湖と沈黙
ギルデン領の南に位置する、霧深き湖の領地エドラド。その主は、貴族でありながら、貴族の流儀を嫌う孤高の男。彼の目は、常に内へ、己の領地と民にのみ向けられる。南で渦巻く陰謀の嵐も、彼の耳には、ただの煩わしい風の音にしか届かない。
エドラド領は、岩と霧の土地だった。痩せた土地では麦も育たず、人々は、広大な「霧降湖」に船を出し、その日の糧を得て生きていた。王都の華やかな貴族たちが「野蛮な湖の漁師」と蔑むこの地を治めるのは、第四代領主、ガウェイン・フォン・エドラド。四十代半ばの、日に焼け、湖からの風に鍛えられた、屈強な肉体を持つ男だった。
彼の執務室は、他の貴族のそれとは全く異なっていた。壁に飾られているのは、金銀の装飾品ではなく、巨大なカジキの剥製と、錆びついた古い銛。彼は、豪華な椅子ではなく、分厚い樫の机に片肘をつき、窓の外に広がる灰色の湖面を眺めていた。
執事が、おずおずと口を開く。
「ガウェイン様。バーレーン領を経由して王都から運ばれてくる塩と鉄の価格が、今期も高止まりしたままだと、港の者たちが息巻いております。彼らの言い分では、『これでは干し魚を作っても、船を修理しても、利益がほとんど残らない』と…」
「…あの豚め。我らが足元を見おって。いつものことだ」
ガウェインは、吐き捨てるように呟いた。
南のギルデン領で、エグバートが価格を吊り上げて若造をいびっているという噂も、彼の耳には届いていた。だが、それは彼の問題ではない。彼にとっての問題は、その強欲な豚が、長年にわたってエドラド領の生命線をも握り続けているという、この揺るぎない事実だけだった。王都へ続く唯一まともな街道を支配するバーレーン領は、そこを通過する全ての物資に高い通行税をかけ、エドラドのような辺境から富を吸い上げていたのだ。
エドラドの町並みは、質実剛健そのものだった。石と流木で建てられた家々は、常に海からの強風に耐えられるよう、低く、頑丈に作られている。道行く人々は、無口で、よそ者にはぶっきらぼうだが、一度仲間と認めれば、命を賭けてもその義理を果たす、荒々しくも純粋な気風を持っていた。インフラなどという洒落たものはなく、道はぬかるみ、港は常に魚の匂いと、漁師たちの怒声に満ちている。ガウェインは、そんな領地と領民を、心の底から気に入っていた。彼は、王都の法や、貴族間の儀礼よりも、湖の上での掟――「自分の船は、自分で守る」――を信じていた。その掟は、比喩ではなかった。
夕刻、ガウェインは執務室を出て、港の裏手にある広大な浜辺へと向かった。そこでは、漁を終えた屈強な漁師たちが、上半身裸になり、「祭り」と称する巧妙に偽装された軍事教練に打ち込んでいた。
王国法では、領主が私兵を持つことは厳しく制限されており、定期的に王都から視察団が派遣され、大規模な軍事教練が行われていないか監視している。ガウェインは、その目を欺くため、全ての訓練を「漁師の伝統的な祭り」と「日々の労働の延長」として偽装していた。
浜辺の一角では、男たちが巨大な円盤状の石――古い石臼や、船の碇を改造したもの――を、砲丸投げのように投げ、その飛距離を競い合っていた。表向きは、豊漁を祈願する祭りのための、単なる力比べ。だが、その真の目的は、強靭な背筋と腕力、そして全身のバネを鍛え上げることにあった。この訓練を繰り返すことで、彼らは重い弩を容易に構え、あるいは城壁を破壊するための破城槌を、長時間にわたって振りい続けることができる基礎体力を養っていた。
別の場所では、二組に分かれた男たちが、先端に革袋を括り付けただけの、木製の銛や手斧を手に、激しく打ち合っていた。これもまた、祭りの余興である「模擬戦闘遊戯」ということになっている。武器は木製で、刃もついていない。だが、その動きは遊びではなかった。相手の突きをいかに体捌きでかわすか、いかに相手の体勢を崩して懐に飛び込むか。それは、白兵戦における実践的な戦闘技術そのものだった。ガウェイン自身もその輪に加わり、若い漁師たちに容赦ない一撃を叩き込んでいた。
そして、浜辺から少し離れた鍛冶場からは、リズミカルな槌の音が響いていた。そこでは、領内随一の腕を持つ鍛冶師が、漁師たちのために銛や、魚を捌くための小刀を鍛え直している。しかし、彼が密かに領主の館に納める武具は、ひと味違った。
彼は、王都から輸入されるなまくらな鉄ではなく、この土地の砂浜から、気の遠くなるような手間をかけて集めた砂鉄を使い、独自の製法で鋼を鍛え上げていた。そうして作られた剣や槍の穂先は、驚くほど強靭で、鋭い切れ味を誇った。表向きは「領主様が趣味で収集なされる観賞用の武具」として登録されているが、それこそが、エドラドが誇る秘密の武力の中核だった。
ガウェインは、汗を流す漁師たちを、満足げに見つめていた。
(王都の連中は、俺たちをただの漁師だと侮っている。それでいい。俺たちは、俺たちのやり方で、静かに牙を研ぐ)
彼の脳裏には、南の領地のことなど微塵もなかった。ただ、冷徹な計算だけが渦巻いていた。
(塩と鉄の値段が上がり続けるなら、いずれ我々の船も出せなくなる。バーレーンの豚に、いつまでも首根っこを押さえ続けられるわけにはいかん…)
彼の視線は、湖の地図の上に描かれた、南のギルデン領の方角へと、ほんの一瞬だけ向けられた。
(あの土地には、手つかずの森と、鉄を掘れるという古い言い伝えがある。今は見る影もないが…)
だが、彼はすぐにその思考を打ち消した。
(他人の土地をあてにするのは、溺れる者が藁を掴むのと同じだ。道は、俺たちが作る)
ガウェインは、まだ動かない。彼は、湖の上で生きる漁師のように、ただ静かに、自らの力を蓄え、風向きが変わるその瞬間を、待っていた。南の嵐のことなど知らぬまま、彼はただ、己の領地という一隻の船を、どうやって次の時代へと進めるか、そのことだけを考えていた。
彼の沈黙は、無関心か、あるいは、全てを飲み込む嵐の前の静けさか。それは、まだ誰にも分からなかった。