残酷な現状
ゼノン王国の最西端ギルデン領。財政は逼迫し、国に納める税も執行官の裁量で決まり、領民は隣領へ流出する一方だ。刑務所では政治犯との接触すら国に禁じられ、砦を視察すれば兵士から侮辱を受ける。領主でありながら、誰からも信頼されず無力なアルヴィン。それでも彼は牙を剥けぬまま、閉ざされた地の未来を変えようと決意する。
ゼノン王国は、鉄の階級という骨格で成り立っていた。王族を頂点とし、貴族が血肉を啜り、その下に仕える者たちが続き、最下層には物言わぬ奴隷がいる。その序列は天命であり、抗うことは死を意味した。
そして、その王国の最西端に位置するギルデン領――。
かつてこの地の一族は、地方と首都の格差を是正しようと奔走した。地方都市の設置や土地合併の政策を提案し、国家の武力を統制する法案も作り上げた。しかし、首都の貴族たちは富の減少を恐れ、ギルデン家を辺境に追放。軍隊の保有も禁じられ、砦には王国兵が駐屯し、若き領主アルヴィン・ギルデンは「牙なき領主」と呼ばれるようになった。
ギルデン領の執務室。夜の帳が下りても、アルヴィンと執事長ハロルド・グレンフィールドの間の空気は重く沈んでいた。燭台の炎が、ハロルドの険しい顔に深い影を落とす。
「アルヴィン様、もはや限界です」
ハロルドの声には、長年仕えた家の行く末を憂う痛みが滲んでいた。
「帳簿に並ぶ赤インクの数字が、まるで領民たちが流した血のように見え、私の目を焼きます。収入四億二千万に対し、支出は六億。毎年、国からの借金という名の毒杯を呷り、なんとか生き長らえているに過ぎません」
アルヴィンの指が、こめかみを強く押さえた。
「現在の借金総額は既に十五億を超え、利子だけでも年四千万か…」
「その通りでございます。しかも執行官のレオポルド殿は、国に納める税金を減らす気配すら見せません。まるで人の血をワインのように味わう男です。これ以上、民から何を搾り取れと」
ハロルドの報告は続く。
「そして、最も憂うべきは『夜逃げ』でございます。領民が他領へ移るには、本来、王国の役所が発行する通行許可証が必要。しかし、わずかな財産を握りしめ、夜陰に乗じて森を抜け、隣領へ逃れる者が後を絶ちませぬ。見回りの兵が捕らえても、彼らは『ここで飢え死にするか、森で獣に食われるか、どちらも同じ地獄です』と涙ながらに訴えるばかり。法で裁こうにも、裁くべき相手は明日の命も知れぬ者たち。あまりに不憫で、兵たちも強くは出られぬと…」
その言葉が、アルヴィンの胸を抉った。正規の手続きも踏めず、法の外へ追いやられてまで領地を捨てる民の姿。それは領主としての彼の無力さの、何よりの証明だった。
「…分かっている。彼らを責めることはできん。責められるべきは、彼らを守れぬ私だ」
重い沈黙の中、その日の会議は終わった。
朝靄の中、国境の砦を訪れるのが彼の日課だったが、それは彼の無力さを繰り返し確認する儀式に過ぎなかった。門番の兵士が投げる侮蔑の視線は、鋭い棘となって突き刺さる。砦を預かる隊長カール・ラインハルトの言葉は、氷のように冷たい。
「何の用だ」
「補給状況を確認に来た」
「我ら王国軍の補給は、王都が責任を持っています。領主殿に報告する義務はありません。繰り返します。牙なき領主が何を言おうと、防衛は王国軍の専権事項」
その言葉が、アルヴィンの誇りを静かに、だが確実に削り取っていく。
もう一つのやるべき事がある。週に三度訪れる刑務所の視察だ。城裏手の刑務所では、囚人たちの怨嗟の声が渦巻いている。
「ほら、これを食え」刑務官が黒パンを投げる。「ありがたく思え、豚どもが」
「この扱いは行き過ぎている」
アルヴィンが声をかけると、刑務所長が冷ややかに答えた。
「領主様、政治犯への接触は国が禁じています。ここは王国の管理下。あなたに指図される筋合いはありません」
鉄格子の奥、元学者だというエリオット・カーランの、全てを見透かすような瞳が、時折アルヴィンを捉えたが、言葉が交わされることはなかった。
翌日、再びハロルドを執務室に呼んだ。疲労困憊した彼の前に、ハロルドは一枚の羊皮紙を差し出した。
それは、アルヴィンが放った「鴉」の一羽から、伝書鳩によって届けられた密書だった。
「アルヴィン様、バーレーンからの定期連絡に、興味深い記述が」
羊皮紙に目を通したアルヴィンの表情が、わずかに変わった。そこに記されていたのは、バーレーン領の経済状況や兵の動きといった定型報告の末尾に添えられた、些細な噂話だった。
「…奴隷の中に、元学者を名乗る男…か」
その一文が、アルヴィンの記憶の扉をこじ開けた。彼は机の引き出しから、父が遺した古い日記を取り出す。何度も読み返した「銀筆会」の記述。
「ハロルド、至急、バーレーンにいる『鴉』に指令を。その学者奴隷の素性を探れ。特に『マルクス』という名に心当たりはないか、と。これは最優先事項だ。有益な情報には最高額の報酬を支払うと伝えろ」
数日後、「鴉」から返信が届いた。
『目標はビンゴ。エグバート所有の奴隷にマルクスと名乗る男あり。元王都大学の法学者、数年前に失脚せし銀筆会の一員との風聞。間違いなし』
「見つけたぞ…」
アルヴィンはハロルドに向き直った。彼の瞳には、もはや単なる希望ではない、すべてを賭して未来を掴み取ろうとする者の、狂気にも似た輝きが宿っていた。
「バーレーンへ行く。我々の『牙』となる男を、迎えに行く」
ハロルドの眉が憂いに曇る。「しかし、アルヴィン様。我らに奴隷を買い付ける金など…」
「私の私財から算出する。これで問題あるまい」
アルヴィンの瞳に宿る光は、もはや単なる希望ではなかった。それは、すべてを賭して未来を掴み取ろうとする者の、狂気にも似た輝きを放っていた。
ハロルドは息を呑み、これ以上何も言うことはなかった。
「かしこまりました。では、そのような手はずで進めて参ります」
果たして奴隷交渉はうまくいくのだろうか。二人はバーレーン領へ向かう準備を始めた。
【収入】
・領民からの税収:年4億ルーラ
- 農業税:2億2000万ルーラ(ただし徴収不能な農家が急増)
- 商業税:1億ルーラ(商店の閉鎖により激減)
- 人頭税:8000万ルーラ(人口流出で減収)
・工芸品・特産品の販売:年2000万ルーラ
- 陶器:1200万ルーラ
- 織物:800万ルーラ
・王国からの補助金:ゼロ(ギルデン家は反逆の汚名により停止中)
【支出】
・国へ納める税:年3億ルーラ(執行官がほぼ独断で決定)
・隣接領からの物資購入:年2億ルーラ
- クヌス領からの食糧(小麦・野菜):7000万ルーラ
- エドラド領からの食糧(肉類・魚):6000万ルーラ
- バーレーン領からの生活必需品(衣類・日用品):7000万ルーラ
・施設維持費:年1億2000万ルーラ
- 病院維持費:4000万ルーラ
- 城の維持費:5000万ルーラ(暖房・修繕・清掃費)
- 役所維持費:3000万ルーラ(建物管理・事務用品)
- 刑務所運営費:負担なし(権限がない代わりに運営費免除)
・人件費:年8000万ルーラ
- 執事・使用人・警備兵給与:年5000万ルーラ(平均年収400万ルーラ)
- その他職員給与:年3000万ルーラ(平均年収300万ルーラ)