しあわせについて
その日はとても疲れていた。
あのアンポンタンな部長のせいだ……
ダブルブッキングで商談を組んだ上に、先方の専務の名前を間違えたまま、
「○○専務、ゴルフお好きで?スコア100を切る?そりぁすごい!アタシもボーリングなら毎度100切ってるんですがね!エヘヘ」
こんな干からびた太鼓しか叩けないなら、飾りでも黙って座っていればいいものを……
あげくの果てに、
「あぁ今日はシビレたなぁ。困難万事塞翁が馬。乗り越えられん試練など来んもんだなぁ。なぁ、▲▲君」
とすべてをなんとか仕切り終えた僕に、チンプンカンプンな言葉。
経理の女の子が、そっと熱いお茶を入れてくれたのが救いだった。
「まったく、あの部長はいつもそうなんだよ。人の労働意欲を削るのが仕事だと思ってやがる!」
ビールを飲みながら、つい愚痴が出る。
聞いているのかいないのか、咲子はリビングでTVのお笑い番組に見入っている。
いつものことだ。
「なんで社長はあんな人に部長やらせてるんだろう?いつかきっと致命的なミスするぜ」
僕は手酌で缶ビールをグラスに注ぎながら言った。
「でもさぁ、企画にいる◇◇っていうエリアマネージャーさぁ、あの人はできる人さ。知ってる?前に話したっけ?」
僕は咲子の背中に語りかける。
「女性だけど頭の回転よくてさぁ、仕事には厳しいけど、部下の面倒見もよくって、みんな仕事はキツいけど生き生きしてんだ。彼女はウチの出世頭だしね」
帰り道に買ってきた喜楽亭のコロッケを突つきながら、僕は美人部長の姿を思い浮かべた。
まだ30過ぎたばかりなのに、2児の母でありながら我社の中核を担うポジションにつき、部下からの信望も厚い。
ああいうのを理想の上司と言うのかもしれない。
僕は咲子の機嫌を伺うように、そっと近づいて背後からそろりと咲子の顔を覗き込んだ。
大きな瞳は今は眠そうだ。
小さな顔だちは人懐っこく、可憐だ。
咲子と暮らし始めた頃は、僕が仕事から帰ると、淋しかったとばかりに飛びついてきて、僕の胸に顔を埋めるのが日課だった。
僕が頬をつつくと照れたように笑った。
新鮮で楽しい毎日。
むろん今でも満ち足りてはいる。
あの頃のようなときめきは薄れたにせよ。
咲子が一番身近な存在であることに変わりはない。
番組はニュースに変わっていた。
遠くの国での金融危機が世界各国の安定的平和を揺るがしている……
評論家が米を買うためにしかめっつらでそう述べていた。
僕が咲子をそっと抱き寄せようとすると、気配を感じたのか、するりと僕の腕をかわして逃げた。
最近はベッドも一緒ではない。
咲子の寝息ももう随分聞いていない。
僕は諦めて、ダイニングに戻り、残りのビールを飲み干した。
こんな風に日常が過ぎていく。
人から羨ましがられるほどたいした暮らしではないけれど、僕にはこうして帰る場所がある。
幸せか不幸せかはわからないけれど、きっとそれはあとからわかることなのだろう。
僕が洗いものを済ませリビングにいくと、咲子がうずくまって寝ていた。
きっと彼女も疲れているのだろう。
僕は咲子のお気に入りの毛布を持ってきて、そっとかけてやった。
そして耳元で
「おやすみ」
と囁いた。
「にゃーん」
咲子は寝ぼけた声で応えたあと、ゴロゴロと喉を鳴らして尻尾をひと振りさせた。
彼女の小さな体が妙に愛しかった。