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立花勇気という男

“いつかし―ら――、待つことにーなれてしまったあ―――。夕暮れの――寂しさがあ―――、紅く染まるう――っ。そこにわあ―――居ないはずの君い――、たそがれが甘くう――空をそめ――るう―――っ―――”。


歌い出しは見事に成功だった。感情を上手く抑えたテンポの良い曲調は、今までに無い新しいブルース調に仕上がっていた。さすが神部雄一郎の手腕は、まさに父の歌声を存分に活かしていた。

いよいよ盛り上がりに差し掛かった時だった。

『えっ―――?』

突然、父の持つマイクの音が途絶えた。驚いた役員達は予期せぬその失態に唖然とした。音響担当の小田村さんに至っては、その場に立ち尽くすしかなかった。―――そして、次第に観客がざわめき始めた。

幸い伴奏だけは続けられていた。父は特に焦った様子も無く、ゆっくりとマイクスタンドから離れ、そして舞台から飛び降りた。

『な、何やってんだよ!、あいつ―――』

小田村さんはこの事態に目を疑った。さっきまで舞台の上にいた父が、観客のすぐ目の前に身を置き、再び歌い出したのだ。


“君が――来るのはぁ―――たそがれ――時いのお―――、風にゆ――られえ――てえ―――、おれの――心――にい―――舞いお――りぃる――――”。


何と父は、マイクに頼らず生声で歌い始めた。しかも舞台を無視して、飛び降りた観客のど真ん中で一人ひとりに歌いかけるように、その歌声を届けていた。

圧巻だったのは、マイク無しでも充分に響き渡る父の声量だった。発声練習なんて我流でしかない、専門知識すらおぼつかないまるで雑草をお手本にしたような父の歌声だった。そんな父の歌声に、次第に観客の心は昂揚を抑えきれずにいた。

図々しくも握手の手を差し出した父に、戸惑いながらもそれに応える客。舞台を降りて歌うなんて芸当は、当時は誰も想像すら出来なかっただろう。

それはまるで斬新なワンマン・ショーの光景ともいえる圧巻な父の姿だった。

曲を歌い終わって暫くは、拍手の渦の中で父は満足気に何度も頭を下げていた。

『小田村さん、―――マイクコードが抜けていました』

『何だって―――?、どうしてだよ!』

『いやっ、どうしてって言われても、さっぱり・・・』

『誰か抜いたのか!、それとも―――抜けたのかよっ!?』

原因不明の事態に、皆、不安を隠せないでいた。

『小田村さ――ん!。どうしたんですかあ、原因は判ったんですか?』

小田村たちの緊張を無視するかのように、調子外れの声色であの立花勇気が様子を窺いにやって来た。


『ああ―――立花か。―――どうやらマイクコードが抜けてたみたいだ。原因はそれだが・・・何故かは判ってねえんだ』

『そうなんですか、迷惑な話だなあ。僕の時は見張っててくださいね、お願いしますよ!。僕は奴のような大衆性はないですからね。ははは―――』

立花が嫌味たらしく父を笑った。それと言うのも、父と対照的な立花の歌声には、雅な個性を光らせていたからだ。

高音で透き通るような歌声。しかも、すらりと伸びた足元。それに加え、日本人離れした精悍な顔立ちはトウチク・レコードの中でも屈指の若手歌手の一角だった。

『―――判ってるさ、任せなよ』

そう応えた小田村は、何故か立花の言葉に違和感を覚えた。元々、立花の接し方に嫌悪感を抱いていた小田村には、ある種の疑念が残っていた。

『立花くん、何番目だったっけ君の出番』

『やだなあ小田村さん。最後ですって、忘れてたんですか?。僕以外にとりを飾れる人って、残念ながらこの中にいないからなあ』

案の定、立花らしい返事だった。

『そうだよなあ・・・今んところはなあ』

『今のところって、気になる言い方だなあ―――。小田村さん言っておきますけど、今は僕の機嫌を損なわないほうが懸命だと思いますよ。あなたの立場上ね』

『判ってらあ、とっとと行きな。後がつかえてんだよ!』

『ちぇっ・・・』

『おい、お前ら。マイクコード抜かれねえようにな、見張っとくんだぜ、いいな!』

『―――小田村さん、何か言いたげですけど、僕に』

『出番が控えてんだ、余裕こいて席なんか立ってもらって欲しくないんだよ。こっちも進行の具合ってもんがあるんでね』

『ああ・・・そういうことね』

小田村さんのイラついた言葉に、背を向けるように立花はその場を離れようとしていた。

『参ったよなあ―――!。マイクが使えないんじゃ、客席に降りるしかないよ。ねえ、明さん!』

歌い終わった父が小田村さんの下にやって来た。その顔は晴々として、とても満足気だった。

『すまねえな靖志。とんだ失態だった、悪かったよ・・・』

『いいんだよ、お陰でお客さんと仲良くなれたさ。最高の舞台だったよ!。ありがとう!』

『は――ん。仲良くなれたか・・・気楽なもんだね、君は』

まだその場に居た立花が、呆れたように切り出した。

『ああ、さっきの―――あんたか。ええっと、名前・・・なんてたっけ?』

『―――お前さ、先輩に向かって失礼だろ、おいっ!』

ついに頭に来た立花が、父の襟元に手を絡めた。

『先輩って、そんなに偉いのか?』

『何を―――っ!!』

更に強く、立花の両手が父の襟を持ち上げていた。

『馬っ鹿じゃねえの―――』

そう言って、ポケットに入れていた両手を出すや否や、襟元に結ばれていた立花の手を軽々と跳ね除けた。

『うう―――っ!』

次の瞬間、立花の右腕は背後に吊り上げられていた。

『あ痛ててて―――っ!!』

『あんたの歌の実力はどうか知んねえけどさ、喧嘩は酷くお粗末なようだな』

『―――やめろ!、靖志。手を放すんだっ!!』

小田村さんが慌てて父の手を解いた。

『馬鹿な真似は止めろっ!、ここを何処だと思ってんだよおっ!。お前らの大切な場所だろうが!。何を考えてんだよ―――!!』

『ああ、そうだった。わりい・・・』

小田村さんのその言葉に、父はあっさりと従った。一方、気が収まらない様子の立花は、髪型を整えるとすぐに、向きを変えて歩き出した。

『立花!、何処へ行く気だ。出番まで時間は無いんだぞ!』

『誰か適当に埋めてくれよ。こんなんで歌えるかよ』

『何言ってんだ、穴を開けるっていうのか?。お前プロの歌い手だろ、そうじゃねえのかよ!』

『へっ、恥をかかされて歌えるほど、粗末に出来てないんでね。誰かさんと一緒にしないで欲しいよな』

立花の自尊心は、この場を放棄することを選んだようだ。それにしてもあっさりとだ。


―――『何を揉めてんだ、お前ら―――?。小田村!、何やってんだよお―――っ!』

『あっ―――、神部さん―――っ』

ようやく駆けつけた神部さんが、烈火のごとく火を吹いていた。

それは神部さんが到着するや、役員の一人からの状況説明に現場の醜態を聞かされた神部さんは、事態の収拾を重く見ていた。


『立花―――歌の準備は出来てるのかよ?、お前』

『あっ、はい・・・』

『で、何処に行くつもりなんだ?。手洗いだったら逆の方向だろうがよ』

『―――戻れば、いいんですよね・・・』

『どうした、戻らない選択もあるのかよ?』

『いえ・・・そういう訳では』

神部さんの言葉に、しぶしぶ移動するしかない立花だった。

『靖志、気持ちよく歌えたか?』

『ああ、最高の気分さ!。やっぱ、歌はいいぜ!』

『そうか、それは良かった。俺も聴きたかったよなあ、お前の晴れ舞台の歌をさ』

マイク無しでの父の熱唱。その事態を聞かされていた神部さんにとっては、余計にでも立ち会っていたかったのだろう。それほど父に寄せる期待は大きかったのだ。

『生声だってな―――』

『ああ、機械に頼っちゃ駄目だな。そう思ったぜ』

『強がりか?、―――それとも本心か?』

『へへ・・・両方だね!』

『無理すんなよな、いいか』

密談とも窺える父と神部さんの些細なやりとりは、無意識ながらも互いの信頼を前提としていたのだろう。大袈裟に立ち振る舞う必要なんて無駄に思えた。

『小田村、―――ちょっといいか?』

『は、はい―――』

『靖志!、わりいな、またあとでな』

『ああ、声掛けてよね。神部さん!』

父に遠慮しながら、小さく小田村さんに声を掛けた神部さんは、足早に舞台袖に移動した。小田村さんは、躊躇しながらもその後を追い掛けていた。

『確認したいことがある。迷ったりするなよ』

『迷うって、どういうこと・・・』

『それが余計なんだ。黙って聞いてろ!』

小田村さんの言葉を制止した神部さんは、怒りにも似た煩わしさを口にしていた。

『音響の人間どもは、何処にいたよ?』

『何処って、ここに段取っていましたけど』

『小森の出番の時はどうだった?、奴らどうしてたんだ?』

『いや、靖志の時だからって、特別なことは指示してませんけど・・・』

『はあ?。だったら何であんなことが起きたんだよ。聞いてびっくりだぜ・・・今までに無い演出だって、そう言われた時は、何のことだか判んなかったけどよ』

『あ、はいっ・・・。俺も正直、真っ白になりました。頭ん中』

『誰かに心当たりはないのか?』

『誰かって―――?』

『だから誰かだよお―――!。お前の身近にさ、そういう奴はいないのかって訊いてんだ!。察しろよお、いい加減よおっ!』

『あっ、はい―――』

『音響の他に舞台の袖に行けるとすれば、誰だよ?』

『ここに居る全員が行けます。簡易式で組み立てた舞台だし・・・そもそもデパートの敷地に専用通路なんて無理ですから』

『そんなことは承知で喋ってんだよお!。お前、責任者だろお?、他に誰に訊けっていうんだ?』

『・・・すみません』

『ちなみに―――。立花の様子は、どうだったよ?』

『立花ですか?、どうって言われても、漠然としか・・・』

『奴のことだ、体よく音響の奴らに挨拶でも行ってたんじゃねえのか?』

『おそらくは』

『そうか―――、お前も、感ずるところはあるようだな』

『あっ、―――はい』

『まあ、今回は怪我の功名ってとこで、落ち着かせるしかないようだな』

『―――申し訳ないです、神部さん』

マイクコードが抜けていた原因は、あの立花勇気が絡んでいたに違いない。いや、立花本人が父の妨害を手掛けたに決まっている。それほどに彼は狡猾な男だった。



『神部さ――ん!。今晩、飯おごってよ!。ねえ』

『んんっ―――?』

出演者の待機場所から、迷惑な声とともに父が駆け寄ってきた。

『腹減ったぜ!。飯、飯食おうよ』

『ちょっと待てよ、まだ終わってないだろが?』

『いいじゃん、おれ、もう終わったし』

『お前なあ―――、見ろよ、今から立花が歌うぜ』

『えっ?、まだやんのかよ』

『まだってなあ、お前のワンマン・ショーじゃないんだぜ、勘違いするなよ』

『そんなの判ってるって。奴の歌に興味がないってだけさ』

『立花の歌にか?。どうしてだ、奴の歌は上等だぞ。若手の中では有望株の筆頭だし、何と言ってもあの態度には感服させられるよ。大物の匂いさえ、させやがるぜ』

『ふ――ん。そんなに上手いのかよ?』

『まあ、聴いてみろよ。参考にはなると思うぜ』

やはり他人の歌には興味はなかったらしい。今の父の興味は、もっぱら大盛り飯に特化していた。

ようやく今日の舞台を締めくくるべく、立花勇気が舞台の中央に現れた。待っていましたとばかりに観客の半数以上から熱烈な拍手が沸き起こった。

『へええ、結構な人気者なんだな』

『結構どころか、大した人気だよ。ここに居る大半は立花が目当てさ』

『そりゃあ、すごいな』

『どうした、流石にお前でも敵わないってかあ?』

『―――ああ、今日の拍手の数では負けてるな』

『負けてるって、認めるのか?、お前は』

『勘違いしてもらっちゃ困るよ神部さん。たかが拍手の数さ、それ以上は関係ないね』

それでも立花の歌は、父には無視出来なかったようだ。立花の歌にしばらくは耳を立てていた。

ムード歌謡の憂いを見事なまでに引き立たせる技術と、甘い妖艶なマスク。目立ってはいないが、小刻みに戯れる指先の妙技にいつしか客は、うっとりと心さえ預けてしまっていた。

『どうだ、あれが奴の実力さ。見ろよ、あの女たちの逆上せた間抜け顔をよ、まるで恋人を慕うようだぜ』

『おれとは対照的だな。でも感心だね。あれだけ歌えりゃ、文句はないか』

『お前が感心してどうする。ライバルなんだぞ奴は』

『別に張り合う気もないさ、どうせ長続きなんてしないだろ?。あいつ』

『―――どうしてそんなことが判る?』

『やだなあ、神部さんだって気付いてんでしょ?。おれくらいの歳であんな歌い方なんてさ、贅沢だよ』

『ほう、贅沢ときたか。お前らしい酷評だな』

『まあ関係ないけどさ、おれには』

立花の歌の評価は、曖昧に終わらされてしまった。ただ、父の言葉が何を意味したのかは、僕にはよく理解出来なかった。

けれど、何となく僕にも頷けることがあった。立花勇気は長続きしない、と。根拠なんてあるはずもないけど、僕の直感が父の感じたそれと同じように鼻先を擦っていた。

『さあ、終わったぜ!。とっとと片付けを済ませて、飯にでも行くか!』

『ほんと?、やったね!』

舞台上で礼をすませた立花は、大きな拍手に送られて神部の下にやって来た。

『神部さん、今度はホールで組んでくださいよ。屋外だと調子出ませんからね』

『そうか、そうだな。次は考えるさ。お疲れ!』

簡単に言葉を済ませた神部さんは、立花の肩を軽くはたき舞台そでに向かった。

『ちぇっ、愛想ないなあ』

『屋外の方が腹から声が出ていいじゃんかよ。そうじゃないのか―――?』

父があっけらかんと立花に向けて声を掛けた。

『あのね―――しっとりと歌うのが僕の持ち味なんだよ。お前みたいに勢いだけの歌とは一緒にしないでもらいたいな』

『ふ――ん、そんなもんかねえ。あ―――っと片付けだ、早いとこ終わらせなきゃな』

『あんなの役員に任せとけばいいだろ?。俺たち歌うのが仕事なんだからさ』

『じゃあ、あんたは帰ればいいさ。お疲れ!』

父も同じように立花の肩をはたいて、この場を離れた。

『なんだよ、あいつ―――』

『―――あっ、そうだ言い忘れてたぜ!』

走り出していた父は、思い立ったように立花を振り返った。

『な、―――何だよ?』

『大きなお世話だけどさ。いいかいあんた、いい若いもんがさ熟成した大人の声色なんて使ってんじゃないぜえ―――!』

『なっ―――どういう意味だよ、おいっ!』

『贅沢なんだよ―――百年早いって!。聞こえたかあ!、ああん?』

『てめえ!、いい加減にしろよっ―――』

『へへっ、じゃあな!』

そう言い捨てて父は、神部さんの下に急いだ。

『ちっ、訳の判んないこと言いやがってよ―――』

父の奇襲攻撃に、立花は受身など取れるはずもなかった。

『あのう・・・立花さん。サインしてもらっていいですか?』

気付けばいつの間にか立花の周りには、若い女性ファンで埋め尽くされていた。

『ああっ、いいよ』

『立花さんの歌って、キレイで聴きやすくって、大好きです!』

『そう、ありがとう。これからも応援よろしくね』

『そうだ、立花さん次の曲はもう決まってるの?』

『えっとお・・・そうだね、もう少し待っててくれるかな。今以上に良い曲が待っているからさ!』

『はい、期待してます!。頑張ってくださいね』

やはり見栄えのいい男には、それなりの報酬が約束されているんだ。立花の容姿に黙っているほど、世間は辛らつでもなかった。

昭和恐慌を乗り越えた後も、少ない娯楽の一端を担っていた歌謡業界には、歌唱力だけではない魅力も、必要な条件だった。

『次の曲かあ・・・』

立花の独り言は、実に憂鬱を醸し出しているようだった。

神部さんを筆頭としたトウチクレコードの幹部達には、永続とした立花の起用にはいささか疑問を残していた。今の立花の人気に反して、前向きの姿勢を誇示出来ないでいたのだ。それは何故―――?。

『神部さ―――ん!。ねえ終わった?』

『ああ、このくらいで充分だろうな。あとは奴らに任せようぜ』

『助かりましたよ神部さん。あとは俺たちで何とかなりますから、どうぞ上がってください』

『そうか、ありがとうな小田村。お疲れさん!』

『明さんありがとう!。楽しい思いさせてもらってさ』

『なっ―――、この野郎!、嫌味かよ』

『例の店に行ってるからよ、よかったらお前らも来ていいぜ。なあ小田村』

『はい、ありがとうございます。後で寄ります』

『いいか小田村―――、今日の失態は他言無しだぞ』

『はいっ、そのように―――』

小声で交わす神部さんと小田村さんとの間には、未だ重々しい空気が付きまとっていた。

『なにこそこそやってんだよ。早く行こうよ神部さんっ!』

『ああっ―――、それはそうと立花はどうした、姿が見えねえな』

『ああ、奴ならとうの前に帰った。俺は歌うのが仕事だからってさ、手伝おうともしないんだぜ』

『まったく、あいつらしいぜ』

『そんなことどうでもいいからさ、ねっ、早く行こうぜ』

もはや、立花の姿など眼中になかった。父には大盛り飯以外の話題など、とんと他所事だったのだ。

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