イサキ1 エピソード7
「大変、申し訳ありません」
このタヌキジジイ。
「気が動転してしまって。私は本当に何もしていないし、何も知りません。今大事な時期なんです。万が一、警察に連れて行かれるようなことがあれば、私は職を失ってしまうかもしれない。そうなったらあなた方は責任を取れますか。人一人の人生を、いや私の四十年の研究をあなたは白紙にするつもりなのか」
私は深呼吸をした。短気にはなかなか効果がある。でも一回じゃ確実に足りない。私が十回深呼吸をしている間、教授はこちらをじっと観察している。
「用がないなら帰ってくれ」
私の深呼吸は十一回目に突入した。これが最後の深呼吸。
「帰りなさい。帰れと言っているんだ!」
「うるさい!」
気づくと私は教授の胸ぐらを掴んでいた。防犯カメラが目に入った。
「あんた聞くと移民系らしいじゃないか。こんなことタダじゃ済まんぞ。お前のクビなんて簡単に飛ばしてやる」
「立花のノートは回収させてもらったわ。あんたもこれまでね」
教授の顔色が青くなる。
「あれは私のノートだ。くだらんことを言うんじゃない」
「あなたの車は黒のセダンでした。でも私が訪ねたとき、あなたはわざと軽自動車で来た。あらかじめアリバイを聞かれるとわかって変えましたね」
「私は忙しいんだ、そんなことに気がまわる訳がないだろう」
「立花博の死を予め知っていたんじゃないですか」
「馬鹿馬鹿しい。ノートが証拠なら家に置いてくればいいじゃないかね。なぜわざわざ車ごと変えるんだ」
「いいえ、家はあなたにとって危険すぎたんです。我々がいつ来るかわかりませんから。車はセキュリティーがしっかりしているから安心できたんでしょう」
「余程、私を犯人にしたいようだ。だったら証拠を出せ! 確固たる証拠を!」
「確かにノートから立花の指紋は出なかったわ。でも警察の技術力を甘く見ないことね」
「フン、パスワードは無限のパターンがある。無駄なことを」
「あくまで言い逃れるつもりのようね」
「やってないものはやっていない」
「やっていないというのは何のことを指しているのかしら」
「立花を殺したと言いたいんだろう。私はやっていないと言っているんだ」
「なぜ殺人だと思ったんですか?」
「いい加減にしろ!」
「大学発ベンチャー。福祉の未来をAIで切り開く。でしたっけ」
構内のそこらじゅうに貼ってあるポスターの言葉を暗唱する。学生デザインだからだろう、読みづらかったが、夢と希望に満ちている。
「言っておくが、あれは大学の研究室のノートパソコンだ。少なくとも私はそう思っている。以前立花くんに私の研究を手伝ってもらっていたことがあってね。研究費でパソコンを購入させたこともあったと思う」
「苦しい言い逃れはよしなさい」
「あんたたちが立花くんのことを聞くもんだから思い出したんだよ」
忙しいというのは、こういう輩にとって都合の良い言葉だ。
「そうそう確か、貸し出し記録もあるはずだがね」
「見せて頂戴」
「いいだろう」
教授の猿芝居がしばらく続いた後、記録を見せてもらった。一年前の記録が全て破られていた。
「全く、あなたという人間は」
「何かしたかね? ふふははは」
高笑いする教授に背を向け、大学を出た。
翌朝、冷蔵庫の中を徐に物色していると、まだ封を開けていないブランドのバターを見つけた。署内でおいしいと評判になったので近くのデパ地下で購入したものだった。ああ、懐かしい思い出。高かったけど先輩の分まで買ってあげたんだった。ちゃんと食べてくれただろうか。
寮を出て、署に向かう。天気は良いが、心は晴れない。当たり前だ。元木の事件も宙に浮いたまま、初動捜査は失敗に終わった。今日からはおそらく勝手な行動はできない。歯車の一員として私は小さく駆け回ることになるだろう。本当に情けない。あるいは偽の令状がバレたら謹慎処分かもしれない。あの教授のことだ、早速手を回して追い込んでくるだろう。
「奈良を巻き込んでしまったな」
口をついて出た。何より、先輩に謝りたい。そして悔しくて、悲しい。




