秋山の爺さん。
神部さんとの恒例の食事会はというと、やはりここ多嶋屋であった。
『いらっしゃい!。―――おう、神部の旦那!。いつもありがとうよ!』
『邪魔するよ大将。とは言っても、おまけ付きだけどな』
『親父!。今日こそは美味いもん出してくれよなあ、たのんだぜ!』
『ちっ、何だよおめえかよ。靖志ぃ―――』
『何だよはないだろう?、今日は立派な客だぜえ』
『へっ、そんな偉そうなこと言ってもよ、どうせ神部さんにたかるつもりなんだろ?、靖志よ』
『たかるなんて止めてくれよ親父。ご褒美だよ、今日の歌のさ』
『ええっ?。歌って、おめえ―――、まさか客の前でかよお?』
『当たり前だろ。おれだって本業を抱えてんだ、人前で歌って悪いことなんてあるかよ』
『神部さんっ―――。こ、こいつ、あんたに迷惑はかけなかったかい?』
『大将―――。はは、心配ないよ。こいつさ、ものの見事に歌いやがったよ。俺もびっくりするくらいにさ』
『本当だな?。嘘なんてついてないよなあ!、神部さんよお』
『何で俺が嘘なんて言わなきゃなんないんだ?。おかしいぜ、大将』
『あっ、いやね―――。つい、日頃の靖志の素行の悪さがさ、出ちゃうんじゃねえかって。そんでもって客の前でさ、失態なんて・・・勘ぐっちゃってよお』
まるで我が子を心配しているかのように、親父さんが目頭を潤ませて言った。
『何だよ、素行の悪さってさ―――。それじゃ、まるで悪人呼ばわりじゃんかよお!』
『だって、そうだねえかよお!。おめえ、いつも訳の判んないことで店の客と揉めてるしよ―――、気に入らないことがあれば、突っかかってんだろうよ!。どんだけ迷惑かけてんのか知ってんのかあ?』
『だって、それはあいつらが悪――――――』
『まあまあ―――いいじゃないか大将さ、今日くらい大目に見てやってくれよ』
呆れていた神部さんが、うす笑いを浮かべながら仲裁に入った。父と親父さんの会話ときたら、まるで血の繋がったの親子のようで、その二人の親密さに実に呆れていた。
『ちぇっ―――いいさ。けど、おれは正当性を主張するしかないんだ!』
『まだ言ってんのか?、いいか、お前の態度にはな正当性もなにも無いんだよ、少しは協調性ってものは無いのか?』
『お言葉ですが神部さん。協調性って人に媚びることだろ?。そんなの持ち合わせているもんかい。まったくもってごめんだね!』
『なっ―――。お前って奴はどこまで、いいか!、お前のそ―――』
『ああ―――っ、神部さん!。すまねえな、俺の躾が悪くてさ。ちゃんと言い聞かせておくから、今日のところは・・・』
堪りかねて、今度は親父さんが仲裁に入った。
『揉め事は他所でやってちょうだいね!、他のお客さんに迷惑だよ。―――まったく』
厨房に篭っていたおかみさんまでもが、割り込んでしまった。
『―――かあちゃんっ!』
『あんたもいい加減になさいよお。あたしら靖っちゃんの見方でしょう?。どこまでもかばってあげなきゃ、この子の居場所がなくなるよ』
『おばちゃん・・・』
おかみさんの言葉で、どうやらこの場を収める準備が出来た。ありがとう、“おかあさん”。僕の父を庇ってくれてありがとう。
―――今日の出来事を、調子にのって喋りだす父の顔には、以前のきつく尖った影はなく、その笑顔には清清しい青年の顔さえ見せていた。
多嶋屋の酒宴は、盛り上がりの最中だった。そして今日のデパートでの興行を反映してか、神部さんから父に向けて重大な告知があった。
それは近々、トウチク・レコードの社運をかけた若手向けの配曲の打診だった。
楽曲を手掛けるのは、勿論、著名な音楽家の名前だった。若手歌手の候補の中には、あの立花勇気の名も挙がっているようだった―――。
『ここだけの話だ、いいな極秘だぞ。どうやらうちのお偉いさん達は、えらく立花を推してるみたいだ。そりゃそうさ、あんだけの人気と歌唱力だもんな、文句の言える筋合いでもない』
『ふ――ん、で、神部さんは誰を推したいの?』
『おいおい、俺の口から言わせんのかよ?』
『もったいぶってないで、言えばいいじゃん。小森ゆうじってさ!』
『まったく、お前には舌を巻くぜ―――』
『へへへ・・・』
『ところでよ、お前の面倒を会長が看るって話、聞いてんのか?』
『面倒って―――、どういうこと?』
『ああ、どうやら会長の家に住み込みが決まったらしいぜ』
『住み込みってことは、―――飯付きだよね?』
『そりゃあ、そういうことだろうな』
『じゃあ、朝飯どころか、晩飯も面倒看てくれるってこと?』
『ち、ちょっと待ちなよ!。あのよっ、そのっ、会長さんの家に住み着くってなったらよ―――靖志はもうここには来れないってことになんのか?、ええっ!、神部さんよおっ、そうなのか―――!!』
親父さんが猛烈な口調で神部さんに喰い付いた。
『ちょっと待てよ大将―――。落ち着いて聞けって。誰もこいつを隔離しようって訳じゃねえさ。ここに来たけりゃいいんだぜ、別にさ。大袈裟に考えすぎだよ』
『えっ―――そうなのかよ。そりゃ、つい余計なこと言っちまったなあ』
『へへっ、おれが来ないと寂しいもんな、親父もさ』
『ば、馬鹿言ってんじゃねえよお―――!。おめえが来なくて寂しいのは、俺じゃなくて、かあちゃんの方だよ!』
『おばちゃんが?』
『うちには子供がいねえからよ―――。少しでも懐いてくれる子は可愛くて仕方ねえんだよな・・・あいつもさ』
厨房の奥で洗い物に精を出すおかみさんを背中で感じながら、親父さんが鼻を赤らめてしんみりと語った。
『会長の家の晩飯はさぞかし美味いんだろうけど・・・。へっ、ここの不味い飯にも、慣れちまったからな―――』
俯き加減の父は、精一杯の悪態を見せるしかなかった。
『―――不味い飯で悪かったな』
それに気遣ってか、親父さんは多くを語らなかった。まるで余所者に父を取られてしまうかのように、悔しげな顔をしていた。
『靖っちゃん、偉くなっても、うちのこと忘れちゃ駄目だからね。それだけは約束してちょうだいな』
『やだなあ、おばちゃん聴いてたのかよ?』
『こんな目と鼻の先でさ、聴こえたもなにもありゃしないよ。で、その会長さんの処には、いつからお世話になるんだい?』
『いやっ、おれもさっき聴いたばっかでさ、そんなとこまで考えちゃないさ』
『明日、会長を訪ねればいいさ。言っとくが、失礼のないようにな。ああ見えて意外に神経質だからよ』
『えっ、あの爺さんが?』
『何だ、知ってんのかお前?』
『ああ、前に話したことがある。おれの歌を褒めてくれてたぜ。あの爺さん』
『一体、どこでだ?』
『会社の廊下でさ、丁度、神部さんと秋山さんが揉めてた時だよ。おれのことでさ』
『そうかあの時だな―――どうりで、やけにお前に興味を示したはずだよ。こりゃ、良い線いくかもな』
『良い線って、なんのことだよ?』
『いいや、お前は気にしなくていい。とにかく会長の下で修業することだ。歌もそうだがよ、その態度もな』
『修業って、なんだか大袈裟じゃないの?』
『お前なあ―――。いいか、あの人を甘く見るんじゃねえぞ。今でこそ丸く収まっちゃあいるが、あの人の歌馬鹿は相当なもんさ、俺にしたって反論さえ口篭るってほどだ』
『へえ、そんな風には見えなかったけどなあ』
『いずれにせよ理屈で解決だなんてよ、そんなに甘い世界じゃないってことだけは心して掛かれよ。まあ、その辺は俺が言わなくても嫌というほどあの爺さんから学べるってことだ。まったく羨ましい話だよな』
『そんなに凄いお方なのかい?、その秋山さんの親父さんってさ、神部さんよ』
秋山会長は親父さんにしても、相当、興味深い人のようだった。
『ああ、大正から昭和にかけて、日本の歌を引っ張ってきたと言っても、過言ではないな。少なくとも、俺はそう慕ってるさ』
『へーえ、そりゃあ、さぞかし有名な歌い手だったんだろうよ?』
『いや、そうでもなかったらしい。実際、歌手としての受けは、それ程でもなかったってさ、秋山から聞いてる』
『秋山さんが、そう言ったの?』
『ああ、確かにそう聞いたつもりだぜ』
『素晴らしいよな。人前で歌うことが叶わないって、知ったんだろうな。いやっ、きっとそう告げられたに決まってるさ。それでもしがみ付いてた。普通の者だったら、とうに歌を諦めてるさ。それほど―――、それほど好きだったんだよ。たまらなく歌うってことがさ―――』
父は、あの時の秋山会長の言葉を噛み締めていた。“歌は大好きだ。これは誰にも負けやせんぞ。私の自負するところだ”―――。
胸を張ってそう言い切った会長の表情を、父は思い返していた。
父の口元に宿ったその大人びた口調に、やるせないほどの慈愛を込めた言葉の先に、神部さんも親父さんも、そしてお母さんさえも、うっすらと沈黙を隠せないで居た。
『つまり、人気商売だからよ、情熱だけでは認めてもらえねえってことさ』
『そんなことはないよお父ちゃんさ。幸せなことだよ、ああして大好きな歌のお仕事ができてるんだもんねえ』
『そうなんだよな。歌を離れてこそ、真にその歌に近づけるか―――。まったく、大したお方さ』
神部さんの感心は最上級を意味していた。
『何言ってんの神部さん?。歌を離れるなんて最悪だろ?』
『まだ、お前には理解できやしないさ、本当に歌うってことがどんなことかなんてよ』
『そうだぜえ、まだ靖志のような青っちょろいガキには、解んねえだろうよ!』
『なんだよお―――。皆しておれを子供扱いしようってのか?。こう見えてもさ、場数踏んでんだ。歌うことに関しちゃ妥協なんてないぜ』
『まあ、そう言うことにしておこう。いずれにせよ会長の目に適ったわけだ。小森ゆうじとしての、第一段階はな』
『じゃあ、おれ、花形歌手になれるんだな?』
『おいおい、それとこれとは違うぜ、あくまでもお前の努力次第さ。いくら会長の下で面倒看てもらったってなあ、駄目な奴は去らなきゃならない。それが勝負の世界だ。決して甘くはないぜ』
『―――解ってるさ、それほどおれも馬鹿じゃないよ。神部さん』
さっきまでの父の浮かれた表情は、微塵もなくなっていた。
それほどの覚悟を父は受け入れていたのだ。小森靖志としてではなく、小森ゆうじの名前に恥じないとの覚悟だった。
翌日、父は秋山会長の部屋を訪ねた。さも新人を意識した服装は、神部さんのお古を借りた地味な背広を羽織っていた。
『この辺だったよな―――』
事務所ビルの長い廊下を進む父には、どの部屋も同じように見えた。
『会長室って書いておけよ―――。ったく』
歩き進むうちに、ふと微かな歌声が父の耳に聴き取れた。
『練習―――?』
その歌声の先を突き止めた父は、廊下の突き当たりの部屋の前に足を揃えた。
『―――ここだよな?』
伴奏も無く歌い続ける声に、しばらく父は聞き耳を立てていた。その歌声は、どうやら聞き覚えのある曲だった。
“When The Saints Go Marchin In―――――”
『えっ―――?、まさかっ!!』
そう―――。父が秋山さんと出会った日の、あの晩熱唱した歌だった。
『聖者の行進―――だろ?』
強弱をうまくつけて、しかも絶妙なうなり声。伴奏無しでも跳ね上がる高揚。リズムを取っているのは、きっと机を叩く音。
『誰だよ―――?、めちゃくちゃ上手いぜ』
その歌声に乗せられて、つい父が声を張らした。即興、扉を挟んででの二重唱が、長い廊下に響鳴していた。
しばらく続けられた二重唱の片方が、突然消えた。それでも父は一人扉の前で歌うことを止めなかった。
“ガチャッ―――”
と、その時、突然扉が開かれた。




