綾子さんの内心
この日から一週間、父は服部の下での歌の合宿に明け暮れるのであった。
意外にも、ピアノの前に向かった服部は急に人が変わったように、厳しい“先生”に豹変した。それを思わせるように、服部の自宅に構えた教室では、連日、激しい叱責の声が飛び交っていた。
『感情が出すぎだよっ!。勝手に舞い上がるんじゃない!!。この詞の意味を理解しろよっ!』
『―――あ、はいっ!』
『もう一度今のところから。最初からっ―――!』
『はいっ!』
そんな先生の言葉には、従順な生徒の顔を見せた父であった。
『違うってえっ!。どうして伸ばすんだよ!。気持ちが台無しじゃないか。憤りが見えなくなくなってしまうだろ?。儚い夢を語ってるんだよそこの部分は!。―――まったく、女心が解らないのか、君は?』
『はい、おれには解りませんっ!』
『はあっ―――そうか・・・。解らないんじゃ、どうしようもないな』
時に父は、馬鹿正直な生徒でもあった。
『ところで、どうして女の歌う曲なのさ。そんなの流行るわけないだろ?。人が聴いたら変だと思うぜっ!』
『口ごたえはするなっ!。君に与えた曲だ。黙って従えばいいんだよ―――!』
そんな優等生がいつまでも続くわけが無かった。やはり、いつもの粗悪な父に戻っていた。
『そんなあ・・・』
『―――まったく。君の情熱ってやらの正体を見てみたいもんだね!』
『情熱だけではムリだよお!。だって、今までと勝手が違うんだからさ』
父の言い分も当然だった。この当時には、異性の歌を歌うことなんて許されることではなかった。
いや、正確に言うならば男女の役割分担の正当性であったと評するほうが、無難と言えるだろう。
『でもさ、服部さんは解るの?。女心ってやつがさ』
『うん、解ったつもりで書いているさ。僕なりにね』
『えっ、そんなんでいいの?』
『君だから言うけど。男も女もさ、人を思う心情に違いなんてないと思うんだ。見掛け女だから、女の心情って理解しているだけなんじゃないかな?。悲しいも辛いも、そして嬉しさにしても男女に差なんてあるはずがないんだ』
『ええっ?―――だって、男は強いんだろ。女はか弱いじゃないか、それなりに違ってたって当たり前じゃないの?』
『男は変に見栄っ張りなだけだよ。一皮むけば、惨めな生き物さ』
『じゃあ、女はどうなのさ?』
『芯が通っている。実は、男なんて足元にも及ばないのかも知れないね』
『―――どうしてさ?』
『いいかい小森くん。子どもを身ごもるってね、女性しか出来ないんだ。その一大事は君にも理解出来るだろ?』
『もちろんだよ。おれだって、お袋の腹から出てきたからさ。間違いないさ』
『その一大事を、男はどうしようも理解出来ないんだよね。理屈では解っているんだけど』
『だから・・・?』
『辛抱強く内に秘めた愛情を表現する。まさに子どもを身ごもるようにね。男女の違いがあるとすれば、おそらくこの部分でしかないと思うんだけど』
『余計、解んなくなってきたよお!。服部さん』
『今晩、この歌詞を読み込んでみることさ。君のお袋さんを思い出しながらね』
『お袋かぁ―――』
情熱だけでは適わない。そんな歌唱の壁に突き当たった父は、一体、どうやって克服するのだろうか。僕にしても楽しみな経過だった。
その晩、父の苦悩の顔が枕元で幾度も寝返っていた。
『女心なんてよお―――、そんな簡単に解るわけないじゃん。おれ、男だもんなあ・・・』
何度、歌詞を読んでみても、簡単にその心情には到達出来はしなかった。
『男も女も一緒って言ってたよなあ。確か―――。ふうっ!』
そんな考え事をしているうちに、やがて窓の外が明るくなっていた。
『やべっ!、寝られないや。も――う、何だってんだよお―――ったく!』
結局、寝付けないままに父は、朦朧と服部家の食卓へと足を運んだ。
『ふあ―――――っ、おはようございます・・・』
『おはよう。どうしたんだい?、やけに眠そうじゃないか?』
『―――あのさ、服部さん。やっぱり女の歌は、おれには無理みたいだよ。曲変えれないのかな?』
『なんだ、そんなことか。僕はこのまま続ける気でいるんだけどね』
『そうなの・・・でもさ、よくよく考えてみてよ。女の心情をさ、男が歌うって変じゃない?。男は男らしく、その生き様を歌ったほうがいいと思うんだけどな』
『おや、小森くんって意外と保守的なんだね。僕はもっと斬新な歌い手だと思っていたけどね』
『あのね、服部さん―――。そんなの保守的って言うの?、まさに常套手段でしょうが!』
『君くらいの年齢でしか突破出来ないことを、僕は望んでいるんだけどね。それは無茶ってことなのかな?』
『だって、誰もそんな歌、歌ってないじゃん―――。実際!』
『いいかな小森くん。今までの楽曲なんてさ、男女の枠にはめ込まれたものなんだ。この国の慣習を反映しているだけの、小さな自己満足だよ』
『そりゃそうだけど。伝統ってものもあんだろ?』
『その伝統にしがみ付いてちゃ、純血そのものも危ういな』
“純血”、そう―――、父が服部さんを試したときに使った言葉だった。
『危ういって、どうしてさ?』
『外を知らないで内ばかりに篭ってたんじゃ、世間の道理の変化も気付かないままだよね?。篭るっていうことが純血であるならば、そんなものいっそ捨てたほうがいいとは思わないかい?』
『う、うん―――?』
『国の発展も音楽も、行き着くところは一緒じゃないのかな?。改革、是正、変貌。そうやって変わって行くことを、進歩って言うんだろうね』
『―――進歩かあ』
『過去の曲を否定しようなんて言っているわけではないんだよ。勿論、過去があってこその現在があるんだからね。けれど、過去に囚われていては新しい発見なんて出来やしないじゃないか。ましてや、新しい文化を受け入れる土台なんて築けやしないだろうね』
『はあ―――?』
服部の論じる新旧交代説に、寝不足の父にあっては、どうでもよかった。
『さっきから、何を難しい話ばかりしているんですか?。―――おはようございます。小森くん!』
『ああっ・・・、おはようございます』
その場を整理してくれたのは服部の妻だった。やはり女性の明るい声色は、社会の歪みを調節してくれるらしい。
『小森くん顔色が冴えないわね。どうかしました?』
『いやっ―――、枕が変わると寝付けない性分なんだ。はははっ・・・』
『ねえ綾子さあ、そこに座って一緒に聴いてくれないかな』
『まあ、珍しいこと。こんなわたしでいいの?』
『折角だ。今の小森くんの悩みを聴いてくれないだろうか』
『まあ―――、わたしで解決出来るのかしらね』
そう言って綾子さんは上品に振舞って見せた。流石に音楽家の妻とだけあって、感性充分な明晰さを醸し出していた。
『女心ってどこに隠し持ってる?。綾子なら』
『―――えっ、いきなりそんなことから?。やだあ、なんだか用心が必要かしらね』
急に話を振られて、綾子さんが少し戸惑っていた。
『教えてください!。おれに足りないところなんだ!』
『足りないって、あなたに必要なの?、女心って』
『今すぐ必要なんだな・・・すぐにでも!』
『えっ―――?』
父といい服部さんといい。まるっきし無神経な生き物だった。
服部さんにしても、あれほどの楽曲を手掛ける才能を持つ人物のはずが、こと生活においては、愚直な亭主のようだった。
『話の成り行きが知りたいわ。だっていきなりすぎるものね。そうじゃないの、お二人さん?』
『綾子には言ってなかったようだね。―――それは心外だろうな』
『―――心外って言うには、的外れのようね。あなた?』
“クスッ”と微笑んだ綾子さんの表情には、才女のそれを見せていた。
『あのっ―――、女心って何ですか?』
父の逸る気持ちには、抑えが効かないみたいだった。
『ねえ小森くん。順序立てて話してくれないかしら―――?』
『ああっ―――。今度の服部さんの曲なんだけどさ。女の気持ちを男が歌うって、そんな無茶なこと言ってるんだ。何とかならないかなあ』
『へえ、女心を男性が歌うの?。案外、面白そうね。それ、どんな歌なの?』
妻の綾子さんが、興味森々に半身を乗り出した。
『夢浪漫って歌だよ。待つ人を亡くした、しかし強く、しかし可憐なる女心かな―――』
『―――ねえ、あなたが自分の曲を披露するなんて、珍しいことじゃない?』
『そう、今回ばかりは綾子の力が必要だと考えたんだよ。今の小森くんにはね』
『わたしの力ねえ―――。あなたの見当違いじゃないの?』
『いやいや、綾子にしか出来ないことなんだよ。協力してくれるかな?』
『いいわよ。こんなわたしで良ければ、ですけど』
綾子さんは苦笑しながらも、この役目を快諾してくれていた。一方、服部の思惑が飲み込めていない父はというと、ただただ、睡眠不足に気が滅入っている様子だった。
『じゃあ午後から始めるとしよう。それまでは綾子先生の下でよろしく頼んだよ―――。小森くん』
『えっ、服部さんはどうするつもりなの?』
『ああ、小幡さんの近況でも聴いてみようと思うんだ。この際、君のことも報告しておきたいからね』
『あっ、そう。―――それはご苦労さまです』
『じゃあ、そういうことで。綾子、よろしくね』
『言っときますけど。世間話くらいしか出来ませんよ。わたし』
『うん、それでいいんだよ!。充分さ』
自身満々に席を立った服部は、ほどなく支度を済ませると軽快な足取りで家を離れた。綾子さんに託された課題とは、一体、どのようなものなのだろうか?。
『本当に勝手なんだから・・・。いつもあんな風なの。あの人って』
『常人ではやっていけないんだよなあ―――きっと。おれの身近にもさ、似たような変わり者ばかりだよ!』
『じゃあ、小森くんも変わっているんだね。きっと―――』
『おれは例外だよ―――。あくまでも平凡に出来てるさ!。そう見えないかな?』
『そう言う人こそ、自分に気付いていないものよ』
『なんだ、ここでも変人扱いかよお』
『ほら、やっぱりそうなんだ!』
綾子さんの放漫な語り口には、どこか甘えられる雰囲気が漂っていた。
『さてと、わたしは何をすればいいのかしら?。ねえ、小森くん』
『綾子さん・・・。とりあえずさ、朝飯食べさせて欲しいんだけどさ―――』
『あらっ、やだあ・・・!。そんなの先に言ってよね!』
ここにおいても、父の図々しさだけは健在だった。
『うん、いける―――!。この玉子焼き店で食うよりも随分と美味いや!。しかも薄味ときてる。胃袋にはやさしいよねえ!!。それでなくても朝の胃袋って欲張りだからさ。これくらいが丁度いいんだよね!』
綾子さんの出された料理に、余りに父は冗舌だった。いやいや、きっと打算があってのことだろう。
『夕べ眠れていないんでしょ?、小森くん。そんなに食べて大丈夫なの?』
『ああ、睡眠不足は体力の敵なんだ。だから、めい一杯食べておかないとね。身体が悲鳴をあげてしまう』
『若いって良いわよねえ―――。うちの人って少し食べただけでもういらないって言うのよ。妻の立場としては消化不良なのよね・・・。栄養のつくものをって、懸命に献立も考えたりするでしょ?。それがあっさりとご馳走様ですもの。―――やる気も失せてしまうわ』
『そうなんだ。そりゃあ、服部さんが悪いよお。せっかく出してもらった料理を残すなんて、人として最低だよな』
『あの人の哲学だと思うわ。常に空腹でないと我慢できないみたいなの』
『なに、それ―――?。空腹だったらさ、余計にでも喰うでしょ!?』
『特別なのよあの人―――。満たされていることが創作意欲の邪魔になるらしいの』
『贅沢な極みだねえ―――。そんなこと言ってるの?』
『でもね、料理が並んでいないと不機嫌なの。少ししか食べないからって品数を減らすでしょ。そうすると怒るのよ』
『・・・絶対、地獄行きだよなあ・・・服部さん』
それからの綾子さんの内緒話は、時間制限など無いかのように父の耳へと次々に運び込まれた。
服部の普段の生活習慣や、夫としての彼の素顔。偉大なる作曲家ならではのこだわり等、それはまるで服部の全てを暴露するかのように語り進んだ。一方、睡眠不足のはずの父はというと。中々どうして、綾子さんの良き話し相手だったようだ。
『で、綾子さんさあ。子供は作んないの?』
『―――えっ?、子供・・・』
何気なく訊いた父の言葉にさっきまで流暢だった綾子さんの声が、何故か小さく聴こえていた。
『だってさ、服部さんの跡継ぎが居ないと困るでしょ?』
『ええ、そうね―――』
そして話の途中で、急に綾子さんが口ごもってしまった。
『ああ・・・おれ、都合の悪いこと訊いたかなあ。―――綾子さん?』
『あっ、いいの・・・。そんなこと・・・気にしないでいいのよ!。本当に』
『もしかして、いけないこと・・・訊いたのかな、おれ―――』
『―――そんなんじゃないわよおっ!。ねえ小森くん、気にしないで!。あなたが気にすることなんて―――』
そんな綾子さんの口元が強張っていた。どこか辛そうで、思い詰めた感が滲み出ていた。
『どうしたの、綾子さん―――?』
父にも感じる部分があったのだろう。それ以上は黙り込むしかなかった。急に二人の間に、言いようの無い溝が出来たようだった。
『ねえ小森くん―――。子供の居ない家庭って、つまんないでしょう』
ぽつり、綾子さんが口を開いた。
『―――ああっ、そうかなあ・・・』
そう曖昧に、父は答えるしかなかった。
『二歳で逝っちゃったの―――。あの子』
『―――えっ!』
綾子さんから突いて出た言葉は、余りに重い現実だった。
『女の子が居たの。菜緒っていうのよ、可愛い名前でしょ?』
『あ、ああ・・・』
『―――産まれた時から病気がちでね。病院暮らしの毎日だったわ。わたしを見つけると小さな手を差し出してね、笑うのよ。それがね、とても愛おしくてね』
綾子さんは、悲しさよりも懐かしさを優先していたのか、自然と穏やかな表情を戻し、話を続けた。
『あの人も相当辛かったんだと思うわ。ピアノの前から全然離れようとしないの。鍵盤に触れるその指を止めてしまうことが、怖かったのかもね・・・』
綾子さんは少し俯き加減に、辛かった頃の胸の内を語り続けた。
『わたし達夫婦はね、子宝に恵まれていなかったの。結婚してからしばらくは、中々子供ができなかったわ。もうあの人も半ば諦めていた矢先の、待望の妊娠だったのね。それは喜んでいたわ―――、だってもう駄目かと思ったもの、正直。でね、知り合いの助産婦さんに頼んでね、なにを思ったのかあの人、出産に立ち会うって言い出したの。―――だって男子禁制でしょう?。案の定、相当揉めたのよね。男の割り込む世界じゃないって』
解るようなそうでないような不思議な題材に、どんな相槌を打つものだろうかと、父は思案に暮れていた。そもそも、この手の話に会話を乗せるなんて芸当を、持つはずもない父だった。
『―――なるほど・・・ね』
やはり、この程度の相槌でしかなかった。けれど、お粗末な父の反応を他所に、綾子さんの解説は止まることはなかった。
『そんな中傷なんて何処吹く風だったの。あの人ね、反対する人たちを前にこうも言ったのよ。―――“我が子の誕生に立ち会えないのなら、僕は父親失格を名乗り出ます”―――って。それは泣きながらの直訴だったわ』
淡々と語る綾子さんの強がりが、父の胸を締め付けていた。唇を噛み締めながら、それでも綾子さんは平常を保とうとしていた。時折、掻き揚げる髪の毛の先が、幾分湿った頬に絡んでいた。
『な、なるほど・・・ね』
父のその場凌ぎの相槌は、すでに空回りを始めていた。いくら修羅場を経験してきた父といえど、綾子さんの繰り出す話には、免疫などとは程遠いものだった。
『最後には土下座ね。世間体もなにもあったもんじゃないわ。も――う、誰の制止も効かないのよお。終いには頭を床に擦り付けてね、ただただ、懇願するばかり』
『―――あの服部さんが、そうしたの?』
『そう、あの服部良二に間違いなかったわ』
この時ばかりは真っ直ぐに、父の眼を見ていた綾子さんがいた。
『どんな人なんだよ?。―――服部さんて』
『馬鹿正直でしょ?。何でも、とことんそうなのよねえ』
そして嬉しそうに笑顔を作って見せた綾子さんだった。
『真っ直ぐだもんなあ―――。おれの言うことに、ただ真っ直ぐなんだよな、服部さんって―――』
『小森くんにも同じようなこと言ってたわ、あの人』
『ええ、そうなの?』
『生意気も、ここまでくると本物だなって。嘘の多い人間ほど遠慮深くなるものだって、やけに嬉しそうだったわ』
『生意気ねえ―――』
『小森くん、どうかあの人の心を満たせてあげて、ください―――』
『―――えっ?、どういうこと、綾子さん』
突然、綾子さんの発した思いがけない声に、父は動揺を隠せなかったようだ。
『綾子さん―――。どうしたの?』
さっきまで平常だった綾子さんが、今、父の目の前で泣き崩れていた。
『ううっ・・・、うううっっ・・っっ―――!』
両手で顔を覆いながら、嗚咽に声を枯らしながら綾子さんが悲しみ悶えていた。それは父が何気なく切り出した子供の話題から、確かに、その前兆はあった。
『えっっ――!』
嫌な予感はしていた。さすがに父にも、夫婦の秘め事に立ち入ったことの責任の負い目を、痛感していた。
『綾子さん・・・』
どうしようもない現実の壁に夫婦は対峙するしかなかったのだろう。余りに険しい人生の岐路に、夫婦は佇むしかなかったのだろうと、僕の他人行儀がそう決め込んでいた。
泣き伏せる綾子さんの傍に寄った父は、安っぽい声色など捨ててじっと綾子さんを見守るしかなかった。
それは長い長い時間が、過ぎて行ったように思えたはずだ。
『・・・ごめんね小森くん・・・。大袈裟に泣いちゃった・・・えへっ・・!』
涙目の綾子さんが体裁を整えて顔を上げた。父を気遣ってか、綾子さんがこの場の空気を一掃するように笑った。
『綾子さん、おれ―――!』
『―――ねえ、歌ってくれない小森くん。その夢浪漫って歌』
『えっ―――ああ、いいけど』
『ねえ、―――お願い』
そしてすうっと椅子から立ち上がった父は、目を閉じ深く息を整えて、歌い始めた。
“グラスの底に――沈んで――いるのはあ―――、清らなかあ――色の――ワイン―――、そして止まない――わたしの――心配癖え―――。
飲み干そうと――口元に―運ぶけど――、すでに―思い――い、くちびる―――。
空にならな――いグラス―――、そっと片付けられて――え――。溜まったわたしの――お、沈痛と――いえば―――、愉快に傾く――う、嘲笑に――消えた――あ―――。
記憶の――お――隅でえ―――、揺らぐもの――お、切ったはずの――命の緒があ――あ、心から――離せ――な―い、刹那――あ――ちぎれない――い、あな―たから――あ、外れた――はずのお―――、それは――あ――、未練ん――なのでしょうか――あ、それは――あ―――、幻想――なのでしょうかあ――――。“
“パチパチパチパチパチッッ――――――――――”
綾子さんから、絶賛の拍手が起こった。
『素敵な歌ねえ・・・。とっても』
『ありがとう・・・綾子さん』
昨日まで喉につかえていたものが、すっかり取り除かれたようなとても晴れやかな歌声だった。
『ああっ、そろそろあの人が帰ってくるかしら。やだあ、もうこんな時間ね。付き合ってくれてありがとう。小森くん』
『ああ・・・』
髪を掻きあげて、そして何もなかったように綾子さんが、食卓の片付けを始めた。
『おれ、服部さんに応えられる歌を歌うよ!。綾子さん』
『そうね、期待してるわよ。小森くんにしか歌えない歌をね』
そう言って綾子さんは、忙しい家事の本領に入り込んだ。
服部さんの意図が、ここにきて初めて理解できたような気がした。妻である綾子さんでしか女心のそれを語れないと、確信していたんだと思う。
そんな綾子さんの涙は、父にしても充分なほどの疑似体験であったはずだ。




