誰が何と言おうと、何があろうとも
多様な重罪人を収容する辺境の監獄。その監獄の中枢にある、酸で満たされた瓶の前。
小さな背丈には不釣り合いな、立派な黒の法衣を来た少女、フィアが、伝声管の通話機に向かって声を吹き込んでいた。
「……ええ、そうです。はい、有翼隊の出撃は不要です。そのまま通してしまって構いません。ええ、それでは、そのように。」
話が片付いたフィアは、瓶の中のピオに向かって、語り掛けた。
「……ふふ、ピオ、朗報ですよ。所属不明のワイバーンが、この監獄に向けて飛行中らしいです。良かったですね、きっと、もうすぐ娘と再会できますよ」
ピオは反応を示さないまま、ただもがき続けている。しかしフィアは構わずに、いつものように魔力のこもった声で命令を続けた。
「さあ、ピオ、『殺しなさい。ひねって、切って、潰して……息の根を止めるんですよ。あなたを呪いで拘束する、あの亜人を。あの汚らわしいヒトモドキを、無残に、確実に、残虐に……殺しなさい、殺すんですよ……』」
この刷り込みを、フィアは毎日欠かさずに行ってきた。その成果がようやく目の前に迫りつつあることに、彼女の頬は紅潮し、喉が震えた。
「可哀そうに……もしあなたが呪いの餌食にならなければ、今頃立派な司祭として……ああ、ピオ、『殺してください、あの害獣を、その手で!』」
興奮を募らせていたフィアの耳に、予想外の足音が聞こえた。衛兵の鎧の音ではない。軽やかだが鋭い、ヒールの音。フィアが振り向くと、視界を紫色の閃光が横切った。
とっさに鋼糸を張ってガードするも、金属製の糸を通じて紫電が腕にまとわりつく。痺れの残った指では繊細な糸さばきができず、反撃は俊敏な動きで避けられてしまった。
「おや、思ったよりも早くいらっしゃいましたね……ピオが呼んでいた名前で合っていますか?確か、シャーリア……」
フィアの目に映ったのは、退屈そうな無表情浮かべた――しかしどす黒い憎悪のオーラをまとった、妖しさを帯びた美しい少女だった。フィアはその見覚えのある紫の瞳を見て、微笑みを浮かべた。
「その汚らしい口で私の名前を呼ばないでもらえるかしら……クソガキ。私のお父さんを返してもらうわよ」
罵倒と共に再び紫電が飛んでくるが、同じ手は喰らわない。フィアはシャーリアの杖の動きを読んで、瞬時に飛ぶ。
雷魔法は、鋼糸を使うフィアにとって天敵だ。糸が電気を伝えてしまうし、筋肉が麻痺してしまうといつも通りに糸を操ることができない。
久しぶりに自分にとって脅威となる存在と対面するフィアは、10年ぶりに目にした少女を警戒しつつ観察した。
腰まで流れる金色の髪は艶やかで、顔立ちは大人びてきているものの、まだどこか幼さが漂っている。零れ落ちるほど長いまつ毛にふちどられた、鋭い紫の瞳に宿る冷ややかな光は、目を合わせただけで圧を感じさせる。鼻筋の通った美しい顔が、その冷徹さを強調するようだった。
フィアの目にはどす黒い瘴気のようなモヤが、憎悪の感情として見て取れたが、シャーリアはそれを表に出さない。その唇は薄く固く閉じられ、どこかアンニュイな雰囲気を漂わせている
「あらあら、私の名前はフィアと言います。覚えていませんか?まったく、クソガキなんて、そんな汚い言葉を使うとは、どういう教育をしているのでしょうか?親の顔を見てみたいものです」
「黙って……!お父さんはどこにいるのよ!?」
「ああ、そうでした。ピオはあなたの教育には、ここ10年関われていませんでしたからね。責任を問うのは酷というものでしょうか」
軽口をたたくフィアに向かって、シャーリアは紫電を次々と放つが、フィアは全てかわし続ける。
「うるさい……!質問に答えて……!お父さんはどこなの!?近くにいるのは分かっているのよ!」
シャーリアはその無表情の中に、苛立ちをにじませてフィアを問い詰める。彼女には父が近くにいる感覚が、どこか胸の奥で伝わっていた。
「どこもなにも、ピオはすぐそこにいるじゃないですか。まったく、父親の顔を忘れるなんて、薄情な娘です。おっと、亜人と人間が親子関係を結べるはずがありませんから、それも当然のことですね」
「すぐ、そこって……」
フィアの言葉にイライラを募らせながらも、シャーリアが周囲を見回すと、液体の入った大きな瓶と、その中でうごめいている肉塊が目に入った。
「ええ、それが、ピオですよ」
酸の中でただ再生と溶解を繰り返す肉塊を指さすフィア。
戦いの中でも崩さなかったつまらなそうな無表情。シャーリアはそんな、自分がつけていた仮面が剥がれ落ちるのを感じた。
「おと、う、さん……?」
人の形すら保てない、苦痛の中でもがき苦しむその肉塊がピオであると、シャーリアにはとても信じられなかった。だが心のどこかで感じていた直感が、その肉塊こそ父だと告げている。シャーリアは呆然とするしかなかった。
「まったく、ピオは何をしても『娘を愛してる』『シャーリアは家族だ』と言うのですよ。だから、反省を促すために、こうやって酸の中に入ってもらっているんです。ただ一言、『自分が間違っていた』『あんなヒトモドキは家族でも何でもない』とか、言ってくれさえすれば、私もこんなことをせずに済んだのですが」
父はどんな思いで、この拷問を受け入れたのだろうか。その場の嘘でもいいから、反省した振りをすれば逃れられたかもしれない、この非道な拷問を。
シャーリアは、父の愚直なまでの愛情を感じ取り、涙がこぼれそうになった。
しかし、今はそうしている場合ではない。目の前の敵を、排除しなければ。
「絶対に、助けるからね。もう少しだけ、待っててお父さん」
黒い瘴気が消え、透き通るような赤い水蒸気が立ち上る。決意と怒りを示すオーラ。フィアの瞳にはシャーリアの感情の変化がそう見えた。
――何か来る。
フィアは長年の経験から直感的に判断すると、シャーリアから大きく距離を取った。その直後、あたり一面に金色の雷撃が降り注ぐ。
紫色の電撃が燃費重視の普段使いだとしたら、金色の雷撃は威力重視の必殺技だろうか。雷撃という質量を伴わない純粋なエネルギーの放出にもかかわらず、命中個所の床は大きくえぐり取られ壁は大穴を開けられる。
「おや、これほどとは。まるで純血魔族の力……いえ、でもあの村には混血しか……」
フィアが観察していると、雷撃の一つが瓶を直撃し、酸が辺り一面に飛び散った。
あふれ出す酸と雷撃の嵐を前に、フィアがさらに距離を取ると、その様子を確認したシャーリアは瓶から酸と共に流れ出した肉塊――ピオを優しく拾い上げた。
付着していた酸が高価なローブに穴をあけ、吹き出した血が柔肌を汚す。しかし、そんなことは気にも留めないで、シャーリアは再生途上で未だに肉々しい色のピオに、頬ずりをした。
「ごめんね、お父さん……迎えに来るのが遅れて……これからはずっと一緒だから……」
愛おし気に、柔らかな笑みを浮かべながら、10年ぶりに再会できた父にささやき声をかける。
「ふふ、相変わらず、面白いものを見せてくれますね、あなたは」
怒りと憎しみ、歓喜と慈愛。そんな相反する感情が入り混じるシャーリアの感情のオーラに、フィアは興味深そうに嘲った。再会に水を差す無粋な声に対して、シャーリアは再び仮面を被るように無表情を浮かべ、彼女を鋭く睨みつける。
視線を向ければ、フィアはただニコニコと笑っているだけで、こちらに何かをしようという気配が見て取れなかった。
「何のつもり……?」
今すぐ飛び掛かりたい。そんなどす黒い憎悪を、胸元に抱えたピオの重さで必死にコントロールしながら、シャーリアは疑問を投げかけた。
「ああ、いえ、何も?このまま大人しく出て行ってくれるというのなら、私は止めませんよ?あなたを相手するのは骨が折れますし、兵たちに無駄な犠牲が出ても困りますし」
シャーリアはその真意を図りかねつつも、ガシャガシャという鎧の音を聞き、思考を断ち切る。彼女が壁に向かって杖を振ると、雷撃が轟音とともに壁を粉々に吹き飛ばした。石片が四方に飛び散り、夜の冷たい風が館内に吹き込んでくる。
そして無言でピオを抱きかかえ直すと、崩れた壁から外へ飛び出した。少しして、上空からワイバーンの大きな翼の音が聞こえてきた。彼女はピオをしっかりと抱いたまま、その音と共に闇の中へと消えていった。
「……ふふ、大人しく、と言いましたのに」
フィアは飛び去っていく影を見送りながら肩をすくめ、苦笑を浮かべた。
しばらくして、親衛隊が隊長を先頭に駆け込んできた。彼らは崩壊した壁と散乱する破片を見て驚愕の表情を浮かべる。
「フィア司祭、お怪我は…?」
「ええ、私は問題ありません。あなたたちこそ大丈夫でしたか?負傷者はいませんか?」
「はっ。ご命令の通り、総員で外周の収容室を見張っていたため、戦闘にはなっておりません」
「それは良かった。こんなことで怪我をしたら、つまらないですからね」
「こんなこと、でしょうか…?」
監獄が襲撃され、最重要監視対象であるはずの異端司祭が脱走したという一大事だ。そんな重大な事件を『こんなこと』と軽く口にするフィアに、隊長は言いようのない疑念を抱いた。
しまった。そんな顔つきで口を手で押さえる彼女に、衛兵隊長の疑問は殆ど確信に変わった。
「コホン。健闘空しく、連れ去られてしまいました。真に残念です」
強引に誤魔化そうとするフィアに対して、衛兵隊長は不信感を抱き、周囲を見回す。破壊の跡こそ目立つものの、血痕や抵抗の痕跡が見当たらない。『健闘』の定義が自分とフィアとでは大きく違うようだ。
「どうして我々を、入口の警備から外したのですか?結局、侵入を許す結果に……」
フィアは微笑を浮かべたまま静かに答えた。
「敵の狙いを勘違いしていました。それだけです」
隊長は口を開きかけては少し躊躇い、再び問いかけた。
「ですが、これではまるで、最初からわざと……」
「最初からわざと、なんでしょうか?」
フィアが控えめな笑顔を浮かべながら問い返す。いや、控えめ、というにはいつもよりも圧を感じるその笑顔を前に、隊長はこれ以上の質問を諦めた。
「いえ、何でもございません」
歴戦の親衛隊隊長は、こうした上位者との会話においても経験豊富だった。
崩れた壁を見つめるフィアは、ふと遠くを見渡すような表情でつぶやいた。
「大丈夫ですよ。ピオはできた子ですから、私の言いつけを守ってくれます。きっと、司祭として戻ってくれますとも」
控えめな微笑を浮かべたまま、フィアはその言葉を、壁の穴越しに広がる夜の闇へと投げかけるように、じっと見つめていた。