泥中の土下座
執行官レオポルドによって仕組まれた「会議」という名の断頭台。逃げ場のない状況の中、アルヴィンは嘘と悪意によって塗り固められた糾弾の矢面に立たされる。領主としての誇りか、民の鎮静か。究極の選択を迫られた時、彼は誰もが予想し得ない、最も屈辱的な一手を選ぶ。
翌日の日没後、ギルデン城の広間は、蝋燭の灯りが作る不気味な影で満たされていた。上座にはアルヴィン、その脇に執事長ハロルドが控え、対面には民衆から選ばれた三名の代表――頑固そうな老農夫、気の強い女家主、そして血気盛んな若者が座っている。そして、その中央、まるで審判者であるかのように、執行官レオポルドが悠然と腰を下ろしていた。元奴隷たちは、広間の隅で壁の花のように、息を殺してこの異様な光景を見つめている。
会議の口火を切ったのは、レオポルドだった。
「さて、ギルデン領主殿。民の不安を解消するため、まずは昨日の『買い物』について、ご説明願おうか。一体、どのような意図で、この逼迫した状況下で奴隷などを購入されたのですかな?」
その言葉は、まるでアルヴィンの罪を問う検事のようだった。
「彼らは労働力としてではない。この領地を立て直すための、私の仲間だ」
アルヴィンが答えると、若者がテーブルを叩いた。
「仲間だと!? 奴隷なんぞに、俺たちが汗水たらして納めた税金を使いやがって!」
「それは違う!」アルヴィンは懐から羊皮紙を取り出した。
「この購入記録を見てほしい。支払いはすべて、ギルデン家に伝わる私財を売り払い、捻出したものだ。領地の金には一切手をつけていない!」
アルヴィンが提示した正当な売買契約書。そこにはエグバートとアルヴィン、双方の血判が押されている。民衆代表の老農夫が、おずおずとそれを受け取り、目を通した。確かに、支払い主はアルヴィン個人となっている。
だが、レオポルドは待っていたかのように、冷ややかに口を開いた。彼は、アルヴィンがそう主張することを完璧に予測していたのだ。
「ほう、なるほど。これは確かに、領主殿個人の資産で支払われたという証拠になりましょう。その点は、私の誤解だったようです。お詫びいたします」
彼は一度、わざとらしく頭を下げた。だが、それは次なる追及のための、助走に過ぎなかった。
「しかし、」
レオポルドの声が、広間に響き渡った。
「だとするならば、領主殿。新たな、そしてより重大な疑問が浮かび上がって参りますな」
彼の蛇のような目が、アルヴィンを射抜いた。
「これほどの莫大な私財をお持ちでありながら、なぜ、これまで飢える民にパンの一つ、病気の子供に薬の一かけらでも施そうとはなさらなかったのですかな?」
広間が、水を打ったように静まり返った。それは、民衆が心のどこかで抱いていた、しかし口には出せなかった疑問そのものだった。
「そして、もう一つ」レオポルドは畳みかける。
「バーレーンからの物資価格が高騰し、自領の民が明日食べる塩にも困っているという状況を、知りながら、なぜ、あなたはその高価な『買い物』を強行されたのか? あなたにとって、領民の生活よりも、素性も知れぬ奴隷たちの方が、価値があったとでも?」
それは、嘘偽りのない「事実」を基にした、最も残酷な問いだった。アルヴィンは、その金を未来への投資として使った。だが、今日の飢えに苦しむ民衆にとって、それは到底理解できる理屈ではない。アルヴィンは、民を見捨てて、自分の道楽に走った無慈悲な領主――レオポルドは、アルヴィンの善意の行動を、完璧にそのように塗り替えてみせたのだ。
「それは…彼らが、この領地の未来にとって必要不可欠な人材だと、私は判断したからだ!」
アルヴィンの必死の弁明は、しかし、もはや空虚に響くだけだった。
「やはり、俺たちより奴隷が大事だったってことか!」
「俺たちを見殺しにする金は持ってたってことじゃねえか!」
民衆の疑念は、レオポルドによって巧みに誘導され、再び怒りの炎となって燃え上がった。アルヴィンの誠実な行動が、最悪の形で裏目に出た瞬間だった。
怒りの矛先は、もはやアルヴィンだけでは収まらなかった。代表の女家主が、広間の隅に立つ元奴隷たちを指さした。
「そもそも、こいつらが元凶だ! 疫病神め!」
「そうだ! 出ていけ!」
「泥棒!」
罵詈雑言が、昨日まで奴隷だった者たちに容赦なく突き刺さる。彼らはただ俯き、震えるしかなかった。昨日投げつけられた石よりも、今日の言葉の刃の方が、深く彼らの心を傷つけていた。
アルヴィンは、唇を噛み締めた。何を言っても、もはや火に油を注ぐだけだ。レオポルドの仕掛けた罠は完璧だった。このままでは、民の怒りは暴動に発展し、無関係な者たちまでが傷つくことになる。
誇りか、未来か。
彼は、静かに立ち上がると、代表者たちの前に進み出た。そして、誰もが息を呑む中、ゆっくりと、しかし確かな動作で、石のように冷たい床に両膝をついた。
「…申し訳ない」
アルヴィンは、深く、深く頭を下げた。
「私の行動が、皆様に不安と混乱を招いたことは事実だ。弁解はしない。この通り、謝罪する。どうか、怒りを収めてほしい」
広間が、水を打ったように静まり返った。辺境伯とはいえ、一国の貴族が、民に土下座をする。それは、この国の歴史上、ありえない光景だった。代表者たちは度肝を抜かれ、怒りの言葉を失った。
「アルヴィン様!」
ハロルドが悲痛な声を上げた。彼は主人のあまりの屈辱に耐えかね、駆け寄ろうとする。だが、その時、彼の鋭い目がレオポルドの指先で輝く豪奢な指輪と、その満足げな表情を捉えた。
(この男…! この状況を愉しんでいる。そして、あの装身具…。やはり、何かある!)
ハロルドは怒りを奥歯で噛み殺し、今は主の意を汲んで騒ぎを収めることに専念した。
民衆の怒りは、アルヴィンのあまりに衝撃的な行動によって、その行き場を失っていた。老農夫が、困惑したように口を開く。
「…もう、よろしい。お立ちください、領主様。あんたが、そこまでする人だとは思わなかった…」
アルヴィンが静かに立ち上がると、レオポルドは心底つまらなそうな顔で、しかし声には芝居がかった厳粛さを込めて、芝居の幕を引こうとした。
「…よろしい。領主様の誠意は、民にも伝わったことでしょう。では、会議はここまでと…」
だが、彼の言葉はそこで終わらなかった。彼は、アルヴィンに再起の隙すら与えるつもりはなかった。
「…と、言いたいところですが、領主殿。謝罪だけで済む問題ではありますまい。民衆の皆様も、今後の生活がどうなるか、知る権利がありましょう」
レオポルドは、勝ち誇った笑みを隠そうともせず、新たな爆弾を投下した。
「よって、この場で王都の決定を通達いたします。ギルデン領の来年度の納税額は三億五千万ルーラとする」
広間が再びどよめいた。昨年より五千万もの増額。
レオポルドは、民衆に聞こえるように、わざとらしく続けた。
「皆様、お分かりかな? この増額分五千万ルーラこそが、領主殿が犯した『国の金を使い込んだ罪』に対する、王都が下した罰金そのものです。つまり、皆様の税金が、領主様の道楽の尻拭いに使われるということですな!」
「なっ…!」今度こそ、ハロルドが声を荒げた。
「お待ちいただきたい、レオポルド殿! あまりに横暴が過ぎる!」
レオポルドは、忌々しげにハロルドを一瞥した。
「黙れ。一介の執事が、王都の決定に口を挟むな。身の程をわきまえんか!」
「いいや、黙るわけにはいかぬ!」
ハロルドは一歩も引かなかった。長年仕えたギルデン家への忠誠が、彼の恐怖を上回っていた。
「たとえ、我が主が国の金を横領したという濡れ衣が真実だとしても、その罰は王国の法に基づき、裁判所が裁定を下すのが筋道! 貴殿のような一執行官が、独断で罪を認定し、それを納税額に上乗せするなど、国家の法秩序そのものを愚弄する重大な越権行為! 断じて認められぬ!」
ハロルドの正論に、レオポルドの眉がぴくりと動いた。だが、彼はすぐに冷酷な笑みを浮かべ、権威という名の鈍器でそれを打ち砕いた。
「面白いことを言う。では、その『裁判』とやらを王都に申し立てるかね? この痩せた土地の、王都に見捨てられた辺境伯が? その訴状が王都に届くのが先か、貴殿らが飢えと寒さで死に絶えるのが先か…試してみるのも一興ですな」
それは、法も正義も、権力の前では無力であるという、残酷な宣告だった。ハロルドは言葉に詰まり、悔しさに拳を握りしめるしかなかった。
アルヴィンは、その全てのやり取りを、ただ黙って聞いていた。彼の心の中では、屈辱と怒りの炎が、静かに、しかし激しく燃え上がっていた。
(見ていろ、レオポルド。お前が振りかざすその権威、その法を逆手にとって、必ずやお前自身の首を締めさせてやる…)
今はただ、耐える時。彼は、泥中に頭を下げた今日の屈辱を、決して忘れないと誓った。