0 街にある堤防
可愛い美少女も出ませんし、刀も魔法もありません。つまらなければごめんなさい。自分に小説の才能が無いことを、理解させてやりたいんです。
夢を諦めるために、ここで書かせてください。
聞き上手になる事の最大のデメリットは、口下手になる事だった。
僕は高校二年の三月から人の話を聞き始め、大学二年の六月までずっと口を閉ざし、ただ相槌を打っていた。
その期間に聞かされた事は多くあり、全て書き切るには、A4のメモパッドが二冊必要になる。
若者に何かを語る機会が来れば多くの人が言うのは、『自分から動かなければ何も始まらない』という事で、次に『人に優しくするべきである』という事だ。
みんな分かりきっていることを言うし、聞かせてくれと言っていないのにいつの間にか自分がこの迷える若者に光ある教えを授ける時が来たと感じるそうだ。
しかし時に、もしかしたらそうかもしれないな、と考えさせられたりするような事を言ってくる人もいる。
その内の一つ、もう顔も名前も覚えては居ないのだが、高校三年の時に台東区のコンビニエンスストアで出会ったバングラデシュ人の店員の男が言っていた話で、『天国は堤防に似ている』という教えだ。
彼は僕が週刊少年ジャンプとカップラーメンを買った時にレジをした男で、たどたどしい日本語を話した。
「箸は、つけるか。」
「はい、お願いします。」
「お前、どこの国の人ですか?」彼はそう聞いてきた。
「日本です。あなたは?」
「私はバングラデシュの出身です。」
午前一時のコンビニには客がほとんど居なかった。彼はイートインスペースに僕を座らせて話を始めた。
今まではたどたどしい日本語であったが、彼は堤防の素晴らしさと天国との類似性について語る時、我々日本人よりも優れた表現力と話術を見せた。
「堤防には何も無い。だけど、何かにたどり着くために私達は堤防を通る。堤防は日が昇り、沈む。木々が葉を一枚も残さずに寒さに耐えている時から赤茶色の硬い葉が地面に散らばり始める時までずっと触れていられる。堤防を歩く事。それは、この限りある一度きりの今が、どんな季節で、光や音や風を感じる事である。」
長い間、口を閉ざし話を聞き続けてきた僕は、もう既に自らが発する言葉の価値を見切っていて、よく分からないままに相槌をうって、いつかの機会に考えようと記憶の片隅に取っておいた。
そのような解釈を先送りにした考え方の集積は、くだらないものが偉大に見えたり小さな恐れが大きな脅威に見えたりする多感な時期の僕に何かしらの影響を与えた。
先送りにした言葉達に上手な返答があったのかも知れないし、あるいは元から答えなんて無かったのかもしれない。
これは僕が、そのように多くの物に妨げられていた時期の話だ。
僕自身が長く目を逸らしてきた、何かを語る事のリハビリだと思って聞いて欲しい。
読んでくれて本当にありがとうございました、続きは既に書いてますのでコメント頂ければ続きを投稿します