マルクスの才覚
泥中の土下座という最も深い屈辱を経て、アルヴィンはかろうじて領地の崩壊を食い止めた。だが、残された傷は深い。去り際の執行官が残した毒、忠臣たちの憂い、そして未だ光を見出せぬ「原石」たち。夜明け前の最も暗い執務室で、ギルデン領の未来を賭けた、真の作戦会議が始まる。
広間に残されたのは、蝋燭の消えかけた煙と、重い沈黙だけだった。
レオポルドは満足げに立ち上がると、アルヴィンのそばを通り過ぎる瞬間、聞こえるか聞こえないかの声で囁いた。
「安心しろ、ギルデンの若造。三億五千万ルーラは、貴様の失態に関わらず、最初から王都が決めていたことだ。民衆の前で罰金などと嘯かなければ、貴様もあそこまで無様に頭を下げずに済んだものを。俺とて、首が飛ぶような真似はせんよ」
それは、憐れみではない。お前の屈辱は、俺が演出してやったのだという、底意地の悪い自慢だった。
「貴様…!」ハロルドが怒りに満ちた声で食ってかかる。
「貴殿が今なされたことは、民衆を扇動し、領主を陥れるための嘘を弄した、紛れもない犯罪行為だぞ!」
だが、レオポルドは肩をすくめ、嘲り笑った。
「証明できるかね? 私が民の不安を『代弁』してやっただけのこと。それに、奴隷を買ったという事実は覆らない。仮に貴殿の言う通り、その金が私財であったとしても、その金で飢えた民にパンの一つも施さなかったのは、紛れもない事実であろう?」
返す言葉はなかった。レオポルドは最後の毒を吐き捨て、闇に消えていった。
彼の言葉が偽りであったことに、民衆もまた気づいていた。代表だった老農夫が、三人の代表者と共にアルヴィンの前に戻ってきた。
「領主様…申し訳ありませんでした」
老農夫は、深く頭を下げた。
「レオポルド様の口車に乗せられ、我々はあんたを疑ってしまった。これまでのあんた様が、我々民のために心を砕いてくれていたことは、誰よりも知っていたというのに…」
他の二人も、顔を赤らめながら謝罪の言葉を口にした。
「しかし、領主様。財政が苦しいのは事実。どうか、我々がこの地で生きていける道を、示してくだされ…」
民衆は去っていった。憎悪は消え、今は切実な願いだけが後に残された。
その直後、執務室の扉が開き、メアリーがよろめくように入ってきた。彼女の服は汚れ、腕には痛々しい痣がいくつも残っている。会議の間、彼女は館の外で、興奮して乗り込もうとする一部の民衆を、たった一人で、その身を挺して説得し、押しとどめていたのだ。
「メアリー…!」
アルヴィンが駆け寄る。彼女は気丈に微笑んだ。
「お見苦しいところを…ですが、アルヴィン様。民の心は、離れてはおりませぬ。あなたの毅然とした態度が、彼らの最後の理性を繋ぎ止めました」
アルヴィンは、彼女の忠誠心の高さを知るが故に、己が土下座したことをおくびにも出さなかった。もし知られれば、彼女は明日にでも農民全員に頭を下げさせに行きかねない。その優しさが、今は重かった。
夜が更に深まり、夜が更に深まり、城が静寂に包まれた頃、アルヴィンの執務室に、ハロルド、治療を終えたメアリー、そしてマルクスが集まっていた。元奴隷たちも、今は部屋の入口近くで、固唾をのんでその様子を見守っている。
重い沈黙を破ったのは、ハロルドだった。彼は、今日の会議での屈辱を思い出し、悔しさに顔を歪めていた。
「…申し訳ございません、アルヴィ-ン様。私は、あの場でレオポルド殿の違法性を指摘しながら、結局、何もできませでした。彼の言う通り、あの発言を『個人の見解』だと言い逃れされれば、我々には為す術がない…」
ハロルドは、拳を握りしめた。
「法は、我々のような力なき者には牙を剥き、権力者のためには便利な盾となる。それが現実なのかと…」
ハロルドの言葉は、その場にいる全員の無力感を代弁していたその凍てついた空気を打ち破るように、アルヴィンが静かに立ち上がった。彼はハロルドの肩に手を置き、そして部屋にいる全員を見渡した。
「いや、ハロルド。君は間違っていない。我々が諦めた時、法は本当に無力なものになる。私は、諦めない」
彼は、今回の「買い物」の本来の目的であった、学者風の男の前に進み出た。
「君は、マルクスと名乗っていたな。私がなぜ、あの法外な金を払ってまで君たちを買い取ったか、その理由を話そう。それは、君のような『知性』こそが、この無力な状況を覆す唯一の力だと信じたからだ」
アルヴィンは、懐から古びた革張りの日記を取り出した。
「これは、私の父が遺したものだ。父は、このギルデン家が豊かだった頃、王都で活動していた。彼は、身分によらず才ある者が正当に評価され、国の運営に携わるべきだと信じていた。その理想の下、父は多くの平民出身の学者や芸術家を支援していたという」
アルヴィンは日記の一頁を開き、マルクスに見せた。そこには、今は弾圧され忘れ去られた会合――「銀筆会」の名が記されていた。
「父は、この『銀筆会』を高く評価し、その活動を陰ながら支えていた。だが、既得権益を脅かす彼らはやがて弾圧され、散り散りになったと聞く。私は、父の遺志を継ぎたい。この痩せた土地を立て直すには、父が信じたような、本物の『知性』が必要だと考えた。だから、君を買ったのだ。銀筆会の一員であった、君を」
マルクスは、その日記を見て目を見開いた。そして、アルヴィンの顔と、日記に記された署名を交互に見比べ、やがて、わなわなと震え始めた。
「この署名は…まさか…あなた様は、エドガー・ギルデン様のご子息…?」
「そうだ。エドガーは私の父の名だ」
その答えを聞いた瞬間、マルクスは、その場に崩れるように膝をつき、嗚咽を漏らし始めた。
「ああ…エドガー様…。我々、銀筆会の者たちにとって、唯一の光であり、希望の星であられたお方…。その御子息が、このような形で我々を…。なんという運命か…!」
彼は、涙で濡れた顔を上げた。その目には、もはや奴隷としての諦観はなく、絶対的な忠誠と、再会した理想への情熱が燃え上がっていた。それは、主従を超えた、数十年の時を経て果たされた、運命的な再会と誓いの瞬間だった。
運命的な再会と誓いの後、マルクスは涙を拭い、瞬時に法学者の顔つきに戻った。彼の頭脳は、先ほどまでのハロルドの嘆きと、アルヴィンの決意、そして自らの忠誠心によって、かつてないほどに冴えわたっていた。
「アルヴィン様、そしてハロルド殿。先ほどのハロルド殿の嘆き、決して無駄ではございません。むしろ、それこそが、我々が反撃を始めるための、最初の狼煙となるのです」
全員の視線が、マルクスに集まった。
「ハロルド殿、あなたは今日、レオポルドを前にして二つの重要な『違和感』を口にされた。一つは、『彼の増税通告は、執行官の権限を逸脱した越権行為である』という法的な矛盾。そしてもう一つは、それ以前にあなたが気づかれていた、『彼の不相応な富と、エグバートとの不自然な癒着』という事実の矛盾」
マルクスは、そこで一度言葉を切った。
「我々が犯してはならない過ちは、この二つを混同することです。前者を法廷で争っても、彼の言う通り『個人の見解』として逃げられ、我々は返り討ちに遭うだけ。ですが…」
彼の目が、法学者としての鋭い光を宿した。
「もし、前者の『越権行為』の動機が、後者の『癒着による収賄』であったとしたら? 我々が法廷で裁くべきは、彼の言葉尻ではなく、その根源にある国家への背信行為そのものだとしたら?」
マルクスの言葉に、ハロルドはハッとした。彼は、怒りに任せて二つの問題を同時に攻撃しようとしていた。だが、マルクスはそれらを冷静に切り分け、より本質的な弱点を見抜いていたのだ。
「その通りです」と、アルヴィンがマルクスの言葉を引き取った。
「レオポルドの言葉に踊らされてはならない。我々が叩くべきは、彼の背後にある、エグバートとの黒い繋がりだ」
「そこで、具体的な戦略を申し上げます」
マルクスは、アルヴィンに向き直り、逆転への設計図を語り始めた。
「我々が利用するのは、王都の中央裁判所ではありません。貴族たちが最も恐れる、たった一つの機関…『王国歳入監察局』です」
その名を聞いた瞬間、ハロルドは顔色を変えた。「『王の猟犬』と恐れられる、あの組織か。」
「はい」マルクスは頷いた。
「彼らは、貴族間の公正な取引などには一切興味がない。彼らが興味を持つのは、『税金が、正しく王家に納められているか』、その一点のみです。そして、それこそが、我々が突くべき唯一の隙なのです」
彼は、この戦略の巧妙さと危険性を説明し始めた。
「我々が監察局に提出するのは、告発状ではありません。『密告書』です」
「密告書?」
「はい。匿名を装い、『バーレーン領主エグバートは、執行官レオポルドと結託し、長年にわたり納税額を不正に操作している。その証拠に、彼の領地の収支と、実際の暮らしぶりには、ありえないほどの乖離がある』という、具体的な疑念を記した一通の手紙を、監察局に送り込むのです」
「だが、匿名の密告など、取り合ってもらえるのか?」アルヴィンが問うた。
「取り合います」マルクスは断言した。
「なぜなら、彼らは『王の猟犬』だからです。獲物の匂いを嗅ぎつければ、決して逃しはしない。我々の密告が、彼らを動かすための『最初の血の匂い』となるのです」
【第一段階:『王の猟犬』の解き放ち】
「我々の密告により、監察局がエグバートに疑いの目を向けさえすれば、あとは彼らが勝手に動いてくれます。監察局は、その権限に基づき、エグバートに会計帳簿の提出を命じるでしょう。ここで重要なのは、我々が直接動くのではない、ということです。あくまで、王家の権威が、エグバートを追い詰めるのです」
【第二段階:矛盾の分析と『追加密告』】
「エグバートは、偽造した帳簿を提出するでしょう。その帳簿を我々が直接見ることはできません。しかし、その必要はない。我々は、我々の手で集めた情報…リズとリアが得るであろう、エグバートの贅沢な暮らしぶりの証拠や、レオポルドとの密会の目撃情報などを、第二、第三の『追加密告』として、匿名で監察局に送り続けるのです」
【第三段階:『蟻の一穴』からの堤防決壊】
「公式の帳簿と、我々が送る『現場の生の情報』。その二つの間に生じる、無視できない矛盾。それに気づいた時、『王の猟犬』は牙を剥きます。彼らは強制査察に乗り出し、エグバートの城を隅々までひっくり返すでしょう。その結果、彼の本当の不正が暴かれれば、共犯者であるレオポルドも、決して無傷ではいられません」
マルクスの語るそれは、法廷闘争などという生易しいものではなかった。それは、王国で最も恐れられる組織を、外部から情報操作することで、自らの復讐の道具として利用するという、極めて危険で狡猾な、情報戦の設計図だった。
「ただし」マルクスは最後に釘を刺した。
「この計画を成功させるには、監察局が『矛盾している』と確信するだけの、正確無比な金の流れの情報が必要です。素人の勘ではダメだ。金のプロ、金融の専門家の分析が、絶対に必要なのです…」
彼は、そこで一度言葉を区切った。
「…銀筆会に、一人だけおりました。王国の金融システムを、指の掌紋まで知り尽くした男が。その名は、エリオット・カーラン」
「エリオット…」アルヴィンはその名に聞き覚えがあった。
「だが、彼は政治犯として失脚したはず。今どこにいるか、分かるのか?」
「いえ…弾圧の後、散り散りになり、彼の行方だけは誰も…」
マルクスの言葉に、アルヴィンの脳裏にある光景が閃いた。日課として視察する、領内の刑務所。その最も警備が厳しい独房にいる、全てを見透かすような瞳をした一人の男。名札には確かに「エリオット」と記されていた。
「…いや、心当たりがあるかもしれん」
アルヴィンは、その可能性に賭けることを決意した。
王国歳入監察局 (The Royal Revenue Inspection Bureau)
1. 概要と通称
正式名称: 王国国庫歳入に関する特別監察局(通称:歳入監察局、または王の猟犬)
設立の経緯: 交易監査院のような理想主義的な機関とは全く異なり、極めて現実的な理由、すなわち
「王家が、自らの財産を守るため」に設立された。数十年前、貴族たちが領地からの税収を巧みにごまかし、王家に入るべき国税が著しく減少した時期があった。これに激怒した当時の国王が、貴族を一切信用せず、王家にのみ絶対の忠誠を誓う実務家集団として創設したのが、この歳入監察局である。
2. 目的と政治的立場
唯一の目的: 国税(王家の収入)の一ルーラたりとも取りっぱぐれないこと。 そのためならば、相手がどれほどの大貴族であろうと、一切の容赦をしない。彼らにとっての正義とは「公正な交易」ではなく
「正確な納税」ただ一点である。
政治的立場: 絶対的な王家直属。 監察局の長官は国王が直接任命し、その組織は他のいかなる貴族や省庁からの干渉も受け付けない、独立した強大な権限を持つ。貴族たちからは「王の猟犬」と蔑まれ、蛇蝎の如く嫌われているが、その権限に逆らうことはできない。なぜなら、彼らに逆らうことは、王家に逆らうことと同義だからである。
3. 主要な権限(国税査察権)
彼らの権限は、交易の公正さではなく、「税」に特化している。
① 納税記録提出命令権: 納税額に疑義が生じた場合、対象の領地や商人に対し、納税に関わる全ての記録(会計帳簿、売上台帳、関税記録など)の提出を命じることができる。これは、王家の財産を守るための絶対的な権限であり、拒否は許されない。
② 強制査察権: 提出された記録に不審な点があれば、監察官(日本の査察官、マルサのイメージ)が対象の領地や屋敷に直接立ち入り、金庫、隠し部屋に至るまで、全てを強制的に調査する権限を持つ。
③ 罰則決定権: 脱税や納税記録の改竄が発覚した場合、裁判所を介さずとも、監察局の権限で追徴課税や罰金を決定し、強制的に徴収することができる。