11. ザ フラジャイル
誠治は病院の廊下を歩いていた。両腕に何重にも撒かれた包帯が痛々しい。廊下の先に四〇代くらいの女性が立っている。誠治は足を止め、どこか記憶のあるこの女性の顔を瞬きひとつせずに見ていた。
やがて真正面にある大きな片引戸が女性に反応するように開いた。中から金属質の音が漏れ聞こえてくる。白衣を着た男が声をかけると、女性は扉の中に入っていった。
誠治は首筋あたりの神経が少しぶれる感覚を覚え、緊張していることに気づく。一歩また一歩と開かれた扉へ近づくが、どうにも足が重い。嫌な予感が得体の知れない何かが大きな湿った毛布のようになって覆いかぶさってくるようだ。しだいに慌てた様子のスリッパや突っ掛けの音が大きくなる。
扉の入り口にようやく辿り着くと、大きな手術用のベッドの手前を行き交う白衣が目にとまった。ベッドの脇にいる美智子が心配そうに様子を窺っているのが見えた。ベッドには誰か寝ている。ピクリとも動かない。幾本もの透明の管が横たわる人間の先端から伸び、確信のない救いを求めている。
ベッドの手前にいる三次が誠治を見つけると顎で来いと合図をした。誠治はベッドに横たわる隣太郎の姿を確認した。魂をどこかへ吸い取られた隣太郎の身体に人間社会の戒律を無理やり注ぎ込んでいるように誠治は感じた。家族を守れ。あいつの言葉が何度か出てくる。そんなことわかってるよ。
「よく来られたな」
三次が労いの言葉をかけた。
「兄貴……何があったんだ」
「移民系コミューンが燃やされた」
「兄貴が犯人だっていうのかよ」
「落ち着けバカ野郎」
頭に血が上る誠治は包帯だらけの腕で三次の胸倉をつかんで離そうとしない。
「幸い怪我人は出なかった。一歩間違えたら危なかった。お年寄りも多いコミューンだったからな」
せっかく娑婆に出られたのに兄貴はまたも問題を起こしちまったらしい。
「兄貴はどうなんの?」
「今、強力な鎮静剤を打ってもらっている。措置入院もやむを得ない。ただ強力な鎮静剤だ。五体満足に生活できるかどうかは分からん」
三次が先ほどの女性の顔をちらりと見ながら話した。女性はずっと隣太郎を見ている。この瞬間、誠治に子どもの頃の記憶が鮮烈に蘇った。
「あんた……、母ちゃんか?」
美智子は、少し間をおいてから頷いた。今さら誠治に会わす顔もないのは承知だが、覚悟も出来ていない様子で弱々しい。
「長い間ごめんなさい」
「……あんたの事情は知らねえから何とも言えねえよ」
相手を突き放す言葉が出たのは、自分でも意外だった。
慌てて何か付け足そうとするが、まるで言葉が出ないまま、大きなため息に変わった。
「今日から四人、家族水入らずだ。十年ぶりといったところか」
看護師たちの慌しかった動きはいつのまにか止み、説明を聞くために三次は別室に移った。美智子もその後を追ったので、誠治は隣太郎と二人になった。
誠治は、隣太郎の枕もとまで歩み寄り、ゆっくりと座った。
「兄ちゃん……、母ちゃんが帰ってきやがったよ。……母ちゃんが」
大粒の涙が誠治の目から流れ落ちた。
「何やってんだよ兄ちゃん。母ちゃんが帰ってきてんだぜ……、なあ、兄ちゃん」
涙が無言で眠る隣太郎のシーツを濡らした。
翌朝、誠治は警視庁のエントランスからイサキとマイコンと肩を並べて出てきた。まだ日が明けて間もない時間帯にもかかわらず、三次とアカネ、それに昨日再会をはたした美智子が白いバンの前で待ち構えていた。
イサキの蛮行はすべて職務命令に基づくものとして内部処理された。銃弾摘出の手術を受けたが、今では自立歩行ができるようになった。事情聴取は一通り終わり、めでたく無罪放免となった。元々俺には関係がないことだった。イサキは無事助かたんだし、もういいだろう。そう言い聞かせた。
「大変だったな」
三次の言葉に誠治は「おお」といった具合に顎を少し上にあげて答える。アカネが心配そうに誠治の顔を窺う。
「平気?」
「まーな」
一足先にマイコンがバンの最後部に乗り込むとじゃあ行くかと三次、美智子がそれぞれ前に乗り込んだ。誠治より先にイサキが乗り込もうとするので、誠治は少しムッとした顔になった。
「何でオマエも乗ってくんだよ」
「まだ事件は解決してないでしょ」
「知らねーよ。さっさと新堂を逮捕しろよ」
「まだ新堂の行方も何も分からないままでしょ」
「オレたちは関係ねえだろよ」
「関係アリアリアリ」
「ちょっと待てよ、元凶は全部オマエだろ」
「いーじゃない別に。あんたたちの事バラしちゃうよ」
誠治とマイコンは顔を見合わせる。
「何よそれ?」
アカネが何だか悔しそうに誠治に言う。
「オマエは黙ってろ」
アカネに答える誠治をよそにイサキはとっとと乗り込み、満面の笑みを三次に向けた。
「お父さんヨロシク」
「あ、おう」
「オウじゃねーだろ」
イサキは運転席の真後ろに陣取り、隣のシートをポンポンと叩いて誠治を促した。最後部のアカネはムッとしている。誠治があきらめてシートに乗り込んでいる時、イサキと同時に助手席に座る美智子を見た。曇りっぱなしの美智子の表情が気になるのかイサキは心配そうに見つめた。
三次はエンジンをかけ出発した。
「隣太郎くんの様子はいかがですか」
しばらくしてイサキが美智子に話し掛けたが、代わりに誠治が口を開いた。
「ああ、まあ順調かな…副作用もようやく収まって身体も動かせるし、仮面ライダーのDVDでも観てんじゃねーの? なあアカネ」
「仮面ライダー?」
「ああ。兄貴の奴ずっといじめられてきたからさあ、いつか仮面ライダーみたいなヒーローが助けてくれっと思って待ってたんじゃねえの? それがいつのまにか仮面ライダー命みたいになっちゃってな。いつか忘れたけどマイコンが仮面ライダーの人形を落としたことがあってさあ、兄貴マジ切れしてなあマイコン」
「思い出したくないよ」
「こいつタコ殴りにされてよ。入院だよ」
イサキは目を丸くした。
「ええ?」
「全治三ヶ月」
マイコンはぼそりと言った。
「たかが仮面ライダーの人形だぜ」
「そいつぁー違うぞー誠治」
運転するバンの揺れるリズムに合わせながら三次が会話に割って入る。
「あ?」
誠治が面倒くさそうに返事をすると、ここで初めて美智子が口を開いた。
「あの日ね、……お母さんが居なくなった日。隣太郎の誕生日だったのよ。……仮面ライダーの人形はね、その時のプレゼントなの」
「そうだったんですか」
イサキが呟く。
「それで隣ちゃんあんなに大事に持ってたんだ。いつも」
アカネは納得がいったように何度も頷く。
「仮面ライダーのあの人形はな、隣太郎にとっては母ちゃんと同じ存在だ」
三次が、誰に言うともなく語る。
誠治は、美智子の肩が小刻みに揺れていることに気づいた。
「……ごめんなさい」
涙が溢れ美智子の頬を伝う。
「まあ、いつのまにか仮面ライダーにとり憑かれちまったけどなあ」
「ごめんなさい……、合わせる顔がなくて……、ごめんなさい」
静まり返った車内の空気に抗うように、誠治は「まあ、帰ってきてくれて嬉しいよ」と大声を出した。
イサキは誠治の二の腕を掴むと「ママ」と、誰にも聞こえないような小さな声でつぶやいた。
「あ、てめ!」
三次は助手席にぽつりと座る美智子の頭をくしゃくしゃと撫で回した。
薄暗い路地裏を逃げる男の姿がある。袋小路にぶつかった男は背後から迫る追っ手に命ごいをした。
「懸命にやってきたじゃあないか。なぜだ」
「理由なんて知らないよ。ただ生きていてもらっちゃ困るんだよ」
「わかったこの国を出よう。それでどうだ?」
「状況は刻一刻と変化するもんだ。我々も窮屈な世界なんでね。君が成功しようと失敗しようと……」
「ちょっと待ってくれ! 俺はまだあきらめていない!」
Win Win
二発の銃弾が追い詰められた男のこめかみと首を射止めた。
「関係ない」
倒れた男は新堂だった。
白いバンはグレーの無機質なガードフェンスが建ち並ぶ移民系の緊急避難施設の前に停まり、誠治、イサキ、マイコンを順に降ろす。
焼け野原と化したコミューンの一時的避難所が、三次やイサキの働きかけで設けられた。表向きは市長の好意という形で、うまく世論を味方につけ、何とか支出されることになったようだ。イサキのイメージ戦略に失敗し、後がない市長たちが予算を必至でかき集めたのだろう。ともかく施設は家を失った移民系の人たちの一時的な住まいとなっている。
「早く帰りたいよ」
マイコンもここで暮らしているのだ。
「でも、もともと違法だよ、あそこって」
愚痴るマイコンをイサキが窘めた。
「まあまあ。とりあえず聞き込みだろ、今日は。」
兄貴を嵌めた放火犯はまだ野放しのままだった。イサキは別の目的もあるんだろうけど。
「そんなぶー垂れてたら、相手にされねぇぞ。ただでさえ、みんなからは白い目で見られてんだからよお」
事実、隣太郎の一件以来誠治たちは移民系の人たちからも白い目で見られるようになった。愛想の良かったおじいちゃんでさえ手のひらを返したように相手にしてくれなかった。イサキも警察の犬呼ばわりで、移民系の面汚しだの裏切り者だのと相手にされないのだから、まともに口を利けるのはマイコンしかいない。
「大丈夫だって。そんなに固くなってたら余計に刺激するだけだよ。スマイル、スマイル」
イサキが気の重いため息を吐くと、マイコンが励ました。
「そうね。じゃあ行くよ、マイコンくん」
誠治も後に続く。
ガードを潜り白い扉を開け中に入ると施設の管理人がいて台帳に記入しろと強い口調で言ったので、誠治とイサキは作り笑いでサインをした。
「そんなにわざとらしい笑顔しなくても、この人は市の職員だから影響力ないよ」
「早く言え」
誠治とイサキはマイコンの頭をパシンと叩いた。
アルミ製の扉を開くとそこには息苦しいほどに並べられた二段ベッドがあり、プライバシーなんてあったもんではない。
「これは刑務所だね。ホント」
マイコンがぼそりと言う。
「本当ね」
「チチェンよ」
老婆がマイコンに近づいてくる。
「ばあちゃん」
「こいつらはなんだ」
「誠治とイサキだよ」
「馬鹿たれ。何でこいつらを入れているんだ」
老婆はマイコンの頭を孫の手で小突く。
「ばっちゃん……」
誠治は苦笑いで対応する。
「お前に聞いておらん!」
誠治の言葉をかき消す。
「うそーん」
「そんなに怒鳴らなくてもいいじゃないか。誠治くんは味方だよ」
「味方だと。いいかいチチェン、婆やたちはな、戦争を逃れてここへ来たんだよ。平和を愛する国だと聞いてここへ来たんじゃ。だのにこの国の連中といったらどうだい。むしろ戦争に加担しているじゃあないか。ここにいる何人が戦争に連れて行かれたと思うんだ。なのに、こんな連中が味方じゃと。チチェン、こんな奴らと付き合っていたらロクな者にならんぞ」
老婆は堰を切ったように怒鳴った。イサキが笑顔で老婆をとりなすがうまくいかない。
「帰れ!」
老婆はイサキの身体を押した。
「帰れ! 帰れ! 帰れ!」
老婆の帰れの言葉に、近くの人たちも呼応し施設は帰れコールでいっぱいになった。三人はただただ困った顔をするしかなかった。
Piririri
突然誠治の携帯電話が鳴った。アカネだ。
「はいよ」
誠治は施設を出る。
「大変なの、隣ちゃんが」
「なあんだよお」
「連れ去られた」
「はああ?」
誠治は急いでマイコンを呼びトラックに乗り込む。イサキも乗ろうとするが誠治が止める。
「どうして」
「イサキは待機してて。何かわかったら連絡するから」
マイコンが言う。
「わかったらって! 私は」
「これは俺たちの問題だから、イサキは聞き込みがあるだろ」
誠治の態度に戸惑いながらもイサキは受け止めたようだった。
マイコンはトラックを勢いよく出した。
「それで兄貴はどこ行った?」
とりあえずトラックは出したが行先がない。アカネに聞く。
「分からないよ」
「クソっ」
「あ、ちょっと待って」
「何だよ!」
アカネは携帯を誰かに渡しているようだ。
「せいじ?」
声の主は美智子だった。
「あ、ああ…なに?」
戸惑う誠治を運転するマイコンが横目で追う。
「重明くんの場所だけど海側の生コン跡地よ、きっと」
「へ?」
「バカ! なんで教えるんだ」
三次の声が漏れてくる。
「母ちゃん?」
オヤジは結局、新堂との関係を元共同経営者だったこと以外、教えてくれなかった。
「子供は子供同士きっちり決着つけなきゃ」
「……まー、そーだけど……でも拳銃とかあったりでよー、結構危険なんだと思うん…だけど」
「泣き言か?」
「え?」
「おまえらの喧嘩じゃないのか?」
「ま、まあ」
「ならダチが道外さんよーに、しっかりケジメつけてこい!」
「え?」
「わかったのか!」
「わかりました!」
姿勢を正す誠治にマイコンが笑う。
「え、キャラ変?」
「……じゃないと、お母さん認めないよ」
なぜか落ち着く。未来が少し明るくなった気がした。
「……わかったよ。サンキュー母ちゃん」
「早まるな誠治!」
三次がわめく中、誠治は改めて自分の母ちゃんなんだなと納得して電話を切った。
トラックを停めて気に掛けるマイコンに「なーんか調子狂うよな」と誠治は呟いた。
包帯だらけの腕を高く上げ、「おーし、かましてやろうぜ」と押し流されていくどんよりした雲に向かって誠治は叫んだ。