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秋山さんと、多嶋屋。

―――“When The Saints Go Marchin In――”

なんと流暢に歌いだした曲は、デキシージャズの名曲。あの、“聖者の行進”だった。

先ほど苦情を申し入れていたその客といえば、“きょとん”としていたかと思うと、やがて手拍子の渦の中心となっていた。

気づけばホール全体の客が、総立ちでスイングを愉しんでいた。

額に汗を滲ませながら、父の熱唱は数分間続けられた。それは嬉しそうに、父の眼はとても輝いていた。


―――圧巻だった。わずか18歳の男がここまで客を引き付けるなんて芸当は、ピアノ奏者の小田成二でさえ想像もしていなかっただろう。最後の鍵盤を叩き終えた時の彼の目線は、目の前の父以外を見る由もなかった。

両手を大きく翳した父の誇らしげな顔は、まるで大スターのように観客の前に映し出されていた。

鳴り止まない拍手の中で、素に戻った父が照れくさそうにマイクを抱きしめていた。

『あ・・・うん・・・。ありがとう―――。皆さん、ありがとう!』

礼を済ませ深々と頭を下げる父に、ある一人の客から声が掛かった。

『ねえ君、もう契約してるのかい?。どこかのレコード会社と』

その男は、さっきからピアノばかりを睨んでいた紳士だった。背広姿のよく似合う、40歳前後の男が穏やかな顔つきで父に声を掛けた。

『えっ、レコード会社って―――?』

『そうか、まだのようだね。それは好都合だ―――。あとで話せるかな、待っているからさ』

言葉運びから察すると、その男はどうやらレコード会社の関係者らしかった。

『靖志、もう上がっていいぞ。あとは俺が流すからさ』

演奏を終えて腕を組んでいた小田成二が、やはり、“にんまり”と笑っていた。

『あ、ありがとう成二さん!』

火照った身体を冷やすかのように、さっと上着を脱ぎ捨てた父は、その紳士の下に駆け寄った。

『いったい、話ってなんだよ?』

『まあ、そうせっつくなよ。それより時間はいいのかい?』

『ああ、今夜はもう終いだから、あんたの好きにしていいさ』

『はは・・・。なるほど噂どおりの生意気さだ。しびれるよ、実際―――』

『噂どおり―――?』

『ここじゃ話しづらいだろ?。場所を変えよう』


そう言ってその男は、父を外へと連れ出した。

店を出てからしばらくは、さして会話もあるわけではなかった。

『どんだけ歩かせるつもり?、―――あんた』

その男の後ろについて歩いていた父には、宛も無くただ通りを歩いているだけのように見えたのだろう、しびれを切らして父が背後から喋り掛けた。

『腹減ってるだろう?』

『―――。確かに』

その男の会話は、明らかに夕食への誘いだった。

『その角を曲がれば、美味い飯屋がある』

『―――ああ』

『魚は好きかい?』

『ああ、好きだ』

『肉はどうだろう?』

『ああ、もっと好きだ』

『そうか、満足させてやれそうだな』

お互いの淡々としたやり取りに、特段、違和感もなかった。父の機嫌を損ねることなく見事にその男は流れを保っていた。いや、その男の持つ親密感に父が従っていたという方が、自然な見方のようだった。


路地の角を曲がると、その男の言ったとおり一軒の店が二人を待っていた。店の暖簾には、“多嶋屋”の文字が張り付いていた。しかし、その店の外観からはどう見ても料亭には程遠かった。

『さあ、入りなさい。遠慮はいらないから』

『ここって、定食屋じゃんか?』

『そうさ、飯屋って言っただろう?』

『魚とか、肉とか言ってたよな』

『勿論、両方とも揃っているさ。―――何か?』

『いやっ、てっきり』

『まあ、ここまで来たんだ。とにかく入んなさい』

父のがっかりした顔が目に浮かぶようだった。きっと豪華料亭の膳が、脳裏をかすめていたに違いない。

『ああ、そうだな―――』

豪華膳ではないにしても、ただで飯に有りつけるという打算だけが父の内心を堰き止めていた。

『いらっしゃい!。秋ちゃん』

『どうもおやっさん、いつも世話になるね。活きのいい子連れてきたから、どうか面倒見てやってよ』

『おや、今度は長続きしそうかい?』

『そんなことは判んないさ。だって、まだ素性さえ判っていないんだからね』

得体の知れない会話が父の頭上を飛びかっていた。ただひとつだけ判ったことは、その男の呼び名は、“秋ちゃん”と、だけだった。

『へえ――っ、結構、しぶとい眼してんじゃないかよお。それに男前ときたもんだ。中々のもんじゃねえのかよ、秋ちゃんさっ!』

『だろ?、僕もそう思ってね、早速連れて来たってわけさ』

『―――どうでもいいけど、ここ、座ってもいいのか?』

店内を見回しながら父は、いつもの無礼を披露した。

『ああ、どうぞ好きなところに座っておくれよ。と言っても狭い店だもんな、勘弁しろな、あんちゃんさ!』

『ふ―――ん』

そのおやっさんの声を頼りに、父はカウンターのど真ん中に席を取った。飯時を外していたせいか、店内は貸切状態だった。

『さあ、好きなもの頼んでいいんだよ。ここは何を食べても美味しいからね』

『―――玉子焼きと味噌汁。あと、ご飯大盛りで』

品書きを眺めるわけでもなく、父は簡単に注文を済ませた。

『おや、そんなんでいいのかい?。刺身だってあるんだぜ、あんちゃんさ』

『いいや、どうせ金なんて持ちあわせてないしさ』

『お金の心配なんていいんだよ。私が招待したんだからね』

秋ちゃんという紳士が、もっともらしく父を諭していた。

『―――。素性の判らない男の言葉に甘えるほど、おれは善良でもないんでね。あんた、名刺くらいあるんだろ?』

『ああっ―――忘れてたよ。そうか、まずはそっちからだよね』

生意気な若輩者にまんまと指摘されてか、その男は慌てて背広のポケットから名刺を取り出した。

『失礼!。私はこういう者だが』

『んん―――?トウチク・レコードって、あの―――』

『そう、いちおう業界では大手の会社のつもりだ』

『宣伝営業部、部長―――秋山昭二』

父に渡った名刺の肩書きにはそう記してあった。、

『あんちゃんさ、この人結構、偉い人なんだぜ。感謝しなきゃなあ』

おやっさんが得意げに父に絡んだ。

『ああ、ご馳走になる。ありがとう』

『そんなことを言ってるんじゃねえよ、判ってねえなあ―――あんちゃん。おめえの歌に惚れたんだよ。つまり、スカウトだよ!』

『そんなこと判ってるって。あの状況でこれだ、判らないほうが野暮ってもんさ』

『いちいち腹に溜まんだよな、おめえの喋り方は―――。軽々しく大人を敵に回すもんじゃねえよ』

『軽々しいなんて思っちゃいないさ。ただ、やり方が気に入らないんだ。優位的立場ってやつだろ、つまり―――。レコード会社関係者の肩書きで声を掛ければ、誰でものこのこと着いて来る、そこで飯でも食わせりゃなんてさ、どうせそんなとこだろうぜ』

そんな父の悪態は止まらなかった。

『小森靖志くんだったよね。誤解してもらいたくないんだ。私は君の歌に興味を示した、ただそれだけだ。そして君を知るためにこの店に連れて来た。私にとってはね、この店は一番安心出来る場所なんだよ。少々、小汚なく見えるだろうけど』

秋山という男は落ち着きはらった言葉で、父の誤解を解とうとしていたのだろう。

『小汚いは余計だよ―――。だけどさ、ほんと正直な人間だよ、秋ちゃんはさ』

『―――。おやじさんはこの人と長い付き合いなんだろ。で、どうなのさ、信頼出来るかそうでないか。もしくは二人しておれのことを担いでんのか―――』

この店に着いてからの父の言葉は、まるでスカウトを否定するかのように角が立っていた。レコード会社からの、しかも営業部長から声の掛かったお誘いに、どうして素直に喜べないのだろうか?。

『いいかい小森君、単刀直入に言うよ。君の歌で萎縮してしまった昭和を、この国を変えてみる気はないかい?』

『おれの―――歌でか?』

『そうさ。さっきの君の大胆な歌声が客の心を掴んだように、この国の萎んだ民衆の心を活気つけるんだよ。いいかい、私には鮮明にイメージ出来るんだ。君の歌声は必ずこの国を走破する。間違いなく私にはそう思えたんだ。どうだろう?』

『どうって、言われてもさ・・・。おれには現実味薄いな・・・』

東京に夢を求めて出てきた父にとって、得るもののないここでの暮らしには、すでにうんざりしていた。

それと言うのも、過去、幾度となく持ちかけられた甘い話に、悉く裏切られていたからだった。そんな傷を負った父にとって、今更、夢の咲く場所をなんて口説かれても、それは想像すら皆無に等しかった。

その日暮らしに追われる多くの若者は、足元の轍を気に留めるばかりで、遠く彼方に灯る希望を、叶わぬ夢と見とれていたことだろう。

『小森君、ここに現実があるんだよ―――!』

そう言ってしっかりと結ばれた秋山の口元には、迷いなんて微塵も見えなかった。

『現実―――?』

『そうだ、今の君は光り輝く場所に立とうとしているんだよ』

『おれがそうだって言うのか?』

『も――う、じれったいんだよなあ!。おめえが首をたてに振ればさ、ここは問題なく落ち着くってもんさ。いつまでだだこねてんだよっ!』

堪らず親父さんがけし掛けていた。

『今までにさ、おれ―――』

そう言いながら、父は次の言葉に詰まっていた。

『んん・・・?。どうしたよ、よっぽど腹すかしてんのか?。ああん?』

『―――そうじゃない。おれさ、今まで偉ぶった大人たちの嘘ごとには散々な目に遭ったからな。だからどうしても疑う癖が抜けないんだ。今のあんたたちのことだって、正直、喜んでなんかいられないって、そんな心境さ―――』

そんな父の正直さは、生意気を差し引いてみても天下一品の代物だった。対人関係における駆け引きなんて持ち合わせてもいなかったのだ。

『そうなんだね―――。評判の良くない連中の話は、私も時々耳にすることがある。正式な契約書も交わさずに、ろくな賃金も与えないってね。歌を志す若者を愚弄するばかりか、潰しに掛かっているとしか思えないよ。まったく馬鹿な話さ』

父の後に、秋山という男が嘆きの言葉を重ねていた。それはまるで父の思いを庇うかのように、とても優しく響いた。

『秋ちゃんはそんないい加減な男じゃないぞ!。なんなら俺が誓ってやってももいい。今のおめえのことを一番考えてんのはよ、何を隠そうこの秋山昭二以外にいやしないってっ!』

親父さんが力強く父を諭した。

『―――信じていいんだよな』

『あったりめえよお―――!。いいかい、人間ってな―――信じることで救われるもんなんだよっ。おめえの言うように確かに悪い奴らも大勢いるさ。けどな、善い奴らはもっと沢山いるんだ。まんざらでもねえぜ、この世の中もさ―――!』

さらに親父さんが確信強く声を張った。

『おっと―――玉子焼きあがったぜ。ほら、大盛り飯だあ。ああ――かあちゃん、味噌汁出してやってくれよ!』

『はいよ、お待っとうさん』

厨房の奥から、おかみさんらしき人が顔を出した。

『おや、随分と若いお客さんだねえ。しかも男前だよ――。いい子連れて来たんだねえ、秋山さん』

親父さんに次いで、おかみさんんも同じように父の風貌を褒めていた。

『けど、すっきりしない顔が気になるねえ、一体、どうしたっていうの―――?』

すかさず、おかみさんが読み取った。

『いいんだよ!。おめえが口を出すとろくなことがねえ、黙って奥に引っ込んでなよ。おっ、そうだ、いい肉があったろかあちゃん。この子に焼いてやんなよ、少々の量じゃ足んねえからな、判ったな―――!』

『はいよ!。ごめんねお兄ちゃん―――、この通り口の悪い人でさ。悪気は無いんだよ勘弁してやっておくれよ』

『ああ、そうだな』

『おめえ、“やすし”って言ったよなあ?』

『ああ、そうだけど』

『どんな字を書くんだい?』

『―――靖国の靖に、志って書く』

『へえ、国を案ずるを志すかあ。立派な名前じゃねえか。故郷は何処だい?』

『熊谷さ、埼玉の』

『ご両親は二人とも達者かい?』

『親父はとうの昔に死んだよ。お袋は独り暮らしだけど、まだ元気さ』

『そうか、母親は独り暮らしか。で、兄弟はどうした?』

『へっ、兄貴が二人いたけど―――。戦争に持って行かれてしまってさ、おれだけ残ったんだ』

『―――そりゃ、寂しいよな』

『今時、珍しい話でもないだろ?。どこの家だって同じようなもんさ。気にしないでよ、おやじさん』

父が他人の言葉に気遣うなんて珍しいことだった。自分中心が売り物で、他人に干渉されない生活を散々送っていたのだから。

『ここじゃさ、おめえの親と思ってくれていいんだぜ。なあ、靖志よ!』

『そうだよ、遠慮しなくていいからね。でも、こんな無愛想なひとでごめんよお兄ちゃん。もっとましな人がいれば、なんてねえ・・・』

『いやっ―――、そんなことないさ』

『かあちゃん!、余計な口をはさむんじゃねえって!。ところで肉はどうした、腹すかしてんだよ靖志はよお!』

『ちょっと―――。穏やかにやろうよ、お二人さん』

秋山さんが呆れて言葉を入れた。目の前の会話に、口元を緩めている彼の面持ちからは、どこか信頼出来る人間の匂いがしていた。

『小森くん、まあこんな店だけど出入りしてやってくれよ。確かに味は私が保証するから』

『ああ、そうする』

『秋ちゃん、俺たちの人柄も保証してやってくれよお。なっ』

『えっ?、それも保証対象なのお、おやっさん?。う――ん、どうしたもんだろうね』

『―――。かあちゃん、秋ちゃんのお茶下げていいぜ。ったくよ』

『冗談―――、冗談さ。そんなにふくれないでよ、おやっさん!』

『―――なんてね、わっはっはっは―――っ』

豪快に店内を駆け巡る親父さんの笑い声は、とうに錆びついていた父の心に、しばらく振りの笑顔を作ってくれていた。

若くして埼玉の田舎町から、東京に憧れを抱いて上京してきた父にとって、この街には気の休める場所なんて無かったのだろう。

『調子いいよな、相変わらずさ』

『めずらしく秋ちゃんの嬉しそうな顔にさ、俺も黙っていられねえって――-。そうだろ、なあ?』

我が夢をおぼろげになぞりながらも、いつしか夢の叶えられる瞬間を父はじっと待っていたはずだ。その待ちわびた瞬間こそ、ここ多嶋屋にあったのだ。

『けど秋ちゃんさ、この靖志はどこか違うぜえ!。俺には判んだよ、こいつは大きな世界に羽ばたく人材ってさあ―――、そう確信するね』

『おやっさん・・・』

『さあさあ乾杯だっ―――!。靖志と秋ちゃんの前途揚々になっ!』

多嶋屋の親父さんの浮かれようときたら、半端を許してはいなかった。それほど本気で父のことを愛してくれていたのだろう。

『小森くん、君も何とか言ったらどうなんだよ?』

『えっ―――、ああっ、世話になるね・・・親父さん』

『へへへっ、どういたしまして。こんなもんでよけりゃいつでも任せてくれていいんだぜえ』

止まない親父さんの豪快な歓迎に、硬く人間不信を募らせていた父の心も、きっと心緩んだに違いない。

ここ多嶋屋の親父さんにしかり、そのおかみさんの打算の無い会話の中には、安心の二文字がくっきりと浮き出ていた。


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