秋山と小幡の関係
それからというもの、父は小幡家に度々足を向けていた。次郎のためなんかでは無かった、それは父自身の利益のためだった。
『小森さん、紅茶、おかわりはいいの?』
『はい、お願いします!』
『良ければお饅頭、全部食べちゃっていいのよ』
『はい、喜んでいただきます!』
秋山家で抑圧された食欲が、ここ小幡邸では全快のようだった。ちゃっかりと父の安らぎの場となっていたのだ。
何より心地よかったのは、父の歌に小幡の奥方が絶賛してくれることだった。
“酒ぇは―――涙―――か 溜息いかあ――― こころのーうーさぁのぉ――捨てどころぉ――― とおいぃ――えにぃし―― かーの人ぉにい――夜毎のぉ―夢のぉ――切なさよぉ――――― ”
『素敵ねえ・・・。ほんと、よく伸びる声だこと』
『でしょ?、おれの自慢なんだ。特に高音の部分なんてさ、自分でもしびれるほどさ』
父は、さも嬉げに高々と声を張った。
『―――酒は涙か溜息か―――。古賀久男も立派な曲を書くようになったもんだ。しかし、藤山二郎にしても、やはり基本が出来ている』
『お、小幡さん―――っ!。なんだよっ、居るなら先に言ってくれよおっ!』
『どうした、お邪魔かな?』
『とんでもないっ!。家主を追い出すほど、おれは非常識じゃないからね』
『相変わらずの口達者だな君は、はははっ―――』
『ところで小幡さん―――、古賀久男のこと知ってんの?』
『ああ、随分昔に世話をしてやったことがある。もう、8年も前だったろうか。奴がまだ学生だった頃だ。ギター演奏者でいい奴がいるってなあ―――演奏会に足を運んだもんさ。実際、驚いた。何て曲を演るんだってねえ・・・。斬新で且つ繊細って表現すればいいんだろうか、まったく心に沁みる歌だったな』
『小幡さん、あんた一体、何者なんだよ―――?!』
目の前のやせ細った爺さんは、やはりただ者ではなかったようだ。
『秋山の爺さんもそうだけどさ。小幡さんのさっきからの大口と言い、一体、あんたの経歴ってどんだけのもんなのさ―――!!』
それどころかとんでもない経歴を感じ取った父は、勢い余るほどの質問を投げた。
『おいおい、高々、ひとつの会社の経営に携わっただけだ―――。まあ、それでも何とか社会の役には立ってたんだろうな。はははっ―――』
豪快な笑い声を残しながら、小幡の爺さんはまるで役目を果たしたかのように、そそくさと部屋の奥に引っ込んでしまった。
『会社って―――ねえ、奥さんどういうこと?』
『うふふっ、コラムビアって会社よ。あなたもよく知ってるはずでしょう?』
『―――コランビアってっ!、も、もちろん知ってるよっ―――!。あのトウチクと肩を並べるほどの会社だよっ!。―――そりゃまた、すんげえや!』
日本コランビア―――。常に我が国を牽引し続けている最大手のレコード会社だ。父が驚きを隠せないのも、至極、当然のことだった。
それほどの大偉業を成し遂げた人物、小幡勇太郎に、あろうことか父は互角ともいえる立場で張り合っていたのだから。
『それならそうで、早く言って欲しかったよな、奥さんさあ―――』
『そんなに大そうなことでもないわよ。あなただって同じ人間じゃないの』
『そりゃそうだけどさあ―――』
あまりに屈託のない奥方の話しぶりには、いささか父も舌を巻いていたようだった。
それからは奥方からの一方的な話で、しばらくは盛り上がっていた。
『―――レコードのね、録音技術者だったのよあの人。しかも、相当、腕利きだったらしいわ』
『へえっ、そうだったんだ。それで秋山の爺さんを知ってんだな』
『秋山さんはね、当時、酒場で人気の歌い手だったのよ。民謡からジャズまで何でもこなしてたわ。とても男前でね、若い娘たちから散々言い寄られたりしてね』
『ええっ!、あの爺さんが?』
『―――若かったもの。それは情熱的だったわあ』
『そうかあ、爺さんにとってはいい時代だったんだなあ』
『うふふっ―――うちのひともね、最初から音楽になんて携わっていなかったのよ。それ以前のお仕事はね、電信事業の技師だったの。ああ―――つまり、電話関係のお仕事だった訳よねえ。それがね、たまたま古い友人からの紹介でって、奇妙な会社に呼ばれちゃったのよ―――』
我が亭主の転職先を、“奇妙―――”と語る小幡の奥方の思惑には、いささか正直過ぎていいものだろうかと―――の、印象さえ否めなかった。
そもそもレコード製作事業の駆け出し時なんてものは、暗中模索の最たるものだったに違いなかった。否―――、それは他業種の新興企業の先進にあっても、同じくして苦行を申し入れたことは明白だった。
西洋の文化に大いに憧れながらも、その実、閉鎖的な環境を打破出来ずにいた時節だったからに他ならなかった。
『あの当時にはね、録音技師なんて肩書きは無かったと思うわ。だって、無機質な円盤に溝を掘り進める作業なんて誰が想像出来てたかしら―――?。それでなくともレコード盤なんて、それこそ洋楽ものを輸入に頼るしかなかったものね』
遠い昔話に寄り添うように、奥方は更に目を細めているばかりだった。
『どんな仕事かなんてことも解りもしないくせにねえ―――うちの人ったら。とにかく“お前の技術力が要るから”ってさ、おだてられて持ち上げられて、やっと就いた仕事だったのよ。そんなことが縁で音楽業界に入ることになったんだけど―――。今になって思うとほんと不思議なことよねえ』
まるで他人のことを披露するかのように、小幡の奥方は、さもあっけらかんと事を済ませていた。
―――蓄音器の発明とともに、日本でもレコード鑑賞という商売が始まった。実に明治30年のことだった。その10年後の明治40年には、国内での蓄音器製造が開始されたのだ。それに併せてレコードの生産も大量に行われるようになった。
一部階級でしかなかった音楽鑑賞が、その楽団の奏でる楽しい音の源が、まさに庶民の耳心に入り込みつつあった時代だった。それは充分に画期的な大衆興行の始まりだったと言えよう。
『へえ―――、それで二人が出会ったってことなんだな。なるほど、納得っ!』
『でもね、何故かあの二人まったく反りが合わないのよ。まるで水と油のようだったわね。だから、一緒に仕事なんてしたことがないのよ』
へえ―――そうだったんだ。あたかも旧知の仲だと認識していたかと思えば、真実はそうではなかったらしい。
『それでコラムビアとトウチクって訳なのよ』
『なんだ、まるで子供じみた喧嘩みたいじゃないか。それじゃ犬も喰わないって!』
奥方の勢いに釣られて、父が調子よく突っ込みを入れていた。
『んんんっ―――!!、犬が喰わないのは、夫婦喧嘩じゃなかったのかな?。小森くん―――』
『げっ!、また居た―――!!』
気付かぬ間に小幡の爺さんが、父の背後でしたたかに笑い声を発していた。
『私の素性は、どうやら家内の口から漏れたようだな―――』
『―――ああっ、ほんの一部分ですけど・・・』
『どうした、何をかしこまっている?。さっきまでの君は―――何処に行ったのかな、んん?』
『―――っ!』
『あっははっ―――、見かけによらず正直なんだな君という男は。つい悪戯が過ぎてしまったようだ―――』
父の面食らった顔に同情してか、小幡さんがおどけて見せていた。
『我が家のことは、秋山にはもう喋ったのか?』
『いやっ、まだだけど、どうして?』
『奴のことだ、途端に君を見張ることさえしかねないだろうな』
『見張るって―――どうしてさ?』
『私が君を手懐けてだな、そしてコラムビアに引っ張る。それくらいの筋書きは、奴も考えるだろうからね』
『―――おれが、コラムビアにっ―――て?』
『いいか小森くん。秋山は口にこそ出しはしないだろうが、君の歌に惚れ込んでいるのには違いない。そう言う私も君を欲しいと思っているくらいだ。―――正直なところね』
『えっ、そうなの!?。いや――っ、そうと判っててもさあ、なんだか改めて言われると照れくさいもんだよな――っ』
『但し―――今の君では無理だな。これからの小森ゆうじがどう化けるかだ。それは奴にも想像に及ばんだろう。無論、この私とてな―――』
小幡の爺さんにしても、父に興味津々なのだ。
『―――?。んじゃあ、どうすればいいんだよ?』
『それは、私には言えないなあ。いやっ、言うべきでは無いと思うんだが』
『は――あっ?。なんだ、もったいぶってないでさあ、言えばいいでしょう?』
『言ったところで、今の君には効かんだろうなあ。それほど厄介な問題さ』
『厄介・・・て?。それ、どういうことだよ―――!!』
『おいおい、突っ掛かるなって。すぐには判るはずもなかろう。今は、そういう時期だってことだ』
遠まわしに語る小幡の爺さんには、確固たる思惑があったのだろう。けれど父の正式な親元は、秋山会長の率いるトウチク・レコードなのだ。その枠を外してまで、“小森ゆうじ”に傾倒するのは、余りに危険だった。
仮に、小幡という力加減だけで動いたとするならば。近い先の父の将来に、何らかの障害を引き起こすことにも成りかねない。それを考慮しての助言だったのだろう。
『難しいこと言うよなあ・・・。会長以上だぜ』
『まあ、そう言うことだな。もうしばらくは奴の愚痴に付き合ってはもらえないだろうか、小森くん』
『ふっ、そうだよなあ・・・。てめえの身を任せたんだ。どうしたって従うしかないってことさ。それくらいは承知してるつもりだよ』
『そうか、―――そうだな。それが賢明ってものだ』
『―――小幡さん。おれの歌を聴いてもらえないかな。今、ここでさ』
双方の割り切った会話の締め括りに、父が注文をつけた。
『君の歌は随分と聴かせてもらっているつもりだが。どうした―――今更?』
『正面で聴いてもらったことはないよ』
『正面か―――?。そういえば、そうだな』
『正面で歌いたいんだ。小幡さんの真正面でさ。いいよな?』
『ああ・・・是非とも、聴いてみたいものだな』
『―――恐縮です』
父らしくない神妙な面持ちだった。その裏には、或る思いが秘められていたのだろう。と、僕にはそう感じた。それは未だ父自身にも目覚めてはいない、歌手人生に向けた覚悟だったのかも知れない。
そうして庭の中央に移動すると、父はそこで深々と頭を下げた。
『トウチク・レコードの小森ゆうじです。私の歌を忘れないでください―――!』
“忘れないでください”と、不思議に前置きをしてから、父は持ち歌を披露した。
もちろんその曲は、“君が待つ丘”に、他ならなかった。
“いつかし―ら――、待つことに――、なれてしまったあ―――。夕暮れの――寂しさがあ――、紅く染まるう―――っ。そこにわあ――、居ないはずの―君い―――、たそがれが甘くう――空をそめ-―るう――っ―――”。
おもむろに拡げた両手を胸元にぎゅっと引き寄せたかと思うと、次に不意に差し出した右手は頭上へと運ばれた。
怪しげなその動きは、後年、“振り付け”という妙技として様々な歌い手により歌謡界に定着していった。しかし、この当時にあってはまだ、直立での歌唱が当たり前とされていた。
“君が――、来るのはぁ――たそがれ――時いのお―――、風にゆ――れえ――てえ――、おれの――心―にい――、舞いお――りぃる―――”。
夕焼けを背に受け、父の透き通る歌声と妖艶に揺らいだ手の先が、庭の木々を揺らしていた。
『はぁっ―――』
やや、溜息にも似た吐息を過ごすと、まるで自分の子供の成長を按じているかのように、小幡の奥方は優しく目を細めていた。
反面、小幡の爺さんといえば、伏目がちに腰に手を当てたまま微動だにしていなかった。
歌を終え、さきほどより更に深く礼を済ませた父は、顔を上げるとすぐに小幡の爺さんを直視していた。父のその目線は、決して媚びることを望んではいなかった。
『ほう―――、中々のもんだ。で、満足は出来たのかな?』
先ほどの様子から一転、穏やかな顔の小幡の爺さんが、短く父に訊いた。
『ああ、気持ちよく歌えたよ』
屈託のない笑顔で父が返した
『そうか、―――それが一番だな』
小幡の爺さんは小さく頷いた。
『ご静聴、ありがとうございました』
礼儀正しく、父が感謝の言葉を述べた。
『礼には及ばんよ。こちらこそ、いい歌を聴かせてもらった』
『私の元気なうちに、また寄ってくださいな小森さん。―――待っていますから』
まるで父との別れを示唆するかのように、不思議な奥方からの言葉だった。やや寂しげに、そして名残惜しそうに奥方は父の姿を目に焼き付けているようだった。
『近いうちにまた来てくれるだろうな?』
『もちろん来るに決まってるさ。また二郎を連れてくるから。今度は洋菓子をお願いね。奥さん!』
そう言って父は何度も頭を下げては、二郎の綱を引きながら小幡家の門を出て行った。




