバリバリやりますから、よろしくってことで!』
『そうだぜ!。お前の分、皆で分担したんだからよ。今度、埋め合わせしろよな!』
『はいはい、承知いたしました!』
『おいおい、まるで反省の色が見えないぜ―――っ、靖志ってよお―――!』
『ああっ、いやっ―――、そんなことないって―――』
『じゃあ、今晩おごれよ―――お前なあ』
『ええっ?、今晩って―――?』
『ははっ、冗談さ―――冗談だよっ!』
『な―――っ!』
そこには、変わらない仲間との何気ない会話が交わされていた。
『よっしゃあっ!、始めますか―――』
定刻に始動した機械音が、父の迷いを吹き飛ばすように轟々と工場内を席巻していた。
あの時に緒方に託した父の言葉の数々が、少しずつ削れ落ちて行くような感覚だった。けれど、自分の夢の続きを追い掛けた数日間が、父にはどうしても空言とは思えなかった。いや、思いたくなかったはずだ。
突然の今朝の立花の夢。ときめく胸の高鳴り。どうしても消せない緒方との衝撃の出会い。
現実と夢との境目が崩壊していくことに、父自身、やはり違和感を無くしていた。
『お疲れさん!。また明日も頼むぜ、靖志!』
『はいな!、こちらこそよろしく!』
『じゃあな、真っ直ぐ帰るんだぜ!。はははっ―――』
何事もなく今日一日が終わろうとしていた。少なくとも、仕事に集中出来た数時間は、父にとっても安心のおける時間だったに違いない。
『ああ靖志よ―――、夕べの歌謡祭のなあ、あの若造ってよお。何て名前だったけ、えっとお・・・』
帰り間際に工場長の秋葉が、おもむろに父を引き止めた。
『ああ、緒方健一でしょ』
『そうそうその緒方ってのがさ、いい声してたんだよなあ。若いのに大したもんだぜ。なあ、お前もそう思ったろ?』
『あ、ああ―――確かに。一応、招待歌手だからさ』
『ああいう若いもんにいい曲が渡らねえもんかねえ。そうすればこの国ももっと元気が出るってもんだけどさ』
何気の無い秋葉の言葉には、実に客観性を含んでいるように聴こえていた。そもそも芸能業界の世代交代が遅々として進んでいない我が国の憂いは、庶民にとっても歯がゆいものであった。
『そう―――、そうだろうけどさ』
そんな秋葉の言葉は、まるで父の心境を代弁しているかのように的を得ていた。
『お前も、まんざら他人事じゃいられねえなあ』
『―――えっ?』
『その緒方って奴に肩入れしてんだろお前?。へへっ―――、お前の行動を見てたらよ嫌でも判るってもんさ』
『あっ、―――いやっ』
『けどな靖志、いい加減な気持ちじゃやって行けないって判んだろ?。お前には大切な家庭がある訳だ。今はそれにしがみ付いてなきゃいけねえんだ。なあ靖志よ?』
『秋葉さん―――』
『お前の抱えてる夢の途中なんてよ、浮世離れもいいとこだ。けどな靖志、いい加減足元を固めちゃどうだ?』
『―――分ってるよ、おれにもさ』
『大きな節介だとは思うけどな、地道に生きるってことがどんだけ大変か、どんだけ尊いものかを知らなきゃよ、お前の人生クソにもなんねえぞ!』
秋葉の確信的な言葉が、やけにずっしりと父の肩に圧し掛かっていた。浮き足立っていた父の素行を、さすがに感じ取ってていたのだろう。秋葉の忠告には人生の主軸ともいえる指針が植え込まれていたようだ。
『なあ―――靖志よお。東京で何があったのかは知んねえけどよ、現にお前はいい父親じゃねえか。そうだろ!』
『ははっ、参ったなあ・・・。そこまで読まれてるんじゃ、どうしようもねえなあ』
『嫁さんと子供が第一さ、それ以外に幸せって見つけられねえや!。なあ、靖志よ』
『ホント、そうだよな』
秋葉の説教に大きく頷いた父は、どこか晴々しく顔を張っていた。
『秋葉さん、ありがとう!』
『へへっ―――、やっとお前らしい顔になったじゃねえかよ』
秋葉のその言葉に、父の迷いが払拭されていくようだった。緒方健一に偏っていた最近の父の思い入れは、束の間の幻想に終わろうとしていたのだ。
『ただいま―――!。帰ったぞっ!』
『おかえりなさい―――。今日は早かったのね』
いそいそと母が、父の帰りを迎えた。
『なんだよ、いつもと変わんないだろ?。嫌味なのかあ?』
『そうね、嫌味かもね』
歌謡祭に没頭していた父を戒めるかのように、母が白々しく笑っていた。
『強志の具合はどうなんだ?』
『うん、もう元気に遊んでるわ。だから高志も退屈しなくて済んでるのよ』
『そうか、そりゃ一安心だな』
そう言って玄関で靴を脱ぎ捨てた父は、改めて母の前に足を揃えた。
『―――あのよ、光代』
『なによ、早く入んなさいよ』
『すまなかったなあ・・・、この最近』
『なによ急に・・・。いいのよ、男の付き合いって大切だもんね。仕方ないわ』
『そうか―――恩にきる、ありがとうございました―――!』
他人行儀に深々と頭を垂れる父の姿は、立派な家庭人の顔に戻っていた。
『も――う、早く入んなさいよ!』
照れていた母は、身の置き場に困っているかのようにそそくさと台所に姿を隠していた。
そしてその夜、円満な家庭の食卓は遅くまで賑わっていた。
『じゃあ行ってくるわ、光代』
『はいはい、気をつけてよね。それから皆にくれぐれも迷惑だけはかけないようにね』
『判ってるってえ、子供じゃないんだからよ』
父の今日の出発は、いつもと違う会話で始まっていた。
『明日の夕方には戻ってくるんでしょ?』
『ああ、その予定だ。じゃあな!』
『ち、ちょっとお!。お弁当忘れてるわよ』
『おっと、いけねえな!』
会社の企画した工場視察に、父は浮き足立ったように家を後にした。それと言うのも視察先の工場の所在地は、他ならぬ東京都内にあったからだ。でもそれは、緒方健一を追っての放浪の旅であるはずもなかった。
―――ようやく、あの歌謡祭の熱から冷めた父は、その後、緒方健一宛に一通の手紙をしたためていた。
“―――おれの無責任な言葉は、充分に君を弄ぶ結果となっただろう。本当に申し訳なく多大に責任を感じているところです。しかし、貴殿の夢の咲く場所を心眼に描きながら、益々の活躍を心より祈願しております―――”
そう文字を結んだ手紙が、緒方の元に届いたのかは定かではなかった。その後の緒方からの返信も、やはりなかったようだった。
『靖志さ―――、お前、東京には詳しいはずだよな』
『ああ、3年も住んでたからなそこそこは知ってるさ。けど、もう7年もご無沙汰だ。あそこも随分と変わってるだろうよ』
『今夜の宿は、何処って言ってたっけ?』
『確か―――そうそう、渋谷界隈の旅館だったなあ』
『へへ―――。その辺りに楽しい遊び場なんてあるんだろうな?、靖志よお』
『何でもござれさ。なんたって花のお江戸だもんな!』
『靖志い、道案内たのんだぜ!』
『はいはい、何処にでもご案内差し上げますよ』
鈍行列車に揺られて一同は浮かれ気分に浸っていた。無理もないだろう、東京での一泊旅行など、そうそう経験出来る時代でもなかったからだ。
『東京かあ―――』
父が小さく呟いていた。あれほどきっぱりと諦めたはずの父の夢が、思いもよらずひょいと顔を出し始めることとなる。高揚する父の胸の内には、単に懐かしさだけに留まってはいられなかった。




