1. スリー リブラス
2023年 初夏
すべては記憶の中の出来事だ―。
あの日、高台にある住宅街の一角にある公園に五歳の誠治はいた。『プレミアムタウン』とは名ばかりで、家並みは建て込んでいた。しかしあしらいは品良く、テラコッタ風の白い壁、オレンジ色の丸瓦、パティオと名付けられた形ばかりの狭い中庭があり、突然この場所に連れてこられたら、いったいどこの国なのかと誰もが首を傾げるに違いない。表層的な西洋文化を無条件に受け入れる発想こそが、この国の「伝統」なのである。
住宅が建ち並ぶ緩やかな坂道の上から眺めると、車がすれ違うのに少し窮屈なこの道には陽炎が揺れていた。
しばらくすると黒髪を結った女の頭が見えてきた。母親の美智子だ。やがて白いロングスカートが現れるまでに数分を要した。その間も陽炎は美智子を揺らしていたため、溶けて消えてしまわないかと誠治は心配になった。
美智子が両手にぶら下げたレジ袋はパンパンに張っていて、重みで細い腕がちぎれそうだった。しかも永遠に目的地にたどり着かないのではないかと思えるほどのゆったりとした足取りだ。あの頃の母は、「疲れた」が口癖だった。
公園では子どもたちがグループを組んで遊んでいるが、中央にある広い空間には誰もいなかった。十人くらいの男の子の集団が芝生の上で輪になって奇声ともつかない声を発している。子どもたちは同型の携帯ゲーム機を手にし、先端から飛び交うブルートゥースの目に見えぬワイヤーで繋がれている。対戦ゲームを共有し、「あーやられた」だのと一喜一憂する。
入口から進んで右奥にある鉄棒の横にベンチがあり、女の子たちが向かいの男子を見ながら井戸端会議中だ。男の子たちもそれを意識して大袈裟なジェスチャーを繰り返すので公園一体が浮き足立っているようだった。
「誠治!」
美智子の声が響いた。長い髪の毛は額に、白いスカートは太ももに張り付き、余裕のなさそうな疲労感が滲み出ていた。
道路を見渡せる砂場で幼馴染のアカネと遊んでいた誠治は美智子のもとへ走った。
「ママ」
二八歳の母親をそう呼んでいた。
「ちょっと放しなって、誠治」
「ごはん?」
「ママは、ちょっと用事があるからもう少し遊んでなさい」
「えー、じゃあ僕も一緒に帰る」
誠治は美智子から離れたくなかった。
「男の子なんだから、外で元気よく遊んでないと、ママ認めないぞ」
誠治はいやだいやだと美智子のスカートを引っ張った。
そのとき、グレーメタルのシーマが無駄にエンジンをふかしながら二人の目の前に停まった。やがてカーウインドウが下げられると、セルリアンブルーのネクタイを締めた茶髪の男が顔を出した。
「みっちゃん」
妙に馴れ馴れしい声がかかる。
「あら浩ちゃん。ナイスタイミング。乗っけてってよ」
コウと呼ばれた男は美智子のスカートの裾に見え隠れする誠治をちらりと見た。
「ああいいけど」
美智子は安堵の表情を浮かべた。
「本当、助かる。……じゃママは先に帰るから。たくさん遊ぶんだよ」
「ママ!」
呼び止める誠治をよそに美智子はさっさと浩の車に乗り込んだ。車は機械的な音を残して静かに坂道を越えていく。
「あははは」
「すげー何だこいつ」
「面白すぎだって、おい」
突然誠治の後ろから子どもたちの大きな笑い声が聞こえてきた。誠治が振り返ると兄の隣太郎が、さっきまでゲームで賑わっていた男の子数人に囲まれている。
「ふえーっ、ふえーっ、ぼくの…ふえーっ」
隣太郎が悲鳴をあげる。
「ふえーっ、ふえーっ」
男の子連中の一人が面白がって真似をする。
「あはははは」
ことの発端は男の子たちが仮面ライダーのフィギュアを隣太郎から奪ったことだった。ひときわ体格がよく目立つこの隣太郎は心の病気だと母から聞かされていた。いつの時代も子どもというのは残酷なもので、こういった光景は未来永劫消え去ることはないのだ。
今度は隣太郎の髪の毛が引っ張られている。
「あばばばば。あばばばば」
白目をむきながら唇をタラコのように突き出すいじめられっ子の言動に、皆が興奮している。
「なんだこいつ、すげーよ!」
「ふえーってなんだよ、おい」
次第に男の子たちのテンションが悪い方向に変わっていくのが分かった。
「もひは?」
「あ?」
一人が不意に隣太郎の頭を叩いたかと思ったら、もう一人の男の子は太ももに蹴りを食らわす。
堪らず誠治が輪になった大男たちの前に割って入り、隣太郎の手を引いた。
「お兄ちゃん、行こ」
誠治は輪の中から兄を救い出そうとするが、集団の一人が隣太郎の襟首を掴んで邪魔をする。
「お兄ちゃんの首がしまってるぞ」
「あはははは」
誠治は構わず出ようとするが、あっけなく蹴飛ばされ地面に転がってしまう。
「勝手に何やってんだよ、おめえよ!」
誠治は自分を蹴った男の子を睨む。睨まれた男の子が「ちぇ」と舌打ちし誠治に近寄ろうとしたとき、隣太郎が男の子を突き飛ばした。それを見たほかの男の子が「ふざけんなよ」と隣太郎を袋叩きにしはじめた。
「やめなさいよ、先生呼ぶよ!」
アカネが悲鳴に近い声を出したが誰も聞かない。
誠治は地面に転んだまま何もできずに泣いていた―。