イサキ 1 エピソード1
Piriririririri Piriririririri
今年は一度も雪を見ることなく東京の冬が終わりを迎えつつある。
人工の羽毛布団に包まる私は、芋虫のように寝返りをうつ。頭が少し痛い。今回はやけ酒じゃない。ただ飲みすぎただけだった。警察官として恥じるべきか。いいえ、私は自戒するような人間じゃない。飲みたかったら飲めばいい。起きたかったら起きればいい。自然体が一番。
そんなんじゃいつか足元すくわれるぞ。
どこかで聞いたセリフが脳裏をかすめた。いたい。足元に転がった空のワインボトルがつま先を突く。鳴り止まないスマホをとる。
「何時だと思ってるんだ」
先輩。十個離れた正義感に溢れる声が今日も頭を打つ。時計を見るともう夕方近いことに気づく。すぐに支度しろ。いや、今日は休みなんですけど。殺人だ。今向かってるからマンションの前で待ってるぞ。数秒のやり取りでプツリと切れる。まだ慣れない。ていうか慣れたくはないわ、こんな生活。カーテンの向こうで傾きかけている陽を浴びることもなく、蛇口を捻り、そのまま水道水をゴクゴクと飲む。私が刑事になって既に一年が経過した。大して役に立っているようには思えないが、いつの間にか体が機敏に動いてくれるようになった。もともと友達はいないし、ついでに言えば親もいない。仕事に没頭する時間はたっぷりあったから一年もあれば十分立派な刑事だろう。スーツに着替えた私は、エレベーターを降り、マンションのエントランスまで軽く走った。
「いないじゃん」
とっさに独り言。恥ずかしい。残念ながら私の相棒というか先輩は仕事ができる人ではない。と思っている。一見、身だしなみや言葉遣いはスマート調、しかも社交的で優しいから仕事ができそうなクールガイに見える。けど実際は真逆。言葉遣いなんか私には最悪だし基本的にルーズで、とにかく決断力がない。靴が綺麗な刑事は信用できないというのは昔の話かもしれないけど(これでも一応信用している)、いざ私が危険な目に遭ったらきっと私は死んでしまうだろう。
「おい。早く乗れ」
あー、慣れないわ。
「一応伝えましたけど、私今日……」
「休みだろ。わかってるよ。そこのコーヒー飲んでいいぞ」
ありがとうございますと言いながらカップに触れると温かくて癒された。人間こんなもので癒されるなんて安いもんだ。
「急いでた割にはコーヒー用意してくれたんですね」
「お前はますます嫌味に磨きがかかってきたな」
「どういたしまして」
「一応広告塔なんだから、そういう能力はしまっておけよ」
広告塔というのは、私が移民系と呼ばれるコミュニティ出身者だからだ。移民系の国家公務員は何人かいるが、警察官になったのは私が初めてらしい。要するに海外へのアピール。日本人は差別しません。という広告塔。
「ま、終わったらおでん奢ってやるからさ。そこで愚痴でもなんでも聞いてやる」
「そんな誰がいるかわからないところで愚痴が言えるわけないじゃないですか」
「お。やっぱ、あんだなー、愚痴」
「は? 相棒にかまかけるなんて信用ガタ落ちですよ」
「ははは。悪い悪い。でもいいとこ知ってんだよ。闇市みたいな裏通りがあってな。そこのバクダンがデケーのなんのって。あ、お前甘党だからダメか」
「奢りならいいですよ。付き合ってあげても」
とっさに語尾が強まる。
「またまたー、怖いんだから」
「はいはい。喜んでお付き合いさせていただきます」
コーヒーを啜る横目で先輩を見た。締まりのない顔で交差点の様子を見ている。ウインカーの音がカチカチと車内に響く。
「で、何があったんですか」
「被害者は三〇代男性、独身。IT系企業に勤めるサラリーマン。犯人はまだわかってないが、おそらく被害者の友人で、三〇代男性と見ていいだろう。昨夜、現場近くのコンビニで仲良くビールを買う姿が目撃されているからな」
「友人同士のいざこざってことは金銭トラブルとかですかね」
「犯行現場に争った形跡はないようだ。もちろん睡眠薬も検出されてない」
「殺害時刻と凶器は何ですか」
「昨日の深夜二時頃。凶器はおそらく改造モデルガンだ」
「モデルガンでも死ぬんですね」
「改造な。至近距離なら殺傷能力は十分あるらしい」
車を降り、現場に向かうと既に無人だった。ドアを開け、先輩に続いて中に入ると、もあっとした不快な、重苦しい空気がかすかに流れているのを感じた。その正体はすぐにわかった。
「お前誰だ!」
先輩が電気をつけた瞬間。
まさに殺人が行われたであろうその場所に男は立っていた。
「俺じゃない、俺じゃないんだ!」
男は銃を持っていた。そして私に銃口を向ける姿がまるでスローモーションのように見えた。引き金が引かれてしまうのか。もし引かれたら、私は死ぬ。
Pan
「イサキ!」
熱い。私の体から真っ赤な血が外に向かって弾けた。
Pan
二度目の銃声が聞こえるとともに、私は暗闇に倒れた。目を開けると、先輩が銃を構えていた。震えている。
「しっかりしろイサキ。かすり傷だ」
腕の一部が削ぎ取られたように熱い。背後の白壁にはできたての弾痕がある。私は助かったみたいだが、犯人は即死したようだ。殺人犯は現場に戻ってくる、というのは本当だったんだなんて思いながら、意外と私は冷静だった。先輩は本部に連絡を取り、程なくしてまた現場が忙しく回り始めた。
しばらくしてから私は署長室に呼び出された。
「必要ありません、署長」
「まあまあイサキくん。どちらにしても鴨島はしばらく入院してる。君自身のためにもペアは必要だ」
初めて人を殺めてしまった先輩はあの後、不安定になり、正常な受け答えができない状態になってしまった。正当防衛だと言われても、自責の念が彼の精神を蝕んでいってしまった。署長の隣に突っ立っている神経質そうなひょろっとした男が先輩の代わりというわけだ。こんなのと先輩を同列に見ろだなんて、このジジイどうかしてる。結局、規則だからと押し付けられたが、よくよく考えてみると私の周りで揉め事が起きないように観察する役目が必要だったのだろう。そう思うと見た目からまさに適任者だ。なんも言えない。
「イサキさん、あの事件は犯人死亡で解決済みです」
愛想のない言い方。
「鴨島を気にするのはわかりますが、無意味なことはやめてください。他にもやることがあるでしょう」
わかってるわよそんなこと。それでも何かが引っかかる。だって何も調べてない。犯人の動機も謎のままだ。そしてヤツは確かに言った。
―俺じゃない。
二度もそう言った。元木は銃を握ったままだった。なぜか先輩じゃなく、後から入ってきた私の目を見て言った。そして銃を右手で力強く握りしめた。震えていた。徐々に銃身が上がってきた。私に向かって。
Battan
「いい加減にしろ」
そう言い放った監視役の男に、乗車しようと開けたドアを思いっきり閉められた。危うくサンドイッチ。
「てめ、殺す気か馬鹿!」
自分でも信じられないくらい大きな声が出た。こんな怒り方は広告塔としてNGだ。きっと先輩に怒られる。私の大声のせいか男は静止したまま動かない。フリーズ中か? 私は閉められたドアをもう一度開けて車に乗り込んだ。エンジンをかけるとなぜか男は後部座席に飛び乗ってきた。
「僕も行きます」
僕? そんなキャラだったっけ。まあいいか。返事もせず、車を発進させた。
「どこに行くんですか」
「新相棒くん。あなたあの事件のこと、どこまで知ってるの」
「奈良です」
「奈良。で、奈良の答えを聞かせてくれる」
「加害者の名前は元木義孝、三五歳で独身。ホームページ制作会社の社長で、言いたいことは通さないと気が済まないタイプだったようで下請けのプログラマーからの評判は結構悪かったようですね。あと被害者は白石拓人、同じく三五歳の独身。アパレル商社に勤める営業社員で、性格は真面目。元木とは大学時代の同級生です。二人の接点はここ最近特になく、偶然どこかで会ったか、かつての恨みでも晴らしに元木が近づいたか。そのあたりの詳細はわかっていません。大学時代に元木が何らかの仕事を白石に手伝わせていたようですね。その当時の思い出話に火がついて口論になり激情した元木はモデルガンで脅した。しかし白石は屈せず、後に引けなくなった元木は引き金を引いてしまった。まさかモデルガンで人が死ぬとは思わずに」
「なぜ元木が脅す側なのかしら。白石ならわかるけど」
「もちろん悪ふさげってことも考えられますよ。ただもし白石が既に元木に報復していて、その報復が度を越えていたら。元木は殺意を隠し、お互いチャラだってことで、元木が今回の飲み会を段取りしたとしたら、どうですか」
「度を越えた報復って?」
「プログラムにウイルスを仕込んで元木の事業に多大な損害を与えたとか」
「それで事件解決ってわけ?」
「実際に裏も取れました。これ以上何も出ませんよ」
「わかってるわ」
そんなこと、はじめからわかってる。捜一が出した結論だ。そんな簡単に覆るはずがない。でも何かがおかしい。車を停めた私にため息で応える奈良。今さら現場に行ったって何もないことぐらいわかってる。でも何かを思い出すかもしれない。あの瞬間に何が起きたのか。私はきっと知っている。元木は、確かに私を見ていた。あの目は何かを訴えるような目だったように思えて仕方ない。そして震えた手を私に向けていた。
「降りないんですか」
「頼みがある」
「何ですか」
「捜査資料を見せてほしい」
奈良は少し考えたが、すんなりOKをくれた。じゃあ一時間後と言い残し、私は車を降りた。正直、ここには来たくない。先輩は事件の後、人を殺めたことが脳裏から離れなくなり、自責の念に押し潰されてしまった。ちょっと頼りないけど正義感に溢れ突き進むあの背中をもう見ることができないと思う度に胸の奥にツンとしたものが刺さる。私はあのとき撃たれたところに立ち、元木の動きをリフレインさせる。何かおかしい。元木は何かを私に告げたかったのだろうか。でもわからない。あれは一瞬の出来事だった。銃口が私に向けられるまでのあの一瞬は、スローモーションのように私の脳裏に焼き付いている。銃を持つ手の震え。銃口を私に向け、銃を握りしめた。乾いた音。何度も何度も私は撃たれる。俺じゃない。そう元木は言った。あれは嘘じゃない。あのとき私は確かにそう思った。