緒方健一という男
突然の立花勇気の乱入により、トウチク・レコードの新曲発表会は中止を余儀なくされた。
当の立花はというと、群がる数人の警官に囲まれて連行される最中、自分の持ち歌を絶唱していたらしい。そのお粗末な歌声は、さも辺りを恐々とさせていたはずだ。
一方、臨終を覚悟していた神部さんはというと。幸いにも致命傷には至っていなかったようで、全治一ヶ月。その後のリハビリが肝心だと聞いた。
―――そしてこの事件を切っ掛けに、父はこの業界を去る決意をしたのだった。
不甲斐ない自分の放漫な態度が、立花勇気という犯罪人を作ってしまったのだと。引き止める秋山会長にもついに会わず終いで、―――夢の芽吹く街を、この東京から逃げ去ってしまったのだった。
父のことを心配してくれていた多嶋屋の親父とおかみさんの元に、しばらくして熊谷消印の便りが届けられていた。そこには挫折した父の言葉ではなく、歌の世界から離れて市井で働く意欲をしたためたものだった。
そしてお世話になったお宅へも、数枚の便箋が届けられていた。
小幡邸では、ベッシーが未だ、二郎とその使用人を待っているのだ。
服部綾子さんは、いつしかも知れぬ父との交信を楽しみに、夫の世話に従事していた。
そして、数ヶ月後にトウチク・レコード宛に届いた、父の音信はというと―――。
まさしく、生意気な小森靖志のありのままが、そこに綴ってあった。
“―――拝啓、貴社益々ご隆盛のこととお慶び申し上げます。勝手な帰郷をどうかお許しください―――。”夢浪漫“は叶いませんでしたが。今、もうひとつの”夢“を叶えようと決意している次第です。今秋に妻をめとること、お伝え申し上げます。
第二の人生を、妻と共に歩んで行く決心で筆を執りました。会長、昭二さん、神部さん。そして“小森ゆうじ”に係わっていただいた皆様には、ご多幸とご繁栄をお祈り申し上げます。
追伸――――。
おれの曲、“夢浪漫”は、当分の間封印しておいてもらいたい。もし、その気になった時は、歌いに戻るかも知れないから―――。そして神部さんへ、夢浪漫のサビの部分はもう少しピアノの音、柔らかくした方が聴く者の耳に残ると思うよ。あん時には言えなかったけど―――。そこだけは譲れないので、よろしくね。“
父から届いたその便りは、即座に社内を回覧されたらしい。多くの人の手垢にまみれて、よれよれになったその便りをやっと手元に受け取った神部さんは、失笑としかめっ面の狭間で、傷の再悪化に苦しめられていたようだ。
余りに短くも、波乱にとんだ父の歌手人生の幕は、今、こうして閉じられることとなった。
『―――私に知る限りは、こんなところかしらねえ』
孝子さんの一通りの供述が終わっていた。
『へえ、結構格好いいじゃんか―――。う――ん、見直したっていうか、でも、やっぱり馬鹿っていうか―――』
兄は頭を掻きながら、思い悩んだ風に言葉を選んでいた。
『お父さんのことは解ったけど・・・。でも孝子さん―――、お父さんが家を出たのはどうしてなの?。僕、それからが知りたいんだっ!』
父の歌手人生の概略は、おおむね理解できた。けれど、僕たち兄弟の疑惑はこの先の父の行動を知らなければ、解決のしようがなかった。
『――-ああ、そうよね。そこが肝心だったわねえ』
『そうだよ!、そこが肝心なんだよなあ』
『そうそう、あの晩にお寿司屋さんで調子よく歌ったあの人さ、その後夢中になったんだって言ってた。ああ、えっとお―――――-』
まるで調子合わせでしかない、いい加減な兄の言葉に乗ってか、孝子さんが笑いながら話を続けた。
父の代理人の孝子さんの記憶は、歌謡祭主催の町内会の恒例会に話は及んでいた。
『へえ―――、靖志ってやっぱり、その道に残った方がよかったんじゃねえのか?』
父の遭遇した事件など何にも知らされていない一人の長老が、父に向けて言った。
父の口からは、単に歌に挫折しての帰郷だと聞かされていたから、皆には好き勝手な発言が許されていた。
『今からでも遅くはないって。お前ならやって行けるさあ!』
『そうだよ、辛抱が足りないんだよ靖志い!』
次々に、父に向けての言葉が飛び交っていた。
『いや、おれはもういいんだよ。あんな世界にはもう金輪際おさらばだ』
『そうなのかよ。惜しいよなあ―――』
『ところで、緒方くんっていったよね。君の歌を聴きたいんだけど、おれ』
大人しく座っていた招待歌手の緒方に、父が矛先を向けた。
『―――えっ、いいんですか?』
『いいに決まってるさ、遠慮なんていらないよお。なあ、皆あ!』
父の言葉に、すぐさま全員から拍手が巻き上がった。
『それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます。あのお―――何でもいいんですよね?』
まだ初々しさを残す緒方は、そう断ってから立ち上がった。やおら一礼を済ませた彼の顔が、急に大人びて見えていた。実に堂に入っていた。
『すうっ―――!』
大きく静かに息を吸い込んだ緒方が、辺りを見回して大きく両腕を開いたと思いきや、その指先は軽快なリズムを刻んでいた。
さっきまで小さく大人しかったはずの緒方が、途端に堂々と大きく見えた。
“全てで――なければ――何も―要らない――、欠けたー愛―など私には――響かない―――――――”
日本語で歌ってはいたが、その歌は確かに洋楽だった。皆、唖然と緒方の歌声に聴き入っていた。
“貴方――が――心を――投げ出して――くれないのーなら―――それなら―私――は――何も――要ら――な――い―――――――”
緒方の熱唱する歌、“オール・オア・ナッシング・アット・オール”。言わずとも知れた、若き日のフランク・シナトラを世に示した名曲だった。
しかも、たかが十六の若造の歌うそれではなかった。その範疇を超える、見事なまでの歌声だった。
『ちょ、ちょっとっ、なんて声だよ―――』
父が驚愕していた。その口はしばらく呆然と開いたままだった。
やがて歌い終わった緒方は、照れながら方々に頭を下げていた。その顔はやはり十六の少年の顔に間違いはなかった。
『お、緒方くん―――。君―――』
父は緒方の傍に歩み寄り、知らず握手を求めていた。
『君―――、所属は何処なんだ?』
『はい、クイーン・レコードにお世話になっています』
『クイーンかあ―――。聞かない会社だよな』
『本当は、トウチクみたいな大手に入りたかったんですけどね』
今の所属会社では不本意なのだろう、緒方が何気なく本音をこぼしていた。
『充分な力量だよ―――。君の歌をもってすれば、どこでもやって行けるさ!。今の環境に満足なんてしてんじゃないぞっ―――』
まるで新人発掘に携わる業界の起用人のように、父が緒方の背中を押していた。
『いや、今の僕の技量なんて・・・』
父の言葉に恐縮するばかりの緒方は、若手ならではの純情を醸し出していた。
『思い切って行けばいいさ!。君の持ち味を活かせばいいんだからなっ―――!』
そう言って更に強く緒方の手を握り締める父の姿は、思えば遠く、あの時に父を見初めた秋山さんのように、とても熱く語っていた。
歌うことしにしか生き方を選べなかったあの当時の父の魂が、まるでその場に漂っているかのようだった。。
『靖志よお、そんな大口叩いてどうすんだよ。そうは言ってもお前に面倒なんて見れないだろ―――?』
『気持ちは判るけど、あんまり肩入れすんなよな。ほら見ろ―――、緒方くんが困ってるだろ!』
『―――いえ、あの・・・僕はいいんです・・・すみません―――』
父とは正反対の気性なのか、やや緒方が肩をすぼめていた。
完全に諦めていたはずの父の夢。しかし、この時の緒方少年の信じられない歌声を聴いた途端、そのおぼろげな夢が幾分燻り始めていたようだった。
それはゆっくりと、―――しかも確実にだ。
けれど、その時の父にはそんな実感などあろうはずもなかった。家庭人として堅実に働くことが、今の父にとっては幸せなことだったからだ。
『そんなにいじめないでくれよお!。彼の歌に感動しただけさ。いや―――っ、実に素晴らしい!。ホント、いい声持ってるよなあ―――!!』
緒方の肩を叩きながら、甲高い声で父が舞い上がっていた。
『帰ったぞ―――。んんっ・・・うっぷっ―――。ふう―――っ!』
寄り合いを済ませての父の帰宅だった。
『飲みすぎたんでしょ。だから言ったのよお、ほどほどにしなさいって』
『―――ああ、参った・・・』
『この次は調子に乗らないでよね。分った?』
『ああ・・・気をつけるさ』
母の忠告にそう応えながらも、今の父の頭の中は緒方のことで精いっぱいだった。
『ねえ、お腹は減ってないの?』
『・・・うん、大丈夫さ』
『まあ珍しいわね?、いつもは催促するのにね。あっ、そうそう―――。ねえ、緒方ってどんな子だったの?。いい男だった?』
母がさり気なく父に訊いた。
『・・・うん、まあまあ、かな』
力なく父が母に答えた。
『なんだ、それだけなの―――?』
こと歌に関してだけは余計に熱っぽくなる父が、何故か不思議と消沈しているように見えた。
『若いってだけさ。それ以外は特に無いよ』
緒方の披露した歌声に、ある種の感動を抱いた父は、家に帰ってからも気が抜けたように、やけに冷めた口調で母に報告を済ませていた。
『ふ―――ん、なんだか―――気のない返事・・・』
『そうか?』
危うく込み上げる熱いものをやっと抑えながら、淡々とした口調の父だった。
しかし、その先に待ち受ける父の願望が、今、じりじりと燻り始めていることを、父自身も気付かないでいたのだ。
歌謡際の段取りが進む中、父は頻繁に緒方の元に足を運んでいた。役員という肩書きを理由に、仕事を投げ出しては緒方に会いに行く始末だった。
『―――ねえ緒方くん、持ち歌はもう準備してもらってるのか?』
『いえ―――、まだそんな段階でもないんです。まだ下っ端なもんで』
『そうか、そりゃ仕方ないよな。まったく厳しい世界だぜ、コネがなきゃ表舞台なんて遥か遠い。実力もなんもあったもんじゃねえな―――』
『今はじっと我慢の時期だと思っているんです。だって、自分の選んだ道ですからね文句なんて言えないですよ』
『殊勝なことを言うんだな、君も』
『小森さんもそうだったんでしょ?、我慢の時代ってあったんですよね?』
『ははっ、おれは身勝手だったからな、勝手にやらせてもらってたよ。けど、衝突の毎日だったなあ。思えばよ』
『僕も小森さんのように、図々しくなれればなあ』
『怖いもの知らずって言うだろ。まさにそれだ、若かったんだよなあ、おれも!』
『若いだけでは無理ですよ、きっと小森さんの持ち味なんでしょうね』
若いながらも緒方の言葉は、父の不具合を美化してくれるほどの落ち着きを見せていた。さすがに父の目に適った人物のようだった。
『緒方くんさ―――、あのよ、ひとつ確認しておきたいんだけどな』
そんなやり取りの途中で、何故か急に父の躊躇の声が緒方に向けられた。
『えっ、何ですか急に改まって、小森さん?』
『いやっ、その、あれだ―――。もし、もしもだぜ。おれの思うような筋書きが出来たなら、今の会社からさ、―――移籍する覚悟はあるのかな?』
『えっ、移籍って?』
『ああ、トウチクにさ―――、おれを雇ってくれた恩師がいるんだ。その人に当たってみようと思うんだけどな』
『ほ、本当ですか?、そんなこと出来るんですか!』
父の曖昧な言葉に、それでも緒方の声が弾んでいた。
『ああ―――、確約なんてまではいかないけどな、おれなりに動いてみるつもりだよ。緒方くんの歌はこのままにしておくにはもったいない。おれはそう確信する』
『あ、ありがとうございますっ―――。小森さん!』
父の思惑に乗せられて、緒方の眼は一段と輝いていた。それほどトウチクの看板は偉大だったようだ。
『どうしたんだ靖志―――。お前また仕事さぼってんのか?』
『歌謡際の準備でさ、忙しいんだよ!。まったくさあ』
『他の連中がいるだろう?。お前一人が張り切ったってどうしようもないだろうよ?』
『皆、忙しいんだってさ―――。せめて、おれくらい頑張らなきゃなあ』
『そんなこと言って、―――お前なあ』
父の職場内での行動を疎ましく思ったのか、そんな職場の同僚からも、散々忠告を受ける始末だった。
歌謡際に向けた父の熱の上げようは、職場放棄とも思えるほどの勢いだったようだ。そんな父の堕落振りを小耳にはさんだ母は、、当初は理解ある発言だったものの、最近では父の異常なほどの行動に水を差さずにはいられなかった。
『ねえ、わたしに隠してること、あるんじゃないの?』
『ええっ・・・?、隠してるって、な、なんだよ、そんないきなり』
『―――最近、あまり仕事場に居ないんだってね、あなた・・・』
『ええっ―――、な、なんだよお・・・?』
『――-皆がそう言ってるから・・・』
『そんなことあるかよお―――っ!。ちゃんとやってるさあ。まあ、なんだ・・・、たまに抜けることはあるけどな―――ははっ―――。歌謡際の準備ってさあ、相当なもんなんだよ。片手間でやれるほど優しいもんじゃないんだっ!、―――うん』
足指の爪を切っていた父は、少し慌てた様子を誤魔化しながら。それが当たり前のことのように白々しく辻褄を合わせていた。
『はあ―――、やっぱり。―――ねえ、あなた一人で躍起になってるって、本当なの?』
『躍起って?、どういうことだよ・・・?』
『―――どういうことって。-あのね―――』
『止してくれよっ―――!』
『――――――っ!』
『余計な詮索なんてすんなよっ!。役員なんだよ、おれは―――っ!』
『そこまで肩入れして何の得があるっていうの?。たまたま役員に選ばれただけでしょ!。仕事を投げ出して、なんでそんなに入れ込んでるのよおっ―――!!』
ついに、母の堪忍袋の緒が切れたようだ。
『仕事をさぼって何をしているのよおっ!!。最近のあなた、どうかしてるわよっ!!』
『・・・・・』
母のキツイ一言に、父はとぼけたように黙っていた。
『まさか、歌の世界が恋しくなったって、そんなふざけたこと考えてるんじゃないでしょうね。ねえ、―――そうなの?』
堰を切ったように更に詰め寄る母の言葉に、爪を切る父の手が止まった。
『ふざけた・・・こと・・・?』
つい勢いで漏らした母の一言が、父の封印しだはずの歌心に致命的ともいえる傷口を刻むことになる。歌に青春の全てを捧げた父にとって、母のその言葉は余りにも理不尽に思えたのだ。
『―――だ、だって、そうでしょ。今の仕事が一番だなんて、あなたいつも言ってたじゃない―――』
父の顔から目線をずらした母の声が、幾分、小さく聴こえていた。母の心配事は、今に始まったことでもなかった。父が人前で歌を披露する度に、“―――もしや”との思いが、常に心底に眠っていたのだ。
『―――そうか・・・ふざけてたんだよな、やっぱり、おれの生き方ってさ』
弱弱しく、そして情けないように吐いた父の言葉が、ぽつりと畳の上にこぼれて滲んだ。
『ごめんな・・・光代』
『―――う、ううん、いいのよ―――。だって、歌謡祭の運営って大変だものね・・・。そんな苦労なんて、誰も判らないもの―――』
母を気遣ってか、反省を促した父の声に瞬時に母が反応した。
『―――いいんだよ』
一見、和解しあった夫婦の会話に聴こえてはいた。が、二人の心の隔たりはこの先、加速度を上げて行くことになるのだ。
ほんの些細な言葉のやり取りさえ、交わりを欠いてしまうことになってしまう。それは歌謡祭前日の、母の些細な一言に端を発した。
『ねえ、今晩は早く帰れそうなの?。たまには、ゆっくりとご飯食べたいでしょ?』
『―――ああっ、そうしたいとこなんだけどさ・・・前夜祭がどうのって、言ってたからなあ』
『ええっ―――?、今晩もまた飲み会なのお?。も――う、いい加減にしてもらいたいわ』
『仕方ないだろ!。役員なんだからよ、おれ―――』
『だって、明日は明日でまた打ち上げって口実で、どうせ帰らないくせに―――!』
朝から始まった夫婦喧嘩に、丁度その場に居合わせた兄が急に泣き声を上げ始めた。
父と母の言い争い事なんてすでに馴染みの兄のはずが、今朝はどこか違った様子だった。
『どうしたの、強志?』
『うえ――ん、あ――んっ!』
『何ぐずってるんだよ強志ぃ!。お前、男だろっ!!』
母に抱かれて泣きじゃくる兄に向けて、父が苛立ちを隠せずに怒鳴りつけた。
『―――ちょっと待って、なんだか熱っぽいわ。この子』
『ああん?、そうなのか』
『相当熱があるみたい。お医者さんに連れていかなきゃ!』
兄の額に手を当てた母は、慌てた様子で父の顔を見つめた。
『ええっ、ホントかよ?』
そう言って兄の顔に頬を当てた父は、しばらく考えているように間を置いた。
『ねえ、流行の風邪じゃないのかな?』
『大した熱じゃなさそうだ。氷枕で大丈夫さ』
『―――だって!』
『お前が甘やかすからこうなるんだよ!。少々の熱で騒いでどうすんだ!』
母の心配を他所に、父はあくまで身勝手だった。自分の家庭の歪にも気が付かないままに、緒方への期待感で溢れ返っていたのだ。
まさに盲目ともいえる父の行動は、後の家庭破綻への助走を始めていた。




