秋山の爺さん。
そして、この場の雰囲気に馴染んだ父の去就とは―――。
その後、とんとん拍子に話はまとまり。父は秋山さんの会社、“トウチク・レコード”に身を置くこととなった。父が東京に出て来てから3年目のことであった。
早速、社内では歌手名と持ち歌の検討が始まっていた。早くに決まった“小森ゆうじ”と言う名前を与えられた父は、その名にいささか戸惑っていた。それもそのはず、靖志という自分の名前に誇りを感じていたからだ。
『ねえ、秋山さん。“ゆうじ”って名前どう思うよ?。正直なところを訊かせてよ』
『ああ、戦略的に言うととても善い名前だ。“ゆうじ”は呼びやすいし、どこか親しみも沸いてくる。歌い手の名前の第一印象で、大きく曲のイメージが左右される。そう言うものさ。決して靖志が悪いっていうことじゃないんだ、誤解するな』
『・・・そうか』
『あくまでも人の気を引いてなんぼさ。売れる材料があれば、何だって利用する。それがこの業界の常識だ。いいか靖志!。売れるまで待つんだ、お前の本名で勝負出来る時が必ずやってくる。それまでの辛抱だ』
『―――判った。それまでは、“ゆうじ”で我慢してやるさ』
すぐに名前は決まったものの、肝心の楽曲が関係者を悩ましていた。それと言うのも父の歌声に惚れた秋山さんの思惑と、流行歌を意識した担当者の主張には、大きな隔たりがあったからだ。
『神部さん、やはり小森には洋楽を与えたいんですよ!。でなきゃ、あいつの本当の良さが埋もれてしまう』
『秋山よお―――。今の時代に一番受け入れられてるものって、何だか知ってんのかあ?。ムードだよ。古賀久男や服部良二の曲でも判るだろ?。この国には甘く切ないムード歌謡こそ、国民が待ってる歌なんだよ』
『でも、ディック西だって幅広く人気を集めてるじゃないですか。本当に必要なのは、心から楽しめる、そう、踊りたくなるようなリズミカルな曲じゃないんですか?』
『ちっ―――。あのなあ、あんな若造にディックみたいな芸当が出来るとでも思ってんのか?。お前の買い被りじゃないのか?』
『彼の歌を聴いたでしょ!。神部さんも頷いてくれていたじゃないですか!。そうじゃなかったんですかっ!?』
『―――秋山、たかだか一人の小僧に何を託したいんだよ。俺達のすべきことはいいか、売れる曲を世に出すことだ。危険を承知で、訳の判らない奴に金をつぎ込むことなんて出来ねえよ。勿論、、お前にも判っているはずだよな。それとも何か、あの小僧に特別な感情でも混入してるっていうのか、それだったら尚更、諦めておくことだな。だろっ?、秋山営業部長さんよ!』
企画担当の神部が、意味深に秋山さんのことを突き放していた。会社の方針はあくまでも時代に受け入れられるムード歌謡。それ以外の楽曲は排除されるという訳だ。
『神部さん、もしもムードで奴が売れたら、俺の好きにさせてもらっていいですか?』
『ああ?、どういう意味だよ』
『洋楽で奴を使います。日本の新時代を築きたいんですよ。奴とならそれを可能に出来る。そう思えるんです!』
『・・・あのな、勘違いしてもらっちゃ困るんだよなあ―――。言っとくけどよ秋山。あの小僧の駄賃は会社がもつんだろ?。何でお前が勝手にしゃしゃり出ることになるんだよ。お前―――そんなに偉かったのか?』
『素材を活かすのが俺の役目だと思っていましたけど、会社側はそう見ていないってことですか?。神部さん』
『会社全体の話なんてしちゃいないさ、お前の勝手な判断がどうかってことだ』
『じゃあ、話を通せばいいんですね。そういうことですね』
『一体、誰に話を通すっていうんだよお―――!。いい加減大人になれよな、お前!』
神部は秋山さんへの苛立ちを隠し切れず、個人感情をむき出しにしていた。
『営業部長としての判断ですよ神部さん。俺にも会社の方向性は理解出来てるつもりです。だからこそ、敢えてあの男を使いたいんです。小森の歌声に期待したいんですよ!』
『話になんねえよなあ・・・。お前に付き合ってたんじゃ、俺まで干されちまうぜ。あーーあ、特別待遇組はいいよなあ―――、現場の苦労なんて何にも判っちゃいないくせによお、てめえの主張ばっか唱えやがるぜ』
『何ですか、その特別組って―――神部さん?』
『何だよ、判ってるくせによお。お前のバックだよ、親父さんの息がかかってるんだろ。あの頑固爺いのさ』
『確かに、父は会長職にありますけど。それと、俺の社内的な立場は無関係です。神部さんの思い過ごしでは?』
『ちぇっ、思い過ごしもなにも、こんだけあからさまに人事権を行使されちゃよ、誰だって勘ぐるだろ普通なあ―――。別にな、お前がどうのって言ってる訳じゃねえんだよ。俺だって言いたくはないよ、可愛い後輩にさあ―――』
後輩の秋山さんの出世を疎ましく感じているのだろう。今の神部の言葉は、妬み以外の何物でもなかった。
『神部さん、俺は―――』
“ガチャッ―――!”。
―
――その時だった。突然、会議室の扉が開いた。
『秋山さん、もう帰ろうよ。その人、物分かりが悪そうだもんな』
『靖志-――!。どうしてっ?』
『ああ、つい聞こえちまったんだ。このドア相当うすっぺらいみたいだな―――』
ここでもやはり父の態度に変化はなかった。つい、喧嘩腰の物言いが若さの象徴のように尖っていた。
『―――物分かりが悪くてすまんな―――。ふっ、どうでもいいけどよ、お前さあ、一体、何様のつもりなんだ?』
『何様もくそもないさ、おれは小森靖志っていうたかが若造さ。おたくこそ変な言いがかりは止めてもらえないかな』
やはり父の無礼は、筋金入りだった。
『靖志やめておけ、大事な話の途中なんだ。席を外してくれないか?』
『だって秋山さん―――。さっきから、おれのことでいがみ合ってるんだろ?。だったら本人が立ち会ったほうがいいじゃん!。そのほう―――』
『黙れ―――っ!!。―――いいから、お前はここから出るんだ!!』
温和な秋山さんから、不釣合いな強い口調が発せられた。
『――――――!』
『後で話すから。なあ、頼むよ靖志、お願いだ』
『あ、ああ・・・』
流石にこれ以上は父も反発出来ないでいた。秋山さんのいつにない態度は、どこか切迫感が漂っていたからだ。
会議室から放り出された父は、仕方なく事務所ビルの廊下をぶらぶらと歩き出した。ポケットに両手を突っ込みふて腐れたその様は、父の本領発揮といったところだった。
『大人社会はむなしいねえーっ。ふがふが・・・え―――っくしゅん!』
つい、大きなくしゃみが無人の廊下にこだましていた。
『ん―――!』
そこには音響効果抜群の、最高の舞台が目の前に拡がっていたのだった。
そして人影のないことを良いことに、父は廊下の真ん中に立ち、やおら背筋を伸ばし深く息を吸った。
“涙――ぐんで――る―――上海のお―――、夢――の四馬路―――のお――街の――灯――リラの花散る――今宵は―――君を想いだす―――”
いきなり歌いだした父の歌声は、廊下いっぱいに響きうねっていた。
“―――パチパチパチパチパチ――――――!”
その時だった。暗がりの廊下の奥の方から、奇妙に拍手が届けられた。
『ええっ―――!?』
『程よい響きじゃないか、いいねえ―――。さも感情を抑えた歌い出し、絶妙の間の取り方。いいねえ―――中々のもんだよ。思わず涙ぐんでしまうところだった』
『―――あんた、誰?』
『いいんだ、どうぞ続けてくれよ。もっと聴きたいもんだ。しかし―――、独特の節回しだな。その澄みきった高音といい、どこで習ったのかな?』
『ああっ―――爺ちゃんが浪曲好きでさ、小さい頃から人前で演らされた。おれは特に興味なかったんだけどさ』
『ほう、浪曲ときたか。そりゃ興味津々ってもんだ。どうだ、もっと歌ってくれんだろうか?』
そう言ってその男は、父に歌の続きを強請っていた。やがてうっすらと見え出したのは、老いた男の姿だった。
『なんだ爺さん人が悪いな・・・。居るなら居るってさ、声をかけてくれよ』
『ずっと立っていたさ、君が気づかないだけだ。でも、そのお陰でいい歌声が聴けた。立派なもんだよ、その歳で上海ブルースなんてね・・・。こりゃディックも、うかうかなんてしてられないなあ』
『へえ―――、ディック西の唄だったんだ。どうりで流行ってたはずだよな』
『なんだ、知らないで歌ってたのか―――。歌い手には興味はないのか、君は?』
『そうだな、あんまし』
『自信があるんだろうな、さぞかし君の歌声には』
『自信がなけりゃ人前でなんて歌わないよ。そうだろ?』
『ははっ―――、そりゃあもっともだ。中々、意見してくれるじゃないか。噂どおりの怖いもの知らずだな、―――小森君』
その老人の思いもかけない一言だった。
『ええっ!、あんた・・・誰だよ?』
『君も知っての通り、秋山の父親だよ―――。君のことは散々、聞かされたよ。昭二のやつ君にぞっこん偏ってしまっててな、そりゃ有頂天になってやがる。まるで恋人でも見つけたような騒ぎだ、はははっ!』
秋山さんの父親とは、さっき神部が言ってた、“会長”のことだった。その会長に向かってこともあろうに父は、変わらず生意気を披露していたのだ。
『ってことは?。あんた、もしかしてお偉いさん?』
『そうだ偉いぞ!。ずっとこの会社を、社員を守って来たんだものなあ』
『へえ、そりゃ大したもんだ。で、歌はどうなのさ、上手なの?』
『うっ、そうきたか―――。こりゃ参ったなあ。さすがに君ほどの力量はないが、歌は大好きだ。これは誰にも負けやせんぞ。私の自負するところだ』
『そうか、やっぱお偉いさんの言うことは含蓄があるねえ。あの神部とかいうおっさんとは比べ物になんないね』
『会ったのか神部と?』
『ああ、さっき会議室で秋山さんと喧嘩してたぜ。おれの料理方法でさ』
『何て言ってた、神部は?』
『確か、今、売れるのはムード歌謡だって、言ってたなあ・・・』
『で、昭二は何と反論したのかな?』
『洋楽でおれを推したいって、そんな風なこと言ってたような』
『そうか、そう言ってたか』
『何か問題でも?』
『いいや、私が間に入ると話がややこしくなる。ここはあの二人に任せよう。今からの会社を背負って立つのは、あいつらだからな』
『ふーん、そうなんだ。ところでさ、ひとつ訊いてもいい?』
『何だ、私にか?』
『あんたはどう思うよ?。おれはどっちを歌ったほうがいい?』
『・・・さて、どうしたもんか―――。それでは私の方から訊くが、君はどっちを歌いたいんだね?』
『おれはどっちでも構わない。人前で好きな歌が歌えんならなんだって歌うさ。文句の言えない立場だってことは百も承知だ』
『ほう・・・。どうやら答えは出たようだな。あとは奴らに任せるとしようか』
『任せるって、大丈夫かよ。あの二人ぎくしゃくしてるんだぜ?』
『小森靖志よ―――!。いいか、どんな歌だろうが迷わずに歌うことだ。自分に与えられた楽曲を己の命と引き換えにでも歌う。それ位の覚悟が必要だぞ!。しかし、決して商業主義にはなってはならんぞ。聴く者の心に響かすんだ。さっきのお前さんの歌声が、私の心を響かせたようにな。それだけは忘れるんじゃないぞ!。―――いいな』
『―――あ・・・ああっ』
『それでは私は失礼するよ。小森ゆうじくん』
『えっ・・・?』
『そうだ言い忘れてたよ。君の歌手名、私が勝手に決めさせてもらったよ。“ゆうじ”って名前は気に入ってもらえたかな?』
『ああ―――良い・・・名前だな』
秋山会長の気迫に押されたのか、父は言葉を呑んでしまっていた。歌の全てがまさに人生そのものを示唆させる、秋山会長の静かに重いその言葉に、父はしばらく呆然としていた。
『・・・心に響かす・・・かあ』
歌い手にとって最も大切なその言葉を、父は漠然と心に押し込んだ。若さだけが頼りの父にとっては、未開の地にも等しい言葉だったに違いない。
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その日の夜、父はいつものように多嶋屋に席を取った。それは秋山さんとの打ち合わせも兼ねてのことだった。
『親父さ、塩さば定食にしてよ。それとご飯特盛りね!』
『汁はどうするよ、靖志』
『ああ、豚汁がいいな。それも特盛りでお願い!』
『かあちゃん、どんぶりで入れてやってくれよ。いいな』
『相変わらずの食欲だねえ靖っちゃんは。見てて気持ちいいよ、ほんと』
『お―――い靖志!。どうだい歌の勉強のほうは上手くやってんのか―――?』
父に向けて店の奥の座敷から常連のおっちゃん等の声が届いていた。
『もちろんさ松田さん。絶好調だぜ!。楽しみにしててくれよな』
『頼もしいねえ。こっちまで嬉しくなっちゃうぜえ。なあ皆―――』
『靖志―――っ!。おめえの後援会の会長は俺でどうだろうな?』
『馬鹿野郎っ!。お前に会長が務まるもんかい。調子に乗んなって重雄よお!』
『そうかあ・・・?、どうしたって俺が適任だと思うけどなあ』
『そんなことより、もっと飲めよほらっ!』
夜の多嶋屋は、酒飲みの常連客の隠れ家でもあった。
『靖志よ、お前も飲めんだろ。どうだ一杯』
『いいの?、松っちゃん!』
『へへへ、遠慮なんていいよお。親父―――ビール、ビールやってよ靖志にさ!』
『はいはいビールね。―――はいよ!、こちらも特盛りでね!』
『あんたは調子に乗らなくていいんだよ。ったく・・・』
『お前は出しゃばんなって!。乗りが大事なんだよ、判ってねえな!』
『・・・どっちでもいいけどさ、さば焦げてない?。親父』
『おおっと、危ねえや!。折角のさばが黒焦げになるところだったよ。すまんな靖志』
秋山さんと初めてここを訪れて以来、父はまるで本当の親のように親父さん夫妻を慕っていた。ここ多嶋屋を訪れる客の大半も、そんな父のことを手放しで応援してくれていた。
『それにしても秋ちゃん遅いよなあ?。一体、何してんだか』
『おれのことで揉めてんじゃないかな。険悪な雰囲気だったけど』
『誰と揉めてんだよ、ええっ?』
『気になる?』
『あったりめえだろう!。秋ちゃんを敵に回すなんてよ、人の道理が判っちゃいないってことだ。そんな奴に付き合わされたんじゃ時間の無駄ってもんさ。秋ちゃんも堪ったもんじゃないよな!』
『そうだろ――っ、とにかく生意気でさその野郎。おれも頭にきたからさ、余計に一言いってやったんだ。ざまあねえって―――』
『へ―――どこのどいつだよ一体。ああん?』
『うん、神部って奴さ』
『えっ―――神部っ・・・て?』
一瞬、親父さんの声が裏返っていた。それは心当たりのある戸惑いの声でもあった。
『神部って―――あの神部さんかい・・・?』
『あのって、他にいるのか?、神部って』
『靖志よ、あのな・・・、よ――く考えて言うんだぞ。いいな―――もう一度訊くからな。秋ちゃんと揉めてたっていう男はだな・・・、何ていう・・・男だったかなあ―――?』
『ああ、神部だよ。どうも秋山さんの先輩らしい』
『・・・ああっ・・・、そうなんだな』
『どうしたの、親父?。顔色よくないぜ?』
『靖志――っ!、おめえすぐに頭下げて来いっ!。その―――神部さんに、今すぐ謝って来い―――っ!』
親父さんの尋常でない叫び声に、まだ父は状況を飲み込めないでいた。
『何だよ急に―――、おれは間違ったことなんて言ってないぜ。なんで謝らないといけないんだよっ!』
『あのな・・・靖志。間違ってるとかそういう次元じゃねえんだよ。おめえは今、秋山さんの下から世に出ようって時なんだ。その大切な時にだな・・・、敵を作っちゃあなんねえんだよ―――』
『敵って、神部って奴のことか?』
『そうだ、神部雄一郎―――。トウチクレコードきっての敏腕プロデューサーだよ。あの人のさじ加減ひとつで、売れる売れないが左右されるってほどさ。あんな人を敵に回してみろよ、おめえなんて造作もねえって・・・』
『へえ、そんな大そうな男には見えなかったけどなあ』
『いいから、一刻も早く頭を下げるこった。さあ!』
『・・・やだね、おれは自分の主張を曲げることはしない主義なんだ。人に頭を下げるなんてお断りだよ』
『そんなこと言ってる場合じゃねえんだぞ!。てめえのことばっか考えやがって。おめえは秋ちゃんの夢を台無しにするっていうのか?。おめえに託したあの人の夢を、いいや!。俺たち夫婦の夢をも壊そうっていうんだな!。このおお馬鹿野郎が―――っ!!』
『そうだよ靖ちゃん!。あんたの晴れ姿が、あたしたちの夢なんだよお。あたしたちばかりじゃないさ。ここに来てくれているお客さん全員が、あんたを夢見ているって、気づかないのかい!』
『おばちゃん―――』
『そんなろくでなしとは、付き合いきれないね。そんな子に飯を食わせる義理もないんでね、とっとと出て行ってもらおうじゃないの!』
『ち、ちょっと待ってよ―――。そんなに深刻な問題なの?』
珍しく、父が身を乗り出して言い迫った。
『おめえはまだ知らないけどよ。今まで秋ちゃんの連れてきた若い衆の末路なんてさ、哀れなものだったさ。そりゃあ自信家の集まりだったからな、お山の大将って奴ばかりでよ。今のおめえみたく、他人の言葉なんてどこ吹く風さ。けどな、歌の世界ってそんなに甘くはないんだぜ靖志。辛いのはどこの世界も一緒だと思うけどよ―――特別だな、ありゃあ・・・』
親父さんの嘆きは、そんな父の無鉄砲さを戒めていた。
『判ってらあ。おれだって、今まで楽に暮らしてきた訳じゃないんだぜ。もう歌なんて辞めようかって、何度、考えたことか知れないよ―――』
『靖志、おめえ・・・』
『強く生き続けるためにはさ、自分を守れる言葉が大事なんだよ。生意気だろうがなんだろうが、武器をもたなきゃいけないんだ。学の無いおれみたいな者には、それしか無いんだよ』
『そうか、今のおめえの話は俺たちがしっかりと聞き受けてやるぜ。だからよ、靖志・・・。ここは大人になれ、おめえの将来のためにもよ今日だけは秋ちゃんのた―――』
―――『いいんだよおやっさんっ!。―――それ以上は野暮ってもんさ』
突然のその声の持ち主は、秋山さんだった。
『あ、秋ちゃん!。いつの間に―――』
『筒抜けだなこの建物は・・・。多嶋屋での密談は、控えたほうが無難なようだね』
『秋山さん―――』
さっきまでの険悪な雰囲気が、秋山さんの登場で一気に吹き飛ばされていた。
『靖志、何食ってる?』
『ああ、さばの・・・塩焼きさ』
『親父、僕にも同じものを。それと熱燗を二合で』
『・・・?。熱燗って、秋ちゃん飲めないんじゃなかったっけ?』
『ひと口くらいはいいだろう?。気持ちのいい日なんだ、今日はね』
『揉めてたんじゃ・・・ないのかい?』
親父さんが恐るおそる、秋山さんに問いかけた。
『揉めるって、何のことだろう?』
『あっいやっ―――、靖志がそう言ってたからさ、てっきり、誰かさんと・・・かなってなあ・・・?』
『意外とお喋りなんだな靖志は。何でもないさ、仕事での衝突は今に始まったことじゃないんだ。時にはお偉いさんとも、やり合ったりもするさ』
『―――言ってくれよっ!。おれが原因なんだろ?。だから、神部って奴と揉めてたんだよな!』
『落ち着けよ靖志。お前が気にすることはないんだ。お前の素性はすでにこの業界の一部では有名なようだ。生意気を絵にしたような若造だってね。恥ずかしいけど、知らないのは僕だけみたいだよ』
『あっ・・・そう・・・』
『―――ところで、幾つの会社を蹴ったんだ?。今まで』
『はっきりと覚えてんのは、六つかな・・・。でも、蹴ったんじゃないぜ!。向こうから一方的に解雇さ。話になんねえや!』
『レコーディングはしたのか?』
『いいや、そこまでは』
『じゃあ、どこまで?』
『面接で歌って褒められて。それだけさ』
『ふ――ん、それだけねえ?』
『ああ―――。事務所に顔を出してさ、お茶を飲まされて・・・確か偉そうなおっさん連中の相手をしたな』
『それで話はまとまった。それでいいか?』
秋山さんはまるで誘導尋問のように、父の話を誘い出していた。
『まとまる訳ないじゃん。まるでおれのこと判っちゃいないんだぜ、あいつらさ』
『判っていないって、どういう風に?』
『どういうって―――そうだな、流行の歌で好きな曲はあるか?、とか、どんな歌い手を目指してるんだとか。おれは別に人に頼んないからさ、答えようがなくて。だから言ってやった。“おれにどんな歌を歌わせたいんだ”ってさ』
『そしてついに、お前の―――、“いい加減にしろ”、かあ?』
『判ってんじゃん秋山さん!。つまらない話にはうんざりでさ、つい喧嘩腰になっちまうんだ。当然、相手はおれみたいな野良犬は御免だってね。契約どころじゃない』
『靖志、お前の本音を訊こう。どんな歌が希望だ?。どんな歌だったら僕に応えてくれるんだ?』
秋山さんは父の右肩にしっかりと手を置き、覗き込むように父を凝視していた。
『どんな歌だって歌ってやるさ。自分に与えられた楽曲は、つまり、おれ自身の命みたいなものだからな』
『―――そうか、そうだな』
多くを語らない秋山さんは、それでも満面の笑みを浮かべていた。
『おやっさん、早く熱燗出してよ!』
『おおっとごめんよ。へへっ―――』
父と秋山さんの前にふたつのお銚子が並べられた。それに向けてなみなみと熱燗が注がれた。
『靖志、乾杯だ!』
『えっ、何のための?』
『お前と僕の未来にだ。駄目かな?』
『ちょっと待っておくれよ!、秋ちゃん。折角なんだからさ、全員で乾杯しようや。なあ、皆よ!』
『そうだぜえ!。二人きりなんて野暮なことはよしてくれよお。俺たち全員の夢なんだからさ、靖志の晴れ舞台はよお!。秋山さん、独り占めはずるいぜえ!』
『そうだよ、水臭いなあ!』
『さあさあ、全員立った、立った―――!』
『え――っ、小森靖志くんと、秋山昭二さんの・・・。いや、こうなったらここに居る全員のだな、え――っと、明るい・・・あ――っ、将来・・・にだな―――』
『なんだよ親父ぃ!。早くしろよ!』
『ええい!、判ってらあ、うるせえなあ。とにかくよお、乾杯―っ!』
『乾杯――っ!』
父と秋山さんの門出を、多嶋屋の全員が祝福してくれた。それはそれは、盛大なる出発式だった。




