薔薇と茨の道
ギルデン領の戦いの熱は、国境を越え、一羽の鴉の翼に乗って、静かな令嬢の元へと届いた。だが、彼女が生きる世界もまた、見えざる鎖と古い慣習に縛られている。アルヴィンを助けたいという熱い想いと、無力な現実。その板挟みの中で、彼女は自らにしか進めない、茨の道を探し始める。
クヌス領、クラインフェルト家の小さな屋敷。エリナは、父が大切にしている薔薇園を眺めながら、一通の密書を読んでいた。それは、ギルデン領にいるアルヴィンの協力者から、彼女が管理する伝書鳩…表向きは趣味で飼っている鳩によって、極秘に届けられたものだった。
羊皮紙に綴られたインクの文字が、彼女の澄んだ瞳の中で、まるで血のように滲んで見えた。
ギルデン領の惨状。レオポルドの卑劣な策略。民衆の前で、誇りを捨てて地に伏したアルヴィンの姿。
エリナは、息を呑んだ。彼女の知るアルヴィンは、父エドガーの理想を継ぐ、気高く、決して折れない若木のような青年だった。その若木が、嵐の中で、泥にまみれながらも必死に根を張ろうとしている。その痛々しいほどの光景が、彼女の胸を締め付けた。
手入れの行き届いた薔薇の、完璧な花びらの一枚一枚が、まるでアルヴィンが流したであろう血の雫のように見え、彼女の心を苛んだ。
(アルヴィン…あなたという人は…)
何かをしなければ。彼を、このまま見殺しにはできない。
だが、その熱い想いは、すぐにクヌス領の冷たい現実に突き当たる。
彼女の父が治めるクラインフェルト家は、歴史こそあれど、力のない下級貴族。領主であるオルダス・フォン・クヌス伯爵が主催する領内の会議に出席する権利こそあれ、そこでエリナや彼女の父の意見が聞き入れられることは、まずない。
クヌス領主オルダス伯爵は、齢七十を超える老貴族だった。彼の統治方針は、ただ一つ。「何もしないこと」。新しいこと、危険なこと、面倒なことを極端に嫌い、領内の有力な豪族や大商人の顔色を窺い、波風を立てずに余生を過ごすことだけを考えていた。彼にとって、ギルデン家の理想など、現実を知らない青二才の戯言であり、関わるだけ損な厄介事でしかなかった。
クヌス領の会議は、もはや議会の体を成していなかった。議題は全て、有力者たちの事前の根回しで結論が出ており、会議はそれを追認するだけの儀式と化している。エリナの父のような下級貴族は、ただ黙って座っていることしか許されないのだ。
エリナは、その閉塞感の中で、己の無力さを噛み締めた。
(私が今、父を通して伯爵に『ギルデン領を助けるべきです』と進言したところで、どうなる? 『あの厄介者の肩を持つのか』と睨まれ、クラインフェルト家が孤立するだけ。かといって…)
「鴉」の一員としての立場が、彼女の行動をさらに縛っていた。彼女は、アルヴィンの領外における重要な後方支援役。公文書の偽造や、貴族社会の情報を集めるのが彼女の任務だ。もし、彼女が表立ってギルデン領を擁護するような目立った行動を取れば、レオポルドやエグバートの監視の目が、クヌス領、そしてクラインフェルト家にも向けられるかもしれない。そうなれば、アルヴィンの計画そのものを危険に晒すことになる。
助けたい。でも、動けない。
その板挟みの中で、エリナは薔薇の棘を、血が滲むほど強く握りしめた。
だが、彼女はただ嘆くだけの女ではなかった。父エドガーが、そしてアルヴィンが信じたギルデン家の理想は、彼女の心にも深く根差している。
(表の会議で戦えないのなら、裏で戦うまで。私が「鴉」である意味は、そこにあるはず)
彼女は、密書を暖炉の火で慎重に焼き捨てると、静かな決意を固めた。
アルヴィンが、エリオットの知恵を得て、いずれクヌス領に何らかの働きかけをしてくる。その時が、必ず来る。ならば、私が今すべきことは、その交渉の成功確率を、水面下で少しでも高めるための「地ならし」だ。
彼女はペンを取り、数人の人物へ宛てた、何気ないお茶会の招待状を書き始めた。一人は、オルダス伯爵が信頼する会計官の夫人。もう一人は、領内の穀物取引を牛耳る商会長の娘。
(正攻法で領主の心は動かせない。ならば、その周囲から、ゆっくりと、誰にも気づかれずに包囲するまで)
エリナの瞳に、再び強い光が戻った。それは、アルヴィンの若木を嵐から守るため、自らが茨の道を進むことを選んだ、静かで、しかし何よりも気高い、戦士の光だった。
一方、その頃。ギルデン領の執務室では――
アルヴィンは、ハロルドとマルクスを前に、エリオットとの接触計画の、最終的な詰めを行っていた。タウを送り出すための偽造パスポートの草案は、マルクスによって完璧に仕上げられていた。
「よし。ハロルド、これを『鴉』を使い、クヌス領のエリナの元へ急ぎ届けさせろ。彼女ならば、これを王国の誰もが見破れぬ『本物』に仕上げてくれるだろう」
ハロルドが書類を受け取り、一礼して部屋を出ていく。だが、アルヴィンの計画は、それだけでは終わらなかった。彼は、壁に掛けられた周辺地域の詳細な地図の前に立つと、マルクスに語りかけた。
「マルクス。タウを一人で行かせるわけにはいかない」
「と、おっしゃいますと?」
「タウがエリオットの息子であるという偽装を完璧にするには、彼がギルデン領から一人で出ていき、そして、任務を終えた後に『迎え』が来る、という体裁が必要だ。追跡の目があれば、そこで我々との繋がりが露見する危険がある」
アルヴィンは、地図の上のある一点を指さした。そこは、ギルデン領とバーレーン領の国境から少し離れた、クヌス領に属する鬱蒼とした森の中だった。
「タウには、任務を終えた後、バーレーン領を抜け、このクヌス領の『嘆きのオーク』と呼ばれる大樹で待機するよう伝える。そして、その迎え役を、エリナに頼むのだ」
「エリナ様に…? ですが、彼女を表立って動かすのは危険では…」
「ああ。だから、細心の注意を払う」アルヴィンの目は、怜悧な光を宿していた。
「エリナには、クヌス領の貴族令嬢として、『趣味の狩り』を装って、その森へ向かってもらう。彼女ならば、怪しまれずにタウと接触できるはずだ」
さらに、アルヴィンは考えうる限りの不測の事態に備えていた。
「万が一、どちらかが追跡されたり、危険に陥ったりした場合に備え、互いの居場所を知らせる手段も用意する。これを使え」
アルヴィンが引き出しから取り出したのは、掌に収まるほど小さな、木彫りの笛だった。
「これは、ギルデン領の猟師だけが知る、特殊な音波を発する犬笛だ。人間の耳には微かにしか聞こえないが、訓練された猟犬の耳には、1キロ先からでも届く。この笛を、タウとエリナに一つずつ持たせる。危険を察知した者は、笛を吹いて仲間に知らせる」
彼は、タウが今日まで着ていた質素な服の袖を、ナイフで小さく切り取った。
「そして、これをエリナに送る書類に同封しろ。彼女の屋敷には、優れた猟犬がいる。事前にこの布でタウの匂いを覚えさせておけば、広大な森の中でも、犬が必ず彼を見つけ出してくれるだろう」
偽の身分、秘密の合流地点、非常時の連絡手段、そして、匂いを使った追跡。アルヴィンの計画は、成功を願うだけの楽観的なものではなく、失敗の可能性を一つ一つ潰していく、冷徹なまでのリアリティに満ちていた。
マルクスは、その周到さに息を呑んだ。
(このお方は、ただ優しいだけではない。仲間の命を守るためならば、どこまでも緻密に、冷徹になれる。エドガー様とは違う…このお方ならば、本当にこの国を変えられるやもしれぬ)
アルヴィンは、切り取った布を、エリナへの手紙に丁寧に添えた。
(エリナ、危険な役目を頼む。どうか、我々の希望の光を、無事に連れ帰ってくれ)
その手紙には、領主としての命令ではなく、友として、仲間としての、切実な祈りが込められていた。
彼女は、ここ数日間、無力感に苛まれながらも、既に動いていた。
彼女はペンを取り、数人の人物へ宛てた、何気ないお茶会の招待状を書き送っていたのだ。そして今日、その招待客の一人、オルダス伯爵が信頼を寄せる会計官の夫人、マグダレーナが、クラインフェルト家のささやかな茶会に応じた。
マグダレーナ夫人は、噂話と甘い菓子をこよなく愛する、典型的な貴族の奥方だ。しかし、その噂好きの裏には、夫の仕事柄、領内の金の動きに誰よりも詳しいという側面があった。エリナの狙いはそこだった。
「まあ、エリナ様。この薔薇、今年も見事に咲きましたこと」
「ありがとうございます、マグダレーナ様。ですが、最近の寒波で、いくつか蕾がダメになってしまって…」
エリナは、薔薇の世話の悩みを装い、巧みに話題を誘導し始めた。
「そういえば、今年の小麦の出来も、あまり芳しくないと伺います。バーレーン領との交易も、何やら不穏な噂を聞きますし…夫人は何かご存じですこと?」
マグダレーナ夫人は、待ってましたとばかりに声を潜めた。
「ええ、ええ! 聞きましたこと? バーレーンのエグバート様、ギルデンの若君に大変お怒りだとか。そのせいで、我がクヌス領がバーレーン様から買う物資まで、値上がりするのではと、うちの旦那様も頭を抱えておりますのよ」
(やはり…クヌス領もバーレーンへの経済的依存から逃れられていない。そして、エグバートの横暴を快く思っていない者は、ここにもいる)
エリナは、さらに核心に迫る。
「まあ、大変。ギルデンのアルヴィン様とは、父の代から親しくさせていただいておりましたのに…。あのような気高い方が、一体どのような無礼を…」
「それが、どうにも腑に落ちませんのよ」マグダレーナ夫人は、首を傾げた。
「聞けば、奴隷を法外な値段で売りつけようとしたエグバート様に、アルヴィン様の方が異議を唱えたとか。どちらが本当のことを言っているのか…」
(情報が錯綜している。そして、エグバートの評判は、ここでも決して良くはない。つけ入る隙はある)
エリナは、この会話で、クヌス領の内部にもエグバートへの不満が燻っていること、そしてアルヴィンの行動の真意が伝われば、世論を動かせる可能性があるという、小さな、しかし確かな手応えを掴んでいた。
だが、どうやって? この地道な情報収集だけでは、アルヴィンが与えられた三ヶ月という時間には、到底間に合わない。
その焦燥感が、再び彼女の心を霧のように覆い始めた、
その日の夕刻。
屋敷の窓辺に、一羽のカラスが音もなく舞い降りた。それは、アルヴィンが放った連絡役、「ギルデン鴉」。その足には、次の指令書が結び付けられていた。数日ぶりの、新たな連絡だった。
エリナは、周囲に人がいないことを確かめると、急いで書斎に戻り、その小さな羊皮紙を広げた。
そこに記されていたのは、彼女の想像を絶するほど、緻-密で、大胆な計画だった。
獄中の賢者エリオットとの接触。タウという青年の非凡な能力。そして、自分に与えられた、極めて重要な役割。
――タウが任務を終えた後、クヌス領の森で、趣味の狩りを装って彼を保護せよ。
――不測の事態に備え、この特殊な犬笛を。
――同封した布の匂いを、貴殿の猟犬に覚えさせよ。
エリナは、羊皮紙を握りしめた。
それは、単純な希望の光ではなかった。むしろ、彼女の心に灯ったのは、畏怖に近い感情だった。
アルヴィンは、ただ絶望の中で助けを乞うているのではなかったのだ。彼は、あの地獄の底のような状況で、既にここまで先の盤面を読み、二手、三手先の布石を打ち始めていた。彼の思考の深さと、その冷徹なまでの計画性に、エリナは身震いした。
そして、その計画の中に、自分――エリナ・クラインフェルトという駒が、必要不可欠な存在として組み込まれている。
その事実が、彼女の胸を熱くした。
もう、無力ではない。何をすればいいか分からず、ただオロオロと祈るだけの存在ではない。自分は、アルヴィンの描く壮大な絵図の、重要な一部なのだ。
板挟みの葛藤は、消えてなくなったわけではない。危険な任務であることに変わりはない。だが、その葛藤は、もはや彼女を縛る鎖ではなかった。それは、自らが進むべき道を示す、確かな道標へと変わっていた。
彼女は、同封されていた、タウという青年の服の切れ端を、静かに手に取った。そこからは、貧しさと、わずかな恐怖の匂いがした。
(アルヴィン、あなたが進む道が茨の道ならば、私もまた、喜んでその茨を歩きましょう。あなたと、あなたの信じる仲間たちのために)
エリナの表情から、数日間彼女を苛んでいた迷いの霧は、完全に晴れていた。彼女は、薔薇園へと戻ると、一輪の真紅の薔薇を摘み取った。その美しさと、指先に感じる棘の痛み。それこそが、これから自分が歩む道の象徴のように思えた。
彼女は、父の書斎へ向かった。
「お父様、お願いがございます。今度の休日に、久しぶりに森へ狩りに出かけたいのです。あの子…私の猟犬も、腕がなまっているでしょうから」
その声には、もう、憂いの色も、ためらいもなかった。