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伯父の家

”家出”のリメイクです。

『ちょっと待ってよ、お兄ちゃんっ!』

坂道の途中で堪らず、僕は立ち止まってしまった。

『あのなあ、遅いんだよおまえわあっ!。ちゃんと着いて来いよっ!』

兄は、簡単にそう言ってどんどん先を登って行く。

『前だけを見てりゃいいんだ、つまんないこと考えてんじゃないぞっ!』

そう言いながら、さも面倒くさそうに兄は僕に向けて言葉を放り投げた。

ずるいに決まってる。僕より三つ年上の兄は、体格だって相当差があるのに。そう思いながら、ふと目の先の空を見上げると、そこには夕陽に染まった雲の大群がゆっくりと東へと走り始めていた。

『ぼやぼやしてると日が暮れるぞ!、早くしろよっ!』

兄の威勢に合わせてか、向かいの杉の木の軍勢がざわざわと騒ぎ始めた。

―――それが何かしら怖くなって、駆け足で兄の下に近付いた。目的地の伯父の家までは、まだ遠く距離を残しているはず。

残暑に揺らめく風を感じながら、不安でいっぱいの僕は兄の腕をつかんだ。

『だらしないぞ高志っ、おまえ男だろ―――?』

乱暴に僕の手を振り払うと、兄は疲れ知らずの足を踏み出した。

『お兄ちゃん待って!』

本当は泣き出したいくらい怖かった。それでも仕方なく兄の背中を夢中で追いかけていた。

置いて行かれるのが怖かったのではなく、兄に着いてきたことがとても不安だったからだ。

夏休みを僅かに残したこの日、それは僕たち兄弟の初めての家出だった。



随分と暗くなってから、ようやく僕たちは川越市の伯父の家に辿り着くことが出来た。

『―――何だ、どうしたんだ、お前たちっ!?』

前触れもなく突然の僕たちの訪問には、出迎えてくれた伯父にしても、さすがに驚いていたようだった。

『おじちゃん、今晩泊まっていくから』

困惑否めないはずの伯父の顔を見るなり、兄は結論から入り込んだ。

『おいおい―――、泊まっていくってもよお・・・。な、なあ強志、何があったんだ?。それより、お袋さん知ってんのか?』

『ふう―――っ、どうでもいいからさあ、泊めてくれよなっ!。いいだろっ!?』

ふて腐れたように兄が、無造作に背中の荷物を土間に放り出した。

『まさかお前たち―――、黙って出てきたんじゃないんだろうな・・・?』

『ああ、そんなとこさ』

『強志、まさか―――』


『その―――まさかさ。だって歩くしか手はないだろう。おれの小遣いなんてたかが知れてるし』

『そんな無鉄砲でいい訳ないだろ―――っ!。なあ強志、お前まさか―――、また何か仕出かしたのか?』

そんな伯父さんの心配ごとは、つまり兄の無鉄砲さを危惧してのものだった。

『ねえ―――、一体どうしたのよ、あんた?』

と、その時だった。奥の部屋から怪訝そうに伯母が覗き込んできた。どたばたと押し寄せた僕たちの気配は、尋常ではなかったみたいだ。

『おばちゃん今晩泊まっていくから。いいよな?』

『え―――っ、強志なのかい?。まあ、高志もなの―――?』

『おばちゃん見れば分るだろ、そんなに驚くなって』

『何言ってんのさ、こんな時間に驚くなって言うほうがおかしいじゃないよお』

確かに伯母の言い分は間違ってはいなかった。

いくら身内とはいえども、前触れなき訪問は失礼に当たるというもの。しかも夜の9時過ぎの訪問なんて、歓迎には程遠かった。

『ねえ、泊まるって・・・、母さんには言って出てきたの?。そうなの強志?』

『あ――あ、二人して同じこと聞かないでくれよ。出てきたんだよ今朝、つまり家出さ』

『家出って―――、お前どうして?』

伯父の心配事は、やはり的中していた。

『高志もかい?、どうしてさ』

『ああ、おばちゃん、高志は着いてきただけ。原因はおれだからさ。ところで腹減ってんだ、何か喰うものある?』

『そりゃあるけどさ。どうしたって言うの、みっちゃん心配してるだろうにさ。連絡しなきゃね』

『やめてくれよっ!。それだったら他所行くから、おれ』

幾分やけになってる兄は、冷静な判断が出来ないのだろう。伯父の家以外に行く処なんてあるはずが無いのに。

『こんな時間から出て行って何処に行くつもりだよお?。そんな無茶言って・・・』

『だったら連絡すんのやめてくれよ。明日の朝には出て行くから。ねえ、飯食わせてよ、いいだろ』

兄の開き直り方はというと、むしろ脅しにも似た語り口だった。

そんな兄の機嫌を窺うかのように、伯母がしぶしぶ奥の台所から用意したものは、大きく握られたおにぎりと、大きく切られた沢庵だった。

よっぽどお腹がすいてたんだろう、兄はにぎり飯をただひたすら口に詰め込んでいた。

『高志、お前どうした?。腹減ってないのか?』

『あ・・・、うん。あんまり・・・』

放心状態の僕を心配してか、伯父が僕の前ににぎり飯と沢庵を差し出した。

『ところで強志、家を出て何処に行くつもりなんだ?』

伯父は家出の原因を訊くより先に、明日からの心配をしてくれていた。この状況で原因を訊いたところで野暮に思えたのだろう。

『親父の処、鎌倉さ』

『えっ!、鎌倉―――??。親父の処って、生きてるもんやら死んだもんやら判かんないだろ?、強志』

『生きてた。あいつ、鎌倉のバーで働いてた』

『誰から聞いた!』

『親父の昔の連れって奴から、聴いた』

にぎり飯を貪りながら、淡々と兄は答えていた。

『で、お前何しに行くんだよ?』

『金せびりに行く。つまり慰謝料さ』 

『慰謝料たって、そんなもの奴が払うかどうか』

『払ってもらう。絶対っ!』

兄と伯父の会話から察するとおり、僕たちの父親は十年前に家族を捨てて出て行ったのだ。それからはずっと音信不通で、もう父は死んだも同然の存在だった。母もそれから一言も、父のことに触れなかった。

その気丈な母を見ていた僕たちも、やがて父親という存在を諦めるようになったんだ。

『お袋さんも知ってるのか、そのこと』

『ああ、だから喧嘩した。つまり家出ってことさ』

『強志さあ、あんたまた突拍子なことしてえ・・・。みっちゃんの事も考えてあげなさいよ。どんだけ苦労したか知ってるでしょ?』

『お袋だけじゃない、おれ達も苦労した。なあ高志』

『えっ?、いや・・・』

残念ながら僕には、苦労したと言う実感はなかった。時々、泣いていた母の後姿をおぼろげながら覚えているだけだ。

『光代も意地っ張りだからなあ、弱音ひとつ言わないんだ。こっちが逆に遠慮しなきゃならない始末だ』

そんな母の気性は、子供の僕たちが一番知っていた。だから、父の話なんて出来るはずもなかった。

『強志、本気で会うのか、親父に』

『そのつもり。どうして?』

『お前たちを捨てたんだぞあの男は。再会ってほど甘くはない、判るだろう?』

『―――だから金で解決させるんじゃないか。そう!、慰謝料さ』

『お前なあ、世間知らずって言うか、度胸が座ってるって言うか、まるで親父にそっくりだな』

『やめてくれよ、おじちゃんっ!。あんな奴と一緒にしないでくれっ!』

眉間にしわを寄せて兄が怒鳴った。そして立ち上がるとすぐに縁側に腰を降ろし、そのまま横になった。

『ご馳走さま』

そう一言吐いて、すぐに寝入ってしまった。やはり兄も疲れていたんだ。僕よりはるかに思い荷物を背負っていたから、相当きつかったに違いない。

『高志、あんたまで何でさ・・・。どうしてこうなっちゃったの?』

伯母が小さな声で僕に尋ねた。

『うん・・・。最初はさ、母さんが行くって言ってたんだ』

ことの粗筋を僕が説明に入った。

『一週間ほど前にね、父さんのことをずっと心配していた友人という人が突然やって来たんだ。その人、鎌倉のバーで父さんを見かけたって言ってた。最初は人違いかと思ったらしいんだけど、よく見ると間違いなく父さんだって言うんだ。人相が恐ろしく変わってたらしい。だからつい声を掛けられなかったって言ってた。それを聞いた母さんがしつこく場所を訊いて、会いたいって・・・』

『それでなんで強志が・・・、会うんだい?』

『うん、今更会ってどうするんだって、母さんを責めたんだお兄ちゃん。そしたら急に母さん口ごもっちゃって・・・。で、しばらくして母さんがお兄ちゃんに言ったんだ、それが悪いこと?って・・・』

そう言えばあの時の母は、精一杯涙をこらえていたように見えた。しかも、あんまりの兄の剣幕に母は、どこか開き直っているようにも見えた。

『で、それからどうなったの?、高志』

『許すなんて甘いことは言うなよなって、お兄ちゃんすごく怖い顔してた。母さんは、そこまで優しくないよって言ってたけど・・・、まるでお兄ちゃんの目を見ないんだ』

そう、母にはどこか浮ついた感があった。父の消息が判って安心したのと、いつかは再会をと、そう望んでいたのかも知れない。

『そしたらお兄ちゃん、おれが行くって。母さんじゃ丸め込まれるから、おれが敵を討つんだって、言い張るんだ』

『今時、あだ討ちじゃないんだからさ・・・』

『母さんも同じこと言ってた。馬鹿も程ほどにしなさいって』

『当たり前さあ、いくら父親が憎いって言ってもなあ・・・。でもよ、強志のあの性格じゃ、やりかねないな。だってこの通り、もう家を出て来てるしよ』

『母さんもお兄ちゃんも、それから一言も喋んないで・・・。今朝、書置きを残して家を出たんだ』

『なんでついてきたの?、高志は』

『だって仕方ないよ!。母さんよりお兄ちゃんの方が怖かったんだもん・・・』

確かに兄の方が怖かった。でもそれは凄んでいる怖さとは違っていた。つまり、何を仕出かすか予測出来ない脅威があったからだ。

『まあ、明日になれば熱も醒めてるかもな。鎌倉まで辿り着けるもんかい!。少々の距離じゃないぞおっ』

『そうだといいんだけどさあ。この子、案外としぶといからねえ』

兄の寝入った背中を眺めながら、明日からの行動がとても心配になった。

『高志は帰ってもいいんだぞ!』

『えっ――!、お兄ちゃん起きてたの?』

不意の兄の言葉に、僕はいささか戸惑っていた。

『どうせおまえが居たって役に立つかどうか判りゃしないんだ。足手まといにでもなったらよ、おれがしんどいだけだしな』

『そうだよ、高志。ここは兄ちゃんに任せておけって』

『そ、そんなあ・・・』

確かに今の僕にとっては救いの言葉だった。鎌倉までなんて想像するだけで嫌気が差すくらいだ。

『それよか高志、家で母さんを見張っといてくれよ。精神状態不安定だからな、何を仕出かすか判ったもんじゃない』

無茶を始めたのは兄の方なのに、その言葉には何故か説得力のある言葉だった。けど、このまま僕だけが家に帰ったんじゃ、母の機嫌をとる羽目にはならないだろうか?。―――そんなのも正直ご免だ。

『行くよ・・・。僕、鎌倉まで一緒に行くっ!』

『どうした、意地になったのか?。おまえらしくないぞ』

『言っとくけどねお兄ちゃん。僕は僕の考えもあるし、男としてのプライドだってあるんだ。弟だからってバカにしないでよね』

『バカにしてるもんか、有りのままを言ってるだけだぞ、何が悪い?』

『それが余計なの。いつもそうだよお兄ちゃんは・・・』

これ以上の反抗は見送った。体力だって口だって、今の兄にかなうわけがない。

『あ――あ、高志にまで背かれちゃったかあ・・・。おれはこの先どうすればいいんだよお・・・?』 

『お兄ちゃん・・・』

本気か冗談かを濁しながら、仰向けになった兄はしばらく無言のままだった。

『ねえ、あたしたちどうすりゃいいのさ。みっちゃんに何て言えばいいの?』

痺れを切らして伯母が言い寄った。

『うん、おれ達のことは見なかったし、そんなことも知らなかった。そう言うことにしといてよ。悪いけどさ、おばちゃん』

『後味が悪いわよお、そんな無神経なことってさあ・・・』

『じゃあ好きにしていいよ。電話でも何でもすりゃあいいさ。あっ、けどさ、うち電話ないから』

『知ってるわよお、呼び出しでしょ。隣の喫茶店だったかしらねえ』

そう、昭和三十年初頭のころは、各家庭にはまだ電話器なんて普及していなかった。ご近所の好意に甘えての、呼び出しが一般的だったのだ。

『明日の夕方くらいにしてよ、電話するんだったらさ』

『どうしてだい?』

『だって足が着くだろ?。警察沙汰にでもなってみろよ、鎌倉になんて行けやしないじゃないか』

『なに言ってる。そんなんならとうに警察が動いてるよ。俺の処に真っ先に連絡がきてらあ。光代もなあ、容認してんだよ。お前らのこと』

『ヨウニンって・・・?』

『見過ごしてくれてるってことだよ』

『はは――ん。母さんのことだ、やれるもんならどうぞってかあ?』

『母親の悪口はよしておくれよ!。あんたたちに判ってたまるかい・・・。どんだけ苦労したか知りもしないでさ、まったく』

『親の苦労だけを押し付けないでくれよ。子供の苦労だってあるんだぜ、おばちゃん。親の勝手な理由で振り回されたんじゃ、いい迷惑だよ』

『なんだって!』

『いいから、もういいからよ早く寝ろ!。強志、明日何時に出るんだ?』

『ああ、六時ころかな』

『金持ってないんだろ?』

『―――正解!』

『ほら、これ持ってけ』

伯父が財布から千円札を三枚取り出し、兄に渡した。

『ええっ!、いいの?おじちゃん!』

『鎌倉まで歩いて行けないだろ?。突っ張るんじゃないよ、強志』

『助かる・・・。ありがとうおじちゃん。おれ、あいつから踏んだくってやるからさ、絶対返すから』

『いいって、期待してなんかないよ』

そう言って兄の頭を小突きながら、伯父は余裕の顔を見せていた。

伯父のくれた三千円なんて、当時の僕たちにとっては相当な額だった。この時代の公務員の初任給が一万二千円だった事を考えると、伯父の思い切った出資には頭が上がらなかった。

『それよか、気をつけて行くんだぞ。ああ見えてもな、光代のやつ相当心配してるんだからな』

『判ってるって・・・そんなことくらい。おれだって子供じゃないんだからさ』

『生意気言うんじゃないぞ。親になってみなきゃあ、判らんこともあるんだ!。まあ、仕方ないな、それが男の子ってもんか・・・』

伯父夫婦の間には男の子供はいなかった。いや、すでにって言う方が正しかった。

三人の娘の他に男の子がいたが、三歳の時に病気で亡くしていたのだ。

やっと授かった男の子を夫婦して溺愛していたと、いつか母から聞いたことがあった。

『明日早いんだ。もう寝ろや!』

湿っぽい雰囲気を誤魔化すように、伯父は部屋を出ていった。

『直哉が生きていれば、あんたたちのいい兄貴分だったろうにねえ・・・』

残った握り飯を片付けながら、伯母も寂しそうに台所に篭ってしまった。

仕方なく兄の隣でしばらくは横になっていたけど、僕はどうにも寝付けないでいた。

外では虫のさえずる声々が、やがて夏の終わりを告げているように聴こえていた。

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