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辺境の地に灯る火

国境の地で孤独に立つ辺境伯アルヴィン。痩せた大地と疲弊した民を抱え、敵国の脅威に晒されながらも、王都をも動かす力を掴むため、静かに野望の火を灯す。

ゼノン王国。かつてその名は「大陸の心臓」と謳われ、豊かな穀倉地帯と活気ある商都が力強い鼓動を刻んでいた。だが今、その心音は鈍く、か細い。北の覇王国リヨンが軍を整え、国境沿いに野営地を築いたという凶報が、伝書鳩の翼に乗って吹き荒ぶ風と共に届くようになって久しい。

その風を真っ向から受け止める地こそ、辺境伯ギルデンが治める痩せこけた領土である。ここでは風さえも冷たく、土は作物を育む力を失っていた。家々の煙突から立ち上る煙は頼りなく、道行く民の顔には深い皺と諦観の色が刻まれている。厳しい冬を前に、人々は配給されるわずかな塩と干し肉に、来年の春まで続く命を託すしかなかった。

執務机に頬杖をつく若き領主、アルヴィン・ギルデンの瞳には、窓の外に広がる鉛色の空が映っていた。まるで希望の一切を吸い尽くしたかのようなその空の下、馬車の車輪がぬかるみを裂く、湿った音だけが断続的に響く。その音の一つ一つが、彼の心臓を締め上げる万力のように感じられた。


「この土地に生きる者を救わずして、何が領主か」


誰に言うでもなく、己の魂に問いかけるように、低く、だが決して折れぬ鋼のような響きを帯びた声が漏れた。


彼は部屋の隅に控えていた執事長ハロルドに視線を向けた。


「ハロルド。痩せた土地から穀物は取れぬ。鉱物資源もない。武力を持つことも許されない。我々のような弱者が、強大な敵と渡り合うには何が必要だと思う?」


問いかけの意図を測りかね、ハロルドは黙って主の言葉を待った。


「それは『情報』だ」アルヴィンは断言した。


「敵の弱点、金の流れ、人の動き。これらを正確に把握し、先んじて動くことだけが、我々に残された唯一の道だ。これからのギルデン領は、農産物ではなく、情報の価値で生きる術を探る」


彼の言葉は、単なる理想論ではなかった。ギルデン家の栄光が過去のものとなり、父や兄たちが戦場で散ってから、アルヴィンは密かに布石を打っていたのだ。なけなしの私財を投じ、信頼できる数名の領民を密かに領外へ送り出した。彼らは行商人や旅芸人、あるいは「夜逃げ」した農民を装い、隣接する領地に溶け込んでいる。アルヴィンは彼らを、こう呼んでいた――「鴉」と。

ギルデン家の過去が、彼のその決断を後押ししていた。三代前の当主エドガー・ギルデンが「貴族の特権よりも民衆の暮らしを」と訴え、宮廷での権力闘争に敗れてから、ギルデン家は常に「力」に打ち負かされてきた。


執務室で一人、アルヴィンは父が遺した古い日記をめくっていた。そこに記されていたのは、王国のかつての理想、そして「銀筆会」という名の、今は弾圧され忘れ去られた学者たちの集まりのことだった。父は彼らと思想を共にし、その行く末を深く案じていた。


「身分によらず才ある者を登用し、中央の富を地方へ…か。父上が夢見た王国は、今や見る影もない」

アルヴィンは、その弾圧された者たちが今どこでどうしているのか、知る由もなかった。

資金も、兵も、そして王都からの慈悲もない。王都ゼノンはこの地に目を向けるどころか「盾として死ね」と、その沈黙で語っている。その王都には、若き皇太子レオンがいる。策謀家で知られる公爵たちに囲まれ、父王に代わり政を執るが、彼の関心は、商都のきらびやかな繁栄と、肥え太った貴族たちの阿諛追従だけだ。アルヴィンの境遇など、彼の耳に入ることもないだろう。


「だが、いつか見ていろ」


アルヴィンは樫の机の上で拳を握りしめた。爪が食い込み、白い筋が浮かぶ。


「この地を豊かにし、必ずや王都ゼノンに届く力をつける。ギルデンの名を、見捨てられた辺境伯から、王国を揺るがす者の名へと変えてみせる」


目の前の現実は、あまりにも険しい。領内の民は誠実だが貧しく、先祖代々の土地を守る気概を持つ者たちばかりだ。彼らは困窮の中でも盗賊に身を落とすことなく、アルヴィンを慕い、この辺境の地に根を張って生きている。

その忠誠が、アルヴィンの胸を一層締め付けた。彼は部屋の隅に控えていた執事長ハロルドに視線を向けた。


「ハロルド、町の様子は? 帳簿に載らない、民の生の声を教えてくれ」


ハロルドは静かに頭を下げた。


「は。決して芳しいとは言えませぬ。バーレーン領から入る塩の値段がまた上がったと、人々は嘆いております。このままでは冬を越せないと…隣領へ移る相談をしている家族もいる、と」


アルヴィンの眉がぴくりと動いた。


「その話、どこで?」


「メアリーの報告にございます。市場の井戸端で、洗濯女たちの会話から拾い上げたと」


「メアリーの耳か。相変わらずだな」


「はい」とハロルドは肯定した。


「あの娘の『耳』は、ギルデン家にとって数少ない確かな財産でございます。単なる噂話と、真に憂うべき民の嘆きを聞き分けることができますゆえ」


「そうか…」アルヴィンは再び窓の外に広がる荒涼とした景色に目をやった。


「また家族が、この地を去るか。我々にはもう時間がない」


領内にはリヨンの侵攻に備えた古い要塞と、王国の重要な政治犯を収容する刑務所が存在する。だがこれらの施設は王都直轄の管理下にあり、指揮権は王都から派遣された別の指揮官が握っている。アルヴィンには運営に関する権限が一切与えられておらず、領主として週に一度、形式的な視察をすることが許されているに過ぎなかった。

つい先日の視察の光景が、アルヴィンの脳裏をよぎる。薄暗い石牢が並ぶ中、最も警備が厳しい最奥の独房に、一人の男がいた。痩せてはいるが、その背筋は凍てつく石牢の中にあっても、まっすぐに伸びていた。他の囚人たちのような怨嗟や絶望の色はなく、ただ静かに、まるで盤上を眺めるかのように、全てを見透かすような瞳で虚空を見つめていた。名札には、かすれた文字で『エリオット・カーラン』と記されていた。なぜか、その男の瞳だけが、アルヴィンの記憶に強く焼き付いていた。見えざる鎖が、彼の両手両足を縛り付けていた。


「まずは……この地を守るための小さな牙を持たねばならぬ」


アルヴィンは古びた地図を広げ、川沿いの寂れた小村に、震える指で印をつけた。


「馬車も通れぬ道を整備し、病人を減らし、兵を育てる。そのためなら、この身を悪党と呼ばれようとも構わぬ」


彼は知っている。ここに至るまで、貴族たちがどれほどの血と策謀で地位を築いてきたかを。だがアルヴィンには、ただ力を求めるのではなく、「民を救う」という大義がある。それは祖父エドガーから受け継いだ、ギルデン家の誇りでもあった。

外では冬の風が、獣のように咆哮している。だがその目には、絶望の闇の中で静かに燃え始めた、野望という名の熱い炎が宿っていた。

情報組織「からす

「鴉」とは、ギルデン領主アルヴィン・ギルデンが個人的に設立・運営する、領外専門の秘密情報収集組織の名称である。その存在は、領主アルヴィンと執事長ハロルド、そして組織の管理者であるメイドのメアリーなど、ごく一部の者しか知らない。痩せた土地と無力な立場に喘ぐアルヴィンにとって、この「鴉」こそが唯一にして最強の武器であり、逆襲計画の生命線である。

【目的と活動内容】

主目的: 隣接するクヌス領、エドラド領、バーレーン領、そして将来的には王都ゼノンの政治・経済・軍事に関するあらゆる情報を収集し、アルヴィンに報告すること。

通常活動(平時):

物資の価格変動、新しい交易路の噂、領主や有力者の評判、兵士の数や練度の変化といった、マクロな情報を定期的に報告する。

各領地の地理や関所の警備状況、有力者の弱みなど、有事に備えた基礎情報を地道に蓄積する。

特別指令(有事):

アルヴィンからの特別指令に基づき、特定の人物(例:マルクス)の追跡調査や、特定の事象(例:塩の値上げの裏事情)の深掘り調査を行う。

有益な情報に対しては、アルヴィンから追加の報酬が支払われる。これは「情報の売買」というアルヴィンの信念を体現している。

【構成員】

正体不明の原則: 「鴉」の構成員は、アルヴィンですらその全ての個人名を把握していない。彼はハロルドやメアリーを通じて、暗号名で各員に指令を出す。これにより、万が一誰かが捕らえられても、組織の全容が露見するリスクを最小限に抑えている。

多様な偽装身分: 構成員は専門の密偵スパイではない。その正体は、ギルデン領の未来を信じてアルヴィンに協力する者たちであり、以下のような多様な身分に偽装して各領地に潜入している。

行商人・旅芸人: 領地間の移動が最も自然で、多くの人々と接触し、噂話を集めやすい。

「夜逃げ」した元領民: 隣領に難民として溶け込み、最下層の民の生の声を拾い上げる。彼らの存在は、アルヴィンに領地を捨てた民への贖罪の念を抱かせ続けている。

下級役人・兵士の買収協力者: 金銭やギルデン領からのささやかな便宜(例:希少な薬草の提供)と引き換えに、内部情報を提供する者もいる。

【情報伝達手段:ギルデン鴉(Gilden Crow)】

伝書鳩の不使用: 伝書鳩は、貴族や軍が公式に使用する通信手段であり、足環などから所有者が特定されやすい。関所や砦では常に監視されており、秘密の通信に使うのはリスクが高すぎる。

訓練されたカラスの利用: アルヴィンは、ありふれた鳥でありながら極めて知能の高いカラスを通信手段として利用する。ギルデン領の森で密かに訓練されたこれらのカラスは「ギルデン鴉」と呼ばれ、以下の特徴を持つ。

烏は伝書鳩とは違い、狩りの対象にもならないため途中で捕まるリスクは減るので暗号化することはなく情報を瞬時に届けることが出来る。

日常への溶け込み: 見た目は普通のカラスと変わらないため、街中を飛んでいても誰も気に留めない。関所の監視網を容易にくぐり抜けることができる。

高度な訓練: 特定の場所(例:ギルデン城の特定の窓辺)と特定の人物(各領地の「鴉」構成員)の間だけを往復するよう、高度な訓練が施されている。

秘密の通信方法: 報告書は、鳥の羽や枯れ葉に見せかけた極小の羊皮紙に、特殊なインクで暗号化されて書かれる。それをカラスの足に巧妙に括り付けることで、発見されるリスクを極限まで低減している。アルヴィンは、この訓練された「ギルデン鴉」を介して、各領地の構成員と直接、安全にやり取りを行うことができる。

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