鎌倉への道
『おい!、起きろよ。高志!、おいっ!』
この日の朝、僕はけたたましく起こされた。兄が右足のつま先で、僕の頭を小突いていた。
『ううん、なんで・・・?』
『なんでじゃ無いよ馬鹿野郎っ!。早くしろよっ!』
『もう行くのお・・・?』
『そうか、高志にはやっぱり無理だったんだな。いいや、おまえここにに残ってろ。その方がおれも楽だしな』
『ええっ?』
『おばちゃん、高志のことしばらく預かってよ。帰りに迎えに寄るから』
『何言ってんのよお、これ以上の面倒はごめんだよお!』
『そうだよな・・・。高志、おまえもう帰れ。帰って母さんのこと見張っておけ』
『ええ・・、そんなあ・・』
『でもな、おれのことは売るんじゃないぞ。判ってるな』
『売るって、どう言う意味なの?』
『ここに寄ったことも、おじちゃんから資金借りたってことも、絶対言うなってことだよ!』
『そんなこと言うわけないじゃないか。ひどいなあ』
『いいや、おまえならやりかねない。母さんに泣きつかれたが最後、口走ってるさ。―――だろ?』
兄のその言葉に、僕はいささか不満を感じた。
『行くよ僕、鎌倉まで行く。何が何でも行ってやるさ』
『おお?、どうした高志。いつものおまえらしくないじゃないか。それともあれか、おれの言ったことに、腹でも立てたのか?』
『そんなことじゃないよ、ただ・・・』
『ん?、ただ、どうしたって?』
『そんなことどうでもいいよ、行こうよ。早く』
そんな兄の挑発に、まんまと僕は乗せられていた。兄にしたって宛ての無い一人旅なんて望んでいた訳ではなかったはずだ。
早々に川越の伯父の家を出て、僕たちはしばらくは歩くしかなかった。
『お兄ちゃん、鎌倉まで歩いて行くの?。電車に乗らないの?』
『ああ、もうすぐだ。いいから黙って着いて来いよ』
そう言って兄は歩き続けた。何か目的があるかのように黙々と歩いていた。
国道沿いを歩く僕らの横を、数台の大きなダンプカーが真っ黒い煙を上げて、猛スピードですり抜けて行った。
『おお、見えたぞ。あれだ、あれ!』
兄の目指したもの、それは国道沿いの食堂兼、休憩場だった。そう言えば、伯父の家を飛び出た僕らは朝食を摂っていなかった。
『あそこで腹ごしらえだ、美味いもん喰おうぜ!。なあ、高志』
『うん・・・』
伯父からもらった三千円で兄はご機嫌だった。しかし、無駄遣いを心配した僕は、素直に朝食を食べる気にはなれなかった。
『それからな高志―――』
兄が僕の傍に顔を寄せ、何やら企みを耳打ちした。
『判ったか、出来るよな高志?』
『ええ――っ、僕がやんのお?』
『おまえしかいないだろう?。簡単、カンタン。頼むぜ!』
そう言って店に入った兄は、堂々とテーブルに腰を掛けた。
『おばちゃん、朝定食ね!。それとご飯は大盛りでお願いっ!』
食堂の中はダンプの運転手で賑わっていた。皆、朝食にありつきたい時間でもあった。
『はいお待たせねえ。お兄ちゃんたちどうしたのこんな時間にさ?』
『ああ、散歩さ。早起きっていいねえおばちゃん。ところでさ聞くんだけど、この中で西に下る車って知ってる?』
『西って、何処までなのかい?』
『うーん、出来れば鎌倉辺りかなあ・・・。贅沢は言わないけどさ』
『だったらあの人かなあ、ほら、すぐ前のお腹の出てる人』
僕らの四つ先のテーブルに、かっぷくの良い中年男性がどんぶり飯をあさっていた。
『ああ、あのおじさん』
『そんなこと聞いてどうするの?』
『いや、別にどうってことないんだけど。あのさ、あの人にお願いしてもらえないかなあ、おばちゃん。実はねえ―――』
兄の企みとは、僕たちを運んでくれる車の算段だった。つまり、ヒッチ・ハイクってことだ。
『あらそう、だったら頼んであげるよ。ちょいと待ってておくれよね』
すぐさまその女性が中年男性の横に並ぶと、僕らを指差しながら説明をしてくれていた。
しかしその男性の怪訝そうな顔つきは、どうやら交渉に難色を示しているように見えた。
『お兄ちゃんたちさ、こっちにおいでよ』
それでも交渉の余地があったの、僕たちを誘う手が挙がった。
『ほい来た、待ってましたっ!』
兄がすかさず、そのテーブルを移動した。
『厄介になります。―――んで、いつ出発すんの?』
『ねえ勝っちゃん、乗せて行ってあげればいいじゃない。そんなに急ぐ仕事でもないんでしょ?』
『何言ってんだよ、俺も暇じゃないんだって!。途中、寄る所もあるしな』
どうやらその中年男性の快諾には至ってはいなかったようだ。
『駄目なのか、おっちゃん?』
『ううん・・・、勘弁しろよなあ』
『・・・。いいよ、俺たち歩いて行くかさ』
『ああ、すまねえな』
『大丈夫だよおっちゃん。無理言った俺たちが悪いんだ。仕方ないさ』
『勝っちゃんたら無愛想だよお。残念だったねえお兄ちゃんさ、ごめんよお――』
『いいんだよおばちゃん、ありがとう』
どうやら鎌倉行きの算段は暗礁に乗り上げたようだった。
『おい高志、そろそろ出るぞ』
『―――、お兄ちゃん・・・痛い・・・。心臓が・・・』
『―――どうしたっ!、また痛み出したのか?。高志、大丈夫か―――っ!』
『どうしたんだい?、またって、持病なのこの子?』
『生まれつき心臓が弱いんだ・・・。最近よくなっていたんだけどさ、俺が連れ回したから。大丈夫か、高志っ!』
『はあ――っ、はあ・・・っ。うん・・・大丈夫・・・。治まったみたい・・・ごめんね、お兄ちゃん・・・』
『おまえが悪いんじゃないよ、俺がバカだったんだ。ごめんな高志・・・』
重い口調で僕を抱きしめる兄は、相当責任を感じているように俯いていた。
『ほらあ、勝っちゃん。何とかしてあげてよお―――』
『そんなあ・・・。はあ、仕方ねえなあ。でも、鎌倉までは行けねえぜ、せいぜい川崎までだ』
『ホント!、ありがとうおっちゃん。もう一杯飯食っていいよ。おれおごるからさ!』
『へっ、調子いいな、お前―――』
僕に持病の心臓病なんてあるはずがなかった。そう、店に入る前に兄が僕に耳打ちしたのは、鎌倉行きのお涙頂戴の芝居の段取りだった。
『まあまあそう言わずに、おっちゃんのさ、好きなもの頼んでもいいんだぜ』
『いいのか?、俺の腹は底なしだぜ』
『遠慮しなくていいよ、世話なるんだからさ。ところでさ・・・鎌倉まではどうしても無理かな?、おっちゃんさあ』
『無理だよお!、俺だって急いでんだぞ。お前らに構ってる暇なんて無いってえ!』
『そこを何とか・・、ねっ、ねっ』
『お前なあ・・・』
『おばちゃん、ここに卵焼き追加!。それと、うどんも持って来て!。肉たっぷりだよ』
『おいおい、困るぜ・・・。ちぇっ、仕方ねえな。けど横浜までだぞ、それ以上は勘弁しろよ。あ――あ、変な小僧につかまっちまったもんだよ、まったく―――』
『横浜かあ。―――まあいいか』
『贅沢言ってんじゃないぞ!。これ食い終わったら出るぜ、いいな』
『おばちゃん!、さっきの注文取消し。もういいって!』
『お前なあ』
とんとん拍子に話はまとまった。こう言った交渉ごとは兄の得意分野だった。常に自分のペースで相手を掴んで離さない。図々しい性格が、いや、―――才覚とでも言うのだろうか、僕には到底真似できない特技を兄は身に着けていた。
早速、車に乗り込んだ僕らはすぐに眠り込んでしまった。夕べから歩き続けた疲れにダンプの荒っぽい揺れがとても心地よかった。
“キキ―――――ッ!”。
『うわっ―――!』
ダンプの急ブレーキで、僕は突然に目を覚まされた。
『な、なんなの―――っ!』
『ちっ、荒っぽい運転しやがるぜ。―――悪いな起こしちまったな』
『今、何処・・・?』
『ああ、武蔵野を過ぎたところだ。あと一時間半は掛かりそうだな』
『そう・・・』
『さっきの芝居、中々よかったぜ。へへっ―――、どうせ兄貴の指図だろうけどな。でもよ、何で鎌倉になんかに行くんだ?、観光でもないだろうに。それとも―――なんか訳ありか?』
―――やはりばれていた。どうせ僕たちの芝居なんかに騙される間抜けな大人も、そうは居ないだろうけど。
『う、うん、―――実は』
すぐに正直に話そうと思ってはいたけれど、つい、口籠ってしまった。
『いいぜ、都合の悪い話なら俺が訊いたってどうしようもねえもんな。いいんだ、気にするなって』
『・・・。お父さんに会いに行くんだ・・・鎌倉に居るって聞いたから』
『聞いたから?、って、家には居ないのか?。―――そうか、出張にでも行ってるのか』
『随分と前に家を出たんだ・・・。母さんと僕らを残してさ』
『ああっ!、家を出たって―――?』
『うん、そうなんだ。家庭崩壊ってやつかな』
『崩壊・・・て、そんなに簡単でいいのかよ?。おい・・・』
『簡単じゃないよ・・・もう、大変な目にあってきたんだから』
『そりゃそうだよな、察しはつくぜ、俺にも家庭はあるからなあ』
他人に家庭の事情を説明する時って、案外、冷静なのかも知れない。それは、自分たちの苦労の一部始終を言葉に並べるなんて、滑稽だとも思ったからだ。
『それで兄弟で会いに行くんだな。なるほど』
『兄貴がさ、どうしても会いたいってきかないんだ。今までの慰謝料を請求するんだって、意気込んでさ』
簡単ついでに、つい、口が緩んでしまった。本来、自分の意思以外の情報は漏らしてはいけない筈だったのに。環境が変わると、人は余計に自分を誇示してしまうようだ。
『お前の兄貴だったら、それも頷けるような気がするぜ。まったく、調子のいい奴さ』
『頼り甲斐はあるんだけど・・・。見てて冷や冷やするんだ、同じ兄弟とは思えないでしょ?』
『けど、兄貴より賢そうだな、お前の方が』
『そう?、やっぱり!』
そんなおじさんの褒め言葉に、僕は上機嫌で応えた。
『んんんっ―――!。馬鹿な兄で悪うございましたねえ・・・。あ――あ、寝られやしないよお――、ったく!。高志、そんなにお喋りだったか?。おまえさ』
僕のご機嫌な反応に相反して、後部座席から不機嫌が目を覚ましていた。
『・・・・・・』
『なんだよ―――!。寝てたんじゃねえのか?』
『自分の悪口を聞かされてさ、寝ていられるほど図々しくはないさ』
『悪口なんて言ってねえぞ!、そりゃ、茶目っ気な話題はいくつかあったけどよ』
おじさんが、言葉を濁しながら僕のことをかばってくれていた。
『けど、格好いいじゃねえか。お前さ!』
『何が?』
『んっ―――?、親父ん処にあだ討ちに行くんじゃないのか?』
『―――。そんなこと喋ったのか!、高志!』
『あっ!、いやっ・・・』
全てお見通しのような兄だったが、実は僕の話の殆どを聞き過ごしていたのだった。
『この、お喋り野郎が―――っ!!』
『ごめんっ、お兄ちゃん―――!』
後ろからいきなり僕の襟元を掴んだ兄は、そのまま羽交い絞めに入った。
『んぐ―――っっ!』
『やめろって!、危ないだろっ!』
急いで路肩に車を止めたおじさんが、僕の命を救ってくれた。そうでなければ確実に死に至っていただろう。それ位い兄の機嫌を損ねていたのだ。
『どこまで喋ったんだよ・・・、おまえ』
『・・・、ほぼ全部・・・』
『いい加減にしろ―――っ!』
『いいからやめとけってっ!。鎌倉まで乗っけてってやるからよ、これ以上、もう手を出すなよ・・・。なっ?』
再び僕に襲い掛かった兄を、おじさんが力ずくで止めてくれた。
『仕方ないな・・・。それで手を打つか』
それっきり大人しくなった兄は、後部座席で再び眠りに就いた。激しいいびきが眠り込んだ兄を証明していた。
『兄貴って、いつもこうなのか?』
今度は気を遣ってか、小さな声でおじさんが僕に話しかけた。
『今日は、まだマシな方だよ』
『そうか、大変だなお前もよお』
それっきり二人の会話は途絶えたままだった。僕はずっと外の風景に目をやったまま、目的地までじっとしているしかなかった。