小幡夫妻との出会い。
―――秋山会長の読みは正しかった。事実、数年後にはアメリカを相手取っての大戦が勃発したのだ。それは昭和16年12月の、真珠湾攻撃に端を発した―――。
『なんだ―――、結局、この国の歌謡は進歩がないってことだよな・・・』
『鎖国先進国の悩みどころというのかね、相変わらず外交などとは縁遠い』
『ちっ、嫌な時代に生まれたもんだよなあ』
『環境を悔やんでも仕方ないぞ小森くん。別に歌うことを規制されている訳じゃないんだ、そこは幸いと思わんとな』
『大人だねえ、会長は』
『それはそうとして、仮に君の発想が活かされたとしよう。しかし、そう簡単にこの国の音楽が捨てられるものだろうか?』
『捨てる必要なんかないさ。同時に聴けばいいんだよ、境界なんてないだろ?。まあ、あるとすれば、アメリカに敵対してる野暮な大人達だろうな』
『その野暮な大人達っていうものに、もしかして私も入れてるのか、君は』
『そう言うことになるかな』
『そうか・・・。そうなるのか』
『だって、現に流れてるじゃん。ブルースの名曲がさ』
戦前の作曲家の努力により、海外の魅力ある楽曲が和製歌謡に浸透されたいた。
『ほう―――、それはそうだな』
『アメリカの歌を取り入れればいいんだ。今までよりずっとさ』
父の言った通り、戦後の日本の歌謡史には相次ぎアメリカの楽曲が輸入された。それらを取り込むと同時に、日本歌謡の趣きのある部分は据え置きつつ、新しい流れを創り出していったのだ。
俗にいう、“カタカナ歌謡”の誕生であった。
『そうだとしても、その流れに、和の要素は消されてはしまわないだろうか?』
『う――ん。それはおれにも解んないや。けど、薄らいで行くことには間違いないだろうけどさ』
『そうか、君もそう感じているのか・・・』
“君も―――”?。既に、この国の歌の混血化を懸念していたのは、会長も同様だったみたいだ。純血を継承する歌謡の限界が、やがて訪れる時代はそう遠くはなかった。しかし、今は時期早々の感を否めないでいた。
『大丈夫!。会長、何がどうあれこの国から歌が消えるなんてないよ。形は変わってもさ、楽しめる歌を待ってるんだぜ、みんな』
『実に頼もしい言葉だ。どうやら、君たちの時代に任せる時が来たようだな』
『そうそう、老後をゆっくりと過ごした方が賢明ってもんさ。ねえ、爺さん!』
『な、なに―――っ、爺さんだと?。しかも老後だあ―――?。つつっ・・・、貴様!、これ以上の無礼は許さんぞお―――!』
『えっ―――?、だって会長言ったじゃないか。―――いつも通りのおれで良いってさ!』
『―――全てを真に受ける馬鹿が何処におる!。やはり、社会性から鍛えねばならんようだな、お前という男は!』
『なんだ・・・結局、こういうことになるんだろ?。―――ったく、気を遣って損したよなあ―――っ』
『な、何だとうっ―――!。貴様、まだ言うかあっ!』
『落ち着いてって、血圧上がるから・・・。まあ、面倒掛けますけど、今後ともよろしくお願いいたします!』
『ぬぬ―――っ』
父は深々と頭を下げ、会長の面目を保った。凡そ父らしからぬ、それは大人びた対応だった。
『―――で、あなた。いつから来るの?、その子』
『そうだな、来週早々からではどうだろう?』
『えっ、そんなに急になの?。どうしました、あなたらしくないわねえ?。いつもならこちらが催促しないと動かないはずでしょ』
『そうか?、俺はいたって正常な判断のつもりだけどな。お前さんにも迷惑が掛かる話だろうが、せいぜい可愛がってやってくれよ』
『でも、久しぶりじゃないかしら。この家に若い子が住み着くなんて。それでどうなの?、今度は長続きしそうかしらね?』
『俺にも判らんよ。ただな、今までの奴らとは毛並みが違う。正直、まだ素性も把握出来てないんだ。まったく不思議な男さ』
『やけに愉しそうね。そうか、だから急いでるのね、あなた』
『止してくれよ。俺は他人に依存しない主義だ。あくまでもビジネスさ、余計なかんぐりはしないでもらいたいな』
『そうね、それは大変失礼いたしました』
会長婦人は確信していた。今度住み着く子には、特別な予感がすると。
『ねえ、その子食べ物に好き嫌いはあるのかしら?』
『ああ、犬は苦手なようだな』
『ええっ?、犬っ―――!』
『いやっ、こっちの話だ・・・。忘れてくれ、はははっ―――』
『・・・??、何のことかしら、訳が判らないわよねえ―――』
秋山俊造という男。トウチク・レコードの会長職兼、その傍らでの歌唱指導は、妥協を許さないことでも有名であった。
『なあ、澄江。今回の件で頼みがあるんだが、いいかな?』
『まあ、あなたからなんて、一体どんな頼みごとなんでしょうねえ?』
『挨拶だよ―――。人並みの挨拶をだな、うちできっちりと教え込もうと思うんだが』
『挨拶・・・?。そんなに特別なことかしら?』
『ああ、奴にとっては少々厄介なんでな』
『厄介って、そんなに素行の悪い子なんですか?』
『ああ、特別だ・・・。もしかすると、奴は犬以下かも知れないぞ』
『まあ、そんな子預かって大丈夫なの?、あなた』
『勘違いしてもらっては困るなあ。危害を被るなんてそんな意味じゃないんだ。根はいい奴さ。けれど社会常識は欠如している。特に、口の利き方は最悪だぞ』
『―――挨拶って、私どうすればいいのかしら?』
『こちら側から先にしないでもらいたいんだ。挨拶をね』
『えっ―――、それだけなの?』
『おはようも、こんにちわも、おやすみなさいも先に言わなくていい。奴が言ってから返せばいいさ』
『でも、それじゃ私の人格が疑わしくなりますよ。本当にそれでいいんですか?』
『挨拶がなければ、飯だって与える必要はない。水の一滴だって飲ますんじゃないぞ。家にだって入れることはない』
『まあ、そこまでやるの?。でも、今更挨拶って言われてもねえ。歌を教えるために預かるんじゃないんですか?、その子』
『ああ、歌はほぼ完成している。変に調教しようものなら、奴の良さが失せてしまう。だから、挨拶なんだよ』
『難しい理屈だこと―――。いいですよ、あなたに任せるわ。私は余計な詮索はしたくないですから』
『それが賢明だ。その方がいい』
『ところで、なんて名前でしたっけねえ、その子』
『小森靖志。靖国の靖に志って書くんだよ』
『まあ、立派な名前だこと』
『そんなところだ、はははっ!』
会長婦人の澄江さんが、父の名前を褒めてくれいた。それだけでも僕は嬉しく思えた。
会長の家に住み込みを始めてから、父は率先して挨拶をするようになった。この屋敷の中では何をするにも挨拶が基本だった。飯を食うにも洗濯物を出すのにも、挙句、手洗いに行くのにも挨拶が通例となった。それはまさに、犬の調教そのものだった。
『靖志どうした。お前、最近礼儀正しいって評判だぜ。ううん?』
『神部さん―――、人間はね挨拶が出来て始めて一人前って言われるんだよ。判ってる?』
『お前に言われたくねえよ!。何を悟ったようなこと言ってんだよお』
『だってえ―――!。あの家ん中じゃさ、何をさておいても挨拶なんだよ。水一杯飲むのだって、“失礼します”―――って要るんだぜえ。どうかしてるよっ!』
『へえ、そんなに厳しいのか?。で、どうなんだ歌の方は、会長直々なんだろ?』
『・・・。何にもないんだよね―――まいっちゃうさ』
『どうして?、そのためにお前、住み込んでんだろ?』
『こっちが訊きたいくらいだよ。毎日、挨拶と部屋の掃除。そして犬の次郎の散歩だもんなあ、まるで使用人扱いだ』
『なるほど、そうきたか』
『なんで―――、神部さん心当たりあるの?』
『いやっ・・・まあ、頑張れよな!。いずれお前にも判るときが来るさ。じゃあな!』
『判んなくてもいいよお・・・おれ』
会長の施した術は、父への人格形成の一環だった。つまり修業っていうことだと思う。
歌が上手いだけでは、永続しての歌手生命は見込めないってことだろう。一人の人間として社会に貢献出来てこそ、歌はその磨きをかけるのだろうか。
人間の本質を置き去りにして、人生は語れないってことだ。歌もしかり、うわべだけの平らな歌声では聴く者の心に響くはずはない。
秋山会長の求める歌。それは人生を賭した心から溢れ出る人生の息吹を語る。それが真の歌の心なんだと、そう思えて仕方なかった。
『次郎っ!、ちょっと待てよお―――。どうしたお前、今日はやけに注意散漫だなあ、いつもの通り道はいいのか?』
『ウォッフッ―――!、ハッハッハッッハッ―――』
『なんだ?、この先になんかあるのか?』
『ハッハッハッッハッ―――ウォッフ―――!!』
『おい!、そんなに急ぐなってよお!。どうしたんだよお!!』
父の日課である犬の次郎との散歩の最中だった。いつもの道を外れて、次郎が先を急いでいる様子だった。大型犬の次郎を操作するのは、父と言えども大変な労力だった。
『どこまで行くんだあ?。早く帰んなきゃよ、澄江さん心配するだろがあ―――!』
『ウォッフッ!、ウォッフッ!!。ハッハッハッッハッ―――』
『んん、どうした?。―――この屋敷に用でもあんのかよお?』
木造の立派な門構えの屋敷の前で、次郎が落ち着き無く父の周りを旋回していた。
『ウォッフッ!、ウォッフッ!!、ウォッフッ―――!!』
そして二郎のお得意の前足を大きく差し出す仕草が、終始、父に向けられていた。
『分ったから―――。おいっ、静かにしろよ、近所迷惑だろがよお!』
『キャンッ!、キャンッ!、キャン―――!!』
『おおっ!?』
可愛らしい小型犬らしき泣き声が、その門の内側でざわめいていた。
『ウォオオン―――ッ!、ウォッフッ!!、ウォッフッ!、ウォン、ウォン、ウォンンッ―――!!』
『キャンッ!、キャンッ!、キャン!!』
『はああ?、何だこりゃ―――』
“ギギ――ギイイイ―――ッ”
目の前の門扉が、静かに開き出した。
『ウォッフ―――ッ!、ウォッフッ!!。ハッハッハッッハッ・・・、ウォフッッッ―――!!』
『ち、ちょとお!、待てってえ―――っ』
『ウォッフッ!』
『あれまあ、次郎ちゃんじゃないのお。―――久しぶりだねえ』
顔を出したのは、着物に身を包んだ老婆だった。
『ウォッフッ!、ハッハッハッッハッ―――』
途端に次郎がおとなしくお座りの体勢を見せた。
『あら、秋山さんとこの新しいお弟子さんかい?』
『えっ、弟子・・・って?』
『お散歩ご苦労様だねえ。よかったら家でお茶でもどう?』
『はあ・・・』
『次郎ちゃんも、おやつくらい食べて帰りなさいな』
『ウォッフッ!、ウォッフッ!!、ウォッフッ―――!!』
次郎は潔く屋敷の中に駆け込んでいった。
『―――おおいっ!、お前、遠慮なくかよお―――!!』
次郎に引っ張られて、仕方なく父もなだれ込む始末だった。
広く整然としている庭は、そのまま次郎とこの屋敷の小型犬の遊び場になっていた。
『ベッシーって名前なのよ、あの子』
『ああっ、あの犬ね。えっ―――?、ベッシーって、あのベッシー・スミスのこと?』
『へええ、あなたよく知っているわねえ。そうよ、ブルースの女王、ベッシーよ』
―――ベッシー・スミス。(1984~1934)かの有名なビリーホリディは、彼女によって世に出たと言っても過言ではない。それほどの実力を持った女性歌手でもあった。
『―――残念ながら、先ごろ亡くなってしまってはいるがな―――』
『えっ―――!?』
背後から囁かれた声は、どうやらここの家主のようだった。
『秋山んとこの若い衆だな。君は』
『あっ、はい―――。こんにちは―――っ!。小森っていいます。先月から秋山の爺さんとこに住み込んでます』
すぐさま立ち上がった父は、深々と頭を下げて元気に挨拶をした。
『えらく元気だな―――挨拶も小気味良い。さすがに秋山の躾のお陰ともでも言うのかな?。ああ―――、私は小幡って言う者だ、よろしくな。しかし―――爺さんとはまた、呼びやすくしたもんだな。まあ、爺いには間違いないようだがな』
小幡と名乗る初老の男性が、父の前ですこぶる感心していた。
『そうでしょ―――!。でもそう呼ぶとすぐ怒っちゃうんだよなあ―――。ほんと、短気でしょうがねえや』
『はははっ、―――中々、言うもんだねえ君も。はて、今までの若い衆とは一風変わった人材のようだが?』
『変わったは余計でしょう?。おれは他人より正直なだけだよ、それが今の世間と合致しない。ただそれだけのことさ』
『生意気って言われてつま弾きって訳か。住みづらい世の中になったもんだな』
『判ってくれるの?。あんた―――いやっ、ご主人さんは・・・』
『言葉は選ばなくてもいいぞ。君の調子でやんなさい。その方が気楽ってもんだし、人間味がある。俺は一向に気にはしないぞ』
『ありがたいお言葉、頂戴しました。せめてここではそうさせてもらうよ』
父の理解者がまた一人現れたようだ。しかしこの小幡という男、その貫禄充分な風貌といい、一体、何物なのだろうか?。
『ねえ、あの犬だけどさ、どうしてベッシーって名前をつけたんだよ?。おれ、驚いたよ実際!』
『はははっ、よくぞ訊いてくれたな。けど、ベッシー・スミスなんて君の世代じゃないだろうに?』
『そうだろうなあ。なんでも死んだ親父が好きだったらしい。小さな頃から聴いてたんだ。もっぱら洋楽だったけどね』
『よほど感性の余る親父さんだったんだろうな』
『おれが5歳の時に、戦争で逝っちまったさ。親父の稼ぎの殆どは、レコードに消えていってたらしい。それでなくても贅沢品だったのにさ、お袋がよくぼやいてたんだよね。終いには祖父ちゃんの遺してった田畑まで売っぱらってさ、東京までレコード探しの旅に出る始末だ。まるで馬鹿げた話だよ』
『そうか―――。短くも、さぞかし有意義な人生だったろうな。音楽に興じるなんて、そうそう出来る時代では無かったからな。ましてやその自慢の息子は今、歌手を目指しているときてる。何とも親孝行な話じゃないか。―――そうじゃないのかな?』
『そうなるのかなあ?』
『おいおい、そうでないと、親父さんが報われないだろう?』
『―――そうだよな』
『故郷は何処なのかな?、小森くん』
『ああ、熊谷さ、埼玉の』
『環境の良いところで育ったか―――。それも大切な要因なのか』
『だって田舎だぜっ!。何にも無いところさ』
『はははっ、そうだろうとも。しかし、それが何よりの環境なんだよ。若い君にはまだ理解出来ないだろうがな』
小幡のご主人は―――、いや爺さんは、まるで父の将来性を見据えているかのように語っていた。
秋山会長の家に住み込んだ若者たちのことを知っているとすれば、やはり、音楽業界に関与しているのだろうか。
『ねえ小森くん。あなたはどんな歌を歌いたいの?』
小幡の奥方から、素朴な質問が入った。
『そうだな―――。うん、心に響く歌さ。民衆に元気を、勇気を与えるような歌を歌いたいんだよな!』
迷い無く父が答えた。
『素晴らしいことだわ。でも、あなたが言うとどこかその気にさせられてしまいそうだわね。相当な自信家なのねえ』
『えへっ―――、そうだろうとも、そこは譲れないからさ!』
得意げに語る父は、臆することなく小幡の奥方に向けて言った。
『―――ああ見えて、秋山は厳しいぞ。果たして君の辛抱が続けばいいのだがな』
『辛抱―――?』
『そうだ、どうした?。辛抱なんて言葉は気にいらないのかな、君には?』
『そうじゃないけど。辛抱なんてそんなお仕着せは、あんたたち大人の身勝手な発想だろう?。好きな道に進もうとしているんだ、それが辛抱なんて野暮ってもんだろう!』
きっぱりと父が反論した。もっともらしく父らしい反目だった。
『何とも頼もしく、嬉しいとでも言うべきだろうかな―――。明日からの犬の散歩が、さぞかし楽しみな日課になることだろうな』
『えっ、どういうことだよ?』
『なあに、うちの家内が次郎の来るのを楽しみにしてるってことだよ。特にベッシーにはいい知らせのようだな』
『まあ、あなた―――。そんなことは余計ですよお』
そのやりとりに、小幡夫妻が揃って笑っていた。父の怪訝そうな顔が、やけに滑稽に見えていた。
『ねえ小幡さん!。あんた―――何者なの?』
唐突に、父が訊いた。
『この国の歌を、愛するしかない物好きだよ。そう言うしか思い当たらないな』
『じれったいなあ!。だって、秋山の爺さんとは知り合いなんだろ?』
『はっはっ!、あんまり昔過ぎてなあ、奴の顔さえ忘れてしまったよ。小森くん、君の口からそう言っといてはくれんだろうか?』
『忘れたってかあ―――、ホントにそんなんでいいの?』
『いいんだよ。今更、奴に恩義もないだろう。ああっ、でもこれだけは伝えてくれんだろうか、小森くん』
『えっ、何だよ?』
『珍しくも楽しい、“おもちゃ”をありがとうってな―――』
『・・・おもちゃって、どういうことだよ?』
『近所の人気者、次郎の付き人に決まっているだろうよ。はっはっはっ!』
『付き人?、次郎のって―――?』
『そろそろ帰る時間だろう?、さっさと仕度しなきゃなあ。それからな、ここに来たことは当分、奴には内緒にしといた方がいいだろうな。うん、そうだ、きっと君の為にもね』
『はあ?。何のことだよ』
『これに懲りずにまた来るがいいさ。その時はベッシーが歓迎してくれるはずだよ』
父への興味を他所に、小幡の爺さんが意味深に言葉をもらしていた。曖昧に濁していたその口調は、きっと父の再訪に心を寄せていたに違いない。




